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人間が「恩知らずな動物だ」という定義

「死の家の記録」は、読み終わるのが勿体ないので気の向いた時に少しづつ読んでいるが、その間、他の小説や随筆などをあれこれ読んでいる。まあ、推理小説の類は面白くても「身にならない」、お菓子のようなものだが、古典的名作で読んでいなかったものの中には感心するものもある。前にも書いたが、純文学とは、「それを読むことで自分が少し成長する」ものだ、というのが私の定義なので、大衆小説の中にも純文学はあり、純文学の中にも菓子以下のものもたくさんある。なお、「成長する」とは、精神の幅が広がり深化するという意味だが、必ずしも健全なものだけではない。たとえばマルキ・ド・サドの作品を読めば精神の幅は広がるが、それが当人にとって好ましいかどうかは分からないわけだ。
で、私が人生で一番最初に精神的に震撼させられたのが「地下室の手記」(あるいは「地下生活者の手記」)なのだが、それを読んだのが高校時代くらいだったので、今読むとどんなものか、と思って、さる所から入手したそれを今読みかけている。
まあ、ほとんど忘れていた内容ではあるが、最初に読んだ時にも理解できず、今読んでも疑問に思ったのが、「自分が人間を定義するなら、『恩知らずの動物』である」という、「人間の定義」である。最初に読んだ訳者のものも新しい訳者のものも、この「恩知らずの動物」というのは同じ言葉である。つまり、ロシア語の原文がそれに近い言葉なのだろう。
いったい、「恩知らず」という言葉が、人間を定義する言葉としてふさわしいだろうか。そりゃあ、恩知らずな人間はたくさんいるだろうが、人間全体が恩知らずとはどういうことか。
それを考えて、やっとその「恩知らず」とは「誰の恩」なのか、ということに思い当たった。人間全体が恩を受けているとしたら、それは「創造主」しかないだろう。つまり、これはキリスト教が前提になっての言葉だったわけだ。しかし、その前後に宗教的な内容がまったく書かれていなかった(その前後の文脈で言えば「天邪鬼な動物」が適切な印象だ。ロシア語に「天邪鬼」に相当する言葉があるかどうか知らないが、この「地下室の住人」の性格そのものがまさに「天邪鬼」なのである。)ので、私はこれが宗教が前提の言葉だと気付かなかったわけである。
まあ、読書とはこういうものだ、という事例である。
なお、この地下生活者が終始攻撃しているのが「合理性」である。「人間が22が4で行動するなら、ピアノと何が違う」というわけである。ドの鍵盤を叩けばドの音が出るのが人間か、ということだ。つまり、合理性だけが行動を決定するなら、そこに本当の「自由意志」など無い、ということだろう。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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