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村上春樹作品における「女性のモノ化」

哲学・社会学好きであるらしい在日米国人のブログ記事の一部で、村上春樹の作品の或る一面をなかなか鋭く見ているように思うので、転載する。私は「小説の上手さ」という点で村上春樹の一部の作品を高く評価しているが、作家として好きかどうかと言えば、あまり好きではない。何か「小ズルい」感じがあるのである。まあ、人間性と作家能力は別な問題で、小説家としての能力が高ければ、小説家はそれでいいわけだが。
村上春樹が売れてきたころ、女性作家たちの対談(「男流文学論」だったか)で彼が論じられたことがあり、メタメタにけなされていたのだが、その理由は彼のこの「女性への視線」が賢明な女性読者には分かっていたためかもしれない。もっとも、彼の作品を愛読する女性も多いからこそ世界的な人気作家になったのだろうが、愛読者の主流は男性だろう。
言うまでもなく、「女性のモノ化」はほとんどの男性の視線の中に、無意識的意識的な思考の中にある。それは「女性崇拝」の一面でもあるわけだ。たとえば、武者小路実篤の「友情」などは、それをかなり早くに描いた作品だが、多くの読者は「友情」という題名に迷わされて、そこにある「女性のモノ化」問題を見過ごしていたのではないか。
これも言うまでもないが、少女漫画や女性漫画は「男性のモノ化」の花園である。芸能界など、モノ化された人間の博覧会だ。
うっかり「性的モノ化」を単に「モノ化」と書いたが、人間が人間をモノ扱いするのは社会で普通に見られる現象であり、それが「性的」であるのは「モノ化」現象のひとつにすぎない。ちなみに、化粧やファッションに気を使うのは自分で自分自身を「性的モノ化」しているわけだが、バルザックは「身なりに気を使わないのは社会的自殺である」と言っている。実際、私が今住んでいる田舎町には昼間から酒を飲んでふらふら歩いている浮浪者風の男が何人もいるが、その身なりの汚さは、確かに「社会的自殺」だなあ、と思う。まあ、私も身なりに気を使わない半世捨て人だが。

(以下引用)


 先日に友人とやったラジオで「性的モノ化」に関することを口にしたけれど、自分で言っていてこの言葉についてきちんと理解していないことに気が付いたので、ちょっと調べてメモをまとめることにした。


 


 まず、江口先生の現代ビジネスの記事。


 


gendai.ismedia.jp


 


女性を「性的対象物」として描くこと、あるいは「性的モノ化」「性的客体化」などと訳されている言葉と概念は、フェミニズム思想の最重要キーワードの一つだ。


この言葉は英語では”sexual objectification” であり、男性が支配的な社会においては、女性たちが性的な「オブジェクト」、すなわち単なる物体(モノ)として扱われているということを指す。現代社会においては、男性は「能動的な主体」であるのに対し、女性は「受動的(受け身)な客体」であり、眺められ触れられるモノとされている、という発想である。

 

この「性的モノ化」という概念は、性表現や性暴力の問題を論じる文脈で頻繁に使われてきたものの、そのままではぼんやりした概念である。


2016年に京都賞を受賞した哲学者のマーサ・ヌスバウム氏の代表的な業績の一つに、この「性的モノ化」という概念を分析した論文がある。彼女によれば、「性的モノ化」という概念は、実は複数の要素を複合したものだ。


 


 


 複数の要素の内訳は、下記のようになっているらしい。


 


(1)他人を道具・手段として使用する


-これは(2)〜(9)の大前提となっている。また、ここでいう「手段として使用する」の意味合いは、カントの定言命法に基づいている(はず)。


 


(2) 自己決定を尊重しない


(3) 主体性・能動性を認めず常に受け身の存在とみなす


(4)他と置き換え可能なものとみる


(5)壊したり侵入したりしてもよいものとみなす


(6)誰かの「所有物」であり売買可能なものであると考える


(7)当人の感情などを尊重しない


(8)女性をその身体やルックスに還元してしまう


(9)胸や腰や脚などの特に性的な部分やパーツに分けて、その部分を鑑賞する


 


 友人との会話のなかではわたしは「村上春樹の作品では女性がモノ扱いされている」と語ったのだが、そこで言おうとしていたことは、(1)と(2)と(4)と(8)と(9)が混ざりあったものだ。


 たとえば、春樹の作品では女性の登場人物について主人公が「女とはこういうものだ」とか「こういうタイプの女なのだからこうなのだ」とカテゴリにくくって判断することが多い。これは(2)と(4)に関連しているように思える。また、女性の人物のルックスや身体的特徴、あるいは話し方や表情や仕草などが、その人物の人格やアイデンティティと結び付けられて表現されることは、やはり多いような気がするので、(8)と(9)もある。


 そして重要なのは、春樹の作品では、男性の登場人物は基本的にこのように扱われたり表現されたりすることがないということだ。春樹は、男性キャラクターはそれぞれの人格を持った個別の存在として描いている。それに比べて、女性キャラクターの描き方はカテゴリやステレオタイプを前提としたものになっている。つまり根本的には、女性を理性的な存在と見なしたうえでその人格を目的として尊重することを、春樹はおこなっていないのだ。だから(1)も当てはまる。


 カテゴリに収めて判断したりステレオタイプに基づいて判断したりすることもある種の「モノ化(客体化)」である、とわたしは思う。すくなくとも、相手に対して「女だからこうなんだ」と判断することが相手の理性的人格を尊重した行為であるとは思えない(……とはいえ、だいたいの場合においてステレオタイプは事実をおおむね正確に反映している、と議論することも可能であったりするのだが)。


 


 ラジオでわたしは「男性はみんな多かれ少なかれ女性をモノ扱いしている」と主張したうえで、男性による女性に対する性的モノ化やその「嫌さ」を見事に表現しているところが『女のいない男たち』の優れた点である、と語った。


 とはいえ、友人からも指摘があったように、「じゃあ男性はほかの男性のことはモノ扱いしてないのか」ということにもなるし、「女性は男性のことをモノ扱いしていないのか」ということにもなるだろう。


 たしかに、「性的モノ化」の解釈を拡大すればみんながみんなをモノ扱いしていると言うことができるだろうが、そうするとモノ化の何が悪いのかわからなくなる。


 モノ化は程度の問題であり、そして男性からの女性に対するモノ化は程度がひどいので悪い、ということもできるかもしれないが、そうするとなにか重要なものを掴みそこねる気もする。男性→女性のモノ化は、男性→男性や女性→男性に比べてなにか異質さがあるような気もするからだ。

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人間が「恩知らずな動物だ」という定義

「死の家の記録」は、読み終わるのが勿体ないので気の向いた時に少しづつ読んでいるが、その間、他の小説や随筆などをあれこれ読んでいる。まあ、推理小説の類は面白くても「身にならない」、お菓子のようなものだが、古典的名作で読んでいなかったものの中には感心するものもある。前にも書いたが、純文学とは、「それを読むことで自分が少し成長する」ものだ、というのが私の定義なので、大衆小説の中にも純文学はあり、純文学の中にも菓子以下のものもたくさんある。なお、「成長する」とは、精神の幅が広がり深化するという意味だが、必ずしも健全なものだけではない。たとえばマルキ・ド・サドの作品を読めば精神の幅は広がるが、それが当人にとって好ましいかどうかは分からないわけだ。
で、私が人生で一番最初に精神的に震撼させられたのが「地下室の手記」(あるいは「地下生活者の手記」)なのだが、それを読んだのが高校時代くらいだったので、今読むとどんなものか、と思って、さる所から入手したそれを今読みかけている。
まあ、ほとんど忘れていた内容ではあるが、最初に読んだ時にも理解できず、今読んでも疑問に思ったのが、「自分が人間を定義するなら、『恩知らずの動物』である」という、「人間の定義」である。最初に読んだ訳者のものも新しい訳者のものも、この「恩知らずの動物」というのは同じ言葉である。つまり、ロシア語の原文がそれに近い言葉なのだろう。
いったい、「恩知らず」という言葉が、人間を定義する言葉としてふさわしいだろうか。そりゃあ、恩知らずな人間はたくさんいるだろうが、人間全体が恩知らずとはどういうことか。
それを考えて、やっとその「恩知らず」とは「誰の恩」なのか、ということに思い当たった。人間全体が恩を受けているとしたら、それは「創造主」しかないだろう。つまり、これはキリスト教が前提になっての言葉だったわけだ。しかし、その前後に宗教的な内容がまったく書かれていなかった(その前後の文脈で言えば「天邪鬼な動物」が適切な印象だ。ロシア語に「天邪鬼」に相当する言葉があるかどうか知らないが、この「地下室の住人」の性格そのものがまさに「天邪鬼」なのである。)ので、私はこれが宗教が前提の言葉だと気付かなかったわけである。
まあ、読書とはこういうものだ、という事例である。
なお、この地下生活者が終始攻撃しているのが「合理性」である。「人間が22が4で行動するなら、ピアノと何が違う」というわけである。ドの鍵盤を叩けばドの音が出るのが人間か、ということだ。つまり、合理性だけが行動を決定するなら、そこに本当の「自由意志」など無い、ということだろう。

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「ガチョーン」の考察

前に書きかけて、パソコンのキーボードのどこかに触って記事が全部消えたので書くのをやめたテーマだが、今ふと思い出したので、書いてみる。
それは「ガチョーンの研究」という深遠なテーマだが、まあ、ほとんどの人には無意味なものだろう。別に意味があるから考察するのではなく、考えるのが面白いから考察するだけである。
言うまでもなく、谷啓の「ガチョーン」もしくは「ガッチョーン」である。何かに驚いたときに「ガチョーン」と言い、妙な動作も伴った記憶がある。
当然、これは何かが壊れた際の擬声語の「ガチャン」もしくは「ガッチャーン」から来ていると思うが、それが「ガチョーン」となると、なぜあの「間抜け感」が出るのか、という話だ。
その前に、物が壊れる際の擬声語が、なぜ、「驚き」の言葉に転化するかと言えば、当然、突然「ガチャン」という破壊音を聞けば驚くからである。しかし、破壊の音を「驚きの表現」に転化したところが谷啓の天才性だろう。「破壊→驚き」であって「破壊=驚き」ではないからだ。その証拠に、何かに驚いて、驚いた者が「ガチャン」と言うと、誰でも「こいつは馬鹿か」と思うだろう。驚きの際に上げる言葉は「ウワッ」とか「キャッ」とか「ウゲッ」とか「ウワアア」だろう。そこで「ガチャン」という声を上げる人間は普通いない。そこで、この「ガチョーン」は、単なる驚きではなく、おそらく「驚いた自分を冷静に眺めるもうひとりの自分」が存在していることを示す働きがある、と私は推測する。つまり、メタ視点である。そこで、この「ガチョーン」を聞く人は、「これは笑っていい状況なのだ」と潜在的に認識するのではないか。 (付け加えれば、これは「驚いた人間(谷啓)」の精神が瞬間的に軽く壊れた、という「破壊音」でもある。それを当人が口で言うからメタ的になって面白いのである。)
で、「ガチャン」と「ガチョーン」の音の違いだが「チャ」という「A音音韻」が「チョ」という「O音音韻」になることと、「チョ」が長音になって「チョー」となる、という2点が違う。その効果は、「あ」という切迫した驚きが「お」という「感心」の感情を含む「余裕のある驚き」に変化する。そして、長音の間延びが、そのまま「間抜け感」になるわけである。
以上が、なぜ「ガチョーン」には間抜け感があるか、ということの音韻的・心理的考察である。

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笑いと愛と倫理

漱石の「三四郎」の中に、イギリスの小説の中に出て来る「pity akins to love」という言葉をどう訳するかについて議論する場面があるが、お調子者の与次郎(という名前だったか)はこれを「可哀そうだた惚れたってことよ」と訳して先生に「いかんいかん、下劣の極みだ」と怒られる。
なかなかの名訳だと思うが、元の文を直訳したら「憐憫は愛に類縁のものである」となるだろうか。で、問題は英語のloveという言葉には性愛から家族愛から大衆への愛、つまり人類愛まで広くあるということだ。そこを「惚れた」という性愛に限定したのが先生に怒られた理由だろう。(ここで言う「性愛」は「異性愛」のことで恋愛の意味である。別にセックスに限定してはいない。)
話は変わるが、漱石が一番好きなイギリスの小説はスイフトの「ガリバー旅行記」だとインタビューで答えており、「スイフトは名文家だ」と言っている。面白いことに、サマセット・モームもまったく同じことを言っているのである。確かモームは小説の文章の練習に「ガリバー旅行記」をノートに書き写す修行もしたと記憶する。まさかモームが漱石のこの発言を知っていたわけではないだろうから、偶然の暗合だろう。
そのスイフトと漱石は人間として似たところがありそうだ。どちらも「人間の卑劣さ、醜さ」を痛烈に感じる傾向があったところである。それを作品の中で峻烈に描けば「ガリバー旅行記」になり、穏やかに書けば「吾輩は猫である」になるわけだ。どちらも人間の「ありがちな性質」が笑いの対象になるが、スイフトのものは、書いている本人はニコリともせずに書いている印象だ。
「温かい笑い」と「冷たい笑い」というものがあり、それは作中の人物への愛情の有無によるのではないか、と思う。漱石にはまだ愛情があるわけだ。ドストエフスキーやプーシキンのユーモアにも私は温かい愛情を感じる。一方、たとえばチェーホフにはそれを感じないのである。人間の卑小さや失敗を「冷たく観察して」見事にレポートした印象だ。それが私にとっては彼の作品の「読後感の悪さ」になる。もっとも、筒井康隆的な笑いはどうなるのか、と言えば、あれは神経痙攣的というか「発作的な笑い」を生むものではないだろうか。
要するに、笑いにもいろいろある。私は今のテレビはほとんど見ていないが、テレビの笑いはどうだろうか。
話の枕にしたエピソードはどういう意図かと言うと、漱石の「倫理性」「潔癖症」が、あの「いかんいかん、下劣の極みだ」に出ているのではないか、ということだ。スイフトも同じだが、あまりに高い倫理基準を持つ者は、社会になかなか同化できないのである。


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政界「仁義なき戦い」

前回の記事の続きだが、「仁義なき戦い」を見ていて、そこに描かれた人物の「精神的美醜」がはっきりふたつに分かれていて、その違いは「自己保身(自分の利益)が最大の目的である」か「自分の理念や理想、自分の信じる美徳(それが愚劣であっても)に忠実である」かの違いではないか、と考えてみた。
前者の代表が山守組組長であることは言うまでもない。後者の代表が菅原文太演じる広能昌三(字はこんなだったか)であることも言うまでもない。後の人物はそれぞれ「エゴイスト(現実主義者。打算のみの人間)」と「自分のルールを持つ人間(一種の理想主義者)」の間の濃淡の違いはあれ、両方の性質を持つ。梅宮辰夫が演じた若杉は昌三に近い。松方弘樹が演じた役は山守組長に近い。で、繰り返すが、理想主義者は美しく、現実主義者は醜いのである。もちろん、社会的な成功という面では現実主義者は成功し、理想主義者は敗北する。基本的に前者は合理主義者で、後者は「頭で考えるのではなく感情で(行動の美醜という判断、あるいは理想への殉教として)動く」のである。
これで、維新の党だか維新の会だかの連中の醜さがよく分かるのではないか。あの中には理想主義者がひとりもいない。我欲がすべてである。いつでも他人を裏切る顔だ。みんな醜い顔をしている。まさに、山守組長的な連中である。(ただし、映画では役者はそれを演じているのであり、組長を演じた俳優は最高の名演である。)
一方、れいわ新選組の人々、特に山本太郎が理想主義者であることは言うまでもない。顔も何だかキリストに似ている気がするwww

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「災厄の町」の推理

私は幾つかの本を並行して読む習慣だが、今読んでいるひとつにエラリー・クイーンの「災厄の町」がある。おそらく、下に書いてある「後期クイーン(的)問題」の事例になる作品だと思うが、前半は実に退屈(事件が起こるまでが長い)だが、終盤はなかなか面白い。で、もう8割くらい(390ページ中329ページまで)読んだのだが、事件の真相も真犯人もまだ私には分からない。まあ、あまり考えてもいなかったので、後で推理(妄想)してみる。
ちなみに、私はエラリー・クイーンファンではなく、「Yの悲劇」は大傑作だと思うが、「国名シリーズ」の多くは「トリックのためのトリック」、つまり、無理なトリックが多いと感じるし、描写も雑に思える。そもそもエラリー・クイーンという主人公に私はまったく魅力を感じない。アメリカ的な主人公というのは推理小説になじまない気がする。つまり、考えるより行動しろ、という脳筋がアメリカ人ではないかwww
警察にしても、相手が黒人などならまず犯人(らしき人物)を射殺してから「証拠」らしきもの(射殺の言い訳)を探すか捏造するのではないかwww

なお、単なる娯楽小説でも、時々思わぬ知識が得られて知的利益になる。
この「災厄の町」だと、

・「アメリカンビューティ」は薔薇の品種であること。(映画の「アメリカンビューティ」の中に、女の子が薔薇の花びらをたくさん浮かべたバスタブに入る場面があったと思うが、それと関係があるか。)

・「ローマンホリディ」には「他人の苦しみを見てよろこぶ娯楽」の意味があること。(古代ローマの市民が剣闘士の生死の戦いの観戦を娯楽とした習慣からだろう。映画「ローマの休日」で、マスコミが王族のスキャンダルを追っかけて報道するのも、そのひとつだ。)

など、「どうでもいいような知識」ではあるが、自分でも気づかなかった自分の頭の中のブラックボックスが解消されるのは快感である。
ついでに、引用部分の後に、現段階での私の推理をメモしておく。これは自分自身の楽しみのためである。まあ、競馬の予想を楽しむようなものだ。

(以下引用)



芸術、文学、哲学・6,907閲覧・25


ベストアンサー


このベストアンサーは投票で選ばれました



kos********




2008/4/1 3:27(編集あり)








(以上引用)


真犯人はノーマ(ライト家の次女で、ここまで完璧に「真犯人」としか思えないように描写されているジム・ハイトの妻で、毒殺未遂事件の「被害者」)。
犯行目的は、ジムを死刑か重刑にすること。その動機は、ジムへの「復讐」で、そのために、一度は彼女を捨てたジムを快く迎え入れ、結婚して周囲には良妻ぶりを見せていた。もうひとつの目的、あるいは主目的は、「誤って殺された」とほとんど全員が見做しているジムの「妹」の殺害。この「妹」ローズマリーは、おそらく実際はジムの愛人で、ジムが過去にノーマを捨てた原因のひとつだろう。なお、ジムがしばしば言う「あの女、やっつけてやる」の「あの女」はノーマではなくローズマリーだと思う。喧嘩別れした後も、しつこくジムを追っかけているのだろう。カネもせびっていたのではないか。ジムの恒常的金欠の原因でもあるわけだ。)
犯行のトリックは、泥酔したローズマリーが手にするカクテルのグラスと自分の毒入りグラスをすり替える機会を伺っていたら、ローズマリーの方からノーマのグラスを強奪して飲むという都合の良い偶然があったため、ノーマは犯行の嫌疑の対象にもならなかった。なお、その場は全員が泥酔状態だったため、ノーマが自分の手にしたグラスにこっそり毒を入れることは容易だったのではないか。
推理の根拠は、ノーマが、本に挟まれた「ジムのノーマ殺害意図の証拠の手紙」を、他人に見えるように落として他人の目に触れさせたこと。その後も焼却せず保存し続けたこと。また、その手紙の存在を検察側の人間の前で「うっかり」言ってしまったこと、など。
この手紙はいろいろとおかしな点があり、クイーンも警察も検察もそのおかしなところを何も感じないとしたら低脳だろう。まず、封筒に切手が貼っていないし、宛先の住所も書いていない。つまり、まったく「手紙」の体を為していないわけだ。だが、読者はクイーンがこういうアホなことを言っても、「クイーンが言うのだからそうなのだろう」と読み飛ばすわけである。
「これは三通とも、ミス・ローズマリー・ハイト宛てになっている。でも変ね。住所が町も市も書いてないのは」
「特に変だとは言えない」とエラリーもまゆを寄せながら言った。「変なのはクレヨンを使った点だ」
(馬鹿か。住所の書いていない手紙が、どうやって相手に届くのだ。それを変に思わないほうが変だろう。そもそも、妻の殺害の「犯行予告」を妹への手紙に書く、何の意味があるのか。おそらく、出してもいないわけで、それを残して保存していたら、後で証拠になるだけではないか。ちなみに、クレヨンを使うのはジムの癖で、ノーマはそれを利用してジムを犯人にしようとしたのだろう。筆跡模倣もクレヨンのほうが字が単純化されて楽だと思う。)

まあ、以上の推理がもしも正解だったら、作中の名探偵エラリー・クイーン氏が329ページ時点でそれを推理できないのは、かなり名探偵の評判を落とすことになるだろうwww
なお、私は推理小説は「騙されるために読む」主義なので、基本的に自分で推理したり話の先読みなどはしない読者である。だが、作中のクイーン氏への反感(女の尻を追っかけないで、真面目に探偵業務をしろ、この野郎!)から、対抗してみたわけだ。

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「怪談」と「ミステリー(推理小説)」の文学的価値と『ねじの回転』

「ねじの回転」は英文学部(最近はそういうのがあるかどうかも知らないが)の卒論向きの作品である。つまり、考察すべき部分がたくさんあるわけだ。
その主なものを挙げておく。

1:この小説は「枠物語」あるいは「入れ子構造」の形式の話で、まあ「千一夜物語」でシェラザードが前置きをしてから話に入るような形だ。ところが、話の冒頭に出てきた、この「怪談」を聞く連中が最後に登場してこそ、その形式は完成するのだが、話は「語り手」(実は、語り手はふたりいて、話の前置き部分に出てきて話を紹介する男性と、話の「一人称話者」の女性で話の主人公のふたりである。)が語り終わった段階で、ぷつりと切れて終わる。この話が怪談でなくミステリーなら、肝心の謎解き部分の無いミステリーになるわけだ。
2:この話の中で「幽霊」とされている男女の死の内容(事情)がまったく語られない。だが、主人公もその同僚も、彼らを「邪悪な人間だ」としており、なぜ邪悪なのかは語られない。せいぜい、男の方が少し図々しいらしい程度である。特に主人公は、「幽霊」を見ただけで、彼らを邪悪な存在だと最初から決めつけている。これは欧米(キリスト教圏文化)特有のものらしい。つまり、人は死んだら最後の審判までは「存在しないも同然の存在」であるべきで、幽霊とは、死者が現世に「復活」したようなものだから、ある意味、キリストの「死後の復活」のパロディのような冒涜的なものになるという考えだろう。ここには、一人称主人公の女性が田舎牧師の娘であるという事情も関係しているかと思う。
3:女主人公が雇われた「魅力的な」富豪男性が、なぜ幼い甥と姪に関わることを嫌うのか、理由が最後まで明らかにされない。
4:女主人公が教育を任された幼い兄妹が「邪悪な」本性を持っている、と女主人公は考える(確信する)のだが、その理由がひどく曖昧である。単なる「表情」などから「鋭敏な自分」はそれを見抜いた、と思っているらしい。

ざっと以上から、この話での語り手の女性(女主人公)は、被害妄想から狂気に陥ったのだ、と推定できるわけだ。
一番の問題は、死んだ男女の雇用人の死の事情がまったく語られないことである。これは、彼女を雇った「魅力的な」富豪男性、つまり話の舞台である屋敷の主人が、この男女の死と何か関係があるのだろう、と推定できる。彼がこの屋敷に帰りたがらず、幼い兄妹のことは雇ったばかりの若い娘にすべて任せ、いわば「養育義務放棄」をしていることを考えると、この兄妹はふたりの男女の死の事情に気づいている可能性もある。
つまり、この話で「語られなかったこと」のほうが、「ミステリー」としてははるかに面白い要素を持っているわけで、この話が最後で「解決篇」があれば、ミステリーとして完璧だっただろう。だが、そうなると、「文学的評価」は地に落ちることになる。作者のヘンリー・ジェイムズはそれが分かっていたから、最後の「解決篇」を書かなかったのだと思う。


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酔生夢人
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職業:
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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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