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思いがけない「日常の謎」

北村薫と言えば「日常の謎」、まあ、そういう言い方をしているかどうかは知らないが、日常生活の中で遭遇した些細な謎を作品の中心にした推理小説の代表的作家だが、その北村薫の「中野のお父さん」という、わりと新しいシリーズらしき作品の一篇を読んでいたら、作者が謎にしたわけでもなさそうな部分で、奇妙な謎に出くわしてしまった。
作中の主人公である若い女性編集者(美希)とその同僚女性(ゆかり)の服装を描写した部分で、こう書かれている。

ゆかりは冷房対策のカーディガンを脱ぎ、いかにも編集者らしい大きなバッグにしまう。下はネイビーのワンピースだ。美希もジャケットを脱いで手に持った。こちらの下は黒のチュニック。








さて、どこが謎かと言うと、これは私が女性のファッションに無知なだけかとも思うのだが、「ネイビーのワンピース」というのが謎なのである。
私の世代だと、「ブルー、ネイビーブルー、私の彼は~♪」という歌を思い出すから、「ネイビーブルー」なら服に関係がありそうだと思うのだが、ここでは「ネイビー」と書かれている。それなら「海軍」にしかならないのではないか。まさか「海軍のワンピース」ではあるまい。今どき、海軍にも女性兵士がいるのかもしれないが、「ワンピース」は着ないだろう。すると、「ネイビーのワンピース」とは何だろうか。あるいは、「ネイビー」というブランドでもあるのか。
まあ、「チュニック」も分からない(古代ローマのチュニックしか想像できない)が、ジャケットの下に着ているのだから、「貫頭衣」の現代版みたいなもの、と想像すればすむ。しかし、「ネイビーのワンピース」は謎である。



一応、英和辞書を調べてみると、navyの3番目に 3=navy blueとあり、navyだけでもnavy blueを意味するようだ。しかし、現代の人間で、navy blueを知っている若者(特に女性)はあまりいないのではないか。ちなみに、navy blueは濃紺色で、イギリス海軍の制服の色と説明されている。




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「専門家」は、もはや詐欺師集団

「混沌堂主人雑記(旧題)」から転載。「蚊居肢」からの転載らしい。
たまたま、昨日だったか、なぜ「専門家」は「馬鹿」「卑怯者」なのか、ということを書いたので、その流れでここにも転載する。
まさに、菊池寛の言うとおりである。

「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」


言うまでもないが、こうした「騙す側」批判は、騙される側の責任を許容するものではない。
騙す側にも、自分が騙しているという自覚の無い者が大半なのである。
我々は、それを先の戦争で熟知したのではないか。つまり、大人の国民のほぼ全員が戦争被害者でもあり、戦争責任者でもあったのである。黙っている者もまた戦争責任者だったのだ。

(以下引用)


おなじく より
上記文抜粋
・・・・・・・・・
與那覇潤の「「専門家の時代」の終焉」
 
與那覇潤の「「専門家の時代」の終焉」はとってもいいんじゃないかね、何人かの「専門家」の実名を挙げての専門家批判でもあるが、いまはその箇所を割愛して後半部分から抜き出す。是非全文、さらにはいくつかのリンク先もじっくり眺めたほうがいいよ。
◼️「専門家の時代」の終焉 Yonaha Jun 2024年3月11日 

……真に反省すべきは、「専門家」の看板を掲げれば批判はおろか、一切の疑問さえも封殺でき、そうした厚遇を自明視して異論の持ち主(と本人が見なした相手)をいくらでも罵倒することが許される状況。そうした環境を作り出し、その下で収益や視聴率から「いいね」の数まで、おこぼれにあずかってきた人たちの全体であると思う。


13年前の3月11日以降、私たちは誰もが、立場や分野を問わず「専門家」を盲信することの危うさを見せつけられたはずだった。しかしその記憶はいつしか立ち消え、瞬間ごとの空気を読んで「専門家の私が言うから信じろ」と時の世論にお墨つきを与える、民意ロンダリングのようなビジネスが定着してしまった。


眼前の問題への発言権を独占する「専門家」という、正体不明の「言いたい放題パスポート」の発給を、私たちはもうやめる時が来ている。それがコロナで、ワクチンで、ウクライナで、パレスチナで、トランスジェンダーやフェミニズムで、多大な犠牲を払いながらこの社会が学んだ教訓であるべきだ。〔・・・〕


読者に乞いたい。「専門家」なる肩書を識者の免罪符に使うことを、もうやめてほしい。それはあなた自身の知性を損ねるだけでなく、当の専門家をも甘やかし、スポイルし、堕落させる。
彼や彼女が専門家か否かは、一切重要ではない。その人は時間が経ち情勢が変わった後でも、自身がかつてなした言動の責任を引き受ける人か。それとも単に「言い逃げ」して姿をくらます人か。それだけを見てほしい。
ホンモノを、応援してください。それができないなら、せめてニセモノの言論を拡散するのを、やめてください。そこにしか、私たちが嵌まり込んだ2020年代の迷路からの出口は、ないと思います。
與那覇潤は《13年前の3月11日以降、私たちは誰もが、立場や分野を問わず「専門家」を盲信することの危うさを見せつけられたはずだった。》と記しているが、このブログでもつい最近、「人類というものは、おしなべて「愚かなもの」である」にて、鈴木健の2011年3月16日のツイートを引用して、次のように記したがね。
……「専門家」の見解なら信頼の置けるものだといまだ思い込み勝ちのようだが、それが大間違いなのは2011年に学んだのではなかったか。


鈴木健@kensuzuki 
要は専門家のもっている専門てほんとに狭くって、世界に数人~数十人しか分かる人がいない。それでも業界外に位置づけを説明するために自分が数千人から数十万人のコミュニティに属しているように説明する。素人から期待される質問に答えようとするととたんに擬似専門家になる。(2011年3月16日)


この3年あまりのあいだにおいても医学者やら国際政治学者やらの言説から学んでいるのではなかったのか、連中が《菊池さんの言葉で言えば、「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」》(小林秀雄「菊池寛」)であることを。
ま、専門家というプロフェッショナル集団を全面的に批判するつもりは毛頭ないが、括弧付きの「専門家の時代」の終焉の主張は是非とも受け入れるべきだろうね、とくにこの3年間の出来事を振り返りつつ、誰もがそう認知すべきだ。
蓮實)プロフェッショナルというのはある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている。〔・・・〕プロフェッショナルは絶対に必要だし、 誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。 (柄谷行人-蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』1988年)
とりわけ大学の教員の無責任性、彼らの途轍もない幼児性があまりにも赤裸々になった3年だったね、

文学や自然科学の学生にとってお極まりの捌け口、教職、研究、または何かはっきりしない職業などは、また別の性質のものである。これらの学科を選ぶ学生は、まだ子供っぽい世界に別れを告げていない。彼らはむしろ、そこに留まりたいと願っているのだ。教職は、大人になっても学校にいるための唯一の手段ではないか。文学や自然科学の学生は、彼らが集団の要求に対して向ける一種の拒絶によって特徴づけられる。ほとんど修道僧のような素振りで、彼らはしばらくのあいだ、あるいはもっと持続的に、学問という、移り過ぎて行く時からは独立した財産の保存と伝達に没頭するのである。〔・・・〕


彼らに向かって、君たちもまた社会に参加しているのだと言ってきかせるくらい偽りなことはない。〔・・・〕彼らの参加とは、結局は、自分が責任を免除されたままで居続けるための特別の在り方の一つに過ぎない。この意味で、教育や研究は、何かの職業のための見習修業と混同されてはならない。隠遁であるか使命であるということは、教育や研究の栄光であり悲惨である。(レヴィ= ストロース『悲しき熱帯』 川田順造訳)

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急性硬膜下血腫への対策

まあ、緊急治療ができなかった場合は、回復可能性がほぼゼロなのではないか、と思われるような記事内容だと私には思えるし、予防もほぼ不可能に思えるのだが、私の勘違いかもしれない。
気にするだけムダな気がする。
外傷性が大半だと私は解釈したが、それなら、老人に多い転倒事故に細心の注意を払うのがベストの安全策だろう。
もっとも、そのまま死ぬほうが当人や家族の幸福という考え方もできる。


(以下「大摩邇」から引用)


突然発症する急性硬膜下血腫は、緊急性が非常に高いのが特徴です。そのため、発症後は早期の迅速な対応が重要です。「ある日、急に自分や家族が脳の病気で倒れたらどうしよう」「急性硬膜下血腫にはどのような検査や治療があるのだろう」など、不安や悩みを抱える方も多いのではないでしょうか。

この記事では、急性硬膜下血腫の症状や治療に関する様々な疑問に答えています。また記事後半では、急性硬膜下血腫の発症に伴う後遺症や予後についても触れています。詳しく知りたい方は、ぜひ参考にしてください。

※この記事はMedical DOCにて【「急性硬膜下血腫」を発症する原因・症状はご存知ですか?医師が監修!】と題して公開した記事を再編集して配信しており、内容はその取材時のものです。
[この記事は、Medical DOC医療アドバイザーにより医療情報の信憑性について確認後に公開しております]



急性硬膜下血腫の原因や症状
 


編集部:
急性硬膜下血腫とはどのような病気ですか?

甲斐沼先生:
急性硬膜下血腫とは、頭部外傷により脳を覆っている硬膜と脳の間に出血が起こり、血腫が生じることを指します。受傷直後から意識障害を伴うことも多いのが特徴です。血腫量が多く、脳への圧迫が強い場合には血腫除去術や開頭減圧術などの治療を行います。

編集部:
発症する原因を教えてください。

甲斐沼先生:
急性硬膜下血腫の主な原因は、頭部外傷によるものです。例えば、交通事故や転倒した際の頭部に強い衝撃を与えるなどの頭部外傷が挙げられます。また、高齢者の場合は外傷だけでなく、血管壁が硬いことや高血圧も血管破裂の原因となります。

編集部:
どのような症状がありますか?

甲斐沼先生:
急性硬膜下血腫の症状には以下の6つがあります。
・頭痛
・呼吸困難
・意識障害
・呼吸停止
・舌や手足の麻痺
・瞳孔散大
それぞれについて以下で詳しくみていきましょう。

1つ目の代表的な症状に頭痛が挙げられます。最も一般的な初期症状が急激な頭痛で、強い痛みや圧迫感を覚えたりします。

2つ目は呼吸困難です。血腫発生の影響により中枢神経系のバランスが崩れ、呼吸中枢に影響を与えます。その結果、呼吸困難を引き起こします。

3つ目は意識障害です。呼吸障害と同様に中枢神経のバランスが崩れることにより、意識障害が起きます。意識障害は急性硬膜下血腫の症状の中で最も深刻な症状です。

4つ目は呼吸停止です。重度の頭蓋内圧亢進により、最終的に呼吸が停止します。

5つ目は舌や手足の麻痺です。発生した血腫が脳神経や脊髄神経を圧迫し、障害を与えることで、舌や手足に麻痺を生じることがあります。

6つ目は瞳孔の散大です。症状のひとつとして、瞳孔の散大を生じることがあります。この場合、重度の脳圧の上昇を示しています。




急性硬膜下血腫の検査や治療
 


編集部:
急性硬膜下血腫が疑われるときに行われる検査は?

甲斐沼先生:
急性硬膜下血腫ではCT検査MRI検査が一般的に行われます。以下でそれぞれについて詳しく解説していきます。

1つ目のCT検査は、最も一般的な急性硬膜下血腫の診断方法であり、高精度で迅速な診断が可能です。CT検査は頭蓋骨内のX線像を数多く撮影し、パソコンで三次元的な画像を生成するもので、異常腫瘤と異常血管や血流量の増減を確認できます。

2つ目のMRI検査(磁気共鳴画像法)は、CT検査よりも高い解像度で、組織の柔らかい部分の検査に適しています。MRI検査は磁気を利用して、脳の内部構造の詳細な画像取得が可能です。硬膜下血腫の診断にも使用されていますが、CT検査に比べて撮影に時間がかかるため、緊急性のある診断にはあまり使用されません。また、脳血管撮影検査が行われる場合もあります。

脳血管撮影検査は、異常な血流量・血流速度・血管の形状を調べられ、硬膜下血腫の診断に役立ちます。血管造影剤を用い、X線装置で撮影された脳血管を詳細に調べられます。

編集部:
どのように診断されますか?

甲斐沼先生:
急性硬膜下血腫は、CT検査やMRI検査などの検査結果と症状を総合的に評価し、診断されます。急性硬膜下血腫の症状は、急性の頭痛・意識障害・嘔吐・片麻痺・瞳孔異常(散大・対光反応遅延)などです。これらの症状と、患者の過去の病歴や現在の症状、脳神経検査などを総合的に評価して診断がなされます。

編集部:
治療方法を教えてください。

甲斐沼先生:
治療方法には3つの方法があります。

1つ目は手術です。急性硬膜下血腫の初期段階で発見され、症状が進行していない場合には、緊急手術が行われます。手術は病変部を肉眼で確認しながら、血腫を切開して除去することが可能です。病状の回復のためにも、可能な限り早期の手術を行うことが重要です。

2つ目は穿頭(せんとう)です。血腫発生部の穿頭を行い、硬膜下洗浄を行います。血腫の広がりや大きさによっては開頭手術が必要となりますが、穿頭の場合は、大きく開頭する必要がないのがメリットです。

3つ目に硬膜下ドレナージが挙げられます。硬膜下ドレナージとは、硬膜下血腫腔にドレーンを挿入し、体外へ血液を導く方法です。この方法は治療時間が短く、入院期間を短縮するのがメリットです。また、硬膜下ドレナージは手術や穿頭と併用して行われることもあります。

編集部:
どのような方法で手術が行われますか?

甲斐沼先生:
手術は開頭血腫除去術と呼ばれる血腫を取り除く方法です。全身麻酔をかけた後、血腫の発生部の頭皮をメスで切開し、頭蓋骨を取り除きます。その部分から手術用顕微鏡を使用して血腫を除去します。一時的に取り外した頭蓋骨を戻し閉頭したら、手術が終了です。

急性硬膜下血腫の予後や後遺症
編集部:
急性硬膜下血腫の予後について教えてください。

甲斐沼先生:
急性硬膜下血腫の予後は、以下の要素によって左右されます。

1つ目は症状の重篤度です。急性硬膜下血腫の症状は、場合によっては失神・意識障害・痙攣など重篤なものとなるため、症状の重篤度が高いほど予後は悪くなる傾向にあります。

2つ目は治療の素早さ・適切さです。急性硬膜下血腫の早期発見・適切な治療が行われた場合、予後は比較的良好となることが多いです。しかし、適切な治療が遅れた場合、脳に重大な障害が残る場合もあります。

3つ目は患者の年齢や基礎疾患です。高齢者や基礎疾患のある患者の場合、予後が良くない傾向にあります。

4つ目は病変の大きさ及び位置です。血腫の大きさや位置によって、脳への圧迫や損傷が生じ、予後に影響を与える場合があります。

編集部:
急性硬膜下血腫の余命について教えてください。

甲斐沼先生:
急性硬膜下血腫の余命は、一般的に入院時の意識障害の程度によって異なります。なお、昏睡状態で重症度が高かった場合の死亡率は70%程度です。また、脳の損傷が強い傾向にあることから、受傷後半年~1年経過すると症状は固定し、それ以上の回復は見込めず後遺症となって残るケースが多いです。

編集部:
後遺症が残ることはありますか?

甲斐沼先生:
急性硬膜下血腫の治療が適切に行われた場合、後遺症を残さずに完全な回復を期待できることが多いです。しかし治療が遅れた場合や、病変が大きかった場合は、後遺症が残る可能性もあります。

具体的な後遺症は、脳機能の障害・運動麻痺・感覚障害・認知症・言語障害などです。また病気や手術によるストレスや、入院生活の影響によって、睡眠障害・うつ病・不安障害などの精神的な後遺症が残る場合もあります。

編集部:
最後に、読者へのメッセージをお願いします。

甲斐沼先生:
急性硬膜下血腫の予後は、症状の重篤度や治療の適切さなど、多くの要素によって影響を受けます。そのため早期の診断と治療が重要であり、患者自身も症状の早期発見・医療機関での適切な治療を受けることが大切です。

後遺症が残った場合でも、早期のリハビリテーションやストレスマネジメントなどで、後遺症を改善することが可能です。治療後も定期的な検査やフォローアップを受けることで、再発や後遺症の予防にもつながります。

編集部まとめ
一般的に頭部外傷によって発生する硬膜下血腫は、発症後の迅速な対応が重要となります。

急性硬膜下血腫は、患者の症状・病歴・病変の大きさ及び位置・年齢によって治療方法や後遺症の状態は異なりますが、いずれにせよ早期の診断や治療が最も大切です。

また発症後の再発や後遺症の予防にも、早期のリハビリテーションなど、早い段階での介入が重要となります。

【この記事の監修医師】
甲斐沼 孟 先生(上場企業産業医)

甲斐沼 孟 先生(上場企業産業医)
大阪市立大学(現・大阪公立大学)医学部医学科卒業。大阪急性期・総合医療センター外科後期臨床研修医、大阪労災病院心臓血管外科後期臨床研修医、国立病院機構大阪医療センター心臓血管外科医員、大阪大学医学部附属病院心臓血管外科非常勤医師、大手前病院救急科医長。上場企業産業医。日本外科学会専門医、日本病院総合診療医学会認定医など。著書は「都市部二次救急1病院における高齢者救急医療の現状と今後の展望」「高齢化社会における大阪市中心部の二次救急1病院での救急医療の現状」「播種性血管内凝固症候群を合併した急性壊死性胆嚢炎に対してrTM投与および腹腔鏡下胆嚢摘出術を施行し良好な経過を得た一例」など。




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異常な「生命維持医療」

「神戸だいすき」記事の一部だが、当女史の行動力は尊敬しても、世間の事象へのその判断や意見にはたいてい否定的な(というか、必ずどこかおかしい部分を感じる)私としては珍しく、ほぼ全面的に同意見。
よく、医療の小論文で「QOL(quality of life)」という言葉が出て来るが、下の記事に書かれたような終末期医療、意識不明の超高齢者の生命維持は、はたして当人のQOLと何か関係があるのだろうか。医療界の金儲け主義の一端だ、という神戸だいすき女史の断言は、正しいと思う。患者家族の患者への愛情や、患者の生命維持を絶った場合の世間をはばかる気持ちを人質にしていると思う。

(以下引用)

けど、20年ほど前、娘の友人が難病になり、よくなったり悪くなったりを繰り返し、少しずつ弱って行った・・・10年ほど、かかって、とうとう意識不明、昏睡状態になった時、三田の山奥にある病院にお見舞いに行きました。

彼女の病室のある病棟に行きつくまでに、いくつか病棟を通りました。
とても静かで、誰も行き来していなくて、窓から中の様子が見えるのですが、何人も何人も管につながれて、生きるしかばねと化した高齢者が、見えました。

昏睡状態・・・るいるいと。

管を外したら、すぐ、だめになる。

生かされていても、誰も、見舞いになんか来ない。

「間違っている!!」と、私は思いました。高度障害だから、健康保険のお金はどっさり、病院に落ちるのでしょう。
でも、無駄に生かされているとしか思えない人々を生かすために、若い労働者が、どれほど高額の健康保険料を納めなければならないか!!

管につないでも、限界はあるのだろうけど、そもそも管につながなければ命を保てない人を、あくまで生かすのは、間違っている。

けど、今もそうですよ。
だからと言って、家族の懇願で、管を外せば、医師は殺人罪に問われる。

家族は、医療費の負担で押しつぶされる。

それでも、一旦管につないでしまったら、もう、おしまい。

けど、日本人の心情としては、「管を外してください」とは、言えないだろう。きれいごとで済まそうとするだろう。

だけど、資金だけじゃない、労働力を考えても、もう、こんなことできなくなる。

管につないでまで生かしておいた方が、儲かる医療だったけど、それを保つ職員が確保できなくなる。やがて破綻する。

90歳を過ぎても、認知症でも、管理栄養士がついて、栄養を確保し、リハビリで鍛えれば、歩けるようにもなる。
何歳になっても、最近の医学は、人を生かせる。

でも、それが社会的に不可能になって行っている。

どこかで、誰かが、これをやめよう。無限に命があるのが正しいーという考え方をやめようと、言い出すしかない・・・

たとえば「尊厳死」、もう、助からないと決まったら、自分の意志で寿命を選択できるとか、もう、脳死になったら、管を抜いてよいという法律とか、そういう冷静な判断が必要になるだろう・・・と、私は思っていたんだけど、

そうはならずに、甘い言葉で騙して誘って、ワクチンを打ちまくるとが、どこまでも、汚い奴らだ。

ほんとうに、時々、私は、日本人のファジーが、つくづくいやになる。普段は、それが良いところだと思っているんだけど。

欲にころんだ汚い政治家の餌食になりやすい。

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習得した知識が自己の一部となることの陥穽

山道を歩きながら考えた。
いったい、なぜ世間の学者や高学歴の人間には馬鹿が多いのか、ということだが、新コロや新コロワクチンの異常さを考えれば、新コロ詐欺やワクチン詐欺があれほど猛威をふるった以上は専門家や医学者、あるいは世間で指導的立場にある学者や評論家、批評家が馬鹿の集団であるのは明白なように見えるが、これはもちろん、馬鹿ではなく、ただの卑怯者(それどころか殺人者である)の集団であるというのが正解だろう。
で、仮に、高学歴=馬鹿という仮説を立てるならば、それは、高学歴者というのは、記憶能力が抜群であるからではないか、という第二の仮説に到達した。
つまり、記憶力が抜群なために、既存の権威的知識を習得することが巧みで、その記憶によって、それに逆らう説を自分が出すことが困難になるのである。なぜなら、それは、学者や学問者としてのこれまでの自己の否定になるからだ。さらには、学歴や学者としての階梯というのは、既にある権威的知識を習得することで得られるし、その権威に逆らうと、学者や知識階級として生きていくことはできないからである。(権威への迎合というその卑怯さはある意味では「馬鹿」だと私は言っている。)
たとえば、進化論が嘘だと思っていても、それ(進化論)を教えたことで教師が後で非難されることはない。だが、進化論を否定する発言を教壇でやったら、教師としての地位を追われるだろう。
これは、ワクチンや新コロでも同じだろうし、極端に言えば、あるいは相対性理論なども、その種の「後で嘘だと分かる定説」の類かもしれない。その一部である、「光速を超える速さは存在しない」という説への懐疑論を前に書いたが、もちろん、それは何の根拠もない、無学者(私)の仮説だ。しかし、相対性理論が「定説」となる以前は、べつにおかしくも何ともなかったはずだ。
進化論への批判はすでに学界でもかなりあると聞いたような気もする。
ちなみに、科学は「事実」に基づく学問だと言われている。それが科学への信頼の根拠だろう。だが、何が事実かは、観察によって決まるのであり、完全に正確な観察は不可能だ、と確か「不確定性原理」は主張しているはずだ。ならば、科学そのものが「事実に近い蓋然性があると推定できる」だけのことで、それが本当に事実、あるいは真理なのかは永遠に分かることはないはずで、つまり、現在の「定説」とはすべて、「権威によって定められた、蓋然性の高い仮説」にすぎないということだ。

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「理で解する」やり方は読書では絶対的なものではない

市民図書館というのは、私には財宝を隠したダンジョン(迷宮)である。しかも、怪物はいない。ただ、財宝が財宝に見えないという魔法がかかっているだけだ。何が財宝なのか、探す人間には分からないので、宝箱なのかゴミ箱なのか、箱(本)を開けて調べるまでは分からないのである。

などと書いたのは、その図書館から借りていた樋口一葉の「たけくらべ」を先ほど、寝床の中で読み終えたからだが、さすがに名品である。つまり、財宝だ。

で、ここで言っておきたいのは、難読本を読むときに「理解する」必要など無い、ということだ。その本の精神や思想の中心が自分に伝わればいいのであり、それは文中の無数の難読語をすべて理解する必要などない。たとえば、1ページの中にその10分の9の意味不明の語句があったとしても、構わずに読み進めていけば、書かれたことの要旨が分かる場合が多い。それでいいのである。で、理解できない言葉も、理解できないままで、その本の「味わい」となって頭や体に沁み込むのであり、それは頭だけで本を「理解する」以上に、その本を「心で感じ取った」のだ、と私は主張したい。
もちろん、言葉の正しい解釈ができれば、その本をより深く「理解」でき、それはそれで素晴らしいことだが、繰り返すが、「理解」以上に大事なのは「感じ取る」ことであり、その作品世界の中に「生きる」ことなのである。
ちなみに、私は昔、学習塾や予備校で古文や漢文を教えたこともあるが、「たけくらべ」の文章の7割くらいは理解できない。明治のころの風俗に関係する言葉が無数に出てくるからだ。しかし、その7割は、作品世界を感じ取り、作品世界を生きる邪魔にはけっしてならないし、それどころか、それらの言葉があるために、作品の味わいが生まれるのである。これは、言葉をいちいち厳密に「理解」する作業によって邪魔されるだろう。辞書など引かずに、そういう言葉はどんどん読み飛ばす(より正確に言えば、頭のどこかにうっすらとした記憶として残る)だけでいいのである。

などと書いたのは、私は昔から「たけくらべ」を読もうと思ったことが何度もあったが、冒頭の数行を読んだだけで、あまりに理解不能な言葉が並ぶので、その度に挫折してきたからである。
おそらく、そういう人は私のほかにも無数にいるだろう。それは、「本を読むこと=理解すること」ということが悪質なテーゼ(命題)になっているからではないか。
昔の「空手キッド」か何かの老師の言ではないが、「考えるな、感じろ」というのは、読書にも言える行き方だろう。

ちなみに、英語の原書を読む時も、このやり方は有効だと思う。ネットの雑文を読む際ならなおさらだ。つまり「斜め読み」「飛ばし読み」で十分な文章が大半なのである。
逆に、言葉の一句一語の厳密な解釈や批判をしながら読む読書も当然意味があるのであり、要は、読書を楽しみ、自分の世界を広げ、豊かにすることだ。まあ、読むのが楽しければ、それだけで十分以上である。

ちなみに、バルザックの「暗黒事件」も同時進行で読んでいるが、こちらはフランス革命全体(ナポレオン帝政時代や王政復古やその後の再革命を含む)の様相がある程度わからないと、面白みが半減する作品だと思うので、疑問に思う箇所は調べながらゆっくりと読んでいる。




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施設での高齢者の死の「損害賠償」のこと

問題提起として転載する。
どのような意見を持つかは人それぞれだろうが、当事者(超高齢者)自身が長生きしたいとは思っていないような気がする。まして、その生存が家族の生活を経済的に圧迫していると当人が分かっているならなおさらだろう。
私は無理やりな人口削減には大反対だし、安楽死法が悪用される可能性もよく知っているつもりだが、下の記事のような事故(施設側の手落ちは無いように見える)の場合に、遺族が損害賠償を求めるのはおかしい気がする。
いったい、家族にどのような「損害」があったのか。家族の知らない(関与できない)場所(施設)で、超高齢者が死んだことで家族の受ける「損害」とは何だろうか。愛してやまない家族の死だというなら、なぜ自宅で介護しなかったのか。カネを払って預けたのだから、そこで死んだらすべて施設の責任だ、と言い張るのか。

(以下引用)

91歳の男性が嘔吐物を気道に詰まらせ窒息死、遺族が2500万円の損害賠償を求めて提訴→「死体換金ビジネスええ加減にせえよ!」「介護業界が壊滅しそう」


91才男性の誤嚥死で2500万円訴訟だそうです

介護業界が壊滅しそう

嘔吐物を気道に詰まらせ窒息死、遺族が大分市の有料老人ホーム運営会社を提訴


ええ加減にせえよ。

吐瀉物誤嚥なんぞ自然死じゃ。
 
マジでこの死体換金ビジネスは刑法で取り締まれや。

犯罪行為じゃこんなもん


死生観の話は置いといて、

厳重なリスク管理による職員の負担増、管理コスト増により、
結果的に利用者とその家族へ不利益へ繋がるのは目に見えとるよね

過剰なゼロリスク信仰に陥った結果、誰も幸せになれない最低の負のスパイラルに陥ってるんですわ

このゼロリスク信仰って日本の病魔なんすわ


<ネットでの反応>

90年過ぎたら全ての機能が衰えてて当たり前な訳で……それはもう老スyでいいんじゃないかと思ってしまうのは私だけでしょうか……

これ損害賠償を認めて欲しくないです。
これを認めると廃業したり高価格のサービス料になったり遺族以外は誰も儲かりません。


うちの父は自宅で誤嚥で亡くなってますが、それは母が食器を下げるため離れた、たった数分間のことでした。こんなの誰にもどうしようもないです。

こんな訴訟ばかりされたら、ホームが潰れるか、受け入れ拒否になるのでは?

誤嚥も転倒も訴えませんと誓約書を書かないと入所させてくれない施設が現れるかな

因みにこういう所で働いてる方の殆どが介護福祉士の国家試験持ちで手取り15万そこそこです、と
経験者は語る


ちなみにこのパターンの事故は既に名古屋地裁で出された判例があるから施設側は負け確なんだよな

「自宅であれば容易に防げた」という案件以外は全部棄却せーや裁判所。自宅で面倒見れねえから他人様に預けてんのに対処不能案件の責任まで取らせたら介護業界終わるぞ。

この家族はいいかもしれんけど、他の施設で老人が預かれなくなる日も近いね。産婦人科に医師の成り手がなくなったのと同じ。クソ司法が国を壊しにかかってる

これはマジでええ加減にせえよ案件。
91歳で自宅で生活でなくなったレベルの人が施設入所、さっき食べたものが胃から食道に上がってきて窒息死したのでカネ寄越せ事件。


医療技術の発達で寿命がめちゃくちゃ延びた昨今人はちょっとした拍子に死ぬって事を理解していない奴等が多すぎなんだよ。
平均寿命超えて病院や介護サービスの場で今の刑法に抵触しない状況で死んでしまった場合その職場の人が訴えられないように法整備すべき。

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