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「戦争への傾斜と思想弾圧」の先例


「徽宗皇帝のブログ」で少し触れた「我が青春に悔いなし」のモデルとなった「京大(滝川)事件」について書かれた記事を引用しておく。
なお、「京大事件」はこのほかにも幾つかあるが、この滝川事件がもっとも有名であるようだ。




(以下引用)

京大(滝川)事件


 


日本が国際連盟を脱退した1933(昭和8)年に京都大学で起きた学問の自由および思想弾圧事件。


 


ことの発端は、のちに天皇機関説問題で美濃部達吉を攻撃する貴族院の菊池武夫議員が貴族院で、京大法学部の刑法学者滝川幸辰(ゆきとき)教授のトルストイの『復活』に現はれた刑罰思想」と題する講演内容(犯人に対して報復的態度で臨む前に犯罪の原因を検討すべき)という意味)を「赤化教授」「マルクス主義的」と攻撃したことにはじまる(「自由主義は共産主義の温床」との思想をその背景にあった)


 


これを受けて当時の鳩山一郎文相(戦後公職追放されるが、その後解除され、1954年に首相となる)は、滝川教授の著書『刑法読本』を危険思想として批判、大学の最高法規「大学令」に規定した「国家思想の涵養」義務に反すると非難した。1933年4月10日には、内務省が滝川教授の著書『刑法読本』と『刑法講義』を発売禁止処分とし、同年4月22日には、文部省は小西重直京大総長に滝川教授の辞職を要求する。


 



 


これに対し京大法学部では学問の自由・思想信条の自由(基本的人権)の侵害であるとして抗議するが、文部省は同年5月26日、京大法学部の意見を無視、滝川教授の休職処分を強行する。


 


当時、治安維持法を基礎法とする権力による苛酷な弾圧体制が確立され、その体制下で権力は、容赦ない取り締まりと厳しい反共宣伝を、あらゆるメディアを媒介に行っていたが、そうした状況下の京大では、宮本英雄法学部長・佐々木惣一・末川博両教授を筆頭に15人の教授の内8人の教授と、18人の助教授内13人が文部省に抗議の意思を貫き、「死して生きる途」(恒藤恭教授の言)を選び辞任し、一部の京大法学部の学生は、教授を支援する戦いを展開した。だが、京大の他学部教官をはじめ全国の大学の教員や学生は、権力の強権政治の前に屈伏して沈黙を守った。もっとも、東大の美濃部逹吉・横田喜三郎両教授らごく少数の教授は、京大法学部教官支持の論陣をはった。しかし東大法学部としてはなんの態度表明も行わなかった(敗戦後、東大総長に就任し、講和条約締結に際して全面講和論を展開して、当時の吉田首相から「曲学阿世(きょくがくあせい=真理にそむいて時代の好みにおもねり、世間の人に気に入られるような説を唱えること)の徒」と批判された南原繁博士は、このことを「終生遺憾」とした)。そのため全国的運動に発展せず、京大事件は教授辞職で終結をむかえることとなった(なお、滝川教授は36年弁護士を開業)


 


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京大法学部15人の教授による1933年5月15日付け連袂(べい)辞職申し合わせ状


 



辞表を出した京大教授15人


(写真はいずれも『昭和―2万日の記録③-非常時日本』講談社(1990.1)より


 


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さて、戦後教育界の民主化政策の下での1945(昭和20)年11月19日、京都大学法学部は、全学生を法経第1教室に集め、「京大(滝川)事件」に関して、黒田法学部長が、時の鳩山文相が、京大法学部教授会の意向を無視、さらに小西総長の文部省に対する教授辞職の具申もないままに、法学部の滝川幸辰教授に辞職を迫った(形の上では休職処分)ため、ついに時の京大法学部全教授も辞表提出を見るにいたったという全貌を説明するとともに、学内自治による清新な京大再建の方針を明らかにし、すでに定年年令をすぎていたため、名誉教授として復帰の佐々木愡一教授と南方にいる宮本英雄教授を除く滝川幸辰(後京大総長に就任)、恒藤恭、田村徳治教授と立命館大学の学長に就任していた末川博教授に対して、直ちに大学への復帰を懇請した(また、同月21日には九州帝大法学部教授会が、向坂逸郎、石浜知行、高橋正雄、佐々弘雄、今中次麿教授ら5人の復職を、東北帝大は服部英太郎と宇野弘蔵両教授の、23日東京産業大学〔後の一橋大学〕は大塚金之助教授の復帰をそれぞれ決定した)


 


ただ京大(滝川)事件の真相に関しては、たとえば、その真相にせまる一つの資料である滝川教授の処分を決定した「文官高等分限委員会」の議事録が、国立公文書館に保管されているが、政府はその公表を、事件からすでに70年近くが経過しているにもかかわらず、拒否し続けている。それはそこに、これまでの研究で明らかになったものとは異なる事実が記載されており、今日においても、権力を維持してきた一定の勢力にとって問題になるほどに重要な内容を含んでいるとしか思えない措置である。それにしても、国民としての知る権利が、政府によって閉ざされている現実は、戦後半世紀しか経過していない日本における民主主義の歴史の軽さと、その成熟度の程度を見せつけている。


 


京大事件の結末そのものは、強大な天皇制国家権力の前に敗北という形で終結したが、京大教授や学生のかかる権力に対して行った教授支援運動が、敗戦後、誤った歴史とそれに抗して運動を学ぶ契機となり、それが学問の自由と大学の自治法理確立の礎になった。


 


憲法第23条が保障する学問自由の原理と、教育公務員特例法第4条~第12条が明記する採用、昇任、転任、降任、免職、休職、懲戒、勤務評定等々関しては、大学の管理機関の審査が必要としたことに代表されるような大学自治の原理は、歴史的には、京大事件の顛末がその起源といえる。


 


  


1945年1日付『京都新聞』(pdf)1945年11月日付『京都新聞』(pdf)1945年11月4日付『京都新聞』(pdf)


 

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