「漢字逍遥」という、漢字を題材にした随筆集を読んだのだが、その中に、これはおそらく間違いだろうという記述がある。
「尊」という漢字についての項目だが、そこに学校唱歌の「仰げば尊し」の歌詞が引用され、それが「今こそ別れ目」と書かれているのである。全体の引用は「思えばいと疾しこの年月、今こそ別れ目いざさらば」となっているが、この「別れ目」は間違いだろう。ここは古文で習う係り結びであり、係助詞「こそ」に対して、文末の「む」が已然形の「め」に変化したものだと思う。つまり、「今別れむ。」を「こそ」で強調して「今こそ別れめ。」としたわけだ。
著者は大学の先生らしいが、子供のころに覚えた事柄は、誤ったままに覚えていることが多い。編集者もおそらく古文の初歩的な知識が無かったために、この間違いに気づかなかったのではないか。
なお、私はべつに「仰げば尊し」の正確な歌詞をネットで調べて書いているわけではないが、「今こそ別れめ」が係り結びだというのはかなり自信があるので、別に調べる必要性も感じていない。
なお、「天下分け目の戦い」のように「分け目」なら、辞書にも載っているが、「別れ目」という言葉は無いようだ。「分かれ目」は、「分岐点」の意味で「ここが勝負の分かれ目だ」というような慣用句の中でしか使わないだろう。それでも「分かれ目」であって「別れ目」ではない。
念のために言っておくが、この本には私の知らなかった有益な知識もたくさん書かれていたが、書いた人が人文系の学者である以上、こういう初歩的な部分のミスで「九仭の功を一簣に欠く」ことになりかねない。編集者の責任は重い。(書名は書いたが、当人の名誉のために著者名は伏せておく。)
「尊」という漢字についての項目だが、そこに学校唱歌の「仰げば尊し」の歌詞が引用され、それが「今こそ別れ目」と書かれているのである。全体の引用は「思えばいと疾しこの年月、今こそ別れ目いざさらば」となっているが、この「別れ目」は間違いだろう。ここは古文で習う係り結びであり、係助詞「こそ」に対して、文末の「む」が已然形の「め」に変化したものだと思う。つまり、「今別れむ。」を「こそ」で強調して「今こそ別れめ。」としたわけだ。
著者は大学の先生らしいが、子供のころに覚えた事柄は、誤ったままに覚えていることが多い。編集者もおそらく古文の初歩的な知識が無かったために、この間違いに気づかなかったのではないか。
なお、私はべつに「仰げば尊し」の正確な歌詞をネットで調べて書いているわけではないが、「今こそ別れめ」が係り結びだというのはかなり自信があるので、別に調べる必要性も感じていない。
なお、「天下分け目の戦い」のように「分け目」なら、辞書にも載っているが、「別れ目」という言葉は無いようだ。「分かれ目」は、「分岐点」の意味で「ここが勝負の分かれ目だ」というような慣用句の中でしか使わないだろう。それでも「分かれ目」であって「別れ目」ではない。
念のために言っておくが、この本には私の知らなかった有益な知識もたくさん書かれていたが、書いた人が人文系の学者である以上、こういう初歩的な部分のミスで「九仭の功を一簣に欠く」ことになりかねない。編集者の責任は重い。(書名は書いたが、当人の名誉のために著者名は伏せておく。)
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