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人生に相渉るとは何の謂いぞ

「日々平安録」の一節である。
娯楽小説には内容が無い、とすれば、純文学には内容がある、ということに当然なるのだと思うが、さて、その内容とは何だろうか。
古い言葉だが、「人生に相渉(わた)る」ものが、その「内容」ではないか、と取りあえず考えられる。とすれば、山本周五郎あたりの小説を読んでその人の物の見方が変わり、すなわちその人の人格の一部に変化が起こったとすれば(それが現実にはほとんど影響はしなくても)山本周五郎の小説は、その人にとっては純文学だった、と言えるのではないか。もっと純文学らしい作家を例に出そう。志賀直哉の作品は、それを読む人に「志賀直哉の目」で見た世界を見せる。その目を一度経験したら、それ以降は、もとのままの世界の見方はできなくなるだろう。もちろん、そういう経験(体験というべきか)をするのは、ごく一部の人間だろうが、そこが純文学と娯楽文学の違いではないか、と思う。
つまり、本当の意味での純文学は、それを読んだら、ほんの僅かな部分の変化ではあっても前と同じ人間ではなくなる、というものではないだろうか。(つまり、作品の質の面と読み手の質の面の両面が問題になるわけだ。)
私の場合、それが明確に(自覚的に)現れたのはドストエフスキー体験であったが、たとえば小林秀雄や三島由紀夫の評論なども私の「世界の見方」に大きな影響を与えている。
そういう大げさな話ばかりだと偉そうだから、もっとささやかな、しかし私の精神史の上では大きな影響を与えた例を言うと、みつはしちかこの漫画「小さな恋の物語」である。
中学生か高校下級生くらいのころだと思うが、姉の雑誌に載っていたそれを読んで、私の世界観はがらりと変わったのである。それまでの私にとって世界はただの「芝居の書割」にしかすぎず、何の感銘も与えないものだった。ところが、その漫画の中の雨の東京を描いた一こまで、「自分を取り巻く世界、特に自然は『美しく』『詩的な』感動に満ちたものだったのだ」と初めて理解したのである。私が詩情というものを生まれて初めて理解した瞬間だったかもしれない。その後は、詩(もちろん短歌や俳句や漢詩も含めてだ)そのものも好きになったが、何より、「世界(風景)を眺めるだけで感動できる」という素晴らしい精神的財産を、その瞬間に私は与えられたのである。ある意味では、彼女は私の最大の恩人かもしれない。私の内面的人生を大きくグレードアップさせてくれたのだから。もちろん、山岸涼子(本当はニスイの「りょう」)や萩尾望都の漫画なども大きな精神的財産を与えてくれたが、「精神革命」に近い影響は、この経験が最初で最大のものだったと思う。
こういう、「その人の世界(の見かた)を変える」経験の有無が純文学と娯楽文学の違いだ、と仮定するならば、私にとっては「小さな恋の物語」は純文学であったと言える。


(以下引用)


 昔、三島由紀夫アイラ・レヴィンの「ローズマリーの赤ちゃん」を論じて、作者の技量は恐るべきものである。日本の純文学雑誌に書いている「作家」の何百倍もの技術がある。しかし内容のなさも恐るべきものである。まったく何もない。内容の一切ない小説を技術だけで読ませてしまうという一種の産業としての娯楽小説という分野ができてしまっているというようなことを論じていた。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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