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カント「実践理性批判」批判(1)

ショーペンハウエルの「意志と表象としての世界」の考察作業が私自身には面白かったので、今度はカントの「実践理性批判」を検討してみようかと思っている。まあ、ウィキペディアに書かれたその概要を検討するだけだ。ただし、概要とは言っても、それを分解すればかなりな量になる。そこで、今回はその分解作業を行う。つまり、箇条書きにして番号を付ける作業だ。容量の問題もあるので、元の文章の転載は省略して、そのコピーをすぐに分解する。分解自体は適当にやる。
今、全体をざっと読んだ限りでは、これは「キリスト教が前提の哲学」でしかない、という印象である。しかも、「自由・魂の不死・神」という「物自体」が認識の対象になりえない、という実に卑怯な論法であるように思えるが、まあ、個別に検討していきたい。

(以下引用と分解)

概論[編集]

1:純粋実践理性(reine praktische Vernunft)は、経験(Erfahrung)からは独立して意志(Wollen)を規定する普遍的な道徳法則をわれわれに与える。すなわち、「汝の意志の格律(Maxime deines Willens)がつねに普遍的立法の原理(Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung)として妥当しえるように行為せよ(sollen)」(定言命法(der kategorische imperativ))。カントはこの定言命法が自由(Freiheit)の表明であるという。


2:思弁的理性は、実践理性の理念が感情に与える影響に対しては理由を示しえない。
3:同情から善(Gute)をなすことは好ましいが、義務(Pflicht)と責任(Verantwortlichkeit)とは道徳的法則と我々との関係に対してのみ与えられねばならない。
4:また快楽義務とは峻別される。
5:偉大にして崇高な名である義務は、威嚇によって意志を動かすのではない。かえって法則を定めるのみである。しかしわれわれはこれを尊敬せざるをえない。
6:その根源は、機械的自然から独立した自由な人格性(Persoenlichkeit)にほかならない。
7:純粋実践理性によってわれわれは感性界と知性界に同時に属する。
8:将来における人間の行為を正確に予見できても、なお人間は自由(frei, Freiheit)である。
9:また法則に反する行為の弁護者は、彼自身の内なる告訴者である良心をけっして沈黙させることはできない。


10:の不滅、あるいは永世の前提のみが、無限の進歩を可能とする。
11:道徳論を幸福論とも名づけうるためには、宗教だけがわれわれに与えるところの最高善を促進すべき希望が必要となる。
12:したがって認識理性の対象ではなく、したがって証明もされなかった神は、いまや実践理性によってそのような不死なる魂へ報償を与えるものとして要請され、体系のなかへ位置づけられる。
13:自由・魂の不死・神、これらはみな証明されえず、認識の対象ではないが、しかし実践理性はこれらの概念を前提し、その上に己の法則を立てるのである。したがって次のようにいうことができよう―これらの概念は物自体に他ならない。


14:原則はあくまでも概念の基礎の上に立てられねばならない。気まぐれは何ら人格に道徳的な価値を与えず、自己への確信を強めない。
15:しかしこの確信なくしては最高善は実現され得ない。「わが上なる輝ける星空とわが内なる道徳律(Der bestirnte Himmel über mir, und das moralische Gesetz in mir)」に対しては、つねに新しくされる感嘆と尊敬の念とがある。
16:動物的な被造者としての私は、短い生命を与えられた後、自らを構成する物質を星に返さねばならない。しかし人格性においては、道徳律は動物性および全感性界に依存することのない生活を開示する。

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