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「体育」がなぜ「競争」科目になっているのか

私もひ弱で運動音痴の子供だったため、運動会や体育の授業のたびに屈辱を味わって、それが一生消えない劣等感・虚無感の原因になっていると思うが、学力試験などと違って、多くの人の目の前で屈辱的な姿をさらすというところに、その原因がある。学力など、誰がどういう成績なのか、当人以外には分からないし、多少成績が悪くても「俺はまだ本気出していないだけ」と言い訳もできる。「教師の教え方が悪い」とも言える。
で、小学校の場合は、早生まれと遅生まれの間に1年近くもの体格差や運動能力の差があるのに、同じスタートラインで競走させられるわけだ。どうしても、早生まれ(実質的には同学年中の遅生まれと言うべきだろう。)の子供は、「学年が違う連中と勝負させられる」のと同じことになる。
まあ、子供だから、衆目の前で恥辱にさらされることの心理的影響は、ほとんど一生残ると思う。いわゆるトラウマである。多少他教科の成績が良くても、それで褒められても、その痛みは埋められないだろう。世の中には案外スポーツを憎悪している人間は多いと思う。(観る娯楽としては私もスポーツは大好きである。しかし、それは「選ばれた人間」のやることだ。)
もちろん、体育が、本当の意味で「体を健やかに育てる」教科ならば、実に結構なことであり、あるいは小学校や中学校の教科の中で一番大事かもしれない。健康で強い体は一生の宝である。
だが、その「体育」が、実は「競争の科目」になっていることが最大の問題なのである。スポーツとは基本的に競争なのである。つまり、「体を健康に育てる」ことなど最初から無視されて体育のカリキュラムは組まれている。「子供の興味を高めるため」という名目で、あれこれの「スポーツ」、つまり「競争」をさせるのが体育という教科なのである。
まあ、「体育」など、運動場を子供に解放して、好きなように歩いたり走ったりボールを蹴ったり投げたりさせておけばいいのである。つまり、「体を動かし、骨格と筋肉を発達させ丈夫な体を作る」ことが体育の本当の第一義だということだ。もちろん、その中から「サッカーをやりたい」「野球をやりたい」「空手をやりたい」「短距離走の時間を測りたい」というグループができれば、それも勝手にやらせればいい。教師は、危険が無いように見守り、管理するだけでいいのである。
「競争」をさせることでメンタルが鍛えられると思う父兄も多いと思うが、それは子供の心の脆弱さをあまりに知らないものである。一度の失敗が一生の破滅の原因になる可能性があるのが、人間(特に子供)の心理なのである。

(以下引用)

徒競走を実施する意味がないのでは?「順位をつけない運動会」にモヤモヤする保護者たち


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