特に私はデカルトを、尊敬する思想家のベスト3に入れている人間なので「デカルト的呪縛」という失礼な言い方には反発せざるを得ない。
「自我」というものを「存在しない」と見る「めい」氏から見れば、デカルトは思想的敵なのだろう。だが、自我の存在しない人間とは人間ですらない。単に、我々の精神や「自己認識」は相互関係で変動するだけで、それは自我が存在しないなどという馬鹿な結論にはなるはずがない。つまり「デカルト的呪縛」とは、勝手に自分で自分を呪縛するだけの話である。デカルトとは何の関係もないことだ。
だが、下に引用した中で、ホッブズの言葉(赤字にする)は熟読玩味する価値がある。
「力と欺瞞は戦争状態における二つの主要な美徳である」とすれば、資本主義とは「資本家の消費者への恒常的戦争状態」でもあるわけだ。DSが全人類の99%の敵である所以だ。
(以下引用)
「デカルト的呪縛」からの解放 [思想]
4年前、平成14年2月21日に正気煥発板に書いたものを転載しておきます。
私が大好きな川喜田二郎氏の一文も入っていますので。
(転載はじめ)
「構造改革」とセットで語られる「努力したものが報われる社会」という言葉に違和感を感じます。いま「努力」というとき、朝から晩まで働く勤勉さを意味しない。そうやっていても首を切られるときには切られてしまう。夫婦、家族、さらに親族まで巻き込んで身を粉にして働いてきたのに、今いよいよ厳しい状態に追い込まれている自営の友人も身近にいます。まっとうさが取り柄の友人です。時代の波といえばそうかもしれないが、結局、声を荒げて人を押しのけて進むことのできる人間が幅を利かすような世の中になりつつあるのではないか。祖父の代からの選挙地盤を受け継ぎ、「努力」とはあまり縁のなかったような小泉首相の口から出るその言葉は、いかにも白々しく聞こえます。
戦後、経済発展による基本的欲求の一応の充足は、「貧しさ」からの脱却と抱き合わせだった「上昇志向」からかなりの日本人を解放したように思えます。「一億総中流」となった時点で、「上昇志向」は、全体からすればごく限られた「野心家」に限られるようになった。「努力したものが報われる社会」の掛け声は、「野心家たれ」との叱咤激励とも聞こえます。果たしてそういう社会が「いい社会」なのかどうか。
ホッブズは言います。
≪戦争状態とは戦闘行為が行われている状態のみをいうのではない。争おうとする意志が示されていれば、それは戦争状態といえる。すなわち、戦争の本質は、《平和》へと向かう意志のない状態にある。それは、悪天候とは一度や二度の土砂降りを指すのではなく、雨の降りそうな日が幾日も続く状態をいうのと同じである。≫
≪各人の各人に対する戦争状態においては、正邪とか正義不正義の観念はそこには存在しない。共通の権力が存在しないところには法はなく、法が存在しないところには不正はない。力と欺瞞は戦争状態における二つの主要な美徳である。≫
≪戦争状態においては、各人が自分で獲得し得る物だけがその人の物であり、しかもそれは、それを保持しうる間だけに限られる。≫(「リヴァイアサン」第13章)
ホッブズによればそうならないための歯止めとして持ち出されたはずの「権力(国家意志)」が、今の日本では、経済のグローバル化にあわせて、むしろその歯止めを取り払う方向に動き出している。ホッブズが「観念」として想定していた社会を「現実」化しようと躍起になっている。「いい社会」とは、こうした方向とは対極にあるのではないでしょうか。
以前も引いたような気がしますが、「あー、この感覚なんだ」と気づかせてくれた文章があります。川喜田二郎著『「野生の復興」デカルト的合理主義から全人的創造へ』(祥伝社 平成七年)の終章です。
* * * * *
・・・・・管理社会の中で育った個人主義者は、他人を押しのけてでも自分が上に立ちたいという権力欲の虜になりがちである。親子・夫婦・友人たちとの、もともと持ち合わせた素直な人間らしさよりも、この権力欲を最優先する。そうして、それがもともとの偽らない人間性だと信じ込みたがる。
・・・・・文明の毒気に当てられてもけっして崩れない、鍛えられて逞しい素朴人を、いかにして育て、保護するか・・・
・・・・・(自分にとって未知なひと仕事を、白覚的に達成することによって、人の心は)この世が瑞々しく見えてくる。青春が甦る。
馥郁たる香りがどこかから匂い、万物に愛と不思議を感ずる。利己心も利他心も、それぞれが大切な大自然からの授かりものと感ずる。どんなに状況が変わっても、その状況の中で主人公でいられる。しかも「私は山川草木のひとつである」という、言いしれぬ謙虚さを覚える。
自分のことを、ごく当たり前の人間だと感ずる。たとえば、死ぬことはひじょうに怖い。なぜなら、もともとそう怖れるようにこの世に送り出されたからである。ただ、死ぬのは怖くても、そのくせあまり生命に執着していない。
それはどうやら、自分が死んでも、私を包んでいた大きな伝統体は、まだまだ生き続けていてくれるからである。
なんと、これが安心立命というものに近いのかもしれない。
ただ、私が今ハッキリ言えることは、誰もがあのヘゲモニズム(常に他より上を目指してやまない覇権主義)の地獄から抜け出し、それぞれに安心立命を得た方がよいということである。
このような内面体験の一つの大きな特色は、もはや「自我」という固い観念の穀を内側から叩き破って、広い世界の自由で新鮮な空気を深々と呼吸していることなのである。
「自我」ではなく、知・情・意いずれをも備え、肉体そのものである「己れ」として生きている。
しかもその「己れ」は、そう自覚した方がよい場面でだけ存在するのであって、それが必要でなくなったら、いつでも「己れ」を退場させてしまう。つまり「己れ」は実体ではないのであって、方便として存在するだけなのである。
眠くなったら、「己れ」などなくなってしまう。仕事に打ち込んだら無我の境地になる。彼女に首ったけになったら、我を忘れる。何かの使命を感じたら、献身をも恐れない。こういったことは、誰でもよく知っているではないか。
ならば、それを正直に受け容れたほうがよいのではないか。
文明は不幸なことに、方便としてしか存在しない「自我」という観念を、何か固定した実体のように錯覚させてしまった。そうして、それによって、一方では「自我」の消滅におぴえつつ、他方では留まることをしらぬヘゲモニズムという奇形児を生んでしまったのではないか。
* * * * *
私は、「戦後教育の見直し」の最終の射程を、「方便としてしか存在しない『自我』という観念を、何か固定した実体のように錯覚」してしまうこと、すなわち「デカルト的呪縛」からの解放まで考えたいと思っています。「デカルト的呪縛」に囚われて上の文章を読むと「宗教的」と言われる事になりそうです。
「大東亜戦争肯定論」に対して厳しい評価を下す「諸君!」の長尾龍一氏の文章読みました。
「長尾龍一」で検索して下の文章を見つけました。
* * * * *
長尾龍一「リヴァイアサン」講談社学術文庫 1999.5.3
--------------------------------------------------------------------------------
読書のよろこびの一つには、日頃漠然といだいている思いに明確な言葉を与えてくれることがあります。この「近代国家の思想と歴史」の副題を有する「リヴァイアサン」はまさしく、そうした一冊です。
著者の立場は「はじめに」において次のように宣言されます。
≪世界の部分秩序である国家を「主権」という、唯一神の「全能」の類比概念によって性格づける国家論は、基本的に誤った思想であり、また帝国の「主権国家」への分裂は、世界秩序に責任をもつ政治主体の消去をもたらした、人類史上最大のあやまりではないか≫(p6-7)
著者はこの立場をホッブス、ケルゼン、シュミットの三思想家によりながら、明らかにしてくれます。とくに、著者の最も共感できるケルゼンの思想は興味深く、かつ分かりやすく説いてくれます。
著書は二部に分れ、第一部の「国家の概念と歴史」を読むと、「主権」や「民族」といった考えが、近代の国際政治の中で登場してきた新しい考えであることに、今更ながら驚きます。
著者が引用するケルゼンの次の言葉は最近の愛国者、民族主義者、狂信者に聞かせたやりたいですね。たぶん無駄でしょうけれど。
≪未開人は特定の時期に、祖先の霊の化体したものであるトーテムの聖獣の面をつけて、ふだんは厳しく禁じられている行為を許される。これと同様に文明人も、神や民族や国家の仮面をつければ、私人としては小心翼々として抑制しなければならない衝動を大っぴらに満たすことができる。個人が自慢すれば軽蔑されるが、自分の神や民族や国家は公然と賛美することができる。ところが、これも自己の慢心を満足させているにすぎない。また私人としては他人を強制し、支配し、さらに殺すことはけっして正当化されないが、神や民族や国家の名のもとでなら、至上の権利としてこれらをなすことができる。神が彼にとって「我が」神であり、民族が「我が」民族であり、国家が「我が」国家である理由はまさしくここにある。彼は神・民族・国家を愛し、それと自己とを同一化しているのである。≫(p233)
http://www.iscb.net/mikio/9905/03/index.htm