「井口和基のブログ」から転載。
私のブログも、このところいつもいつも社会悪への怒りや批判の内容が多かったので、今日は気分直しに精神浄化(などと言うと宗教系の話かと思われそうだが、私は宗教は概して嫌いである。と言うより、今のキリスト教はキリストの精神や思想を失っているし、仏教は釈迦の精神を失っている、新興宗教のほとんどは教祖の金儲けと権力獲得の手段でしかないと思っている)の内容の記事を引用する。
私は闘争や競争というものが大嫌いである。だからスポーツも嫌いだ。ゲームも、相手があるゲームは好まない。つまり、それらのすべてにおいて「勝利は必然的に敗者を作りだす」からである。私は、自分が勝っても嬉しくない。それで負ける人間の気持ちが分かるからだ。自分の勝利も誇る気にはなれない。そのほとんどは偶然によるものだからだ。
だから、勝敗によって報酬配分を変え、人間を序列化していくという資本主義のシステムも好まない。
競争によって社会は発展するというのは確かだろう。競争が無ければ、努力する人間はいなくなる、というのもある程度は正しいだろう。
しかし、人間の人間的活動(創造的活動)の原動力は、実は競争ではない。それはその活動そのものの与える喜びや快感にあるのである。
人間は動物的な闘争の社会から脱出し、闘争をやめて互いに協力しあうことで、人間の文明を作りだした。その動物的闘争がまだ残っているのが、経済的闘争のシステム、つまり資本主義のシステムであり、これは人間が克服すべき最後の野獣性だというのが私の考えなのである。
(以下引用)
生物のすべてが本能的にあらかじめデザインされた役割を果たす限り、
宇宙は生きるものすべての面倒を見ている。
魚は海に遊泳料を支払う必要はない。
人間も成功するようにデザインされているはずだ。
−− R. B. フラー
みなさん、こんにちは。
こういうゴールデンウィークの時期こそ、この宇宙と一体となり、この宇宙の声に耳を傾けてみる。あるいは、いつもは嘘だデマだ眉唾だ、トンデモねえものだ、といって簡単に片付けていることを自分なりに調べてみる。こういうのを本当の命の洗濯、魂の浄化というと私は考えている。
かの20世紀の超人といわれた建築家のバックミンスター・フラーは、1920年代のアメリカの大不況の時代に、事業が倒産。ほぼ自殺しかないところまで追いつめられたという。しかし、彼は「なぜ自分が自殺に追い込まれることになったのか」自問自答の日々を送ったという。
その結果、「自分には金はない。学歴もない。身体も小男。財産も失ってしまった。今できることは考えることだけだ。この世界を感じ取ることだけだ」、「考えることはただで出来る」と認識し、毎日「考えること」に集中したという。
そこから「宇宙はそもそもこの宇宙にあるものすべてを育むことにその目的がある」、「この宇宙自体に背かない限り、自分自身の人間としての存在そのものに意義があり、かならず成功するように宇宙は成り立っている」。
ところが、「これまで自分個人の成功だけを望み、家族の成功を望む」そんなことばかりを願って生きて来た。つまり、「エゴのために生きて来た」。その結果が「このざまだ」。そして、「このエゴを貫く為に自殺しよう」としたと理解したという。だから、これからは「自分のエゴのために自分の身を滅ばす(自殺する)」のではなく、「エゴを殺して利他的に生きよう」、「自殺する」のではなく「自らのエゴを殺そう」と考え方を変え、それに応じた行動をとるようにしたという。
こうして行くうちに、「ダイマキシオン・ハウス」、「ダイマキシオン・カー」、「宇宙船地球号」、「フラードーム(ジオデシック・ドーム)」、「トラス構造」、「テンセグリティー構造」、「シナジー」、「インテグリティー」、「シナジェティクス」、「プリセッション」などなどのさまざまな概念を創始することが出来、いつしか「20世紀最大の建築家」とまで呼ばれることになったのである。
このすべての始まりが「エゴを殺して生きる」というところから始まったのである。是非フラーの「クリティカル・パス」
や「バックミンスター・フラーの世界」
を読んでもらいたいものである。
私のブログも、このところいつもいつも社会悪への怒りや批判の内容が多かったので、今日は気分直しに精神浄化(などと言うと宗教系の話かと思われそうだが、私は宗教は概して嫌いである。と言うより、今のキリスト教はキリストの精神や思想を失っているし、仏教は釈迦の精神を失っている、新興宗教のほとんどは教祖の金儲けと権力獲得の手段でしかないと思っている)の内容の記事を引用する。
私は闘争や競争というものが大嫌いである。だからスポーツも嫌いだ。ゲームも、相手があるゲームは好まない。つまり、それらのすべてにおいて「勝利は必然的に敗者を作りだす」からである。私は、自分が勝っても嬉しくない。それで負ける人間の気持ちが分かるからだ。自分の勝利も誇る気にはなれない。そのほとんどは偶然によるものだからだ。
だから、勝敗によって報酬配分を変え、人間を序列化していくという資本主義のシステムも好まない。
競争によって社会は発展するというのは確かだろう。競争が無ければ、努力する人間はいなくなる、というのもある程度は正しいだろう。
しかし、人間の人間的活動(創造的活動)の原動力は、実は競争ではない。それはその活動そのものの与える喜びや快感にあるのである。
人間は動物的な闘争の社会から脱出し、闘争をやめて互いに協力しあうことで、人間の文明を作りだした。その動物的闘争がまだ残っているのが、経済的闘争のシステム、つまり資本主義のシステムであり、これは人間が克服すべき最後の野獣性だというのが私の考えなのである。
(以下引用)
生物のすべてが本能的にあらかじめデザインされた役割を果たす限り、
宇宙は生きるものすべての面倒を見ている。
魚は海に遊泳料を支払う必要はない。
人間も成功するようにデザインされているはずだ。
−− R. B. フラー
みなさん、こんにちは。
こういうゴールデンウィークの時期こそ、この宇宙と一体となり、この宇宙の声に耳を傾けてみる。あるいは、いつもは嘘だデマだ眉唾だ、トンデモねえものだ、といって簡単に片付けていることを自分なりに調べてみる。こういうのを本当の命の洗濯、魂の浄化というと私は考えている。
かの20世紀の超人といわれた建築家のバックミンスター・フラーは、1920年代のアメリカの大不況の時代に、事業が倒産。ほぼ自殺しかないところまで追いつめられたという。しかし、彼は「なぜ自分が自殺に追い込まれることになったのか」自問自答の日々を送ったという。
その結果、「自分には金はない。学歴もない。身体も小男。財産も失ってしまった。今できることは考えることだけだ。この世界を感じ取ることだけだ」、「考えることはただで出来る」と認識し、毎日「考えること」に集中したという。
そこから「宇宙はそもそもこの宇宙にあるものすべてを育むことにその目的がある」、「この宇宙自体に背かない限り、自分自身の人間としての存在そのものに意義があり、かならず成功するように宇宙は成り立っている」。
ところが、「これまで自分個人の成功だけを望み、家族の成功を望む」そんなことばかりを願って生きて来た。つまり、「エゴのために生きて来た」。その結果が「このざまだ」。そして、「このエゴを貫く為に自殺しよう」としたと理解したという。だから、これからは「自分のエゴのために自分の身を滅ばす(自殺する)」のではなく、「エゴを殺して利他的に生きよう」、「自殺する」のではなく「自らのエゴを殺そう」と考え方を変え、それに応じた行動をとるようにしたという。
こうして行くうちに、「ダイマキシオン・ハウス」、「ダイマキシオン・カー」、「宇宙船地球号」、「フラードーム(ジオデシック・ドーム)」、「トラス構造」、「テンセグリティー構造」、「シナジー」、「インテグリティー」、「シナジェティクス」、「プリセッション」などなどのさまざまな概念を創始することが出来、いつしか「20世紀最大の建築家」とまで呼ばれることになったのである。
このすべての始まりが「エゴを殺して生きる」というところから始まったのである。是非フラーの「クリティカル・パス」
や「バックミンスター・フラーの世界」
を読んでもらいたいものである。
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