IT技術者で神秘思想家のKAYさんのブログから転載。
「品のよさ」という言葉、「上品さ」という言葉は現代では死滅したようにすら見えるのだが、人間の客観的価値指標の一つとして、大事なものだと思う。なお、私は昔、小学生相手の塾で子供を教えていたことがあるが、その中の生徒の一人で、小学四年生の女の子から、「先生はこの塾の先生の中で一番上品だと思う」と言われたのが、今でも覚えているくらい嬉しい褒め言葉であった。
その女の子は非常に賢い子で(勉強での話ではなく、精神年齢が高いということだ)、私がその子との雑談で「子供相手に教える時には子供に分かる言葉を使わないといけないから、それが難しい」と言ったところ、「先生が難しい言葉を使ってくれないと、私たちは言葉を覚えられないじゃない」と答えたのだが、これはまさしく「目から鱗」であった。彼女は私に、国語教師として心得るべき非常に大事なことを教えてくれたと思う。つまり、この時、この女の子は私の先生であったわけだ。
子供の中にも大人がいるし、大人の中にも子供がいる。年齢だけで人を区別するのは愚かしいことだ。また社会的身分が人間の品性とは反比例していることが多いということはこれまで何度か書いてきた。それは、職業的能力とは別の、立身出世の能力という卑しい技術によって社会や組織の上位に上る例が非常に多いからだ。その一方、無名の庶民には人格高潔で善意に満ちた人間も多いのである。そういう人間が真の意味で「上品な人間」だと私は思うし、自分もそうなりたいと思う。まあ、それが無理なら、せめて外面だけでも上品でありたいものだ。もちろん、それはファッションなどとはまったく無関係な話であり、下に書かれたような「言葉」や、物事に処する「態度」のことである。
(以下引用)
また、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』(初稿は1924年頃)で、ジョバンニとカムパネルラが乗る車両に後から乗ってきた、かおる(かおる子ともあった)という名の12歳くらいの女の子の言葉遣いが、やはりとてもきれいだった。
彼女の一番最初の言葉は、
「あら、ここどこでしょう。まあ、きれいだわ」
だった。
そして、小さな弟に、
「お父さんやきくよねえさんはまだいろいろお仕事があるのです。けれどももうすぐあとからいらっしゃいます」
と、とても丁寧な言葉で言う。
そして、沢山の鳥の群を見た時は、感激し、美しい頬を輝かせながら、
「まあ、この鳥、たくさんですわねえ、あらまあそらのきれいなこと」
と言う。
読んでいて、私はすっかり、心が清々しくなった。
いくら若くて姿もきれいな女の子でも、品のない汚い言葉を使うのを聞くと、まともな人間なら、彼女を見るのも嫌になるはずだ。
だが、そんな子達がとても多いように思うのだ。
彼女達が素晴らしい人に好意を持たれることは決して無いし、近寄ってくるのは、その言葉遣いに相応しい、卑しく下劣な者ばかりである。
実際、人は、口から出るものに相応の相手を引き寄せる。
なぜなら、人は、自分が発した言葉によって汚れるからだ。
イエス・キリストも言ったのだ。
「人は、口から入るもので汚れたりしない。口から出るもので汚れるのだ」
と。
貧しいものを食べてたって、心まで貧しくなったりはしない。
だが、劣悪な言葉、卑しい言葉、品のない言葉は、確実に心も身体も汚すのである。
そして、いつも美しい言葉を使う人は、身も心も美しい。
なぜなら、美しい言葉は美しい心から出てくるし、美しい心は、澄んだ魂から出てくる。
つまり、言葉は魂の孫のようなものだ。
だから、美しい言葉をいつでも使う人は、魂の純粋さを現しているのであり、言葉が汚い者は、魂が汚れているのである。
これは、単純で確実な真理であり、決して例外はない。
そして、美しい言葉を使うためには、心持ちをきれいに、大きくするよう心がけるしかないようである。
(2月22日追記)「独りファシズム」から転載。言葉は自己の思索のための道具であり、また他者との交流のための手段である。他者への共感能力の無い人間は言葉も粗雑(美辞麗句をまぶした空虚な言葉もまた粗雑な言葉なのである)であるはずだ。その点で下記の言葉に少し異論はあるが、「人も社会もまず言葉から狂う」というのはまさに至言だろう。
我々は公共教育のスコアリング点数化によって知性を裁定されてきたのだけれど、
つまるところ人間の最も高度な精神とは、言語運用能力や数理的直観力ではなく、
ましてや機械的な記憶力などでもなく、
他者の痛みへの共感能力なのであり、人権や生命を慮る洞察の領域にあるのだと思う。
ジョージ・オーウェルはイギリス統治下におけるインド帝国の禁圧に着想を得て「1984」
を上梓したのだが、すでに社会構造とはそれに準拠するディストピア
ユートピア(理想郷)の正反対の社会なのであり、
「人も社会もまず言葉から狂う」という至言にその兆候を見出すのであり、
我々が帰属する暗黒の体系は、人間性の退行によって支配が達成される
というオーウェルの預言を体現することになるのだろう。
「品のよさ」という言葉、「上品さ」という言葉は現代では死滅したようにすら見えるのだが、人間の客観的価値指標の一つとして、大事なものだと思う。なお、私は昔、小学生相手の塾で子供を教えていたことがあるが、その中の生徒の一人で、小学四年生の女の子から、「先生はこの塾の先生の中で一番上品だと思う」と言われたのが、今でも覚えているくらい嬉しい褒め言葉であった。
その女の子は非常に賢い子で(勉強での話ではなく、精神年齢が高いということだ)、私がその子との雑談で「子供相手に教える時には子供に分かる言葉を使わないといけないから、それが難しい」と言ったところ、「先生が難しい言葉を使ってくれないと、私たちは言葉を覚えられないじゃない」と答えたのだが、これはまさしく「目から鱗」であった。彼女は私に、国語教師として心得るべき非常に大事なことを教えてくれたと思う。つまり、この時、この女の子は私の先生であったわけだ。
子供の中にも大人がいるし、大人の中にも子供がいる。年齢だけで人を区別するのは愚かしいことだ。また社会的身分が人間の品性とは反比例していることが多いということはこれまで何度か書いてきた。それは、職業的能力とは別の、立身出世の能力という卑しい技術によって社会や組織の上位に上る例が非常に多いからだ。その一方、無名の庶民には人格高潔で善意に満ちた人間も多いのである。そういう人間が真の意味で「上品な人間」だと私は思うし、自分もそうなりたいと思う。まあ、それが無理なら、せめて外面だけでも上品でありたいものだ。もちろん、それはファッションなどとはまったく無関係な話であり、下に書かれたような「言葉」や、物事に処する「態度」のことである。
(以下引用)
また、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』(初稿は1924年頃)で、ジョバンニとカムパネルラが乗る車両に後から乗ってきた、かおる(かおる子ともあった)という名の12歳くらいの女の子の言葉遣いが、やはりとてもきれいだった。
彼女の一番最初の言葉は、
「あら、ここどこでしょう。まあ、きれいだわ」
だった。
そして、小さな弟に、
「お父さんやきくよねえさんはまだいろいろお仕事があるのです。けれどももうすぐあとからいらっしゃいます」
と、とても丁寧な言葉で言う。
そして、沢山の鳥の群を見た時は、感激し、美しい頬を輝かせながら、
「まあ、この鳥、たくさんですわねえ、あらまあそらのきれいなこと」
と言う。
読んでいて、私はすっかり、心が清々しくなった。
いくら若くて姿もきれいな女の子でも、品のない汚い言葉を使うのを聞くと、まともな人間なら、彼女を見るのも嫌になるはずだ。
だが、そんな子達がとても多いように思うのだ。
彼女達が素晴らしい人に好意を持たれることは決して無いし、近寄ってくるのは、その言葉遣いに相応しい、卑しく下劣な者ばかりである。
実際、人は、口から出るものに相応の相手を引き寄せる。
なぜなら、人は、自分が発した言葉によって汚れるからだ。
イエス・キリストも言ったのだ。
「人は、口から入るもので汚れたりしない。口から出るもので汚れるのだ」
と。
貧しいものを食べてたって、心まで貧しくなったりはしない。
だが、劣悪な言葉、卑しい言葉、品のない言葉は、確実に心も身体も汚すのである。
そして、いつも美しい言葉を使う人は、身も心も美しい。
なぜなら、美しい言葉は美しい心から出てくるし、美しい心は、澄んだ魂から出てくる。
つまり、言葉は魂の孫のようなものだ。
だから、美しい言葉をいつでも使う人は、魂の純粋さを現しているのであり、言葉が汚い者は、魂が汚れているのである。
これは、単純で確実な真理であり、決して例外はない。
そして、美しい言葉を使うためには、心持ちをきれいに、大きくするよう心がけるしかないようである。
(2月22日追記)「独りファシズム」から転載。言葉は自己の思索のための道具であり、また他者との交流のための手段である。他者への共感能力の無い人間は言葉も粗雑(美辞麗句をまぶした空虚な言葉もまた粗雑な言葉なのである)であるはずだ。その点で下記の言葉に少し異論はあるが、「人も社会もまず言葉から狂う」というのはまさに至言だろう。
我々は公共教育のスコアリング点数化によって知性を裁定されてきたのだけれど、
つまるところ人間の最も高度な精神とは、言語運用能力や数理的直観力ではなく、
ましてや機械的な記憶力などでもなく、
他者の痛みへの共感能力なのであり、人権や生命を慮る洞察の領域にあるのだと思う。
ジョージ・オーウェルはイギリス統治下におけるインド帝国の禁圧に着想を得て「1984」
を上梓したのだが、すでに社会構造とはそれに準拠するディストピア
ユートピア(理想郷)の正反対の社会なのであり、
「人も社会もまず言葉から狂う」という至言にその兆候を見出すのであり、
我々が帰属する暗黒の体系は、人間性の退行によって支配が達成される
というオーウェルの預言を体現することになるのだろう。
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