第二章 日本の政治の実情
日本の政治について語る前に、まずは身近な経済のことから話しましょう。
経済というと、自分と無関係のものと思っている人が多いでしょう。その反対に、我々は常に経済関係の中にいるのです。簡単な話、お金が無ければ一日も生活していくことはできないでしょう。経済とは、要するにお金の問題です。「俺は金の話は嫌いだ」という昔の武士みたいなことは言わないで、我々はお金によって生きているという現実を見てください。
我々は、あるいは君たちの両親は、働いてお金を得て、それで生活します。働いて得たお金を所得と言いますが、所得のすべてが自分のものになるわけではありません。その中から、税金や社会保険料を支払わなければならないのです。その後に残った、自由に使えるお金を可処分所得と言います。では、税金や社会保険料が所得のどのくらいの割合を占めるか、君たちは知っているでしょうか。それは人によって違いますが、およそ2割から3割くらいの平均になると思われます。しかし、近い将来、国民負担率(国民所得に対する税金や保険料の割合)は5割まで上げると政府関係者は言っています。これは、江戸時代の四公六民をも超える収奪です。(社会保険料は、強制的に徴収される以上、形を変えた税金です。)第一、年金制度がすでに破綻していることは明らかであり、国民が現在まで払った金が払った分だけでも戻る可能性はかなり低いはずです。それでもなお保険料を払わせるのは、明らかに詐欺であり、強奪だと言えるでしょう。ただでさえ現在の保険制度は、収入の無い専業主婦や学生にまで保険料を払わせるというひどいものです。もちろん、これは世帯主がすべて代わって支払うわけです。しかし、それが戻らないとなると、政府への献金でしかありません。
所得に占める税金の割合も大きなものですが、それが正しく使われている限りは、我慢するしかありません。税金の役割は、警察、消防、軍事、外交など、民間には任せておけない仕事を国が行なう、その費用を国民全員で負担することです。(これらの仕事がなぜ民間に任せられないかは、想像すればわかるでしょう。)しかし、問題は、国民はその税金の使い道についてほとんどノータッチだということです。税金の使途は、大蔵官僚(現・財務省官僚)によって決定され、国会でほとんど無審議で了承されます。大蔵官僚が、官僚の中の官僚として強大な権力を持っている理由はここにあります。そして、大蔵官僚になれるのは、事実上、東大出身者で、さらにその上位20人程度ですから、彼らが自分たちをエリート中のエリートだと考え、自惚れるのも当然でしょう。
税金の使途の中でもっとも不明瞭なものが、国防費、つまり軍事支出です。1機あたり7億円程度のジェット戦闘機を、その10倍もの70億円で購入するなどということがまかり通っており、しかもその戦闘機はだいたいが時代遅れのものとしてアメリカが新型に切り替えた、その古い形式のものであって、性能や弱点がアメリカに筒抜けであるものです。つまり、日本はアメリカに反抗できないシステムになっているのです。戦闘機に限らず、戦車でも何でも根拠の無い巨額な金額で購入されているわけですが、いったい、防衛のための戦争しかしないはずの自衛隊が、戦車で何をしようというのでしょうか。まあ、怪獣映画なら、戦車の出番もあるでしょうが。
しかもその一方で、この不況の時代になってからは毎年のように福祉予算は削減され、老人、片親家庭、病人、障害者などの弱者いじめが平然と行なわれています。
では、これらの政治的決定は、国民が決めたのでしょうか。それとも、政府が決めたのでしょうか。いったい、政府は国民の了承を得て、これを決めたのでしょうか。いや、これらはまったく国民とは無関係のところですべて決まっていったのです。国民と政府と国家を同じだと思っているかぎり、この状況は変わりません。
我々は、気にいらない議員や政府を変える権利があります。政府が私たちの主人なのではなく、私たちが政府の主人なのです。
現在、政府予算のおよそ3割が国債費です。つまり、政府がこれまでやってきた借金である国債(その引受人、購買者は市中銀行でしたが、今では日銀までが買っています。)の元本や利払いだけで政府予算の3割が使われているのです。普通の家庭で言うなら、収入の3割が借金返済に充てられているわけです。その割合は年々膨れ上がっています。国債費に回す分、他の予算が圧迫されますが、そのしわよせは常に弱者です。これまでの日本政府は、自分の収入で生活できず、金を無駄遣いしては借金してきた道楽者みたいなものです。そうした政府を信頼しろというほうが無理でしょう。政府は常に変動しているから、現政府だけの責任ではないというのなら、常に政権を担当してきた保守政党に責任があることは自明です。しかし、本当のところ、政府が変わるのは上辺だけで、大臣が毎日のように変わろうと、行政の実務を担当している官僚組織は変わりません。
国会における政治家の質問は、すべて官僚が作文し、その答弁も官僚が作文したものです。つまり、日本は、選挙で選ばれたわけでもない官僚が、立法権まで侵し、国の政治を専有しているわけですが、その事を知っている高校生は少ないでしょう。おそらく、学校教科書で習った「三権分立」や、「立法の優位」などを信じているかと思います。現実の政治はまったく違うのです。司法にしても、行政側の人間によって人事が決められるため、行政に逆らった司法判断はできない仕組みになっています。つまり、日本は官僚支配の国なのです。しかし、その官僚もアメリカの言いなりですし、アメリカ政府はアメリカ(もしくはイギリス)経済界の言いなりですから、まるで「鼠の嫁入り」みたいな話です。
つまり、日本の政治はこういう権力関係です。
[ 日本国民<政治家<官僚<アメリカ政府<アメリカ経済界 ]
ただし、一応、形式的には国会議員は内閣官僚の上位にありますから、官僚は国会議員に頭は下げますが、腹の中では、「この低脳ども!」と思っているわけです。
なぜ日本がこのような状態になってしまったかというのは、日本政治の戦後史と関わってきますが、それは項目を変えて扱うことにしましょう。
日本の政治について語る前に、まずは身近な経済のことから話しましょう。
経済というと、自分と無関係のものと思っている人が多いでしょう。その反対に、我々は常に経済関係の中にいるのです。簡単な話、お金が無ければ一日も生活していくことはできないでしょう。経済とは、要するにお金の問題です。「俺は金の話は嫌いだ」という昔の武士みたいなことは言わないで、我々はお金によって生きているという現実を見てください。
我々は、あるいは君たちの両親は、働いてお金を得て、それで生活します。働いて得たお金を所得と言いますが、所得のすべてが自分のものになるわけではありません。その中から、税金や社会保険料を支払わなければならないのです。その後に残った、自由に使えるお金を可処分所得と言います。では、税金や社会保険料が所得のどのくらいの割合を占めるか、君たちは知っているでしょうか。それは人によって違いますが、およそ2割から3割くらいの平均になると思われます。しかし、近い将来、国民負担率(国民所得に対する税金や保険料の割合)は5割まで上げると政府関係者は言っています。これは、江戸時代の四公六民をも超える収奪です。(社会保険料は、強制的に徴収される以上、形を変えた税金です。)第一、年金制度がすでに破綻していることは明らかであり、国民が現在まで払った金が払った分だけでも戻る可能性はかなり低いはずです。それでもなお保険料を払わせるのは、明らかに詐欺であり、強奪だと言えるでしょう。ただでさえ現在の保険制度は、収入の無い専業主婦や学生にまで保険料を払わせるというひどいものです。もちろん、これは世帯主がすべて代わって支払うわけです。しかし、それが戻らないとなると、政府への献金でしかありません。
所得に占める税金の割合も大きなものですが、それが正しく使われている限りは、我慢するしかありません。税金の役割は、警察、消防、軍事、外交など、民間には任せておけない仕事を国が行なう、その費用を国民全員で負担することです。(これらの仕事がなぜ民間に任せられないかは、想像すればわかるでしょう。)しかし、問題は、国民はその税金の使い道についてほとんどノータッチだということです。税金の使途は、大蔵官僚(現・財務省官僚)によって決定され、国会でほとんど無審議で了承されます。大蔵官僚が、官僚の中の官僚として強大な権力を持っている理由はここにあります。そして、大蔵官僚になれるのは、事実上、東大出身者で、さらにその上位20人程度ですから、彼らが自分たちをエリート中のエリートだと考え、自惚れるのも当然でしょう。
税金の使途の中でもっとも不明瞭なものが、国防費、つまり軍事支出です。1機あたり7億円程度のジェット戦闘機を、その10倍もの70億円で購入するなどということがまかり通っており、しかもその戦闘機はだいたいが時代遅れのものとしてアメリカが新型に切り替えた、その古い形式のものであって、性能や弱点がアメリカに筒抜けであるものです。つまり、日本はアメリカに反抗できないシステムになっているのです。戦闘機に限らず、戦車でも何でも根拠の無い巨額な金額で購入されているわけですが、いったい、防衛のための戦争しかしないはずの自衛隊が、戦車で何をしようというのでしょうか。まあ、怪獣映画なら、戦車の出番もあるでしょうが。
しかもその一方で、この不況の時代になってからは毎年のように福祉予算は削減され、老人、片親家庭、病人、障害者などの弱者いじめが平然と行なわれています。
では、これらの政治的決定は、国民が決めたのでしょうか。それとも、政府が決めたのでしょうか。いったい、政府は国民の了承を得て、これを決めたのでしょうか。いや、これらはまったく国民とは無関係のところですべて決まっていったのです。国民と政府と国家を同じだと思っているかぎり、この状況は変わりません。
我々は、気にいらない議員や政府を変える権利があります。政府が私たちの主人なのではなく、私たちが政府の主人なのです。
現在、政府予算のおよそ3割が国債費です。つまり、政府がこれまでやってきた借金である国債(その引受人、購買者は市中銀行でしたが、今では日銀までが買っています。)の元本や利払いだけで政府予算の3割が使われているのです。普通の家庭で言うなら、収入の3割が借金返済に充てられているわけです。その割合は年々膨れ上がっています。国債費に回す分、他の予算が圧迫されますが、そのしわよせは常に弱者です。これまでの日本政府は、自分の収入で生活できず、金を無駄遣いしては借金してきた道楽者みたいなものです。そうした政府を信頼しろというほうが無理でしょう。政府は常に変動しているから、現政府だけの責任ではないというのなら、常に政権を担当してきた保守政党に責任があることは自明です。しかし、本当のところ、政府が変わるのは上辺だけで、大臣が毎日のように変わろうと、行政の実務を担当している官僚組織は変わりません。
国会における政治家の質問は、すべて官僚が作文し、その答弁も官僚が作文したものです。つまり、日本は、選挙で選ばれたわけでもない官僚が、立法権まで侵し、国の政治を専有しているわけですが、その事を知っている高校生は少ないでしょう。おそらく、学校教科書で習った「三権分立」や、「立法の優位」などを信じているかと思います。現実の政治はまったく違うのです。司法にしても、行政側の人間によって人事が決められるため、行政に逆らった司法判断はできない仕組みになっています。つまり、日本は官僚支配の国なのです。しかし、その官僚もアメリカの言いなりですし、アメリカ政府はアメリカ(もしくはイギリス)経済界の言いなりですから、まるで「鼠の嫁入り」みたいな話です。
つまり、日本の政治はこういう権力関係です。
[ 日本国民<政治家<官僚<アメリカ政府<アメリカ経済界 ]
ただし、一応、形式的には国会議員は内閣官僚の上位にありますから、官僚は国会議員に頭は下げますが、腹の中では、「この低脳ども!」と思っているわけです。
なぜ日本がこのような状態になってしまったかというのは、日本政治の戦後史と関わってきますが、それは項目を変えて扱うことにしましょう。
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