令和の絶対国防圏。
もう、タイトルだけで言い切ってしまったような気がするが、令和時代の日本は、絶対国防圏の頃の日本になんだか似ていると思う。
絶対国防圏とは、アメリカの反攻作戦を受けて1943年9月の御前会議で決まった「絶対に守るべき」「ここが破れたら敗戦確定」とみなされた防衛ラインのことだ。
しかし上の地図をみていただいてもわかるように、この絶対国防圏、えらく範囲が広い。絶対国防圏が本土からみて南南東の方向に大きく張り出しているのは、ここにカロリン諸島などが含まれるためだが、こんなに広い範囲を絶対国防するのはかなり無理がある。
小学館『昭和の歴史7 太平洋戦争』では、絶対国防圏を決定する御前会議について、以下のように記している。
けっきょく陸軍の「絶対国防圏」思想と海軍の前方決戦主義という戦略構想の不一致をかかえたまま、九月三〇日の御前会議でつぎのような「今後採るべき戦争指導の大綱」が決定された。
(中略)
そのため「絶対国防圏」の東側地域に展開していた約三〇万の陸海軍部隊は、置き去りにされ、やがて各地で守備隊玉砕の悲劇があいつぐ素地がつくられた。しかもこの御前会議では、「絶対確保圏を確保する自信があるのか」という原嘉道枢密院議長のきびしい質問にたいし、永野軍令部総長が「絶対確保の決意あるも勝敗は時の運である。……今後どうなるか判らぬ。戦局の前途を確言することは出来ぬ」と答えたため議場がにわかに緊張し、東条首相と杉山参謀総長があわてて打ち消すという一幕がみられた。軍部の最高指導者の一部は、戦局の見通しに自信をうしないはじめていた。
絶対国防圏と名付けたものの、指導部もこれを守り切る自信が無かったようだ。そのうえ海軍は絶対国防圏の外側に固執し、サイパンやグアムの防衛にあまり力を入れていなかった。
あれもこれも守りたい・どれも捨てられない意思決定の結果として、絶対国防圏は絵に描いた餅のような内容になり、アメリカ軍という現実によって粉砕されてしまった。