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迷わす魂に雷を与えよ

「つれづればな」から記事全文転載。
素晴らしい記事である。キリスト教の成立過程については私も「徽宗皇帝のブログ」に「革命者キリスト」というシリーズで書いてあるが、それとは教養のレベルが違う。まあ、私のものも中学生くらいの頭脳の人には悪くはない読み物になっているとは思うのだが。
とりあえず、下の記事は備忘的に保存しておき、後でじっくり読み返すことにしたい。



(以下引用)


バルナバスの福音書


2013/10/05 07:25 よりわけ: 啓示 かぎ: イスラーム啓示地中海



1981年ハッカリ県ウルデレ村―トルコ東部に位置しシリアと国境に近いこの村であるものが発見された。
狩りの途中に猟犬を見失った村人はその犬を探して洞穴にたどり着く。そこで足の下のほうから―大洞穴に響き渡るような―吠える声を聞いた。その声を頼りに下方に降りてゆくとそこには地下都市が蟻の巣のように広がっていた。
彫刻の施された石棺を見つけると「お宝」の期待に胸を躍らせながら村人はその蓋を開ける。そこに見つけたのは遺骸とその腕に抱かれた書物―見たことのない文字でうめられたパピルスの束―であった。
村人たちはそのパピルスの束を持ち帰る。聖書であろうことは間違いなく、これを換金しようと考えた村人はシリア正教の司祭のもとへとそれを持ち込むのであった。現代はトルコ国境の内側にあるとはいえここではシリア正教徒のシリア系住民が僅かながら生活している。この地域は原初キリスト教徒たちがローマ帝国の迫害を逃れて隠遁生活を営なんだ中心地のひとつであり、その後シリア正教教会の確立とともにその勢力範囲に含まれた。

しかし司祭にもさっぱり読めなかった。このパピルスの価値のわからぬ村人はとにかく売却しようと客を探し回った。そのうちにある国会議員の注意をひき、専門家の鑑定を受ける運びになった。


ハムザ・ホジャギリ(Hamza HOCAGİLİ)は十数種の古代語に長けた、特にアラム語にかけては世界有数の識者であった。ハムザ師はパピルスの最初の二枚を食い入るように見つめると、それは古シリア文字で書かれたアラム語の文書であることがわかった。

―我はキプロスのバルナバス、天空暦48年の終わりに、讃えるべき、この世の創造主より、全ての言葉を預けられし精霊と、マリアの子の救世主イエスから伝え聞いたその通りを、第四の写本として此れに記すなり―

洞穴の石棺に眠る者が胸に抱いていたのは、バルナバスの福音書であった。


炭素による年代測定によればパピルスが紀元前、使用されていたインクは西暦80年頃のものであることがわかった。イエスの生誕を紀元前四年とし、その昇天を西暦27年あたりであるとすれば「天空暦48年」というものを「イエスの昇天から48年目」と解釈することができ年代測定結果とほぼ噛み合う。このパピルスの束がいかに重大な意味を持つものかを知り、そして厳重に保護し記録に残さなければならないことを村人に説くが高額を要求され交渉は難航した。やっと出資者を見つけ出し契約までこぎつけ、いざ村人が師のもとに福音書を手渡すために村を出るとその車は軍警察の検問にかかり盗掘の疑いで身柄を拘束される。福音書は没収されてしまいその後この福音書はトルコ軍司令部の手に渡る。


聖バルナバス、イエスとほぼ同年代にキプロスに生まれた実名をヨセフというユダヤ人。バルナバスとは「慰め(ナバ)の子(バル)」を意味する霊名である。イエスの十二使徒の中には含まれないものの、イエスの傍に身を置きイエス昇天の後も使徒たちの布教に加わった。私財のすべてを手放して「イエスの言葉が少しでも遠くまで伝わるように」と布教のために身を尽くす。新約聖書に含まれる「使徒行伝」のなかに「聖なる魂に満ち溢れる者」と賞賛される。

「福音」とは「よき知らせ」、つまり創造主たる神が預言者に託した言葉である。イエスが神に預言を授かりそれはイエスの言葉、振る舞いを通して人々に伝えられた。そしてその昇天(新約聖書でいう磔刑)の後に弟子たちの口伝により福音として広められた。それをその後に集めて書き表されたものが「福音書」である。
イエスの母語は何であったか、宣教を始めた地ガリラヤでは当時アラム語が使われていた。イエスが使徒たちと交わした言葉は自然に考えればみなアラム語だった筈である。であるならばイエスを直接知る者がその言行を書き残そうとしたときに使われる言語はアラム語であるというのが考えやすい。しかし現存するの福音四書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ伝)の最古のもの(三世紀)はみな古ギリシア語である。ならばそれはアラム語から翻訳したものであるか、あるいははじめから古ギリシア語で書かれたものかのどちらかである。問題はイエスがこの世に在るうちにその言行が文字で綴られなかったことにあるのだが、口伝を繰り返した後に著された福音四書の内容と「イエスに託された天啓」の間には深刻な距離があると言っていい。

もしバルナバスが本当に福音書をアラム語で書き記していたのであれば、「天啓にいと近き書」にちがいない。

1986年、ハムザ師は当時政権にあったトゥルグトゥ・オザル首相に軍部が保管しているバルナバスの福音書の翻訳の重要性を説き口添えを願い出た。さまざまな駆け引きを経て一年後にやっと軍部が首を縦に振り最初の十数枚を撮影、軍司令部の中、いくつもの鉄の扉に隔てられた厳重な警備の元に翻訳が開始された。
ハムザ師によればそこにはまさにモーゼが神から賜りし預言と同じことを、つまりこの世を創造した唯一神のほかを神とするなかれ、人の子が手ずから偶像を作り崇めることなかれ、神の名をみだりに口にするなかれ、安息日に働くことなかれ、父母を蔑ろにするなかれ、殺すなかれ、盗むなかれ、姦淫するなかれ、嘘をつくなかれ、隣人の家を、家人を、奴隷を、家畜を、ひいては全てをよこしまな目で見るなかれ…すなわち「十戒」を説いていたという。そしてソドムの罪への警告やイエスがマリアから生まれた人の子であること、預言者であることがはっきりと書かれていた。


イエスはユダヤ人である。そして使徒たちも含めモーゼの教えを守る敬虔なユダヤ教徒であり、礼拝は会堂(シナゴーグ)にてトーラー(モーゼ五書)に沿ってなされた。キリスト教はユダヤ教徒と寸分の違いなき同じ信仰であるはずであった。が、時とともに解釈を曲げ偽善で塗り固められたユダヤ教はモーゼの言葉を受け入れられないほどに堕落した。
エルサレムのユダヤ教徒たちはイエスを弾圧した。神殿を商業施設として使い私服を肥やし、神を尊ぶふりをして実は物質を拝する、そして論理で武装し堕落を指摘する隙を与えないユダヤ人たちの態度をイエスが激しく叱責したからである。唯一神とその神殿を利用して富を築いたユダヤ教徒にとって純粋な正論を語るイエスは憎々しい存在であった。ユダヤ教徒の中でもサドカイ派とパリサイ派による迫害は苛烈を極めた。

弾圧者の筆頭に在ったパリサイ人(びと)のパウロはローマの市民権をもつユダヤ人であった。ある日、天空にイエスの姿を見てさらにその声―汝を異邦人への伝道者とせん―を聞き改心してイエスの教えに帰依する。当初はかつての迫害の恨みからユダヤ人たちから強く拒絶されはしたが、故郷に近いアンティオキア(現トルコ・アンタクヤ)で多神教徒(古代神を祀る偶像崇拝者)たちに対し熱心な伝道を行った。
イエスがこの世を後にしてからはその兄弟のヤコブ(聖マリアがイエスの後にヨセフとの間に得た子)がエルサレムの信徒たち(エルサレム教団)の指導者となっていた。そのヤコブにアンティオキアの噂が届くと様子を伺うため使者を立てるが、それに選ばれたのがパウロと旧知であったバルナバスである。
バルナバスが見たアンティオキア教会はいまだ多神教の影を纏うおよそ一神教とは言い難い有り様であった。まず割礼を行わなかった。安息日を守らなかった。そして手製の偶像の前で犠牲を屠り、その血と肉を口にした。しかしパウロをエルサレムに連れ帰りヤコブに引き合わせると、新たにモーゼの教えに触れたのであれば直ちに全てを実践するのは難しいであろう、偶像に捧げた犠牲の血肉から遠ざかりさえすれば神は汝らを拒みはしない、と、ヤコブは周囲の反対を押してアンティオキア教会を破門せずに受け入れた。その後パウロとバルナバスは伝道の道を共に歩んだ。
しかし「イエス」の在り方について論争が起こった。バルナバスは「イエスは人の子」であるとし、パウロは「イエスは神の子」であるとし、二人は激しく争った末に袂を別つ。傷心のバルナバスは故郷キプロスに戻りそこで生涯を閉じたとの伝説が残る。

弁論に長けたパリサイ人のパウロはやがて使徒として迎えられ、イエスの言行の解釈を明文化する上で絶大な功績を残したとされる。パウロの名を冠した数々の手紙は「パウロ書簡」として福音四書とともに新約聖書に含まれる。


エルサレムは多神教を奉じるローマ帝国の一属州であった。一神教の立場からローマの古代神を敬わないユダヤ教徒社会のエルサレムは(神へ情熱だけではないが)帝国と反目することになる。西暦70年、ユダヤ戦争でローマ帝国に敗れたユダヤ人はエルサレムから追い出される。ヤコブの率いるエルサレム教会も今のヨルダンへと活動の場を移した。しかし地理的に遠いアンティオキア教会は戦渦を逃れてそのまま存続し布教活動を続け帝国内に膨大な信徒を獲得した。やがてローマ帝国がキリスト教を容認しさらに国教とするに当たって中心に存在したのがアンティオキア教会の流れを汲むものたち、つまり多神教の要素を多分に含むパウロの弟子たちとそれに教化された信徒たちであった。彼らの考えと後に結びつくのは「神」とは「父なる創造主、子なるイエス、父が子に吹き込んだ精霊」の三位を一体とする理論である。

四世紀に入り、無尽蔵に拡大したローマ帝国を一つの共同体として掌握するための決め手に事欠いたコンスタンティヌス一世は信徒の増え続ける「イエスの信仰」を共同体意識として利用することに目をつけた。そのために混乱した教義を整理し正当教義を明示する必要に駆られたのである。口伝により広まったイエスの言行が遠く離れた各地で拾い集められ収められた福音書のその数は数千に及ぶ。どれが正典で、どれが外典で、どれが異端であるかを審理し「キリスト教」を確立するため325年、ニカイア(現トルコ・イズニク)にて初めての公会議が行われる。

審理の争点は「イエスの存在について」「三位一体論」の二つであった。しかしこの時代にはパウロの流れを汲む「イエスは神の子」と「父と子と精霊」という考えがすでに権威を得ており会議の流れはおのずと決められていた。そして採択されたのが「ニカイア信条」であり、膨大に集められた福音書のなかでニカイア信条に適う福音書はたったの四書、聖マタイ、聖マルコ、聖ルカ、聖ヨハネの名を冠するその四書のみである。しかし「冠している」だけで実際に誰がいつ書いたものであるかなどは学説ばかりで実は不明である。ただし共通項として「三位一体と神の子イエス」があることを踏まえればこの四書は「パウロの福音書」と呼ぶことが出来よう。こうしてモーゼの教えと決別して確立したのが「キリスト教」である。「イエスの信仰」とは別のものである。
異端とされたほかの福音書は炎にくべられた。異端として追放されたアリウス派をはじめとする諸派は隠し持った福音書を手に東方へと逃れ、岩窟に地下都市を築き隠遁の時代をすごす。

「三位一体」の構造をなぜ一神教が許さないか、それは正しい説明が広くなされていないのでここに記しておく。
「神」とは「在りて在るもの」である。その存在の原因は存在せず、その存在は何者にも依存しない。誰からも生まれず、そして誰も生まない。そして人の姿はおろかどのような姿をも持ち合わせない「みえぬ存在」、つまり「非物質」である。肉体を持ったイエスを神の子とするのはイエスを媒体として神を物質化することである。物質化された神と神格化されたイエスは「同質」となり人々は目に見えるイエスを直接「神」として見てしまう、ここですでにキリスト教が創造主をおいてほかに神はなしとする一神教の原則から外れたことになる。ユダヤ教、原初キリスト教、後のイスラ―ムにおいても預言者(アダム、ノア、アブラハム、モーゼ、ダヴィデ、イエス、ムハンマド、そのほか大勢)は神の言葉を託されただけであり神そのもの、或いは同質などとはされていない。また、神像やイコンのみならず偶像とはあらゆる物質がそれになり得るのである。肉体とてその内に入る。人の子が何物かに価値を置き固執し、そのために自己や他人を、社会を、国家を犠牲にささげることこそが偶像崇拝である。そして現代、最も身近な偶像は貨幣である。

じつは三位一体の構造は大昔からあった。

太古、地中海沿岸からオリエント、インドに根を伸ばす古代信仰や神話群に三神一体(三相一体)を多く見出すことが出来る。いずれも創造・繁栄・破壊の三相の循環の永遠性を意味する信仰であり、これは天と大地の恵み(創造)による収穫(繁栄)と枯渇(破壊)の営みに対する畏怖の形として農耕に深く関係している。その根にあるのは「再生」への強い願望で、収穫や繁栄を司る神はデーメーテールやキュレベーのような地母神として捉えられていた。ギリシア神話は特にその色が濃く、それをほぼそのまま踏襲したローマ世界にも「三神一体」と「地母信仰」が継承された。
そして信仰が信仰として在りつづけることはなく必ずや政治が影響する。古代国家の政治が神の名を騙ることでなされてきたことがそれを物語る。そこで漏れることなく見られる形が「支配者・神官・信託」、それは支配者の意向を神官の口から信託と偽って吐くことであり、キリスト教の「父・子・精霊」の関係の原型を見ることが出来る。

三位一体というラテン語を最初に使ったのは二世紀後半にカルタゴ(現チュニジア―北アフリカも多神教的地盤にキリスト教が浸透した地域である)で生まれたテルトゥリアヌス、彼はキリスト教徒であり法学者であった。ストア派哲学に基づく法精神をふんだんに盛り込んだラテン語のキリスト教著作が彼によって残され、その中にあった言葉が「三位一体-Trinitas」である。この構造を以って国家を統治することの有効さをよく知っていたローマ人たちがこれを見逃すわけがなかった。地中海の地にもとからあった三神一体構造がこうして三位一体として生まれ変わり、ニカイア公会議を機にキリスト教の礎石となった。

地母神と結び付けられたのが聖母マリアであった。「人を産むもの」か「神を産むもの」の論争が行われ「神の母」との決着がつけられたのは431年のエフェソス(現トルコ・エフェス)公会議であるが、この地はかつてのアルテミスを豊穣女神と崇める地母信仰の中心地でありキリスト教の浸透後はマリア信仰がそれに取って変わった場所でもある。マリアを「神の母」とするに明らかに有効な場所で持たれたこの公会議では「人の母」たる見解を崩さなかったネストリウスが異端とされエジプトに追われた。

一神教での「再生」とはこの世での仮の人生を終えたものは肉体を離れて真の人生を迎えることを指す。しかしキリスト教での「復活」の描かれ方はこの世での肉体の再生の意味が強い。これには古代信仰に脈打つ「再生への願望」が少なからず影響している。


1991年、ハムザ師の翻訳が突然中止された。政権や軍の幕僚が交代しそのほかの政治的な動きが複雑に絡んでのことだがその後ヴァチカン法王庁から買取の打診があろうとカーター本米国大統領が見せろと言おうと軍部は頑として受け付けなかった。バルナバス福音書は軍部の保管庫に閉ざされてしまう。
翻訳が済んでいない残りのパピルスのうち数枚のコピーがハムザ師の手に残るのみとなるも奇跡とはこういうものなのであろう、その中にはこの福音書の兄弟ともいえる写本の在り処が記されていた。

その場所はイスラエルに占領を受けるシリア領ゴラン高原、サウジアラビア北部にあるトゥル山の修道院、北イラクのザホの三箇所、つまり最初の一枚に書かれていたようにこの福音書は全部で四書あるという。

ゴラン高原の文書の位置はダヴィデ王に纏わる遺跡の地図とともに記されていた。シリア領でありながらイスラエルに不当に占領されているゴラン高原でこの文書を探すためにハムザ師が協力を求たのはかつてイスタンブールの大学の研究室に勤務していたころ学生であったヴィクトリア・ラビン、在任中に暗殺されたイスラエルの首相イツハク・ラビンの孫娘であった。彼女が発起人となりドイツ企業の提供をつけ遺跡探索・発掘が進められた。2002年、バルナバス福音書の「ゴラン写本」が見つかった。同じくアラム語の古シリア文字による記述、そして同じ内容、同じ神の言葉…

2007年にサウジアラビアにあるという写本もアラブの軍人によって発見された。北イラクのものはいまだ発見されていないという。


「ゴラン写本」をハムザ師が翻訳し、ユダヤ教徒であったヴィクトリアはそれを読むとイスラム教徒としての道を選ぶ。
そしてエチオピアから来たという何者かの手にかかりヴィクトリア・ラビンは命を絶たれる。

バルナバスの福音書を西洋は歓迎しない。ハムザ・ホジャギリはこの後に多くの死を目の当たりにすることになる。以下次号。



迷える魂に光を、迷わぬ魂に力を、迷わす魂に雷を与えよ―






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