私は尊皇攘夷主義者のサヨク(漸進的社会主義論者)という滅茶苦茶な人間だが、良く言えば融通無碍であり、ドグマ的では無いところが取り柄だと自分では考えている。天皇尊重思想にしても、天皇の存在を日本文化の土台として尊重する気持ちが基本であり、もしかしたら、それを政治的にうまく利用すれば日本を今よりも良い方向に向けることもできるのではないか、と夢想しているだけのことである。もちろん、昭和天皇や今上天皇の人柄が好きだ、という部分もあるが、それとは別に昭和天皇の戦争責任は永遠に免責されない、とも思っている。天皇家が一般的な意味での「万世一系」だとも思っておらず、皇統は何度か断絶していると考えているが、あえてそれを「万世一系」と見做すべきだ、というのが私の考えだから、まあ右翼から見れば憎むべき「天皇機関説」論者の一人になるのかもしれない。
下記記事は「櫻井ジャーナル」からのものだが、ここに書かれたことに私はほぼ肯定的である。ただし、天皇が日本という国の礎である、という私の考えはそれでも動かない。日本とは、日本文化を意味するのであり、日本文化が失われた国は日本ではない。そして日本文化の土台には天皇という存在があったし、それが失われて「万葉集」も「古今集」も「新古今集」もただ過去の遺物でしかないとなれば、我々はただ日本家屋の中に住んで欧風生活をするだけの奇妙な人種になるしかないだろう。我々は現在の文化の中に残る過去の伝統とのつながりによってかろうじて「日本人」たりえているのである。もちろん、それはさまざまなアレンジをされてはいるが、やはり日本的感性がどこかに残っているからこそ、世界的な価値をも持つのだ。
グローバリズムという野蛮な「平準化」の波に抗するためには、我々は日本の文化や日本的感性、日本的感情をより鋭く意識し、守らねばならない。そして、天皇という存在はその土台だと私は考えている。
(以下引用)
2013.02.11
第2次世界大戦で敗北、民主化されたはずの日本だが、2月11日の紀元節だけでなく、天長節や明治節も復活、中国を本格的に侵略した総大将の誕生日も祝っている
カテゴリ:カテゴリ未分類
2月11日は「建国記念の日」なのだという。何年か前のこの日、日本という国がつくられたというのだろうが、具体的にどのような出来事を指しているのだろうか?
第2次世界大戦で敗北した後に民主化され、新たな日本が生まれたと解釈するならば、いくつかの節目が存在する。日本がポツダム宣言の受諾、つまり降伏を決断し、同盟通信の海外向け放送で連合国側に伝えたのは1945年8月10日、15日には国内向けに「玉音放送」とか「終戦勅語」と呼ばれている放送が流されている。
正式に降服したと言えるのはこの年の9月2日、東京湾に停泊していたアメリカの戦艦ミズリー号の甲板で、政府全権の重光葵と軍全権の梅津美治郎が降伏文書に調印した時だろう。新たな国のあり方を定めた日本国憲法が公布されたのは翌年の11月3日、施行されたのは5月3日である。
しかし、「建国記念の日」は8月10日でも、15日でも、9月2日でも、11月3日でも、そして5月3日でもなく、2月11日・・・
カマトトぶるのはやめよう。言うまでもなく、2月11日は「明治王朝」を樹立した勢力(薩摩藩や長州藩、その背後のイギリス)の定めた「紀元節」を復活させたのである。その根拠だとされているのが『日本書紀』の記述。そこに「辛酉年春正月庚辰朔天皇即帝位於橿原宮」(辛酉の年の正月1日、庚辰の日に天皇が橿原宮で即位した)とあり、それを明治王朝の役人が換算して紀元前660年2月11日に建国されたと決めたようだが、その計算方法は明らかにされていない。
この説に従うと、「神武天皇」は縄文時代晩期/弥生時代前期の人ということになる。現在でも日本では「邪馬台国論争」が続いているが、その主人公である卑弥呼が登場するのは弥生時代後期。神武天皇は卑弥呼よりはるか昔、釈迦や孔子が生まれる前の人物だということになる。
要するに、紀元節は日本書紀を利用して明治王朝が創作した「神話」にすぎない。こうした代物を恥ずかしげもなく「建国記念の日」に定めているのが現在の日本。否定されたはずの「皇国史観」は健在である。カルト国家と言われても仕方がないだろう。いや、明治王朝は天皇を神だと称するカルト集団として始まり、その呪縛から少なからぬ日本人がいまだに逃れられないでいる。
戦前には「四大節」とよばれる祝日があった。紀元節のほか、元日の「四方節」、4月29日の天長節(昭和天皇の誕生日)、11月3日の明治節(明治天皇の誕生日)だ。12月23日の天皇誕生日を天長節と理解すれば、4月29日は「昭和節」ということになろうか。元日はともかく、現在、これらは建国記念の日、みどりの日、文化の日として続いている。ちなみに、勤労感謝の日は戦前の「新嘗祭」である。
下記記事は「櫻井ジャーナル」からのものだが、ここに書かれたことに私はほぼ肯定的である。ただし、天皇が日本という国の礎である、という私の考えはそれでも動かない。日本とは、日本文化を意味するのであり、日本文化が失われた国は日本ではない。そして日本文化の土台には天皇という存在があったし、それが失われて「万葉集」も「古今集」も「新古今集」もただ過去の遺物でしかないとなれば、我々はただ日本家屋の中に住んで欧風生活をするだけの奇妙な人種になるしかないだろう。我々は現在の文化の中に残る過去の伝統とのつながりによってかろうじて「日本人」たりえているのである。もちろん、それはさまざまなアレンジをされてはいるが、やはり日本的感性がどこかに残っているからこそ、世界的な価値をも持つのだ。
グローバリズムという野蛮な「平準化」の波に抗するためには、我々は日本の文化や日本的感性、日本的感情をより鋭く意識し、守らねばならない。そして、天皇という存在はその土台だと私は考えている。
(以下引用)
2013.02.11
第2次世界大戦で敗北、民主化されたはずの日本だが、2月11日の紀元節だけでなく、天長節や明治節も復活、中国を本格的に侵略した総大将の誕生日も祝っている
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2月11日は「建国記念の日」なのだという。何年か前のこの日、日本という国がつくられたというのだろうが、具体的にどのような出来事を指しているのだろうか?
第2次世界大戦で敗北した後に民主化され、新たな日本が生まれたと解釈するならば、いくつかの節目が存在する。日本がポツダム宣言の受諾、つまり降伏を決断し、同盟通信の海外向け放送で連合国側に伝えたのは1945年8月10日、15日には国内向けに「玉音放送」とか「終戦勅語」と呼ばれている放送が流されている。
正式に降服したと言えるのはこの年の9月2日、東京湾に停泊していたアメリカの戦艦ミズリー号の甲板で、政府全権の重光葵と軍全権の梅津美治郎が降伏文書に調印した時だろう。新たな国のあり方を定めた日本国憲法が公布されたのは翌年の11月3日、施行されたのは5月3日である。
しかし、「建国記念の日」は8月10日でも、15日でも、9月2日でも、11月3日でも、そして5月3日でもなく、2月11日・・・
カマトトぶるのはやめよう。言うまでもなく、2月11日は「明治王朝」を樹立した勢力(薩摩藩や長州藩、その背後のイギリス)の定めた「紀元節」を復活させたのである。その根拠だとされているのが『日本書紀』の記述。そこに「辛酉年春正月庚辰朔天皇即帝位於橿原宮」(辛酉の年の正月1日、庚辰の日に天皇が橿原宮で即位した)とあり、それを明治王朝の役人が換算して紀元前660年2月11日に建国されたと決めたようだが、その計算方法は明らかにされていない。
この説に従うと、「神武天皇」は縄文時代晩期/弥生時代前期の人ということになる。現在でも日本では「邪馬台国論争」が続いているが、その主人公である卑弥呼が登場するのは弥生時代後期。神武天皇は卑弥呼よりはるか昔、釈迦や孔子が生まれる前の人物だということになる。
要するに、紀元節は日本書紀を利用して明治王朝が創作した「神話」にすぎない。こうした代物を恥ずかしげもなく「建国記念の日」に定めているのが現在の日本。否定されたはずの「皇国史観」は健在である。カルト国家と言われても仕方がないだろう。いや、明治王朝は天皇を神だと称するカルト集団として始まり、その呪縛から少なからぬ日本人がいまだに逃れられないでいる。
戦前には「四大節」とよばれる祝日があった。紀元節のほか、元日の「四方節」、4月29日の天長節(昭和天皇の誕生日)、11月3日の明治節(明治天皇の誕生日)だ。12月23日の天皇誕生日を天長節と理解すれば、4月29日は「昭和節」ということになろうか。元日はともかく、現在、これらは建国記念の日、みどりの日、文化の日として続いている。ちなみに、勤労感謝の日は戦前の「新嘗祭」である。
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