小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」から転載。(「ア」はタイトルについていたかどうか不明。)
なお、「警句」は寸鉄人を刺すような、機智のある言葉であり、「警告の言葉」ではない。最近は後者の意味で使ううっかり者が多いので一言注意。
上の文から分かるように、私は言葉にうるさい「小言幸兵衛」であるのだが、その自分自身、言葉の誤用やうっかりミスもたくさんしているだろうとは思っている。かと言って、間違った言葉使い(これだって「言葉遣い」と書くべきかどうか、私には分からないのだが)をあまりに見逃すと、日本語は滅茶苦茶になる、という危機感もあるのだ。
私は日本文化が大好きだし、文化の根底は言葉だと思っているのである。
だが、下の記事にあるようなマスコミによる「つまらない言葉咎め」には私も少々うんざりしてはいる。実際、小田嶋氏が言うように、こうした「頻繁に誤用される言葉」は、「言葉自体の出来が悪い」と言うべきであり、「誤用されて当然」と見るべきだろう。やがてこうした言葉は自然淘汰されるか、「誤用」が「正用」になっていくはずである。
だが、そうした流れにそのまま竿差していいのだろうか。
「流れに竿差す」は「流れに反抗する」ではなく、「時流に乗る・時流に従う」意味だが、舟に乗って「竿を差す」動作など見たこともない現代人は誤用しても仕方がない。そういう言葉は無数にあるのだが、しかし『草枕』冒頭で「智に働けば角が立つ。流れに竿差せば流される。」と使われている以上は、これは失われては困る言葉の一つである。
つまり、言葉は現代生活に必要なものだけあればいい、というものではないわけだ。
古典や古典的作品を読むためのボキャブラリーも必要であり、ふだんは使わなくても、そうした言葉を豊富に持っているほど、精神生活も豊かになるのではないだろうか。
その証拠に、下記記事のブログタイトルである「ア・ピース・オブ・警句」にも「a piece of cake(楽な仕事、朝飯前)」という英語の慣用句の知識が使われている。そうした知識のない人間には「ピース? 平和の意味じゃね?」くらいに理解されるかもしれないのである。
(以下引用)
噴飯中の皆様に告ぐ
小田嶋 隆
-
2013年9月27日(金)
1/5ページ
9月の24日、文化庁が2012年度の国語に関する世論調査の結果を公表すると、早速、民放各局の情報番組が、いくつかのネタを引用して、5分ほどの小コーナーを作っていた。ちなみに、記事はこちら。文化庁の調査結果はこちらだ。
毎度のことだ。
「日本語の乱れ」
「カタカナ語の氾濫」
「敬語の誤用」
「慣用句についての思い違い」
「世代間のギャップ」
こういうお話は、視聴者にアピールしやすい、と、少なくとも制作現場はそう考えている。
「最近の若いヒトは言葉を知らないから」
「噴飯ものの意味も知らないなんて噴飯ものですよね」
おそらく、テレビ視聴者の多くは、自分より無知な人間が国民の多数派を占めているというふうに思い込んでいる。
ん?
ということは、平均的なテレビ視聴者は平均的な日本人より賢いのだろうか?
真相はわからない。調べようもない。
ただ、無知な人々の多くは、自分より無知な人間が多くないという事実を知らないのだと思う。
自分自身の話をすれば、私は、必ずしも語彙の豊富な書き手ではない。
漢字の読み書きもどちらかと言えば苦手だ。
テレビでやってる「漢字博士バトル」みたいな企画に担ぎ出されたら、かなり盛大に恥をかくことになるはずだ。
事実、用字用語や慣用句の使い方について、校閲からゲラ経由で誤りを指摘された経験は、それこそ数えきれない
なので、ひとこと、例にあげられた慣用句について、それを誤用する人たちを擁護する文章を書いておきたい。
「国語に関する世論調査」の中で、とりあげられている慣用句は、いずれも「字面から自然に類推される意味内容と、辞書の上で正しいとされている用法の間に、著しく齟齬のある言い回し」なのだと思う。
ということはつまり、例に挙げられた慣用句は、どれもこれも「出来の悪い言葉」なのであって、誤解を恐れずに言うなら、そんなものは、誤用されて当然なのである。
無論、誤用する人々の側に責任がないわけではない。
しかし、全国民のうちの半数以上が、正しい用法よりも誤った使い方のほうを採用しているのであるとすれば、問題は、人々の側よりも、言葉の側にあると考えなければならない。とすれば、人々の誤用の主たる原因は、その慣用句が、「誤解を招く表現」である点に帰せられるべきなのだ。
なお、「警句」は寸鉄人を刺すような、機智のある言葉であり、「警告の言葉」ではない。最近は後者の意味で使ううっかり者が多いので一言注意。
上の文から分かるように、私は言葉にうるさい「小言幸兵衛」であるのだが、その自分自身、言葉の誤用やうっかりミスもたくさんしているだろうとは思っている。かと言って、間違った言葉使い(これだって「言葉遣い」と書くべきかどうか、私には分からないのだが)をあまりに見逃すと、日本語は滅茶苦茶になる、という危機感もあるのだ。
私は日本文化が大好きだし、文化の根底は言葉だと思っているのである。
だが、下の記事にあるようなマスコミによる「つまらない言葉咎め」には私も少々うんざりしてはいる。実際、小田嶋氏が言うように、こうした「頻繁に誤用される言葉」は、「言葉自体の出来が悪い」と言うべきであり、「誤用されて当然」と見るべきだろう。やがてこうした言葉は自然淘汰されるか、「誤用」が「正用」になっていくはずである。
だが、そうした流れにそのまま竿差していいのだろうか。
「流れに竿差す」は「流れに反抗する」ではなく、「時流に乗る・時流に従う」意味だが、舟に乗って「竿を差す」動作など見たこともない現代人は誤用しても仕方がない。そういう言葉は無数にあるのだが、しかし『草枕』冒頭で「智に働けば角が立つ。流れに竿差せば流される。」と使われている以上は、これは失われては困る言葉の一つである。
つまり、言葉は現代生活に必要なものだけあればいい、というものではないわけだ。
古典や古典的作品を読むためのボキャブラリーも必要であり、ふだんは使わなくても、そうした言葉を豊富に持っているほど、精神生活も豊かになるのではないだろうか。
その証拠に、下記記事のブログタイトルである「ア・ピース・オブ・警句」にも「a piece of cake(楽な仕事、朝飯前)」という英語の慣用句の知識が使われている。そうした知識のない人間には「ピース? 平和の意味じゃね?」くらいに理解されるかもしれないのである。
(以下引用)
噴飯中の皆様に告ぐ
小田嶋 隆
-
2013年9月27日(金)
1/5ページ
9月の24日、文化庁が2012年度の国語に関する世論調査の結果を公表すると、早速、民放各局の情報番組が、いくつかのネタを引用して、5分ほどの小コーナーを作っていた。ちなみに、記事はこちら。文化庁の調査結果はこちらだ。
毎度のことだ。
「日本語の乱れ」
「カタカナ語の氾濫」
「敬語の誤用」
「慣用句についての思い違い」
「世代間のギャップ」
こういうお話は、視聴者にアピールしやすい、と、少なくとも制作現場はそう考えている。
「最近の若いヒトは言葉を知らないから」
「噴飯ものの意味も知らないなんて噴飯ものですよね」
おそらく、テレビ視聴者の多くは、自分より無知な人間が国民の多数派を占めているというふうに思い込んでいる。
ん?
ということは、平均的なテレビ視聴者は平均的な日本人より賢いのだろうか?
真相はわからない。調べようもない。
ただ、無知な人々の多くは、自分より無知な人間が多くないという事実を知らないのだと思う。
自分自身の話をすれば、私は、必ずしも語彙の豊富な書き手ではない。
漢字の読み書きもどちらかと言えば苦手だ。
テレビでやってる「漢字博士バトル」みたいな企画に担ぎ出されたら、かなり盛大に恥をかくことになるはずだ。
事実、用字用語や慣用句の使い方について、校閲からゲラ経由で誤りを指摘された経験は、それこそ数えきれない
なので、ひとこと、例にあげられた慣用句について、それを誤用する人たちを擁護する文章を書いておきたい。
「国語に関する世論調査」の中で、とりあげられている慣用句は、いずれも「字面から自然に類推される意味内容と、辞書の上で正しいとされている用法の間に、著しく齟齬のある言い回し」なのだと思う。
ということはつまり、例に挙げられた慣用句は、どれもこれも「出来の悪い言葉」なのであって、誤解を恐れずに言うなら、そんなものは、誤用されて当然なのである。
無論、誤用する人々の側に責任がないわけではない。
しかし、全国民のうちの半数以上が、正しい用法よりも誤った使い方のほうを採用しているのであるとすれば、問題は、人々の側よりも、言葉の側にあると考えなければならない。とすれば、人々の誤用の主たる原因は、その慣用句が、「誤解を招く表現」である点に帰せられるべきなのだ。
PR