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「非武装独立論」について その2

「非武装独立論」への批判、あるいは疑問としての、次の指摘について考えてみる。


① 自らは非武装でも、占領されたために軍事拠点にされてしまったら、結局戦禍を避けられない
② 非武装で占領者を退ける方法を示さないと説得力が無い


一見、この疑問(批判)はもっともに見える。だが、この疑問はもともと(このままの形では)回答不可能なものだ。すなわち、①は当然至極の(とりあえず、そう見える)ことであり、また②の「非武装で占領者を退ける方法」など存在しないのである。であるから、この疑問は「非武装独立は不可能だ」という帰結にしか導かない。この問題をそのままの形で考えるのは、相手側(武装論者。ただし、この「反戦な家づくり」記事中で①②の疑問を提起した読者の方自身がそうだと言うのではない。むしろ反対だろう。だが、これは武装論者のよく使う論理だと思うので、そう言っておく。)の土俵で戦うようなものだ。
では、どういう問題の立て方が必要か、と言えば、

1)自ら銃を手にして戦うのと、軍事拠点の住民であることとは話が別だ。
つまり、軍事拠点の住民であるだけなら、自分自身の意志でかなり自由に逃げられるだろう。実際、沖縄戦でそれで逃げ延びた沖縄住民も多数いる。その一方、兵士が「敵前逃亡」することは、普通は死刑に相当する。これが「非武装」を選ぶ理由にならないか。つまり、①の設問は、「非武装」と、「非武装地域の住民」との混同がある。国際法では、むしろ「非武装都市」への攻撃は禁じられているのではないか。そういう法があるかどうか、また有効かどうかはともかく、国際世論は、そうした攻撃を非難するだろう。また、いったん戦争になれば「戦禍は避けられない」のであり、その際に非武装であったかどうかは意味がないのであって、問題は「戦争になるかどうか」である。少なくとも、「非武装だから戦争になる(必ず侵略される)」という断定はできないだろう。侵略されるには、されるだけの理由があるはずだ。では、それは何か。日本は、どこの国から、どういう理由で侵略されるのか。
要するに、①は、すでに戦争になった状態を前提にして話をしており、その際、「戦禍がある」のは当然の話なのであって、それは非武装かどうかとは無関係な話だ、と私は思う。別の言い方をすれば、「軍事拠点」にされた段階で、それは「武装」状態なのである。従って、これはむしろ「武装していることが、戦禍の原因となっている」ことに他ならない。それが自軍だろうと侵略軍だろうと、戦禍を受ける住民にとっては同じことだ。これは、沖縄戦を歴史として持っている沖縄の人間にとっては自明だろう。


(書いている私自身、前後撞着があるような気がするが、今は思いつくままに書いていく。おそらく、明日もこの続きになるだろう。)




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