「ジェンダーの平等」で、女性の「おっさん化」、男性の中性化が進んでいる。
男性ホルモンや女性ホルモンが出にくくなり…
女性は子どもを産みにくくなってきており、男性は精子の数を減らしている。
これらの「不都合な真実」を「運動家」たちは、「差別だ」と言って封殺してしまう。
これは「民主主義」なのか?
ファシズムではないのか?
…というか…
あからさまな人口削減計画にしかみえない。
少なくとも、バイオテクノロジーで「産みの苦しみ」なく…
「好きな遺伝子」を選択するなどして…
まるで、ガチャポン回してゲットするがごとくに…
子どもを得る時代を準備しているようにみえる。
そういう時代の準備が、「人権」とか「人間の尊厳」の名の下に行われていることに、
わたしは、強烈な違和感と不快感を覚える。
そういう時代の到来は、「子どもの人権」を侵害するものではないのか?
読売には、水野紀子・白鳳大教授のコメントが記されていた。
>判決が、同性婚を認めるかは国民的な議論が必要としたのは妥当な判断だ。
差別や偏見は許されないが、同性婚の容認は別の視点から考える必要がある。
同性どうしのもとで精子や卵子の提供を受けて生殖補助医療で生まれた子供が将来、
育ての親と遺伝的つながりがないと知れば、ルーツに苦悩を抱えかねず、
子どもへの影響が心配だ。
婚姻は社会のあり方と密接に関連し、慎重な議論が求められる。
いわゆる「運動家」たちの議論は、短絡的でご都合主義ゆえに独善的で深慮に欠けている。
ファシズムの特徴のひとつは、「敵」の存在である。
「運動家」たちが、「女性の敵」なることばを好むのも、
彼らが対話でなく、相手を屈服させることが目的になっているからである。
「敵」が強大であるほど、彼らの「被害者意識」と「正義感情」は刺激され、結束が高まる。
彼らは集団心理のなかで、相互に自己陶酔し、自尊心や自己愛を満たすのである。
ゆえに、彼らの「運動」は、ヒステリックになりやすい。
「民主的な議論」とは、とりあえず自己主張を相手に対し、「自己開示」するものの…
まずは、ぐ~んと「譲歩」して、
広く、だれしもが受け入れられる「一致点」を探す努力をするものである。
たとえば、
「夫婦別姓の是非は、いまおくとして、旧姓をもっと名乗りやすくするのには同意していただける?」
…のような態度である。
憲法裁判をして、「黄門様の御印籠」のように判決を振りかざして相手を屈服させるという戦略は、
ファシストの思考であり、民主的とは言い難い。
そういう行動が許されるのは、だれの目にも耐えがたい不条理があるようなときである。
「パートナーシップ制度」など、社会からの「歩み寄り」があるにもかかわらず、
それらを「不十分」として簡単に全否定する行為は、相手方の尊厳を傷つけるものである。
欲深さやワガママは、民主主義の対極にあるものである。
「両性の平等」ワンイシューで、
自分勝手な一面的な解釈をただゴリ押しする姿勢はクレーマーのそれである。
さてさて…「同性婚」が認められたとしよう…
すると、他の形の婚姻も認めないと「不平等」ってことにならないだろうか?
たとえば、「獣婚」である。
いずれ、バイオテクノロジーは、人間に限りなく近いサルを作り出したりするであろう。
AI が「合理的思考」で、「獣婚」を認めたとして、人々は受け入れられるのか?
「感情」の問題は、「合理的判断」とは、しばしば乖離する。
性犯罪で、犯人を捕らえようとすると、被害者感情が傷ついてしまうというジレンマがあるが…
「同性婚」や「獣婚」あるいは、そのうち「AI婚」などが出てきた場合、
人々が違和感や嫌悪感を覚えないという保証はなく、それゆえに新たな差別も生みかねない。
「反差別」がすでに「差別」になっており、また、目的の成就が「新たな差別」を生みかねない…
二重の意味での「差別拡大運動」になっているのが、現実の「反差別運動」ではないのか?
それは、ニーチェがファシズムに時代に指摘した
「キレイゴト」の裏にある自己陶酔・自己弁護が隠れていることの偽善と欺瞞にあたるものだ。
デジタル化やシステム化で、人間個人は、ますます「家畜化」し、「無力化」が進んでいる。
人間は、もっと野性を回復することを考えるべきであり、
バイオテクノロジーに寄りかかって初めて成立するような「婚姻制度」を安易に認めるべきではない。
そして、以前にも言ったが、同性婚は必ず悪用される。
大金持ちA と大金持ちB が、「同性婚」すれば、「政略結婚」以上に富を集積できる。
子どもは、「遺伝子バンク」と「借り腹」があればよく…
あるいは、いっぱい「彼女」をつくって子どもを産ませ、「慰謝料」や「養育費」を払っておけばよい。
こんな「格差拡大・固定」政策を「人権」だの「平等」だのということばで正当化する行為に、
わたしは、いかなる「共感」も「理解」も示すことはできない。