植民地獲得競争の意識がまだ残っていた20世紀初頭、ヨーロッパ各国は、植民地領有についての対立などから国と国との間で同盟関係が結ばれました。その中心は、ドイツ、オーストリア、イタリアの「三国同盟」と、イギリス、フランス、ロシアの「三国協商」です。こうした同盟関係そのものが、敵陣営への憎悪を呼んで、第一次世界大戦の原因になったという見方ができます。もちろん、戦争の本当の原因は、常に、庶民とはほとんど関係のない一部の人間の経済的利害によるものですが。
1914年6月、オーストリア皇太子のボスニアの首都サラエボでの暗殺がきっかけとなり、第一次世界大戦は始まります。その後、
① オーストリアの、セルビアへの宣戦布告。
② ロシア(バルカン同盟の実質的指導国)の軍隊動員。
③ ドイツのロシア宣戦。
④ ドイツのベルギー進軍とフランスとの戦闘。
⑤ イギリスのドイツ宣戦。
という過程で戦争は拡大し、日本もまた日英同盟(これは、日露戦争当時に、イギリスがロシアを牽制するために日本と結んでいた同盟です。)を理由としてドイツに宣戦し、ドイツ租借地の青島や南洋諸島に派兵します。
戦争が長期化するにしたがって、各陣営は、自らに有利に戦況をすすめるために中立国や従属国、植民地の国々に援助を求めて働きかけ、その代償として様々な約束をします。このことが20世紀後半の、国際政治の混乱の原因となるのです。たとえば、インドやエジプトはイギリスから戦後の独立を約束されてその国民を戦場に送ります。しかし、実際にインドが独立するときには、イギリスは様々な策謀をし、インドの民族主義を利用してインドとパキスタンを分裂させます。また、イギリスはアラブ人に独立国建設の約束をして自国陣営に引き入れる一方で、ユダヤ人資本家(例のロスチャイルドです。)の資金援助を当てにして、戦後のパレスチナでのユダヤ人国家の建設を約束したりしています。これは一般には「バルフォア宣言」と言われていますが、公式の声明ではなく、単なる書簡のようなものですから、法的な実質は無いのですが、それがイスラエル建国の根拠とされ、中東紛争の火種となります。
こうしたイギリスの外交を「三枚舌外交」と言いますが、外交とはもともと騙しあいであり、ナイーブな日本人のもっとも苦手とするところです。政治における原則はただ二つ。「力は正義なり」、「勝てば官軍」です。そして、政治はけっして国民全体の利益を優先するものではなく、一部の人間の都合で動いていくものです。政治は国民が監視し、コントロールすべき怪物であって、優しい母親ではないのです。
交戦国との貿易で巨大な利益を得ていたアメリカは、戦争終結が見えてきた1917年に、(戦勝国の仲間に入るために)ドイツの潜水艦による中立国攻撃を理由として、ドイツに対し、宣戦します。まるで後だしジャンケンみたいなやりかたですが、国際政治では普通のことです。日本の第一次世界大戦参加も、第二次世界大戦終結間際でのソ連の日本への宣戦も同じことです。
ロシアでは、長引く戦争で疲弊した国民の不満を背景に、まず三月革命で帝政が倒れ、そこで誕生した臨時政府も十一月革命で倒されてレーニンによるボリシェビキ政権(後の共産党)が生まれます。新政権はドイツと単独講和を結んで戦線を離脱します。
同盟国側の敗色が濃厚になった1918年秋、同盟国の中心であるドイツでも革命によって帝政が崩壊し、全世界を巻き込んだ第一次世界大戦は終結しました。
第一次世界大戦の特徴は、それまでの戦争が軍隊同士の戦いであったのに対し、経済をはじめ、あらゆる国民生活が戦争遂行のために総動員されるという総力戦だったところにあります。君主が自分の軍隊を動かして勝手に戦争をしていた時代に比べ、庶民生活が戦争によって被る害が比べ物にならないほど大きくなったのです。そうなると、国民の厭戦気分を抑えるために、さまざまなプロパガンダ(宣伝活動)も必要になり、情報操作も生まれてきます。敵国への憎悪の形成、「非愛国的行動」への非難などがそれです。
また、この戦争は科学が戦争に積極的に協力した戦争でもあります。戦車や飛行機、毒ガスが初めて使われたのが第一次世界大戦でした。その行き着く先が第二次世界大戦の原爆だということになります。
この戦争の被害は、死傷者だけでも3000万人だとされています。
普通の神経を持っていたら、こうした悲惨を経験したら、もはや二度と戦争は起こすまいとしそうなものですが、そうならないところが政治と歴史の現実です。それからすぐに世界は第二次世界大戦を迎えるのですから。
さて、1919年6月、連合国とドイツの間でベルサイユ条約が結ばれ、敗戦国ドイツの海外権益や植民地はすべて奪われ、巨額の賠償金が課せられました。その他の敗戦国も同様の扱いを受け、敗戦の苦難の中に悲惨な国民生活を送ることになります。こうした「ベルサイユ体制」への不満がナチスの台頭を生み、続く第二次世界大戦の原因となったと言えるでしょう。
1920年1月、アメリカ大統領ウィルソンの提案で、世界の平和的な新秩序を作るために国際連盟が発足しますが、米議会の反対でアメリカ自身がこれに参加せず、共産主義国(正しくは社会主義ですが)ロシアと敗戦国ドイツその他は除外されました。
この頃の世界は、新たな局面を迎えていました。それは、共産主義の台頭です。1922年末ソビエト社会主義共和国連邦が誕生し、中国では1911年の辛亥革命の後、1912年に清帝が退位し、清朝は滅びます。その辛亥革命の中心者孫文が唱えた三民主義は、「民族主義・民権主義・民生主義」ですが、そのうち民権主義は現在の民主主義、民生主義は社会主義的福祉政策と言えるでしょう。1921年には中国共産党が結成され、孫文らの国民党との間に協力関係が成立します。しかし、孫文の死後、この協力関係は崩れ、中国は資本家と手を結んだ蒋介石らの国民党と、農村に基盤を置く毛沢東らの共産党が対立していきます。
1929年、ウォール街の株式相場大暴落に端を発した米国の経済恐慌は、アメリカの対外投資引き上げによって世界恐慌へと広がります。
アメリカの経済恐慌の原因は、機械化された工場による大量生産などの合理化によって工業生産が過剰になるとともに、増大した失業者への対策が不十分であったため、生産量と国民の購買力の間に不均衡が生じたこと、空前の株式投機ブームの過熱が、株価下落によって不安を呼び、下落に歯止めがかからなかったことなどがあります。ただし、こうした株の暴落や企業倒産は、大資本による統合や独占の一過程でもあります。ここでも、誰が生き残り、誰が利益を得たのかを良く観察する必要があります。全員が損をするゲームなど、ありえないのですから。
世界恐慌によってもっとも苦しんだのは、先の大戦での高額な賠償金によってすでに国民生活が圧迫されていた敗戦諸国でした。その中でドイツは、ヒトラーの率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が、ベルサイユ条約の破棄、ドイツ国民の領土回復、ユダヤ人排斥、共産主義者排斥などをスローガンに急激に勢力を伸張してきました。この中で、ユダヤ人や共産主義者を排斥する行為は、分かりやすい敵を作ることで国民全体や資本家たちの支持を得ようというものです。その狙いは見事に当たり、1932年の総選挙でナチスは第一党になり、翌33年、ヒトラーは政権を握った後、同年3月政府に独裁権を与える全権委任法を作って一党独裁を確立します。これは、民主主義の否定であり、「全体主義」(ファッシズム)と言われるものです。(政党名の中の「社会主義」と、彼らの現実行動の共産主義攻撃との「矛盾」に良く注意してください。これは、政治的な名目と中味の相違でもありますが、また、社会主義と共産主義は別だということでもあります。詳しくは政治経済の章で述べましょう。)
この、ヒトラーが政権を握っていく過程は、なかなか面白い研究課題ですが、その本質を言えば、突撃隊という私設軍隊(要するに、暴力団です。)のテロ行為に対する人々の恐怖を利用して政権を握ったものです。そして、その背後には、彼らを支援した資本家たちがいるわけです。
人間は身近な暴力に弱いものです。そして、警察が庶民ではなく暴力団のほうに味方しているという状況では、それに対抗できる人間はいません。選挙でそうした危険人物を落選させるのが唯一の手段ですが、実は、選挙を有名無実化する方法もあるのです。(現在なら、電子投票の導入もその一つですが、ナチスはもっと原始的なやり方をやったようです。それがどんな方法か、詳しくは言いませんが、秘密投票を秘密でなくするというのが、その方法です。)
さて、これは過去の出来事であり、現在には関係の無い話なのでしょうか? 我々の生きているこの社会は、はたして国民の意思が政治に反映されているのでしょうか。情報操作や目に見えない弾圧によって人々の政治的意見は封殺され、一部の人間の思いのままに政治が動かされているのなら、それはナチスの独裁政権と何が変わるのでしょうか。そういう視点をもう一度確認した上で、先に進むことにしましょう。
1914年6月、オーストリア皇太子のボスニアの首都サラエボでの暗殺がきっかけとなり、第一次世界大戦は始まります。その後、
① オーストリアの、セルビアへの宣戦布告。
② ロシア(バルカン同盟の実質的指導国)の軍隊動員。
③ ドイツのロシア宣戦。
④ ドイツのベルギー進軍とフランスとの戦闘。
⑤ イギリスのドイツ宣戦。
という過程で戦争は拡大し、日本もまた日英同盟(これは、日露戦争当時に、イギリスがロシアを牽制するために日本と結んでいた同盟です。)を理由としてドイツに宣戦し、ドイツ租借地の青島や南洋諸島に派兵します。
戦争が長期化するにしたがって、各陣営は、自らに有利に戦況をすすめるために中立国や従属国、植民地の国々に援助を求めて働きかけ、その代償として様々な約束をします。このことが20世紀後半の、国際政治の混乱の原因となるのです。たとえば、インドやエジプトはイギリスから戦後の独立を約束されてその国民を戦場に送ります。しかし、実際にインドが独立するときには、イギリスは様々な策謀をし、インドの民族主義を利用してインドとパキスタンを分裂させます。また、イギリスはアラブ人に独立国建設の約束をして自国陣営に引き入れる一方で、ユダヤ人資本家(例のロスチャイルドです。)の資金援助を当てにして、戦後のパレスチナでのユダヤ人国家の建設を約束したりしています。これは一般には「バルフォア宣言」と言われていますが、公式の声明ではなく、単なる書簡のようなものですから、法的な実質は無いのですが、それがイスラエル建国の根拠とされ、中東紛争の火種となります。
こうしたイギリスの外交を「三枚舌外交」と言いますが、外交とはもともと騙しあいであり、ナイーブな日本人のもっとも苦手とするところです。政治における原則はただ二つ。「力は正義なり」、「勝てば官軍」です。そして、政治はけっして国民全体の利益を優先するものではなく、一部の人間の都合で動いていくものです。政治は国民が監視し、コントロールすべき怪物であって、優しい母親ではないのです。
交戦国との貿易で巨大な利益を得ていたアメリカは、戦争終結が見えてきた1917年に、(戦勝国の仲間に入るために)ドイツの潜水艦による中立国攻撃を理由として、ドイツに対し、宣戦します。まるで後だしジャンケンみたいなやりかたですが、国際政治では普通のことです。日本の第一次世界大戦参加も、第二次世界大戦終結間際でのソ連の日本への宣戦も同じことです。
ロシアでは、長引く戦争で疲弊した国民の不満を背景に、まず三月革命で帝政が倒れ、そこで誕生した臨時政府も十一月革命で倒されてレーニンによるボリシェビキ政権(後の共産党)が生まれます。新政権はドイツと単独講和を結んで戦線を離脱します。
同盟国側の敗色が濃厚になった1918年秋、同盟国の中心であるドイツでも革命によって帝政が崩壊し、全世界を巻き込んだ第一次世界大戦は終結しました。
第一次世界大戦の特徴は、それまでの戦争が軍隊同士の戦いであったのに対し、経済をはじめ、あらゆる国民生活が戦争遂行のために総動員されるという総力戦だったところにあります。君主が自分の軍隊を動かして勝手に戦争をしていた時代に比べ、庶民生活が戦争によって被る害が比べ物にならないほど大きくなったのです。そうなると、国民の厭戦気分を抑えるために、さまざまなプロパガンダ(宣伝活動)も必要になり、情報操作も生まれてきます。敵国への憎悪の形成、「非愛国的行動」への非難などがそれです。
また、この戦争は科学が戦争に積極的に協力した戦争でもあります。戦車や飛行機、毒ガスが初めて使われたのが第一次世界大戦でした。その行き着く先が第二次世界大戦の原爆だということになります。
この戦争の被害は、死傷者だけでも3000万人だとされています。
普通の神経を持っていたら、こうした悲惨を経験したら、もはや二度と戦争は起こすまいとしそうなものですが、そうならないところが政治と歴史の現実です。それからすぐに世界は第二次世界大戦を迎えるのですから。
さて、1919年6月、連合国とドイツの間でベルサイユ条約が結ばれ、敗戦国ドイツの海外権益や植民地はすべて奪われ、巨額の賠償金が課せられました。その他の敗戦国も同様の扱いを受け、敗戦の苦難の中に悲惨な国民生活を送ることになります。こうした「ベルサイユ体制」への不満がナチスの台頭を生み、続く第二次世界大戦の原因となったと言えるでしょう。
1920年1月、アメリカ大統領ウィルソンの提案で、世界の平和的な新秩序を作るために国際連盟が発足しますが、米議会の反対でアメリカ自身がこれに参加せず、共産主義国(正しくは社会主義ですが)ロシアと敗戦国ドイツその他は除外されました。
この頃の世界は、新たな局面を迎えていました。それは、共産主義の台頭です。1922年末ソビエト社会主義共和国連邦が誕生し、中国では1911年の辛亥革命の後、1912年に清帝が退位し、清朝は滅びます。その辛亥革命の中心者孫文が唱えた三民主義は、「民族主義・民権主義・民生主義」ですが、そのうち民権主義は現在の民主主義、民生主義は社会主義的福祉政策と言えるでしょう。1921年には中国共産党が結成され、孫文らの国民党との間に協力関係が成立します。しかし、孫文の死後、この協力関係は崩れ、中国は資本家と手を結んだ蒋介石らの国民党と、農村に基盤を置く毛沢東らの共産党が対立していきます。
1929年、ウォール街の株式相場大暴落に端を発した米国の経済恐慌は、アメリカの対外投資引き上げによって世界恐慌へと広がります。
アメリカの経済恐慌の原因は、機械化された工場による大量生産などの合理化によって工業生産が過剰になるとともに、増大した失業者への対策が不十分であったため、生産量と国民の購買力の間に不均衡が生じたこと、空前の株式投機ブームの過熱が、株価下落によって不安を呼び、下落に歯止めがかからなかったことなどがあります。ただし、こうした株の暴落や企業倒産は、大資本による統合や独占の一過程でもあります。ここでも、誰が生き残り、誰が利益を得たのかを良く観察する必要があります。全員が損をするゲームなど、ありえないのですから。
世界恐慌によってもっとも苦しんだのは、先の大戦での高額な賠償金によってすでに国民生活が圧迫されていた敗戦諸国でした。その中でドイツは、ヒトラーの率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が、ベルサイユ条約の破棄、ドイツ国民の領土回復、ユダヤ人排斥、共産主義者排斥などをスローガンに急激に勢力を伸張してきました。この中で、ユダヤ人や共産主義者を排斥する行為は、分かりやすい敵を作ることで国民全体や資本家たちの支持を得ようというものです。その狙いは見事に当たり、1932年の総選挙でナチスは第一党になり、翌33年、ヒトラーは政権を握った後、同年3月政府に独裁権を与える全権委任法を作って一党独裁を確立します。これは、民主主義の否定であり、「全体主義」(ファッシズム)と言われるものです。(政党名の中の「社会主義」と、彼らの現実行動の共産主義攻撃との「矛盾」に良く注意してください。これは、政治的な名目と中味の相違でもありますが、また、社会主義と共産主義は別だということでもあります。詳しくは政治経済の章で述べましょう。)
この、ヒトラーが政権を握っていく過程は、なかなか面白い研究課題ですが、その本質を言えば、突撃隊という私設軍隊(要するに、暴力団です。)のテロ行為に対する人々の恐怖を利用して政権を握ったものです。そして、その背後には、彼らを支援した資本家たちがいるわけです。
人間は身近な暴力に弱いものです。そして、警察が庶民ではなく暴力団のほうに味方しているという状況では、それに対抗できる人間はいません。選挙でそうした危険人物を落選させるのが唯一の手段ですが、実は、選挙を有名無実化する方法もあるのです。(現在なら、電子投票の導入もその一つですが、ナチスはもっと原始的なやり方をやったようです。それがどんな方法か、詳しくは言いませんが、秘密投票を秘密でなくするというのが、その方法です。)
さて、これは過去の出来事であり、現在には関係の無い話なのでしょうか? 我々の生きているこの社会は、はたして国民の意思が政治に反映されているのでしょうか。情報操作や目に見えない弾圧によって人々の政治的意見は封殺され、一部の人間の思いのままに政治が動かされているのなら、それはナチスの独裁政権と何が変わるのでしょうか。そういう視点をもう一度確認した上で、先に進むことにしましょう。
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