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もはや政治や人間を「レッテル」で判断する時代ではない

新型コロナワクチン問題は、「政治問題」であり、ほとんどの国での「リベラル政権」が新コロ詐欺に加担し、ワクチンによる膨大な薬害を引き起こしたことで、「リベラルへの不信」を招き、それはほとんど「リベラル派そのものの政治的敗北」でもあった。
下の記事の現イタリア政権も「右派政権」だったと記憶する。
だが、言うまでもなく、右派だから正しい、左派だから間違っている、という結論にはならない。それはDSがこれまで「リベラル派=自由主義=民主主義」という刷り込みを各国国民に与えてきたことの反転にすぎない。各国の「リベラル政権」の新コロへの態度こそ、自由主義や民主主義どころか独裁的政治であり強権政治だった。
私のような保守主義者から見れば「革新思想」とは軽薄そのものであり、よく考えもせず「現状をただ否定すれば何とかなる」という馬鹿思想がほとんどその実体だが、その「現状否定戦法」を今は日本の維新政治家など多くの場所で新自由主義政治家が利用しているのである。だが、維新を「左翼」だと言う若者はおそらくいない。「左翼は悪い革新、維新は良い革新」というわけである。ドイツ国民がヒトラーを支持したようなものだ。いや、「ような」ではなく、まったく同じだろう。
要するに、これまでの左派・右派とか左翼・右翼とか革新・保守という分類自体が時代遅れで、個々の政治家や政党の良識や誠実さや知性をその発言と行動で判断するしかないということだ。
などと言いながら、私も維新という政党にレッテル貼りをしているのだが、私の目にはあまりに明白な政治詐欺集団としか思えないので、やむをえないのである。
つまり、これまでの利権構造を変えて、新しい層に新しい利権を与えるだけで「改革」になるのだから、改革者面するのは簡単なのである。そして新しい利権集団は彼らを支持するわけだ。問題はその政治家や政治家集団の品性だ。

(「徽宗皇帝ブログ」過去記事自己引用)

メモ日記「政治・社会」40
#266 お祭り騒ぎの若者たち

「長いナイフの夜」事件でヒトラーが逮捕・殺害した一人が突撃隊長レームであるが、この突撃隊はいわばヒトラーの私兵集団である。つまり、ナチスに反対し、批判する人々をテロで脅し、押しつぶすのが彼らの役割であった。ヒトラーがただの浮浪者から権力の頂点に上るまでは、彼らの働きが絶大だった。
ナチスとは「国家社会主義」という全体主義思想の集団であるが、ナチスという怪物を作り上げた原動力である突撃隊に、なぜ多くの若者が参加したかというと、ナチスが彼らにパンと遊び(生きがい)を与えたからである。第一次大戦での敗戦で困難な生活を強いられた若者たちにとって、突撃隊は一つの職場であり、しかも敵との戦いという生きがいを与えてくれる楽しい職場であった。仲間との集団生活も、スポーツの合宿のようなものであり、「アカ」や「ユダ公」をやっつけるのは楽しいスポーツであったのである。レームは、チームスポーツの監督のような存在であり、いわば彼らの「親父」であった。
正しい歴史的認識も無く、社会の病因を正しく認識する力も無い若者は、邪悪な人間に容易に利用される。彼らは「資本主義は自分たちに何も提供してくれないと確信しながら、しかもマルクス主義を不倶戴天の敵と見なす、階級のはざまに陥った人々」(ノルベルト・フライ)である。これは、現在の日本における右翼あるいはネット右翼の若者とそっくりではないか。資本主義の悪に痛めつけられながら、その根源の敵に立ち向かおうとせず、共産主義という架空の敵のみを敵とするという、「突撃隊」の若者たち!(1月2日)


(以下引用)

イタリアの新聞が、同国のコロナワクチン接種義務についての批判を一面で報じる

BrainDead Worldさんのサイトより
https://nofia.net/?p=24428
<転載開始>

イタリアの新聞がコロナワクチン強制接種政策を攻撃

francesoir.fr 2024/12/12


Un journal italien s’attaque aux vaccins anti-Covid



イタリアの新聞ラ・ヴェリタの12月12日付けの一面。「ワクチンは感染やウイルスの伝播を防がなかった」という論調。


イタリアの『ラ・ヴェリタ』2024年12月12日号の第一面の見出しは「ワクチンは感染やウイルスの伝播を防がなかった」という調子を示している。


また、ワクチン接種の個人の自由を支持するメローニ政府の決定についてもふれている。


イタリアでは、マリオ・ドラギ政権下で、罰金を伴う強制ワクチン接種にまで制約が及んだ。したがって、ワクチン接種を拒否した 50歳以上の人々と医療専門家は 100ユーロを支払わなければならなかった。


ジョルジア・メローニ氏がイタリア権力を握ると、ワクチン接種を受けていない介護者が復職した。そして先週の火曜日、イタリア政府は以前課せられた罰金を取り消した。


『ラ・ヴェリタ』の一面には、これが「純粋なイデオロギー的原理主義の注入」を拒否するものだと書かれている。現政府によれば、「この義務は不法で非科学的だった」とした。 「制裁を廃止することで、私たちは権力の乱用、憲法への攻撃を是正した」と記事は付け加えた。


米国の54歳以下のガンによる超過死亡率が過去最高値を更新


0~54歳の悪性腫瘍の超過死亡率の推移(2018~2024年第48週)

Ethical Skeptic

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最晩年の読書計画

私が高校時代に1年間クラス担任教師だった人が数年前に亡くなったが、その人と私は一度しか私的に話したことがない。だが、その時に非常に重要な言葉を彼から聞いて、それは今も私の心に残っている。
それは、「ドストエフスキーが理解できたら(自分は)死んでもいい」という言葉で、当時の私は小説というのは娯楽だとしか思っていなかったから、こうした「文学への真摯な姿勢」というのが非常に斬新だったし、その言葉を聞いただけでも彼は私の「恩師」だと思っている。

つまり、何かの本、特に小説を読んで「理解する」には、読む人のレベルによってさまざまな理解のレベルがある、ということをこの言葉は言っているわけだ。
私は高校時代に「カラマーゾフの兄弟」を読んで、凄い作品だと感じたが、当然、その年齢の知識レベルや知能レベル、判断力レベルでその作品の内容の何パーセントを「理解」したか、分かったものではない。たぶん、あらすじやキャラの面白さしか把握しておらず、つまり、娯楽小説のひとつとして「消費」しただけだっただろう。しかし、その小説の中に何か深遠なものがある、という印象は感受してはいたわけで、それが私の生涯を通じてのドストエフスキー評価の高さになってはきたわけだ。その背景に、あの「恩師」の一言があったわけである。

さて、残り少ない人生の残り時間を何に使うかと言えば、「これまでの人生で知った、優れた本を再読して、あらたなレベルの『理解』をする」ことが最適だろう、と思っている。もはや、昔考えたような「読んだことのない、気になる本をすべて読破する」時間は無いと思うからだ。

その「優れた本を読む」ことの中には、好きな本を英語原書で読むことも想定しているが、これはたとえば「不思議の国のアリス」のような短い本でも、なかなか難しそうである。
とりあえず、未読の本の中では
ドストエフスキー「貧しき人々」が最優先で、
再読したい本だと
ドストエフスキー「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」「死の家の記録」
トルストイ「戦争と平和」

手に入るならバルザックの未読の本を幾つか読んでみたい。あるいは「ゴリオ爺さん」や「幻滅」を再読するのもいい。私はこの中に出てくる悪党ヴォートランが好きなのである。もちろん、「人間喜劇」の中には未読の優れた本がたくさんあるだろう。ただ、読むエネルギーが必要だろうからもう少し若いころに読んでおくべきだった気がする。

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古文と関西弁

コピーできていないが、下のチコちゃん氏によれば、今の関西弁は江戸時代にできたらしい。

古文が口語文ではなく文語文だからにしても、井原西鶴などの庶民生活を描いた作品に今の関西弁がまったく出てこないのは不思議である。関西弁が江戸時代にできたとしても、江戸時代には「下品な言葉」として、小説の中には出てこなかったのではないか。(何事でも出始めには下品視されるものだ。)たとえば江戸の十返舎一九の「東海道中膝栗毛」には庶民の言葉もかなり出てきたと思うが、江戸時代以前の大阪や京の作家でも関西弁はほとんど使われていないはずだ。明治でも小説にはほとんど登場していないと思う。谷崎潤一郎の「細雪」あたりが、小説の中で関西弁が使われたさきがけではないか。
私の推測だが、明治維新以降に関西人が「反東京」(反中央)意識から関西弁を多く使用するようになったのではないか、と思う。

これは、井上章一が世間の「関西弁蔑視」に文句を言っている文章を読んで持った疑問を考察したものである。
井上章一は「関西弁でも抽象的な高度な思考はできる」例として富永仲基を例に出しているが、彼の著作は関西弁で書かれてはいない。彼の思考が関西弁でなされたかどうかは証明不可能だろう。



(以下引用)




補足

言葉足らずですみません。なぜ古文の表現が残ってないのではなく、なぜ今の関西弁が生まれたのかが知りたいです。 「~~やねん」とか「~~やで」とかの表現は古文中に出てこないので、どこから発生したのかなぁと思いました。 昔は書き言葉と話し言葉が違ったから一概に無かったとは言えませんが。



日本語 | 文学、古典・529閲覧















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2019/9/2 20:13



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チコちゃん


2019/9/3 11:25



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「ビッグバン説」の虚妄性

夜明け前の空が完全に曇り空で、空を見ても面白くないので、心内の夢想だけに耽りながら散歩をした。まあルソーではないが、「孤独な散歩者の夢想」である。
で、例によって大半は散漫な夢想ではあるが、比較的集中して考えた題目が宇宙論である。

私がビッグバン説をインチキだと思っていることは何度も書いているが、それは私に宇宙物理学の知識があるからではまったくなく、むしろそういう知識が無いからこそ、直観的にそれが嘘だと分かるというか推定するのである。

その判断の根拠は非常に簡単な大原則で、「無から有は生まれない」ということだ。これに反する事象はこの宇宙には存在しないはずで、それなら宇宙そのものも無から生まれたはずがない。「ビッグバン説」は基本の基本から大嘘なのである。
何かが無から生まれたように見えるのは、単に「目には見えない物質の離合集散」の結果にすぎない。それは微生物や細菌や元素(あるいは原子や分子)という存在だ。
しかし、仮にビッグバンによる宇宙誕生が、何かの原子や分子の離合集散によるものなら、「宇宙誕生以前に原子や分子が存在した」ということになり、それは既に「ビッグバン以前にそれらの元素を含む宇宙が存在した」ことになる。つまり、無から有が生まれることは絶対にないのである。おそらく、ビッグバン説の大本(ヒント)は核爆発による異常な熱膨張現象だろう。しかし、それも「無から有が生まれた」わけではない。単なる膨張だ。
そういう意味では、ビッグバン説とは別の話として「膨張宇宙説」は可能性が無いとも限らない。しかし、膨張とは基本的に「限界があるもの」の話であり、限界の無い宇宙(宇宙に限界があるなら、その限界の「向こう側」はどうなる、という頓智問答になる。)が膨張するというより、単に遠隔地点の星と星の間の運動の結果が「宇宙そのものが膨張しているように見える」だけという可能性もある。核爆発による膨張と私が言うのは、爆風のことである。

まあ、物理学その他の学問は「専門的言葉」「前提的知識」が膨大にあり、それらを学んでいるうちに何もかもが混迷化してビッグバン説のような極端な詐欺がまかり通るようになるのだろう。もちろん、それは「学問の世界」が「権威者による支配」の世界であり、それに逆らうと学問の世界で生きていけないからでもある。

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足の底は体の底(体全体を支えるアトラス)

私の別ブログに書いた記事だが、案外と重要な考えかもしれないので、こちらにも載せておく。

(以下自己引用)年齢がばれるので冒頭の一句を削除したww


「足底部」の重要性



今日初めて私は「歩き方(歩行のメカニズム)」を知ったのだが、それを書いておく。

最初に、あなたたちは足指の付け根の部分を何と言うか知っているだろうか。
それを実は「足底部」と言うのである。
つまり、足の底は踵ではなく、足指の付け根、あるいは足の中で足指と踵を除いた部分なのである。そのうち、「土踏まず」は実質的には地面に触れないから、「足の底」は「足の指の付け根」部分だ、と言えるだろう。
これが「歩き方」の最大の秘密である。この足底部(足底部前部)が、体重を支え、歩く時の中心であるということだ。体重制御の中心は決して踵でもつま先でもない。

歩いていると、これが分かるはずで、踵は平地を歩く時「最初に地面に触れる」から歩く時の中心部分だと錯覚する人が多いと思う。しかし、それはほんの一瞬で、次の瞬間には体重は足底部に移り、次の脚の踵が地面に触れるまで、体重を足底部が支えるのである。そして、次の脚に運動部位が移る瞬間に今の脚の足指が少し地面に触れてすぐに地面を離れる。一瞬触れるだけで体重を支えることはない。

足底部(足底部前部。以下「足底部」とする)が歩く時の重心移動の中心だということは、上り坂を上るときに明白になる。この時、踵はほとんど地面に触れないのであり、上っている間中、足底部が体重を支えているのである。つま先は靴底に触れるが体重を受けることはない。
下り坂もほぼ同じで、下るときには踵が最初に地面に軽く触れるが、それは「地面の存在場所の確認」程度で、次の瞬間には体重は足底部に完全に乗り、次の脚の踵が地面に触れる時まで体重はそこで支えられる。

以上を頭に入れれば、正しい歩き方とは「足底部」を意識して歩くことだとわかるだろう。これができていないと、長期的には足や脚の変形や故障につながる可能性もある、かもしれない、と少し脅しておく。

妄想的に言えば、格闘技でも足底部に重心を置くのが大事で、踵に重心を置けば、後ろに倒れそうになった時の支えがないし、足指に重心を置けば、前に倒れそうになった時の支えがない。足底部に重心を置けば、後ろに倒れそうだと踵が支えるし、前に倒れそうだと足指が支える。このことを言った格闘技の先生はいないのではないか。

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風邪の微熱と解熱剤

風邪やインフルエンザによる発熱は身体の自己防御反応なのであり、さほどの高熱でもないのに解熱剤を使うのは愚の骨頂だと思うが、目安は40度を超えてから、というところだろう。
下の記事の中に出ているボルタレンなどは現在でも解熱剤の主流なのではないか。
「風邪は汗をかくと治る」というのが昔からの生活の知恵であり、発熱と発汗は同じ事象の両面であると思う。「発熱で苦しい」など、甘えでしかない、というのが私の考えで、そういう連中にはたとえば尿道(尿路、尿管?)結石などの七転八倒の苦しみをプレゼントしてやりたいくらいだwww 
まあ、タンパク質は40度を超えると変質するという説も聞いたような気がするので、脳がゆで卵状態になる前に解熱剤を飲むのはいいだろうが、38度くらいでは平熱と同じだろう。

(蛇足)このブログに載せてあるヘミングウェイの「目の前の死」を、お暇な人は読むと面白いのではないか、と思う。

(以下引用)

インフルエンザ脳症の原因は解熱剤だった。( ̄▽ ̄;)

donのブログさんのサイトより
https://ameblo.jp/don1110/entry-12878268037.html
<転載開始>
画像

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囚人の歌

「二木紘三のうた物語」から転載





2007年7月22日 (日)

囚人の歌



(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo




ロシア民謡、フランス語詞:モーリス・ドリュオン
日本語詞:人形劇団プーク



1 船漕ぐ明け暮れ 鎖につながれ
  思いはいつか 母のおもかげ
  日ごと夜ごとに 涙で語った
  母の言葉を 今ぞ思う


2 町や酒場に 幸せはない
  楽しみばかり 求むるではない
  だが若い日は 自由にあこがれ
  翼のぞまず 生きられようか


3 人を殺した わけじゃない
  物を盗んだ おぼえもない
  ただ毎日が すばらしい
  祭りの続きで ほしかっただけさ


4 仕事にでかける 朝の門口(かどぐち)
  立ちはだかった 王の兵士ら
  涙ですがる 母を足蹴(あしげ)
  われらをへだてた 牢獄の壁


5 瞳で誓う マドレーヌを
  いだいた胸に 鎖は重い
  だが幸せと 人の誠を 
  求むる心は 鎖じゃつなげぬ

《蛇足》 原曲はロシアの古い民謡です。そのメロディを音楽家のレオ・ポル(Léo Poll)が採譜・編曲し、作家で政治家のモーリス・ドリュオン(Maurice Druon 1918-2009)がフランス語の詞をつけました。作家でジャーナリストのジョセフ・ケッセル(Joseph Kessel 1898-1979)も、作詞に関わったようです。
 発表は1947年。


 レオ・ポルは筆名で、本名はレイブ・ポルナレフ(Leïb Polnarev 1899-1988)。ロシア革命に伴うユダヤ人迫害を逃れてフランスに亡命しました。有名な歌手のミシェル・ポルナレフは息子。
 ジョセフ・ケッセルもユダヤ人で、旧ソ連からフランスに移住し、帰化しました。


 1951年にジェルメーヌ・サブロンが創唱しましたが、とくに評判にはなりませんでした。その数か月後に発売されたイヴ・モンタンのレコードが大ヒット、翌年ディスク大賞を受賞しました。この歌が世界に広まったのは、イヴ・モンタンの歌唱によるところが大です。
 日本では、昭和20年代以降、歌声喫茶・うたごえ運動では必ず歌われた定番曲でした。


 政治犯を歌った歌といわれています。ロシア語の原詞がわからないので、なんとも言えませんが、フランス語の詞とその訳詞には、政治との関係は、はっきりとは表れていません。
 享楽的な生活を送っていた若者が罪を犯して漕役刑囚
(ガレリアン galérien)になり、母親の戒めを聞かなかったことを後悔している、という歌です。上の日本語詞は、フランス語詞をほぼ忠実に再現しています。


 むかし、酒を飲んでバカ騒ぎをしているときなどに、この歌の「……涙で語った母の言葉を……」とか、「楽しみばかり求むるではない」といったフレーズが浮かんできて、チクリと痛みを感じたものでした。
 実際、横道にそれがちな年頃には、母親の言葉ほどブレーキになるものはありません。


 ただ、帝政ロシア時代の漕役刑囚には、一般の犯罪者だけでなく、政治犯もかなりいたようですから、もしかしたら、母親の言葉には「政治に関わるな」という戒めも含まれているのかもしれません。


 ガレー船は古代に出現したものですが、地中海やバルト海では地形が複雑で風向きが不安定なため、19世紀初頭まで使用されていました。


 フランス語の原詞は次のとおりです。


    Le Galérien


1. Je m'souviens, ma mèr' m'aimait
   Et je suis aux galères
   Je m'souviens ma mèr' disait
   Mais je n'ai pas cru ma mère


2. Ne traîn' pas dans les ruisseaux
   T'bats pas comme un sauvage
   T'amuses pas comm' les oiseaux
   Ell' me disait d'être sage


3. J'ai pas tué, j'ai pas volé
   J'voulais courir la chance
   J'ai pas tué, j'ai pas volé
   J'voulais qu'chaqu' jour soit dimanche


4. Je m'souviens ma mèr' pleurait
   Dès qu'je passais la porte
   Je m'souviens comme ell'pleurait
   Ell' voulait pas que je sorte


5. Toujours, toujours ell' disait
   T'en vas pas chez les filles
   Fais donc pas toujours c'qui t'plait
   Dans les prisons y a des grilles


6. J'ai pas tué, j'ai pas volé
   Mais j'ai cru Madeleine
   J'ai pas tué, j'ai pas volé
   J'voulais pas lui fair'de peine


7. Je m'souviens que ma mèr' disait
   Suis pas les bohémiennes
   Je m'souviens comme ell' disait
   On ramasse les gens qui traînent


8. Un jour les soldats du roi
   T'emmen'ront aux galères
   Tu t'en iras trois par trois
   Comme ils ont emmn'nés ton père


9. Tu auras la têt' rasée
   On te mettra des chaînes
   T'en auras les reins brisés
   Et moi j'en mourrai de peine


10. Toujours toujours tu rameras
   Quand tu seras aux galères
   Toujours toujours tu rameras
   Tu penseras peut-être a ta mère


11. J'ai pas tué, j'ai pas volé
   Mais j'ai pas cru ma mère
   Et je m'souviens qu'ell' m'aimait
   Pendant qu'je rame aux galères


(二木紘三)


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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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