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自我と認識

或る皮肉な作家が「我思う、ゆえに我あり」は、正しくは「我思うと我思う、ゆえに我ありと我思う」と言うべきだ、と書いていたが、まあ、自分という存在を自分が意識するのは、その意識そのものによってであるから、意識が無ければ自分という存在は「無いも同然」であることは誰でも認めるだろう。つまり、それが「我思う、ゆえに我あり」であって、眠っているときや失神している時でも自分という存在が存在しないなどとはデカルトも思ったはずがない。端的な言葉は警句として人口に膾炙するが、「言わなくても分かることは言わない」から、こういう揚げ足取りにも遭うわけである。
そして、「我思う」の中には実は「無意識的思考」がある、と喝破したのがフロイドである。我々の思考は無意識の大海の中に浮かぶ小舟のようなものだ。単純な話、我々は自分の視野に入っているもののすべてを「視て」いるわけではない。その中で注意を引いた部分を「見て」いるだけだ。
宮本武蔵の「五輪の書」の中には「観」と「見」のふたつの見方のことが書いてあるが一流の武芸者は、「広く全体を見る」見方である「観」の細部にも注意を怠らないわけである。だが、我々凡人は実はほとんどの場合「見れども見ず、聞けども聞かず」なのである。「見えず」や「聞こえず」ではなく「見ず」や「聞かず」であるのは、実はそこには「見よう」「聞こう」という意思が存在していないからだ。何となく眺め、何となく音を聞いているのである。おそらく一流の指揮者がオーケストラの演奏を聞(聴)いている聞(聴)き方と、素人が聞いている聞き方には雲泥の相違があると思う。
まあ、これは生まれつき聴力の弱い自分だからより切実に感じるのだろうが、他人が話すことなど、その論理の流れを追っていたら、まったく聞き取れるはずがない、と私には思えるのである。少しでも疑問を持ったら、その疑問が意識の中心となり、その後の話の部分など意識の外になるのだから、聞き取れるはずがない。つまり、思考と会話を同時に行うのは私などにはほとんど不可能なのである。
読書は、疑問を持った箇所でいくらでも読むのを停止して思考できるから安心なものだ。つまり、紙の書物が消滅した社会では、私のような人間は精神薄弱者施設に入れられることになるだろう。まあ、その前に「ボケ老人」扱いか。



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酔生夢人
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仙人
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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