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有名思想と、その本質

世界の有名思想、私に言わせれば「ブランド思想」というものは、その本質はひと言で言えるし、ひと言で言えない思想はロクなものではないとすら私は思っているが、「専門家」はその事実を絶対に口にしない。それは彼らの存在価値が、その思想を秘儀化することで守られているからである。

たとえば、マルクスのマルキシズムは、あの膨大な「資本論」を読まないと議論の入り口にも立てないような印象をマルキスト達は世間に植え付けているが、その本質は「資本家たちが民衆から収奪しているから、民衆は常に貧乏で底辺に押さえつけられているのである」という一文で示せる。

キリスト教とユダヤ教はより簡単で、どちらも「創造主(唯一神)へ絶対的に帰依せよ」という命令である。つまり、この両者は本質は同じだと分かる。イスラム教も同じ宗教だ、というのも分かる。その違いは神への「経路」としてユダヤ教は「儀式や宗教的規則」を重んじることで宗教的指導者たちの権威を守ったのに対し、キリスト教は内面での信仰こそを本質として「神との直接の対峙」が可能だとし、それによってユダヤ教から迫害されたわけだ。つまり、その意味ではカトリックによる「教会を神への仲介者とする」やりかたはキリスト教の歪曲だ、となる。イスラム教も、「モハメッド」を神への仲介者とすることや繁文縟礼はキリスト教やユダヤ教の変形にすぎない。
つまり、キリスト教世界とイスラム教世界の対立は愚の骨頂であり、「仕組まれたもの」だと分かる。ユダヤ教とイスラム教の対立も同様の「兄弟げんか」だが、現にガザのジェノサイドという悪魔的行為がこの現代に存在している。

で、いい加減な知識であるとお断りしたうえで言えば、フロイトの「超自我」思想を「集団的無意識」に変形したのがユングで、吉本隆明の「共同幻想」も「集団的無意識が個々に抽象語になったもの」と言えるかと思う。つまり、たとえば「国家」とは「実在物」ではない、つまり物理的存在ではないという点で幻想だが、その幻想は実に巨大な力で全国民を縛っているのだということだ。

ただ、念のために言えば、私は以上に述べた個々の存在が価値がないとは言っていない。価値がないどころかすべて巨大な力を持っているのである。
問題は、上に書いたように、これらの思想の本質は実に単純なのだが、「専門家」がそれを難解にすることで、自分たちの地位や権力や収入の土台にしていることだ。さらには、これらの「本質」が理解されないことで、無数の対立や争闘や殺戮が生じているのである。

楽観的に見るなら、「地球温暖化詐欺」や「新コロ詐欺」で科学者や医学者のインチキぶりと卑怯さが露呈したことで、今後の世界では、多くの界隈での「専門家」が本物か偽物かの人々の判断が厳しくなるだろう。いや、それでないと、これまでの世界が払った膨大な犠牲が報われない。

最後に告白しておくが、私はユングの著作も吉本隆明の著作も一冊も読んだことはない。だから彼らの思想について私が書いたことは単なる想像である。
「資本論」など、覗いたことすらない。読む意義すら認めていない。失礼なたとえで言えば、中身を見なくても、表紙に女性のヌードの絵や写真があればエロ本だと分かるのと同じで、見るまでもないわけだ。ただし、私が「社会主義者(穏健的社会主義者・反暴力革命主義者)」であるのはこれまで何度も言ったとおりである。共産主義は(社会主義全体への偏見まで蔓延させた意味で)社会主義の敵とすら言っていい。



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生と死についてのいくつかの想念

中学生向けの本である「死をみつめて」という哲学書というか、雑文集を読んでいて、いろいろと考えたので、メモだけしておく。これは、この本の内容ではなく、そこから触発された私の想念である。

1:「天上天下唯我独尊」は、釈迦の教義には反する困った作り話というかセリフだが、これが、釈迦が生まれたまさにその時に言われたことを考えると、「この世界で、(私という個人にとって)私という存在、私の生命こそが至上の価値である」という、誰にとっても当たり前の言葉になる。そして、それは「自分が生きているということが自分にとっては唯一の現実である。自分が存在しなければ世界は存在しない」という当たり前の認識になるだろう。人生とは自分の死という唯一の消失点に向かって歩いていくことであり、しかも生きている間、その消失点は(空想として以外)ほとんど見えないのである。

2:死が眼前に見えた時、人は恐怖に襲われ、生命の希少さと貴重さを意識する。これを「生命飢餓感」という言葉で言ってもいい。(岸本英夫という人の用語)

3:キリストが処女から生まれ、死から復活したという「崇高なインチキ」。(埴谷雄高)

そのほかに、地球の生命体の中で自分の同類を殺すのはほぼ人間だけである、ということ(「私は、私達人間ほど、他の生物をやたらにとって食い、そして娯楽のためだけにも殺す地上最凶悪の生物はいないと繰り返し述べてきていますが」埴谷雄高)、そしてそのことをほとんど誰も不思議に思わないということの不思議を考え、そこに政治や組織や権力の発生機序を少し考えたのだが、まだ思想的萌芽にすぎない。手塚治虫の「火の鳥」に、これに近い内容の話があったかと思うが、やはりこれは文章によってこそ明確になる思想だろう。

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「精神の帝国主義」

まだ構想段階だが、「精神の帝国主義」という思想を文章化しようと思っている。
そのきっかけは、「ローマ帝国の産業は何だったか」という疑問が頭に浮かび、答えは「ローマ帝国に産業は無い。強いていえば軍隊が産業だった。その仕事は収奪だった」ということである。これは近代西洋の帝国主義はもちろん、アメリカでのロックフェラーやモルガンの仕事が「産業界の征服事業」であったこと、そして現在の金融資本主義が「金融による民衆支配と収奪」であることに通じている。これが「精神の帝国主義」である。つまり、「労働は奴隷(属国)がするもの」という思想だ。その萌芽はギリシャ文明やマケドニア文明にあり、ローマ帝国で完成され、その精神は西洋文明の根底である、ということだ。
もちろん、西洋文明だけでなく、基本的に封建主義社会・身分社会では、この「精神の帝国主義」「労働は奴隷がして支配者層は遊んで暮らす」という思想が根底にあるが、東洋ではそこに儒教や仏教の影響による「仁慈」の思想があったのが西洋との違いである。西洋の覇道一辺倒に対し、東洋には王道思想があったわけだ。それが完全に「精神の西洋化」がされてきたのが現代だろう。エゴイズムの集団化・組織化と武力化、法の歪曲と悪の隠蔽と逆に露骨化、弱者軽蔑と無慈悲さ、宣伝広告や公教育の利用などがその特徴である。

まあ、改めてまともに文章化しなくても、その内容は上に書いた思想でほとんど尽きてはいる。

念のために言えば、帝国主義は「主義」なのだから、それに「精神の」を付けるのは冗語(無駄な付けたし)だという批判をする馬鹿に対して、それなら「精神病としての帝国主義」と言っておく。支配者のそれはチャップリンの「独裁者」で戯画化されている。ただ、それは国民一般の精神に内在しているので、あえて「精神病」とは言わないだけだ。自己愛や利己主義そのものが精神病ではないのと同様である。そして組織化した(国民運動化した)帝国主義は国民全体を狂気にする。

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一神教世界での反戦思想の土台の不在

娯楽記事中心の私の別ブログに書いた記事だが、かなり的を射た内容だと思うので、このブログにも転載する。

(以下自己引用)

前に「詩情と笑い」という一文で「ナルニア国ものがたり」をつまらないと批判したが、その理由を作者が詩人でありユーモアが欠如しているから、とした。その部分を後で自己引用するが、その前に、少し考えが深化した気がするので、それを先に書く。それは「一神教には反戦思想は無い」というものだ。
これは当たり前の話で、一神教というのは、その神を信じている者は善、信じない者は悪であるという思想であり、つまり、その神を信じない相手がどういう国や民族であろうと、それは悪なのであり、戦争して国土を奪ってもいいし、その国民を皆殺しにしても奴隷にしてもいい、となる。つまり「帝国主義は一神教文化圏の必然」なのである。では、一神教どうしの国と国はどうなるか。それはまず根底に善と悪の戦いという「戦争完全肯定思想」があって、さらに「相手側はこちらを攻撃しようとしているから(とにかく相手は悪だから)、戦争するしかない」というプロパガンダでいい。これも世界史で常態的に見られる戦争理由だ。ちなみに、バチカンが戦争中止に動いた例は無い、と思う。まあ、形だけの仲裁行動はあるだろう。

これが「ナルニア国ものがたり」と何の関係があるかというと、この話の中で「戦争の理由」がまったく書かれていないからである。単に「氷の魔女」は悪であり、それがこちらを襲ってくるから戦うべきだ、というだけだ。なぜ氷の魔女が悪かというと、生き物をどんどん氷に変えるから、という話で、なぜ氷の魔女がそうするかの説明はない。まあ、氷の魔女だから、世界全体が氷漬けのほうがいいのだろう。
何だか、欧米諸国がある国を攻撃する時に似ている。つまり、存在そのものが悪だから退治する、という無茶苦茶ぶりである。その理由に「独裁国家だから」というのがあり、それは国内問題で外国の口出しすることではないだろう、という反論は、「いや、その国民のためという『人道的理由』なのだから、その政府を倒すのは当然だ」となる。

まあ、「ナルニア国ものがたり」とも「一神教」とも話がずれたが、そのまま載せておく。
どうせ思考の途中の思考素材の一部である。宗教論はいずれまた考察する。

ここでは、日本の童話のような人道主義や「万人愛」は一神教世界の児童文学には見られない、としておく。動物を擬人化しても、それは「主人公たち(白人)の側」だから善とされるにすぎない。敵側の動物は悪なのである。つまり、最初から善の側(白人側)と悪の側(非白人側)が区別されているわけだ。有色人種も「白人の味方」である場合に善とされるのである。

なお、宗教が信じられなくなっても、その宗教の影響下で書かれた児童文学がその国民の成長途上で精神的に影響を与え、深層心理になるのである。つまり、その国の「物語」文化が国民性や民族性になり、また新たな文化の土台となり永久化する。

(以下自己引用)

「ナルニア国ものがたり」という、有名な児童文学があって、名前だけは昔から知っていたが、なぜか読む気になれなくて、この年(何歳かは特に秘す)になって初めて読んでみた。
私は児童文学は好きで、名作と呼ばれているものは、何歳の人間が読んでも面白いはずだ、という考えだが、これが、まるで面白くないのである。子供向けの本だから当然だ、とはならない。優れた児童文学や童話は大人が読んでも面白いのである。
「ナルニア国ものがたり」がなぜ面白くないかというと、私の考えでは、作者自身が面白くない人間で、つまり「ユーモア感覚」がないからだろう、と思う。作者はC.S.ルイスという、詩人としては有名な人らしい。

(中略)

なお、「ナルニア国ものがたり」第一巻だけは我慢して最後まで読んだが、第二巻は最初で放棄した。第一巻の「衣装箪笥の奥が異世界に通じる」というギミックは面白いと思ったが、第二巻では、特に明白な理由もなく、いきなり異世界に行くという雑さである。そう言えば、第一巻でも、話をかなり端折っており、ライオンが子供たちを王や女王に任命したから王や女王になりました、で話はほとんど尽きている。その前に少し、氷の魔女とやらとの戦争があるが、それも簡単に終わり、描写らしい描写はほとんどない。こんな調子で全7巻の「ナルニア国クロニクル」を書かれても、すべてが単なる「説明」で終わることは予測できるのである。
まあ、その「壮大さ」の印象だけで感心する子供も多いだろうから、これが児童文学の古典扱いされているのだろう。

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「超人主義(優性思想)」は社会全体にはびこっている

エリート思想や英雄賛美思想がしばしば陥る「超人主義」について論じる前に、そもそも超人主義(超人思想)とは何か、について下の記事を引用しておく。
私は、「悪の超人主義」も、「善の超人主義」も、かなり問題を含んでいると思っている。善意の超人主義も「自分のできる分野で頑張りなさい」という、子供を「苦しめる」思想であることが多い。なぜ「頑張るのか」と言えば、この優勝劣敗の社会で生きていくためである。つまり「弱さ、無能力は悪である」という思想で、「子供のため」を思う行為が、しばしば子供を殺していないか?
まして、劣弱な人間は殺し尽くすべし、という「やまゆり園事件」が露呈した「残虐な超人主義」は、そもそもどれほどの正当性を持っているのだろうか。

先ほど読んだ或る記事の中で、ニーチェが面白いことを言っていることを知ったので、それを転載する。ただし、この後の部分では意味不明のうわごとで自由を擁護している。つまり、「超人の自由はいい自由」で、「凡俗の自由はダメな自由」ということだろうか。まあ、要はエリート主義だろう。一般人の自由は踏みにじってよい、ということか。私には単に「野獣の自由」に思える。ただ、下の引用した文章は、非常に示唆的だと思う。あるいは、これは「自由そのものの本質」ではないか。つまり、当たり前すぎる話だが、「大きすぎて目に見えない文字」として言えば、人間社会のあらゆる規範は自由の束縛なのである。

自由主義的制度は、それが達成されるやいなや、自由主義的であることをただちにやめる。あとになってみると、自由主義的制度にもまして忌まわしい徹底的な自由の加害者はないのである



(以下引用)

【インタビュー】超人への志向と弱者の否定、表裏の善悪


社会 | 神奈川新聞 | 2019年8月26日(月) 14:00


 スポーツだけではない。受験も、就活も、身分や家柄によらない自由な競い合いを支え、自己実現に導いているのが能力主義だ。一方、能力の優劣で生殺を決めたのが、津久井やまゆり園19人殺害事件だった。能力主義の得体(えたい)が知れない。哲学者の竹内章郎さん(65)を訪ねた。(聞き手・川島 秀宜)






竹内章郎さん
竹内章郎さん

 ―能力によって比較したり、評価したりすることに、わたしたちは余りに慣れすぎているような気がします。
 「既得権益に縛られず、平等に競争の機会を与えているのが能力主義です。この社会を支える『善』の側面ばかりに慣れ親しみ、能力主義が差別や偏見を生み、さらに命にまで優劣をつける優生思想につながり得るという『悪』の側面には容易に気づけない。能力主義においては、善悪が表裏一体であることに注意しなければいけません」

 ―善悪の両面性は、思想史にも残されていますか。
 「能力主義が支える優生思想は、大げさに言うと、人類史をずっと貫いてきました。オリンピック発祥の古代ギリシャのプラトンもそう。『身体の面で不健全な人は死ぬに任せる』(※1)と書いている。ルソーは児童教育のバイブルとされる『エミール』で障害者に言及し、『社会の損失を2倍にし、1人で済むところを2人の人間を奪い去る』(※2)と言った。ホッブズも平等思想をうたうと同時に『リヴァイアサン』で契約能力がない『先天性の白地(はくち)、狂人』は獣と一緒(※3)、と指摘している」
 「平塚らいてうや福沢諭吉を挙げれば、わたしたちが能力主義の『悪』の側面にいかに鈍感であるか、わかるはずです。平塚は女性解放運動の『善』なる印象が強いですが、『普通人としての生活をするだけの能力のないような子供を産むことは、人類に対し、大きな罪悪である』(※4)と公言している。福沢は『人の能力には天賦遺伝の際限ありて、決して其(そ)の以上に上るべからず』と述べたうえで、人間の産育を家畜改良のようにせよ(※5)と提言しました。ほかにも切りがありません。結局、『悪』の側面は歴史のさまつな問題として扱われてきたのです」

 ―能力主義の極致は「超人」。超人思想を説いたニーチェも、一方で弱者を「畜群」と呼び、残酷なまでにさげすむ記述がたくさんあります。
 「ニーチェも優生思想丸出しですね。例えば『権力への意志』にこうあります。『不出来な者どもにも認められた平等権は、最も深い非道徳性である』(※6)と。耳心地のいい言葉だけを抜き取ったニーチェの名言集は、ベストセラーになりました。それは本質的なニーチェ像ではありません」

 ―やまゆり園事件の植松聖被告(29)も記者に寄せた手記で「私は『超人』に強い憧れをもっております」と書いていました。
 「社会の底流にある能力主義が表面化した事件だと感じました。起こるべくして起きた、と。能力主義に基づいた社会構造上のモデルを、わたしは『垂直的発展』と呼んでいます。スポーツもそうだが、低いから高くとか、遅いから速くとか、少ないから多くとか、結局は下から上へという発想です。ただ、高く跳ぶためには、踏み台を強く踏み込まなければいけない。超人に対する憧れは、現状の強烈な否定と裏腹な関係にあります」

 ―能力主義のアンチテーゼはあるのでしょうか。
 「『垂直的発展』のモデルに対し、『水平的展開』を大事にしたい。能力が低いとか、死に近い生という境遇において、横に伸びる世界があると思います。例えば、コミュニケーション。垂直的発展のモデルでは、言語による意思疎通を指しますが、果たしてそれだけでしょうか。福祉の現場では、水平的展開が実践されている。職員は、言葉が話せない障害者の気持ちを目つきやうなり声から読み取り、コミュニケーションを成立させています。手話のように、相当に専門的な技量を伴う。でも、能力主義の社会では、なかなか評価されません。概念化して世間に打ち出していくべきでしょう」

 ―この国は経験したことのない超高齢化社会を迎えています。現状の「垂直的発展」モデルでは限界がありそうです。
 「健康至上主義が徹底されれば、病気や障害を治癒するという観点が、いつの間にか排除にすり替わる。ナチスの健康政策と排除政策は一体でした。ナチスは高齢化社会を見通し、いかに健康的に老いるかを構想していた。高齢化が緩やかだった戦後ドイツには結局は当てはまらなかったが、『人生100年時代』をうたう日本はこれからどう進んでいくのでしょう」
 「認知症患者は2040年に800万人になると推計されています。おのずと水平的展開モデルが求められてくるはずです。そうなれば、能力主義を外側から包囲できる」

 ―ダウン症の長女と暮らす父親として、日本の障害者福祉をどう考えますか。
 「ダウン症の程度も人によってさまざまです。芸術に打ち込めたり、語学に堪能だったり。ダウン症でもこんなにできる、というメッセージがメディアを通して強調されがちです。娘は重い方です。できないことがあることに、もっと目を向けてもいいのではないでしょうか」
 「WHO(世界保健機関)の障害分類は、インペアメント(機能障害)、ディスアビリティ(能力障害)、ハンディキャップ(社会的不利)の三つがあります。日本語はしかし、『障害』しかありません。直訳すればハードルという言葉を転用している国は、ほかにないでしょう。人間に対する視野が狭いのかもしれません」





 たけうち・あきろう 1954年生まれ。岐阜大教授。専門は社会哲学、生命倫理。ダウン症の長女、藍さん(38)と暮らす。岐阜県内で共同作業所やグループホームを運営する社会福祉法人「いぶき福祉会」に設立から関わった。著書に「いのちの平等論」「『弱者』の哲学」など。



〈編注〉
※1 「身体の面で不健全な人々は死んで行くにまかせるだろうし、魂の面で邪悪に生まれつき、しかも治療の見込みがない者たちはこれをみずから死刑に処するだろう」(プラトン/藤沢令夫訳「国家」『プラトン全集11』岩波書店、P238~239)
※2 「ひよわで病気がちの生徒を引き受けた人は、教師の職務を、看護人の職務にかえてしまう。無益な生命の世話をすることに、生命の価値を高めるために当てていた時間を使い果たしてしまう。…わたしは、病弱な、腺病質な子供は引き受けたくない。…そんな生徒にむだな労力をかけたところで、社会の損失を二倍にし、社会から一人ですむところを二人奪うだけ」(ルソー/戸部松実訳「エミール」『世界の名著30 ルソー』中央公論社、P373)
※3 「生来の愚か者、子ども、狂人に法がないのは獣についてと同様である。また彼らには、正・不正を主張しうる資格もない。なぜなら彼らは、契約を結んだり、契約の帰結を理解する能力を持ったことがなく」(ホッブズ/永井道雄、上田邦義訳『リヴァイアサンⅡ』中公クラシックス、P11)
※4 「一般はなお無制限の多産について自らは何の責任も感じていません。ことに下層階級のとうてい多くの子供を養育してゆくだけの力のないのが明らかであるにもかかわらず、…無知な、無教育な厄介者を社会に多く送り出して、いよいよ貧困と無知と、それにともなう多くの罪悪の種子とをあたりにまき散らしています。…アルコール中毒者であったり、癲癇(てんかん)病者であったり、癩(らい)病や黴(ばい)毒患者であったり、はなはだしきは精神病者でありながら、子孫をのこしています。…普通人としての生活をするだけの能力のないような子供を産むことは、人類に対し、社会に対し、大きな罪悪である」 (平塚らいてう「母性の主張について」『平塚らいてう著作集2』大月書店、P336~337)
※5 「人間の婚姻法を家畜改良法に則(のっ)とり、良父母を選択して良児を産ましむるの新工風あるべし。…強弱、智愚、雑婚の道を絶ち、その体質の弱くして[心の]愚なる者には結婚を禁ずるか又は避孕(ひよう=避妊)せしめて子孫の繁殖を防ぐ」(福澤諭吉「福翁百話」『福澤諭吉著作集第11巻』慶應義塾大学出版会、P214~215)
※6 「子を産むことが一つの犯罪となりかねない場合がある。強度の慢性疾患や神経衰弱症にかかっている者の場合である。…不出来な者どもにもみとめられた平等権――これは、最も深い非道徳性であり、道徳としての反自然そのものである!」(ニーチェ/原佑訳「権力への意志」『ニーチェ全集第12巻』理想社、P217)


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紙の情報保存と電子情報

紙の出版事業が、電子化風潮によって消滅しかかっているが、紙の本でしか得られないものもある。出版は政府が援助してでも残すべき事業だろう。そして、当然、各地の図書館も全力で守るべきである。古典や伝統との接続を失った時、その国の文化も終わり、民族も別の民族になる。
それ(日本文化の消滅)が、アメリカが日本にやってきた陰謀である。
なお、電子情報は一瞬で消え、再生不可能である。

(以下引用)

中国「日本こそ中華文化の継承者だ」 日本の出版社の60年に及ぶ大事業に中国人が感嘆

古代中国から宋代までの著名な思想・歴史・文芸古典を網羅する、
明治書院の「新釈漢文大系」全120巻が、来年5月刊行の、
「白氏文集 十三」で完結する事が先日発表されました。

1960年に第1巻「論語」を刊行して以来、58年をかけた大事業で、
累計160万部を刊行。主に研究者などに愛用されてきたそうです。

このことを、中国のメディアも続々報道。
編者を務めた漢文学者の故内田泉之助氏が初刊行時に寄せた、
「どれもわが国の伝統文化を培養してきた基本的な漢文典籍である」
という言葉も併せて取り上げられています。

半世紀以上かけて、日本の出版社が中国の古典をまとめたことに、
中国から様々な声が寄せられていましたので、その一部をご紹介します。

中国「中国語の7割は日本製だぞ」 今も漢字を使う日本に否定的なメディアに反論続出

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翻訳元



■ 日本の出版社の素晴らしい活動に賞賛の言葉を送ります。




■ 日本がこうして中国の古典をまとめてるっていうのに、
  俺たちは一体何をやってるんだ! +8




■ 実際俺たちは四書五経を引き継ぐのに値するんだろうか。 +60



   ■ 唐の文化の継承者は日本だ。
     残念なことだけど、それは認めなきゃいけない。 +15



      ■ 今現在古代中国の文化により近いのは、
        実際に中国よりも日本だからね。 +1



   ■ それは違うだろ。
     99パーセントの日本人は唐時代の文献を読めない。
     ほとんどの中国人は一般的な日本人よりも、
     古代中国の文化を理解してるよ。



■ だいたい古代中国の稀覯書を探すとなると、
  日本か台湾のサイトで探さなきゃいけないからね。
  しかもサイトのデザインも綺麗で使いやすいよ。



   ■ 中国の国学研究は1970、80年代がピークだった。
     日本とは研究の発展度が違う。



      ■ 日本人と比べちゃダメだよ。
        書物の保存とか整理の面で日本人は異次元だもん。
        あのレベルをすべての人に求めるのは酷だ。



■ ありがとう日本。ありがとう日本。
  もし日本がなかったら漢や唐の文化は、
  とっくに消えて無くなっていたに違いない。 +1

海外「こんな伝統が続いてるとは…」 今も残る蹴鞠の光景に外国人感銘




■ 講談社が中国の通史シリーズを刊行してるけど、それも読む価値あるよ。




■ 日本は古代中国を重んじ、台湾は日本語を取り入れ、
  そして俺たちは……特に言うことはない……。 +10




■ 今では日本こそが正当な中華文化の後継者になってしまった。 +2




■ なんにせよ、中国の文化が広がってるのは良い事だし、超嬉しい。



   ■ 日本人が好きなのは古代中国の文化であって、
     今の中国や中国の文化ではないけどね。



■ 日本人の才能って、物を見る目があって、保存することができて、
  吸収することができて、そして改良できる部分にあると思う!
  そして欧米や中国の文化を取り入れながらも、大和魂は忘れない。 +3

「何で日本はこうも特殊なんだ」 米誌が映した伝統とモダンが融合する日本の姿




■ こういうのは日本の平常運転だぞ。日本人は古代中国が大好きだし。




■ 日本ほど古代中国の文化を受け入れてる国はないよね。 +1




■ 文化の輸出を先祖に頼らなきゃいけない現状が悲しいね。



   ■ 中国の文化輸出力が今の日本のソフトパワーレベルに達したら、
     世界中の人たちが戦国時代じゃなくて、
     漢民族と唐を好きになってくれるはず。



■ 文化を継承して発展させていくことは、
  単に歴史や古典を学ぶだけでは出来ない。
  日本人は常により良い形がないかを模索してるんだ。
  だから日本は常に成長し、世界的な大国になったわけだよ。 +2




■ 中国人は日本人を模範としていくべきなんだよ!! +20




■ まったく、文化部(※日本の文化庁)は何をやってるんだって気になるな。




■ 恥ずかしながら、俺より日本人の同級生の方が三国志演義に詳しい +1



   ■ 日本人がよく読むのって、(正史)三国志じゃなかったっけ?



■ これは中国にとっても本当に素晴らしいことだと思う。
  今やこの国からは中国文化は失われていってるし。 +6




■ もし中国人がこれくらい忍耐力を持って過去から学ぶことが出来ていたら、
  俺たちはもっと早い段階で発展出来てたはずだよね。 +65




■ 日本の文化は漢の文化の影響を強く受けてるからね。
  元号ですら史記や春秋左氏伝に典拠を求めてる。 +6

海外「今もこんな伝統が…」 日本の『元号』に外国人が興味津々




■ 日本は中国の伝統文化を尊重しているけど、
  日本を先進国に押し上げる上で何か役に立ったんだろうか?



   ■ 取り立ててこれだって言う要素はないでしょ。
     そもそも日本人は古代中国の文化を外国文化だとは思ってないし。
     自分たちの文化として取り入れちゃったわけだから。
     中国人が(北京)官話を異族の方言だと思わないのと同じ。   



■ 僕たちは過去を学ばない。
  これからは中国の歴史を日本人から学ぶしかなくなるのだろうか? +1




■ 日本は歴史や過去を尊重してる。
  だからこそ日本は先進的な国になってるんだ。
  中国は日本から学ぶ価値が大いにあるよ。 +48


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合理性と豊かさ

サマセット・モームの「世界の十大小説」の中で、モームがメルヴィル(「白鯨」をモームは十大小説に入れ、その評論をしている)の文章の欠点として、古風で大袈裟な言葉を使いたがることを挙げているが、それは長所でもある、と論じている。つまり、ドラマチックな効果を生んでもいるわけだ。
そのメルヴィルの使った言葉の一例としてモームが挙げている言葉が面白い。モーム自身、辞書を引いて、その言葉に普通に知られていない意味があることを知ったらしい。

(以下引用)

たとえば、”redundant hair”といった言い回しを使っているのを見て、これを「余計な毛」の意味に解すると、同じ毛でも、それが若い娘の唇に生えているというのであれば、余計でもあろうが、頭に、しかも若者の頭に生えているというのでは、余計とは言えないのではないか、と思うかもしれない。ところが、辞書を調べてみると、"redundant"には「豊かな」という第二の意味があって、現にミルトンは

(以上引用)「ミルトンは」以下は省略。

若い娘の唇の上に生えている毛、というのは、まあ口ひげだが、実は「戦争と平和」の中で、トルストイは、そういう若い女性の口ひげを「可愛らしい」と書いているのである。
それはともかく、私が問題としたいのは、同じ言葉に「余計な」と「豊かな」の意味があることだ。これは哲学的な問題ではないだろうか。
つまり、同じ物事に対して「豊かな」と見ることも「余計な」と見ることも実は可能だ、ということである。こういうことは多くの事柄に言えるのではないか。
特に「合理的」という言葉である。
これはほぼ100%肯定的に使われている言葉だが、はたして完全に肯定できることなのだろうか。たとえば、経営者の言う「合理化」とは、実は「多くの人間の首を切ること」である。被雇用者から見れば、「殺戮」に等しい行為だ。
あるいは、馘首ではなくても、「一人の人間の仕事量を増やすこと」も経営者から見れば「合理化」である。ビジネス世界では、合理化とはほとんどが従業員を不幸にするようだ。

ビジネス以外でも、実は合理的というのは、「余計な要素を切り捨てる」ことであり、あるいは「脇道に逸れることをやめる」ことである。これは、それこそ「redundant」の反対方向に進むことではないか。つまり「豊かさ」や「可能性」を放棄した、愚かな方針である可能性が高い、と言ったら屁理屈に聞こえるだろうか。まあ、少なくとも、「合理性」にはそういう側面がある、ということ、そしてその種の「切り捨て」は多くの事柄(決定や判断)に付随している可能性があることをも、人は知るべきだろう。








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