忍者ブログ

努力のコスパ

私は羽生善治は好きだし、下の言葉は正しいと思うが、子供を特定の道に進ませるのは親の意志が子供に大きな影響を与えるだろうし、その道に進むのが最善だったかどうかは分からない。成功した人間にとっては最善だろうが、失敗した人間にとっては最悪なわけで、しかもだいたいにおいてそれが当人の努力不足のためだとされるわけだ。まあ、一流のプロになる人間というのはそうした「努力の才能」を持っているのは確かだろう。「普通の人間」はもっと楽な道を選ぶわけだ。
野球というゲームの無い世界に生まれたイチローや将棋というゲームの無い世界に生まれた羽生善治が、他のゲームの世界でも一流になれた可能性は高いが、あれほどの情熱と意思を持って努力できたかどうか。つまり、レジェンドクラスにはなれなかった気がする。
まあ、「好きこそ物の上手なれ」ということだ。ただし、その反面には「下手の横好き」というのもあるwww

私は、「努力」がその本人に与える苦痛の程度というのが判断の大きな要素かな、と思う。つまり、人にとって「コスパのいい努力」と「コスパの悪い努力」があるという考えだ。当たり前の話だが、教育者や教育界、影響力の強い指導者などに、この考え方が必要なのではないか。
たとえば、イチローを無理やり棋士に育てるとか、羽生善治を無理やり野球選手に育てるような親や教育者がけっこういるような気がする。そして、(一流になった人以外)ほとんどの場合、子供当人自身は自分に何が向いているか判断できないのである。それ以前に、どのような選択肢があるのかも知らないし、その内容を実体験する機会もない。



さんがリツイート

「努力は報われない」「修行なんて意味がない」と言う人や自己啓発本が多いですが、ボクは羽生さんの言葉が全てを物語ってると思います。




















拍手

PR

Sympathy for the Devil

「差別と笑い」を論じた小田嶋隆師の記事の末尾で、「結論」部分だ。
同じことを繰り返すことになるが、問題は「差別する側」「反人権思想」が、権力や体制と強力に癒着したという現在の日本の状況にあり、世の事大主義者たちは敏感にそれを見抜いて差別する側に加担していることだ。この種の事件へのネットのコメントを見れば、それは明瞭である。
まあ、政治的にも経済的にも文化的にもこの国は地獄的状況だろう。地獄が住み心地がいいのは、鬼か悪魔だけである。
ただ、鬼や悪魔であること自体、本質的には不幸であり、だから私は「悪魔への同情(ローリング・ストーンズ「悪魔を憐れむ歌」の原題)」をかすかに持っている。

(以下引用)



結論を述べる。



 私は、前世紀の半ば過ぎまでは「芸能の周縁」に置かれていた「お笑い」という演芸が、1980年代以降、「高尚かつ知的な文化的営為」にいつしか格上げされたことが、そもそもの間違いだと思っている。



 というのも、笑いは高度な文化だという思い込みが、かえってお笑いを低俗な娯楽に誘導した結果が、今われわれが見せられている21世紀の寒々とした差別的な笑いの現状だと考えるからだ。



 笑いはそもそも、「誰かを貶めるところから派生する批評性」の部分を余儀なく含んでいるものだ。



 であるから、笑いは諸刃の剣で、敵対勢力や権力の横暴と闘う際の武器にもなれば、弱者を迫害する鞭にもなる。時には自分自身を切り刻むカミソリにもなる。



 その意味で、地上波民放のテレビ局のみならず公共放送たるNHKまでが、MCやレギュラー出演者としてお笑い芸人を重用しているこの10年ほどの顕著な傾向に、私は強い警戒感を抱いている。



 というのも、テレビ全局のバラエティーを席巻しつつあるお笑い芸人なる人々は人を「いじる」ことの専門家で、さかのぼれば、「いじり」ないしは「いじめ」を笑いに転化することの技術革新が、この何十年かのお笑いブームが行き着いた着地点でもあるからだ。



 しかも、その「いじり」は、「多数者が少数者を笑う」という、スクールカースト発の閉鎖された教室から引き継がれたマナーを多分に含んでいる。



 特に吉本興業が提示する笑いには、この「スクールカースト発ヤンキー経由任侠行き」のホモソーシャル要素を強く感じる。



 ついでに言えばだが、この傾向の共有こそが、現政権と吉本興業の親密さの理由であり、この親和性の高さがあったればこそ、お国はクールジャパン機構を通じて、吉本興業に対して100億円もの資金を提供する決断を下したのだとも思っている。



 私たちの世代の人間が学生時代に読んだ本の中には、
「笑いは反体制の旗手だ」
「笑いを生む表現こそが権力への抵抗の第一歩だ」
「笑いほどアナーキーでラディカルな芸術はほかにない」



 てなことがあちこちに書かれていたものだった。それゆえ、私も、若い頃は、その種の文言を鵜呑みにしていたものだし、ほんの20年ほど前までは、まだ、頭の中のどこかに秘蔵してもいた。



 とはいえ、現在のお笑い芸人たちの芸を見て、それが「体制」や「権力」と戦っている姿だとは思わない。



 お笑いの関係者が「戦っている」「勝負している」「ギリギリまで突き詰めてやる」といったような言葉を使う時、彼らの仮想敵は、「コンプライアンス」であり「PC」であり、ヘタをすると「人権思想」や「良識」そのものだったりする。そういう例を私はこの10年、山ほど見てきた。



 つまり、芸人は、「反良識」「反人権」「反反差別」「反フェミニズム」あたりを志向して芸を磨いた方が、より本格派らしく見えるということで、だとすれば、彼らの「毒舌」が、いつしか弱者や被差別者に向けられようになったのは当然の帰結だったのである。



 寂しい結論になった。



 差別を含まない笑いを新たに考案するのは、おそらく、とてつもなく困難な作業だと思う。



 私自身は、他人を笑わせることは当面あきらめて、しばらくの間は、一人で笑おうと思っている。



 ネタは誰にも教えない。一番効率的な笑いだ。

拍手

「暴力の快感」対「口先だけのヒューマニズム」では相撲にならない

こういう、「言葉の操作で現実を隠蔽する」偽善性を子供は無意識に見抜いたのではないか。
混血児の「ハーフ」を「ダブル」と言い換える類である。
もちろん、単に子供の本質的な残酷さや暴力性の露呈であるだけかもしれない。前に書いた、いじめられっ子がいじめる側に回って、いじめる楽しさを知った、というのも、馴致(教育、訓練、陶冶)されていない子供は本質的には野獣に近い、ということだ。(言うまでもないが、「暴力」には「言葉の暴力」も含まれる。)



さんがリツイート

221/1000
小学生の時の全校集会で「欧米では障碍者をチャレンジャーと呼ぶ」という演説があったが
その日から罵倒目的でのチャレンジャー呼びが大流行して先生がたがチャレンジャー禁止令を出すというゲロ以下のヒューマニズムがぶちかまされていたな
常用語に波及したらどうするつもりなんだろう






拍手

デジタル全体主義(ファシズム)社会

こういうのは、「デジタル全体主義社会」と呼ぶのがいいかと思う。
水源(物事の根っこ)が抑えられているから、そこから一人も脱出できない。
そのうち、現金が廃止されて電子マネーだけになり、銀行口座の無い人間は社会生活不可能になるだろう。
もちろん、それに文句を言う人間は「反社会的存在」として排除される。



山本貴嗣 @atsuji_yamamoto 7時間前

古い自動車ならレストアすれば走れるけど、ソフトはWindowsが新しくなると「道に乗る」ことさえできなくなるからなあ。ある意味ものすごく理不尽。



  • まあWindows親分とタッグで責めてくるしなあ;勝てないからなあ



  • 某社のデジタル作画ソフトって数年すると使えなくなったり新しいみかじめ料を払わないと使えなくなったりで、何か横暴な親分のなわばりで商売させられてる露天商(したことないけど)ってこういう感じなんだろうか、って思います。もうちょっと安心できそうな親分さんのところに行こうかなと;













拍手

隣のエイリアン 第八章





第八章 子供が親を生む


 


11月になった。


私は、ここのところ、同居人の「教育」を続けている。


まず、念動力で彼の脳神経の損傷個所を修復し、通常の機能は回復したが、彼の記憶の中で私の計画にとって不都合な部分は「書き換え」た。つまり、私の父親であるという架空の記憶に置き換えたわけだ。


彼の名前は衛利保(たもつ)とした。私と同じ一字名のほうが親子らしく思われるかと考えたからだ。


風呂に入れて服装をきちんとさせたら立派な中年紳士の出来上がりだ。鼻の下には口ひげも生やさせたので、知的な感じがする。中学の国語の本に写真が載っていた夏目漱石に少し似ている。もともと頭脳は悪くないようで、何かのために記憶喪失になっていたようだ。つまり、記憶はあるが「想起」はできない、という状態だったので、それを「新しい記憶」で置き換えたわけであるが、古い記憶が消えたわけではないので、「書き換えた」という言い方は誤解されるかもしれない。単に、古い記憶はそのまま水面下に置いたまま、新しい「経歴の記憶」を表(意識される部分)に作ったということだ。


人格そのものはあまり変わっていない。会話も普通にできる。本などを読むこともでき、それが好きなタイプらしい。現在の職業は、自由業で、ネットで株や金融商品の売買をしていることにした。まあ、高校入学程度なら、保護者がそういう怪しげな人間でもさほど問題はないだろう。銀行口座も作り、そこには500万だけ「創造」した。つまり、電子操作で書き込んだ。


彼の古い記憶を発掘すれば、私の「地球人調査」に有益な知識が得られるかもしれないが、とりあえずは私の高校入試のための「偽保護者」が必要なのであって、そのためには今は、古い記憶は邪魔なのである。(なお、私はたまたま精神障害者に出逢って、それを利用したが、普通の人間を同じように精神操作することもできる。ただ、ホームレスのほうが「いなくなっても誰も騒がない」という点で好都合だったわけだ。)


彼は、現在の自分の状態にほとんど疑問を持たず、本当に私の父親だと思い込んでいる。ひとりで外出して隣家の家族に会った時も、そう自己紹介をしたようだ。


彼の「取り引き」のために彼にもパソコンを買い与えたら、ちゃんと操作法を理解し、すぐに本当にネット取り引きのサイトに登録して仕事をしている。まあ、200万円程度を取り引き限度額としているようなので、さほど害は無い。子供の遊びである。スマホも自分で購入できたようだ。


ただ、自分が本当の父親だと思い込んでいるので、時々「父親風」を吹かせるのには閉口する。つまり、一緒にいる時に、自分(保)はこの私(安)より上の存在だと思っているような言動をする。「自分はリベラルな父親だから、ふだんは対等な口を利くがそれは自分が寛容だからだぞ」と思っているのが見え見えである。特によその人間の前だとそうだ。笑止だが、まあ、それも「地球人研究」の材料ではある。


 


この「上下関係」というのが地球人、特に日本人の間ではかなり重要らしいということに私は気付いていた。あらゆる組織はこの「上下関係」が基本になっているようだ。私がこれから入る予定の「高校」などの学校でも、学校に関したフィクションやノンフィクションを読むと、特に運動部などの部活では上下関係が厳しいらしい。なぜかと言えば、そこには「命令⇔服従」関係が存在し、それを可能にするのが上下関係だ、ということかと思われる。これは我々の星とはかなり違うところで、「命令⇔服従」という状況自体があまり無い上に、それが必要な場合でもべつに「命令者が服従者より上」という意識は無い。


もしかしたら、地球の歴史のほとんどを占める戦争と殺戮というものは、「上下関係」から起こるのではないか、という推定もしたが、これはまだ仮説にすぎない。もちろん、ここでの文明の発展が「上下関係」を原動力としているという仮説も可能だろう。少なくとも、命令に対する「絶対服従」というのが軍隊では必須条件であるようだ。まあ、我々の星には軍隊という制度自体発達しなかったので、これは今後の研究課題である。


 


 


私は毎日のように近くの公園に行くのだが、それは緑の木々や花々を見るのが好きだからで、これは私の星には無いものだ。その公園の後ろ側はなだらかな斜面になっており、斜面の終わりは江戸川の岸辺だ。つまり、公園自体が小高い丘にある。名前は美郷(みさと)公園と言う。


その公園にはさほど人は来ない。いても数人程度だ。桜の季節以外はそんなものであるらしい。だが、それらの人々を見ていると面白い。実に平和で幸福そうだ。たとえホームレスでも、安らかな顔をしている。これが、木々や花々の効果、あるいは青い空や白い雲や川の流れなどの美しい景色の効果ではないかと私は考えている。


私の心の在り方すら、故郷の星にいたころとはだいぶ変わっている。つまり、物ごとに感動するという心的機能がかなり増幅されているのは確かである。今でも、テレビドラマや映画などでの「感情過多」の人々の不合理な言動には馬鹿馬鹿しさを感じるが、それでも、以前よりは彼らへの理解は進んでいる気がする。


要するに、彼らの言動が馬鹿馬鹿しいのは、それを作る側の人間、脚本家とか監督が馬鹿なだけだろう、というのが最近の私の判断だ。それにしても、公園で見る人々の表情の美しさに対し、ドラマや映画の俳優の顔の醜さは、なぜなのか。演じる役柄のためだけでなく、「嘘の表情」というものが彼らの顔を醜くしているのではないかと思う。


 


今日は少し面白い出来事があった。こちらの若者の言葉で言えば、「逆ナン」というか、「逆ナンパ」されたのである。どうやら、異性間の交遊は、男から女を誘うのが通常で、その逆を「逆ナン」と言うらしいが、公園で私がぼんやりと散策していると、高校生らしい娘3人(3人とも同じ服を着ていた。)が「おい、顔を貸せ」と言ってきたのだ。


うん、たぶんこれが「逆ナン」だろう、と私は思った。


















拍手

隣のエイリアン 第七章






第七章 美とは何か


 


10月の半ばになると、日本列島は紅葉の季節になる。


私の住んでいる関東地方ではまだそれほど紅葉は見られないが、テレビで見る紅葉の風景の素晴らしさは、言葉では表現できない。


我々は感情に乏しいのだが、そうなった原因のひとつは「自然の変化が無い」「自然の美が無い」ということだったのかもしれない。少なくとも、この地球では「美感」というものが絶大に発達し、その原因はおそらく自然の変化と自然の美だろう、と思う。


 


たとえば、高校入試を受けるために読んだ「中学国語教科書」の中に、清少納言の「枕草子」の冒頭部分(「春はあけぼの……」)があるのだが、それを読んだ子供たちは自然の美というものを感受するようになる(開眼する)のではないか、と私は推測するのだが、自然を大切にする人間というのは、「他の存在を大切にする」ことを知るわけだから、それが社会の平和の土台になっていくのではないだろうか。大げさに聞こえるかもしれないが、私が日本人大衆の表情に見る温和さの土台は「義務教育」にある、という気がする。それも、「古典」の中にだ。物理や数学では「感情」は育たないと思う。


その一方では「テレビ」は残虐極まる殺人や傷害の事件が頻繁に起こっていることを示しており、また社会の上層の人間が醜悪な行為をしていることもたびたび報道される。


庶民生活とマスコミで報じられる事件とのこの乖離はなぜなのか。まさか、マスコミがすべて虚偽の報道をしているとは考えられず、また「ネット」では一般マスコミで報道される事件のその裏にあるさらに醜悪な事実が報じられている。


 


私は電車や飛行機を利用して関西圏の紅葉の名所の多くを訪ねてみた。特に京都と奈良である。正直言って、単に見るだけならテレビ画面で見る方が美しいと思わないでもないが、実際にその場にいないと味わえない風情(私がこんな言葉を使うのは似合わないだろうが)や匂いや音や空気がある。


私はまだ春の日本を知らないが、桜の景色が紅葉の景色よりも美しいとは想像もできない。単に推測だが、桜など「白一色」ではないか。「ただ白いだけ」で埋め尽くされた光景が、このあらゆる色の豪華な饗宴に勝ることがあるだろうか。


もちろん、それは私の「美意識」が未発達なのだろう、と思う。いろいろ読んだ本によれば、日本人は四季のすべての風景に美を見出すようだ。白一色に閉ざされた雪(この実物はまだ見たことが無いが、我が星の極地の氷から推定はできる。つまり、細かく砕いた氷の細片が空から降るようなものだろう。いや、砕いた氷の細片ではなく自然に出来た結晶だ、ということは知ってはいる。)の風景も美であると見るらしい。ならば、同じく白一色の桜の風景も美と見るのは当然だろう。


おそらく、これは、私の故郷の星がほとんどモノクロームの世界であるために、初めて見る色彩の豪華さに感動しやすいのだと思われる。慣れれば、見方も変わるかもしれない。


 


私は美術館や博物館も幾つか訪ねてみた。


正直言って、そこに飾られている作品の半分以上は、私には「美しくも面白くもない」としか感じられなかったが、自然を写した写真や自然を描いた絵画は美しいと思うものもあった。だが、自然そのものを見ればいいのではないか、という馬鹿馬鹿しさも感じたのである。絵画などには奇抜な誇張をして描いた作品もあり、何を描いているのか分からない作品もあった。それらはまったく「美しい」とは思わないが、「芸術」は単に美を追求するものではない、ということらしく、それを面白いと思わないのは単に観る側の問題なのだろう。


 


「美」というのは何なのか。


もともと感情に乏しい我々は、美というものを感じ取る能力そのものが低い。だが、この地球、いや、日本に来て、紅葉の風景などや青空や渓流や山並みなど、朝焼けや夕焼けなどを見て私が感じた気持ちは、まさに「美感」というものであることは間違いないと思う。それは或る種の快感であり、たとえばそよ風が肌を撫でて行く際に感じる快感にも似ている。(我々は触覚においては地球人とさほど変わらないと思うが、それを精神力で増幅させることは可能だ。)


 


自然の風景と、一部の芸術ゆえに、私は地球人擁護派になりたい、と思う。だが、その一方で、地球上に満ちている悪と悲惨は、私に「人間とは本性が悪なのだ」という結論に導く。そのどちらを選べばいいのか。


 


昨日から、同居人ができた。


私が毎日のように散歩に行く、近くの公園で拾ったホームレスの男で、おそらく精神障害者だろう。年齢は50歳くらいか。汚い服を着ていたが、我々の基準では顔立ちは悪くない。つまり、性質の善良さが現れた顔だ。(我々は顔の美醜に無頓着だが、地球人の顔に現れた性格は見抜けるのである。)身長は私より少し低いが、私の父親と言っても通用するだろう。そのために拾ったのである。


私は、精神操作で彼に偽の履歴を覚えさせ、私の父親の役を演じさせるつもりである。(隣家の平南美に「父は英国人で母は日本人だ」と言ってしまったが、それは日本語に慣れていないために言い間違えたと言えばいいだろう。)まあ、ロボットを使うのと同じだが、残念ながらそこまで人間を演じられるロボットは我が星でもまだ作られてはいない。と言うより、作る必要性が無かったのだ。


私にとっては、犬を警察犬として使うのと同じなのだが、人類にとっては、こういう行為はおそらく大きな悪なのだろう。まあ、衣食住の世話をする代償に、少し働いてもらうだけだ、と言えば言い訳になるだろうか。



























拍手

陽キャラという「演技」

まあ、社交といいうか、社会生活というか、他人と交わる際にはその言動の8割くらいは演技だ、というのは洋の東西を問わないものなのだろう。
兼好法師が「徒然草」の中で、「他人に何か言う場合は、その人がそれをどう受け取るかを考えて発言するから、すでに自分の思ったままの言葉ではない」という趣旨のことを言っている。

もちろん、他人に自分を合わせるというのも「生きる上で必要な生活技術」であり、それが悪いとは言わない。ただ、そういう「二重生活」というのは案外、無意識のストレスを溜め込むものであるような気がする。




さんがリツイート

住んではいないけど『"ハッキリ意見を言う""付き合いがフランクに見える"ように振る舞うことが一種のステータス』なんだろうなって思う。

日本人で言うと、すごく粘着質で嫉妬深い性格の人が「自分ってサバサバ系だから!」って言って、普段それっぽく振る舞ってるのに近いのかなと。








拍手

カレンダー

09 2019/10 11
S M T W T F S
7 10
17 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析