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今後の日本と世界を占う

混沌堂主人が「東京五輪後の日本」について易占して「山地剥上九」の卦を得たらしい。まあ、上(山:上級国民)が剥落して下(地:人民)が厚くなるという意味なら結構なことである。

(以下引用)


易でも聞いてみた。
山地剥 の 上九 {6爻}
「高い木に生っている大きな果実が食べられてしまうことはない。君子は人々に尊敬され大きな車に載せられる。邪悪な者は自分の住むところさえ失うことになる」
(以上引用終わり)

これに触発されて私も易占してみたが、私には霊感や霊能力がゼロであるのは何度も書いている。したがって、当たるも八卦当たらぬも八卦であるのはもちろんだ。

1:今年後半の日本の政治

山火賁初爻

面倒なので私の解釈だけ書くと、「菅政権は無意味な飾り事だけやるだろう。」しかし、初爻は「その足を飾る」だから、「少しは人民のためになることもする」といったところか。大きな政治的変革は無さそうだ。

2:今年後半の日本の庶民生活

火水未済6爻

これは卦辞の「小狐が川を渡り終わろうとしてその尾を濡らす。利するところ無し」の解釈が難しいが、「国民は全体としてはコロナ政治という災厄から脱することができるが、コロナ倒産や失業やワクチン被害などへの補償はゼロである」という解釈でどうだろうか。上九(6爻)は「飲酒に誠あり」という、酒飲みには素晴らしい卦で、これも「飲食店いじめは終わる」意味かと思う。まあ、「酒でも飲んで憂さ晴らしをするのもいいよ」ということだろう。


3:コロナ騒動の今後

地沢臨6爻

これは卦辞を書いておく。字句は少し変える。「臨は大いに通る。正しきに利あり。八月に至りて凶あり」。「八月」の解釈が難しいが、そのまま八月としておく。旧暦の八月とするのがいいか。この「臨」の卦が「蠱」の次に来る卦であることが大事かと思う。つまり、「蠱」が、皿の上にウジが湧いた、腐敗の極みを意味するわけで、それに対して「臨む」とは、解決の道が開ける、ということだと思う。だから「正しきに利あり」であるわけだ。(私としては「正しき」とは「反ワクチン派」「反DS派」「反新コロ詐欺派」だと思っている。)八月がコロナ災害のピークで、その後は新コロ問題は終焉に向かう、と解釈する。上六(6爻)は、「臨むに厚し(篤し)、吉にして咎なし」であるのが、この解釈の根拠である。つまり、今秋には解決に向かうだろう、という目出度い卦である。


4:世界の動き

雷天大壮2爻

これは庶民にはあまり関係ないが、卦辞は「大壮は正しきに利あり」という簡潔なもので、世界全体で「正しいもの」が邪悪や不正を追放する形勢が生まれ、邪悪なもの(ビル・ゲイツ一派、あるいはDS全体)が勢力を失うのではないか、という希望的観測をこの卦の解釈としておく。2爻は「正しければ吉なり」という、至極あっさりしたもので、正しい陣営にとって吉である運勢なら、もはや何も問題はないわけだ。









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吉凶悔吝とは何か

私は、「誰でも知っているが実は理解はしていない」物事について疑問を持ち、それを考察することが大好きなので、『易経』などはそのいい素材になる。要するに、我々が日常的に使っている言葉の意味を掘り下げて考えるいいきっかけになるわけだ。
で、これは易に関する本などでも「説明抜き」に使われることが多いのではないかと思われる言葉だが、「吉凶」とは何か、「悔吝」とは何か、について、読んだばかりの岩波版「易経」からその説明になりそうな部分を抜き出しておく。これは、「繋辞(上伝)」(「繋辞上・伝」ではない)の一節だ。「繋辞」とは「辞を繋(か)ける」意味で、言葉の解説、あるいは解釈をすることのようである。つまり、「易経」の中の語句の解説と思えばいい。しかし、これは文庫本の最後のあたりに出てくるので、たいていの読者は易経の語句の意味を知らないままに易経本文(訳文)を読むことになる。まあ、数学で微積分を習う前に物理で微積分を使った解説を読まされる類である。そういうことが積み重なって、我々の頭脳はブラックボックスだらけになるわけだ。

前置きが長いわりに、本題の部分はすぐに終わる。
「易経」の「繋辞(上伝)」における「吉凶・悔吝」の説明はこうだ。

「易に言う吉凶とは事の得失の象徴であり、悔吝とは事後に生ずべき憂い虞(おそ)れの象徴である」
後半を具体的に言えば「悔とは凶にいながら後悔憂慮して吉に赴くこと、吝とは吉にいながら逸楽猶予して凶に陥ること」である。

特に「悔吝」の意味がよく分からないままに「易経」を読んで困っている人は多いのではないか。で、この説明で分かるように、「吉」と「凶」は対立概念であり、「悔」と「吝」も対立概念だが、「吉凶」と「悔吝」は同時に起こり得るわけだ。「吉」とは「占う事柄が成就する」意味であって、それがべつに幸福かどうかとは関係ない。「凶」も同様に、「占う事柄が成就しない」意味であって、それがべつに不幸だという意味ではない。幸福か不幸かは当人の心の持ち方次第であって、目標とする事柄の成功不成功とは別問題なのである。このあたりが既に、世間の「吉凶」イメージとのズレがありそうだ。
冗談を言うなら、「脳」という漢字の中には既に「凶」が入っているではないかwww これは、我々の脳にはそれ自体の限界がある、ということの象徴だ、と言っておこう。





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「中孚、小過、既済、未済」の占断

61:中孚(風沢中孚)【○○× ×○○】「中なるまこと」*「孚」は「ふ」と読む。

中孚(の卦)は吉である。大きな企てによい。貞固であると利がある。

*卦辞の中に「中孚 豚魚吉」という謎の言葉がある。豚魚は河豚(ふぐ)ではなく、「豚と魚」のことのようだが、この卦に何の関係があるのか。先達の解説は屁理屈じみている。「孚」とは「誠」「誠実さ」の意味らしい。中孚とは心中に誠がある意味のようだが、なぜ、「孚」という奇妙な漢字を使ったのだろうか。風とか沢という、軽薄そうな象に「誠」を結びつけるのも無理がありそうで、「孚」を「誠」と解釈したこと自体が間違いではないか、と思うが、まあ、強弁はしない。「豚魚吉」について、彖伝では「信豚魚に及べばなり」とある。人間だけでなく、豚や魚までがその人を信頼する、ということだろうか。象伝で「君子もって獄を議し、刑を緩くす」とあるのは、その信頼があってこそ、獄を議し、刑を決められるのだ、ということか。(漢和辞典で確認すると、「孚」は鳥が卵をかえす、たまご、はぐくむ、まこと、とりこ、などの意味がある。鳥が卵を孵すような、無心の行為を「真心」と見るなら、それは豚でも魚でも同じような真心はある、と言える。親が子を育てるのも、別に将来の利得を考えての行為ではない。そういう無私無欲の愛他的行為を「孚」と言ったのではないか。)

62:小過(雷山小過)【××○ ○××】「小事における行き過ぎ」

小過(の卦)は通る。貞固であると利がある。小事にはいいが、大事には不可である。上にのぼるような行為には良くないが、下るような行為には良い。(その場合)大いに吉。

*山や坂道を登るにしても、上りは苦しいが下りは楽である。まして、山頂で雷が鳴っているなら、さっさと下りるべきだろう。人生で言えば、会社の中枢から閑職への移動など、楽であるwww それで不平不満を持つのは欲が深い。山頂や上り坂は険難の連続だ。世間の目も上級国民には厳しい。金持ちは羨望されるが、その転落は大喜びされる。彖伝では「上ることは逆で、下ることは順である」としている。川も下流から上流に流れはしない。上から下に行くのが自然の常だ。

63:既済(水火既済)【×○× ○×○】「完成」

既済(の卦)は少し通る。貞固であると利がある。初めは吉だが、終わりには乱れる。

*完成を示す卦だが、卦辞は景気が良くない。というのは、易は変化を宇宙の真理と見ているので、完成したら、後は衰退に向かうと見るからである。ここから衰退に向かうのだから、その乱れを覚悟しつつ、長所や美点を固守するのがよい、ということかと思う。火の上に水がある象がなぜ既済なのか、それは調理を意味するからだ、というのが先達の屁理屈だが、まあ、最初に易を作った人がどんな気持ちでこの卦を「既済」としたのか、分かるはずはない。象伝に言う、「君子以て患を思って予めこれを防ぐ」が、この卦の大事なところだろう。一見、すべてが完成したような時こそ、将来の災いに備えよ、ということだ。


64:未済(火水未済)【○×○ ×○×】「未完成」

未済(の卦)は通る。しかし、子狐が川を渡ろうとして最後で水に落ちるようなうっかりぶりでは、ほとんど利は無いだろう。

*象伝に言う、「君子、以て慎んで物を弁じ、方に居(お)く」と。この卦を得たら、慎んで、物事をよく思慮し、正しく処理せよ、ということかと思う。




以上で「易経」の解釈は終わりである。まあ、ほとんど直感で解釈したものばかりだが、素人でも占いとして使用可能なレベルではあると思う。何なら、自分で文庫本の「易経」を買って占って、自分で解釈するといい。多くの人生訓が入っている書物だから、読み物として面白いし、有益だと思う。

これで、私の宿題の主なところは終わったので、後は死ぬまで生きるだけのことである。まあ、文芸関係、特に詩歌に関して少し書きたいところはあるが、書かなくても書いてもいいという程度のものである。



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「巽、兌、渙、節」の占断

57:巽(巽為風)【○○× ○○×】「入る、謙遜」*「巽」は「そん」と読む。

巽(の卦)は少し通る。積極的に何かを企ててよい。信頼できる人に相談するとよい。

*私は「行く所あるに利あり(よろし)」を「積極的に何かを企ててよい」と解釈したが、文字どおり、どこかに行くと利がある、と解してももちろんいい。「巽」は上卦も風、下卦も風であり、風はどこへでも行き、どこへでも入り込む。そのように気軽に行動して良い時なのではないか。ただ、風は根無し草的な存在なので、重厚な企てにはこの卦は向かない。「大人」に従うか、その意見を聞くのがよい。

58:兌(兌為沢)【×○○ ×○○】「悦ぶ、悦ばす」*「兌」は「だ」と読む。

兌(の卦)は通る。貞固であると利がある。

*兌(沢)は喜びの象であるから、悪い卦ではないのはもちろんだが、その喜びは幼い少女が喜ぶようなものだと思っていい。つまり、幼稚さや浮薄さを免れない喜びである。だから、「貞固であるのがよい」と忠告しているのだろう。象伝では「連なる沢があるのは兌(の卦)である。君子以て朋友講習す」とある。まあ、易経は倫理性を重んじるわけだ。占いとしては「(願望は)通る」だけで十分だろう。それで喜びがあれば、いいに決まっている。

59:渙(風水渙)【○○× ×○×】「離散、離散(したもの)を合わす」*「渙」は「かん」と読む。

渙(の卦)は通る。大きな企てに利がある。貞固であると利がある。

*渙は、上卦が風(巽)、下卦が水(坎)で、まさに水が風に吹き散る感じである。「渙」という漢字もまさにそのイメージで、私の好きな漢字だ。卦辞の中に「王有廟に仮(いた)る」という、解釈の難しい言葉があるが、無理に解釈しない。廟は祖霊を祭った建築で、まあ、墓の一種とも言えるか。埋葬用の墓ではなく、儀式専用の斎場と言うべきか。それがなぜこの卦の託宣として出てくるのか。彖伝でも象伝でも「王有廟に仮る」の言葉は繰り返されている。まあ、祖霊を重視するのは儒教の伝統だが、現代人にはピンと来ないだろうから、無視する。

60:節(水沢節)【×○× ×○○】「止まる、節約」

節(の卦)は通る。だが、節度にこだわって、頑固すぎてはいけない。

*「苦節貞にすべからず」という卦辞が珍しい。易経ではほとんど「貞」を推奨しているのだが、「節」という、まさに「貞節」そのものと関係する卦では、その「貞」は、この場合はよくない、と言っているわけで、まあ、節度というのは、行き過ぎると人々をうんざりさせるものだ。よく批判される校則の類である。学校側はそれを節度だと思っているが、生徒たちはそれを、自分たちの「拘束具(校則だけにww)」だと感じるわけである。彖伝で「苦節貞にすべからざるは、その道(節の道が)窮まればなり」というのはそういうことだろう。一般論として、同じく彖伝に「節するに制度をもってすれば、財を傷(やぶ)らず、民を損なわず」とある。まあ、健康保険制度のようなもので、民が自由に使っていたカネの一部を召し上げて、保険制度を作れば、民は財産(収入)の無駄遣いをせず、自分自身(の健康や生命)を損なわない。







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「漸、帰妹、豊、旅」の占断

53:漸(風山漸)【○○× ○××】「すすむ」

漸(の卦)は女性が嫁ぐのに吉である。貞固であると利がある。

*「漸」は数学の「漸近線」で分かるように、「物事が次第に進んでいく」意味である。卦辞は恋愛や結婚以外には縁の無さそうな内容で、「貞に利あり」が、貞潔であれば利益がある、という意味なら、結婚生活で貞潔であるのがお互いにいいのは当然だし、「利がある」だと打算で貞潔を守るようで感じが良くない。性的な貞潔さだけでなく、浮薄な妄想や一時の感情で行動するな、という忠告だと解するのがいいかと思う。「利」を「利(よろ)し」と読む読み方は、わざわざ「利」という字を使った意味がないので私は採用しない。彖伝には「進むに正を以てす。以て邦を正すべきなり」とあり、必ずしも結婚のことだけではなく、「貞固に正しい方針を守り、ゆっくり進むのはすべてにおいて妥当な道だ」という趣旨の卦だろう。象伝には「君子以て賢徳に居り、俗を正す」とある。

54:帰妹(雷沢帰妹)【××○ ×○○】「結婚」

帰妹(の卦)は、このまま進むと凶。利であるところが無い。

*「帰」の漢字には「嫁ぐ」意味があるらしい。妹(未熟な女性)が、誤った結婚をしようとしている象か。「沢」の卦は若い女性を意味する。結婚に限らず、軽挙妄動して動くことを戒めた卦であるようだ。

55:豊(雷火豊)【××○ ○×○】「盛大の時」

豊(の卦)は通る。心配は要らない。

*雷(エネルギーを示す卦)の下に離(太陽の卦)が輝く、あるいは稲妻を火の一種と見れば、雷と電(稲妻)が同時に起こる象で、まさに活発そのもので、盛大の極みである。だが、栄えるものは必ず衰えるのが自然の理であるので、日中はいいが、これから夕暮れになり、夜に向かうことを考えておくのがよい。彖伝に「日は中天すれば傾き、月は満つれば欠けていく。天下の盈虚は時と共に変わる。人間ならなおさらだ」とある。「盈」は「満」と同じ。象伝には「為政者は、(強大な力のあるこのチャンスに)訴訟をさばき、刑罰を行うといい。」とある。組織論的に言えば、事業が上手く行っている時にこそ組織内の根本的欠陥を直すべきだ、ということか。


56:旅(火山旅)【○×○ ○××】「旅に出る時」

旅(の卦)は、小さな願望は通る。常識的な「旅の備え」をすれば吉である。

*旅というのは象徴的な言葉だから、必ずしも旅行の話だけに限定しなくていい。「旅貞吉」という三字は、(旅のような)「非常の時」にこそ、平常心を維持するのが良い、ということだろう。この卦の象は、山の上に火があるのを山焼きと見て、その火が一刻も止まらない有様を旅に見立てたものらしい。山自体は停止の卦であり、火は常に「付いては離れる」ものだから、動かないものと動くものが共存するわけである。基本は停止だから、物事は動いても、大きな動きにはならない。だから、願望は小さなものだけ通るということだろう。まあ、旅に出るのも、一時の慰安であり、大きな願望の話ではない。そして、旅には不測の事態がつきものだから、「旅の備え」をしての旅と、無計画な旅では、苦労も違うことになる。日常の問題に関してこの卦が出たら、「明らかに慎んで」つまり、離(明察)と艮(停止・慎重)の二つの姿勢を持つべきだ、というのが象伝から推測できる。




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「革、鼎、震、艮」の占断

49:革(沢火革)【×○○ ○×○】「変革、革命」

革(の卦)は、誠(公明正大な意図)からの改革や革命であれば、大いに通り、貞固な状態となり、利がある。不祥事があってもその後悔もいずれ無くなる。

*「元亨利貞」の「元」をここでは「大いに」と読んだが、「基本的に」と解釈してもいい。つまり、改革や革命の意図が100%達成されなくても、基本的には達成される、ということだ。卦辞の中に「己日」という意味不明の言葉があるが、無駄な解釈はしない。先達諸氏も無理やりな解釈をしているだけである。昔は「己、巳、已」の3字に区別は無かったという説に従うなら「己日乃孚」は、「已日乃孚」の誤記というか、解釈ミスで、「(改革・革命の)已(や)みぬる日、孚(まこと)あらば」と読むのがいいのではないか。まあ、前言に相違して無駄な解釈をしてしまった。

50:鼎(火風鼎)【○×○ ○○×】「かなえ、賢者を養う」*「鼎」の字は「てい」と読む。

鼎(の卦は)基本的に通る。

*まったく素っ気ない卦辞だが、占う者が占う意図というか、知りたいことは、自分の願望が通るか通らないかだけだから、これでいいわけだ。もちろん「元亨」を「元(おお)いに亨(とお)る」と読んでもいい。そのほうが気分はいいだろうwww 「鼎」は言うまでもなく、「かなえ」である。「鼎の軽重を問う」の鼎だ。煮炊きする道具らしいが、神事に用いたようだ。上卦が火で、下卦が風(木)なので、火の中に薪を入れて煮炊きすることから、煮炊きに使う鼎が卦の象徴になったわけである。また、上卦が離で文明を表し、下卦が巽で、賢者に従順に従う意味にもなる。巽は「尊」と同音である。つまり、文明なる者(賢者)を尊重するさまだ。仲間のうちの賢い者を尊重し、従うとよい、という趣旨とも取れる。

51:震(震為雷)【××○ ××○】「地震、雷、戒懼の時」

震(の卦)は通る。雷が鳴った時のように最初は驚くが、後ではそれが笑い話になる。つまり、大山鳴動して鼠一匹にすぎない。ただし、恐れて身を慎むことは大事であり、勇敢ぶって軽率にふるまうべきではない。

*上卦も雷、下卦も雷である。雷は、音が物凄いのに比して、実際の被害は少ないが、被害が無いわけではない。雷に打たれないのは幸運な偶然でしかないのである。そのように、強大な存在に対して恐れ慎むのは社会生活の基本だろう。必要も無いのにヤクザや警官に喧嘩を売るのは馬鹿である。何しろ、相手はドスやピストルを持っている。

52:艮(艮為山)【○×× ○××】「止まる」*「艮」の字は「ごん」と読む。

艮(の卦)は止まる意味で、艱難を前にとどまるのだから咎はない。つまり、その先に険阻な山(艱難)があり、今は止まるべき時である。

*山また山の険難続きだが、登山家はわざわざその山に登るのだから、好運不運は考え方次第である。一般人なら、何も苦労して険難な山に登る必要はない。高い地位に上るのも同じようなものである。その苦労を知らない人が、その権力や豪華な服や美女の恋人を見て羨望する。あれは、高い山に登った、その苦労の代償なのである。もっとも、ヘリコプターで山頂に上る二世三世もいるwww 彖伝に言う、「艮は止なり。時止まれば止まり、時行けば行く。動静その時を失わざれば、その道光明なり」と。







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「萃、升、困、井」の占断

45:萃(沢地萃)【×○○ ×××】「集まる」*「萃」は「すい」と読む。

萃(の卦)は通る。貞固であると利がある。問題事は信頼できる人に相談するといい。大事を決行するのもいい。

*卦辞に意味不明の言葉がいくつかあるが、何やら偉い人が何かを祭って犠牲を捧げる、みたいな話で、庶民には無関係だろう。「萃」は集まる意味で、大地の上の沢は、水が集まって沢になるわけだから、上卦沢、下卦地で沢地萃となる。物や人が集まると、当然そこには利が生まれる。と同時に、不測の事態や揉め事も起こりやすくなる。そこで象伝には「君子以除戎器 戒不虞」とある。「虞」は「虞犯」の虞で、「恐れ」、つまり、「可能性」の意味だ。「虞犯少年」は犯罪の恐れのある少年の意味。「不虞」は、「恐れを持たないこと」「事故や事件の可能性を考えない迂闊さ」の意味。「戎器」は武器だが、「除する」は「除く」ではなく、「掃除する」意味のようだ。つまり、武器の手入れ(もちろん、比喩だ)をして突発事態に備えよ、ということらしい。

46:升(地風升)【××× ○○×】「上昇」*「升」は「しょう」と読む。

升(の卦)は基本的には通る。(地位などの上昇の結果)偉い人に会う可能性があるが、心配は不要。南に行けば吉。(「南征」を本田氏は「前進する」「上昇する」意味だとしている。)

*「升」の字は人名で「のぼる」と読むから、これが「上る」意味なのはすぐに想像できる。正岡子規の本名が「升」である。この卦は「志は行われ、慶(よろこ)びがある」という大吉の卦である。象伝が面白い。「地中生木升 君子以順徳 積小以高大」、つまり、地中に木が生えて高く上っていく(成長していく)ように、君子は従順の徳により、小を積んで高大となる」。本田氏は「徳を順(つつし)み」と読んでいるが、変な読み方だと思う。徳は慎むものではない。慎むようなものは徳ではない。「徳に順(したが)い」ならまだいいが、やはり「順徳」で一語とすべきだろう。なお、巽(風)の卦は木の象徴でもあるので、地の下に風があるのではなく、地の下に木があるという解釈になる。


47:困(沢水困)【×○○ ×○×】「苦しむ」

困(の卦)は通る。問題が起こっても、大人(たいじん、度量や見識のある者)は、咎はない。だが、占う者(占断の該当者)の言葉は他人に信じられないだろう。

*易経の原文だと卦辞の途中に唐突に「貞」の字があるが、貞がどうなのか意味不明である。貞であれと言っているのか、貞であるとマズイと言っているのか。本田氏は例によって「貞(ただ)し」と読んでいて、この場合はその方がいいのかもしれない。つまり、「占いの該当者の考え自体は正しい」ということか。しかし、「困」の字は言うまでもなく困難や困苦を示す字だ。悪卦である。自分が大人(たいじん)かどうかは、自分では分からないだろう。彖伝では「口を尚(たっと)べば乃(すなわ)ち窮するなり」とある。自分の言葉が他人に信じられないというのは、確かに最悪の困難だろう。弁舌や言い訳ではどうにもならない窮地である。
象伝には、「占う者が君子なら、こういう場合は使命を遂げることを最優先する」とあり、それは非常に素晴らしい行動だが、小人(つまらない人間)には不可能であり、大人にしかできない。大人は、使命を果たすことで、その言葉もやっと信じられ、咎も受けない、ということかと思う。つまり、大義名分があっての行動のみ吉であり、私利私欲による行動は、必ず咎を受ける、そういう卦だと思われる。つまり、「困は亨(とお)る」とは、「大人として行動すれば」願望は通る、という、限定条件付きの占断だということだ。

48:井(水風井)【×○× ○○×】「井戸、賢人を養う」*「井」は「せい」と読む。

井(の卦)は、何かの事業をしても肝心な部分が抜け落ちていて、失うものも得るものもない結果になる。無駄骨折りという意味ではマイナスである。たとえば井戸に釣瓶を下すこと自体、その釣瓶が壁石に当たって壊れることもある。日常茶飯事もそういう危険は常にある。要するに、この卦は凶である。


*卦辞が分かりにくいので解釈が長くなった。本田氏の「賢人を養う」は、彖伝の「井は養って窮まらざるなり」を敷衍した解釈だろうが、特に「賢人を」養うという趣旨の言葉は無さそうである。井戸自体は庶民生活の根幹のような存在なので、賢人だけを養うものではない。
















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酔生夢人
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仙人
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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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