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笑いと愛と倫理

漱石の「三四郎」の中に、イギリスの小説の中に出て来る「pity akins to love」という言葉をどう訳するかについて議論する場面があるが、お調子者の与次郎(という名前だったか)はこれを「可哀そうだた惚れたってことよ」と訳して先生に「いかんいかん、下劣の極みだ」と怒られる。
なかなかの名訳だと思うが、元の文を直訳したら「憐憫は愛に類縁のものである」となるだろうか。で、問題は英語のloveという言葉には性愛から家族愛から大衆への愛、つまり人類愛まで広くあるということだ。そこを「惚れた」という性愛に限定したのが先生に怒られた理由だろう。(ここで言う「性愛」は「異性愛」のことで恋愛の意味である。別にセックスに限定してはいない。)
話は変わるが、漱石が一番好きなイギリスの小説はスイフトの「ガリバー旅行記」だとインタビューで答えており、「スイフトは名文家だ」と言っている。面白いことに、サマセット・モームもまったく同じことを言っているのである。確かモームは小説の文章の練習に「ガリバー旅行記」をノートに書き写す修行もしたと記憶する。まさかモームが漱石のこの発言を知っていたわけではないだろうから、偶然の暗合だろう。
そのスイフトと漱石は人間として似たところがありそうだ。どちらも「人間の卑劣さ、醜さ」を痛烈に感じる傾向があったところである。それを作品の中で峻烈に描けば「ガリバー旅行記」になり、穏やかに書けば「吾輩は猫である」になるわけだ。どちらも人間の「ありがちな性質」が笑いの対象になるが、スイフトのものは、書いている本人はニコリともせずに書いている印象だ。
「温かい笑い」と「冷たい笑い」というものがあり、それは作中の人物への愛情の有無によるのではないか、と思う。漱石にはまだ愛情があるわけだ。ドストエフスキーやプーシキンのユーモアにも私は温かい愛情を感じる。一方、たとえばチェーホフにはそれを感じないのである。人間の卑小さや失敗を「冷たく観察して」見事にレポートした印象だ。それが私にとっては彼の作品の「読後感の悪さ」になる。もっとも、筒井康隆的な笑いはどうなるのか、と言えば、あれは神経痙攣的というか「発作的な笑い」を生むものではないだろうか。
要するに、笑いにもいろいろある。私は今のテレビはほとんど見ていないが、テレビの笑いはどうだろうか。
話の枕にしたエピソードはどういう意図かと言うと、漱石の「倫理性」「潔癖症」が、あの「いかんいかん、下劣の極みだ」に出ているのではないか、ということだ。スイフトも同じだが、あまりに高い倫理基準を持つ者は、社会になかなか同化できないのである。


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酔生夢人
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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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