人間の力が自然以上のものだという傲慢さ。
日本文明の長所も、その反対である。
人力は自然の前に無力であるという謙虚さが、日本文明の根幹にある、いや、あった。今は、西洋文明に飲み込まれ、同じような傲慢さの中にある。
気の赴くままにつれづれと。
釈尊(しゃくそん)は、今から約3000年前、人々を救うため50年間にわたって説法し、その最後の8年間で出世の本懐(目的)である法華経(ほけきょう)を説かれました。
この法華経の予言どおり、釈尊滅後2000年が経過し、釈尊仏法の功力がなくなる末法(まっぽう)時代に、民衆を救済する仏として出現されたのが、日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)です。
日蓮大聖人は、法華経の極理を御本尊(漫荼羅)として顕され、その御本尊に向かって“南無妙法蓮華経”の題目を唱えることにより、いかなる人も仏の境界に至ることができると説かれました。
ソクラテスとトラシュマコスはいったい何について語り合い、見解を異としたのか。それは“正義”の問題である。冒頭でソクラテスに論争をふっかけたトラシュマコスは言う。
「正義とは、権力者の利益である」
支配者が善悪の判断をする。その利益に反することはすなわち悪である。支配者の利益に則すことが正しい。
「強者の論理」
それは歴史が証明するところではないか。
対して、ソクラテスが問う。権力をもってひたすら自己の利益に変えるのは即ち不正であろう。「不正」は「正義」の真逆ではないか。
この立ち位置から前述の多岐にわたるテーマが語られる。トラシュマコスの語るのは「権力の自己正当化」の問題であろう。この理屈に対峙することから西洋の政治哲学は始まったとして差し支えない。
(引用2)
「無知のヴェール」とは、自分や相手の性別や職業、家族の有無や貯金額などの一切の情報が分からない状態のことをたとえたものです。
ロールズによれば、私たちは正義を考える時、どうしても自分の立場を考慮してしまいます。
例えば、自分が貧乏であれば、富裕層への増税を支持しがちです。
あるいは自分が女性であれば、女性の権利を拡大する法案に賛成しがちです。
このように、人は自分が置かれている立場によって別々の正義を主張してしまう生き物です。
ロールズは、全ての人が「無知のヴェール」を被り、一度自分の立場を忘れた状態で議論した場合、どのような結論が出るだろうかと考えました。
そしてその答えは、個々人の立場を越えた普遍的な正義となるはずであり、そのような公平な視点から社会を設計すべきだと考えました。
ロールズは、私たちが無知のヴェールを被った状態で正義を考えた場合、次の2つの原理が導かれると主張します。
私たち個人は、自由な権利を平等に持つべきである。
不平等は、最も不利な立場の人々にとって有利な形で調整されるべきである。
読者の皆様も、いったん「無知のヴェール」を被って考えてみてください。
三、本書に収めた東洋古来の合理思想は欧米流の自我中心的合理主義とはちがって、非自我中心的である。東洋の合理思想も合理思想の一種であり、その限りで矛盾律に従い矛盾を排除するものである(『韓非子』の「矛盾の説」およびインド論理学の「相違」(viruddha)の概念はその端的な表現である)。その点では西洋の合理主義と何ら相違するところがない。ただ、西洋の場合とちがって、東洋では自我中心という条件をつけないのである。
それは周易の陰陽の弁証法に典型的にみられるように、自我というただ一つの極を立てて、それに背反するものを排除するのではなく、相反し相矛盾する二つの極を立ててその両極の間に補足しあい、相互に相手を肯定する関係を打ち立てるのである。相互に否定するものが相互に肯定するのである。これは矛盾のように見えるが、決して矛盾ではない。たとえば、夫婦の関係を考えてみるがよい。同一人物が夫と妻とを兼ねることはできないので、その限りで(すなわち同一人物に関する限りで)夫と妻という両概念は相反し相互否定する。しかし二人の別人AとBに関して言えば、AがBの夫ならば、BはAの妻となり、またその逆となり、夫と妻のという両概念は相互に相手の必要条件となって相互肯定しあう。これが相互に否定するものが相互に肯定する、ということであって、そこには矛盾は見当たらないのである。つまり、一つの主語に関しては相反または矛盾する二つの概念が、二つの別個の主語に関しては相互に相手の必要条件となり、相互に肯定しあう、という関係である。これは二箇の焦点の結合によって周辺を決定する楕円に似た構造であるから、仮りに「楕円思考」と名づけてもよいであろう。すると、周易の陰陽はまさに楕円思考的な合理思想の典型である。そして本書に紹介した数多くの東洋の弁証法は(仏教であると否とにかかわらず)このような楕円思考的な構造を共有するのであり、それが欧米の自我中心的な合理主義と異なるところである。
欧米の自我中心的合理主義は自我を独立せる実体と考えることに由来する。デカルトが方法的懐疑の末に到達した「考える我」は一つの実体であって「延長的実体」に依存しない独立せるものである。自我がこのように独立せる実体であれば、自我は自身以外のものに依存するはずがなく、したがって自他二極の間の相互依存のあるはずがなく、つまり楕円思考の成立する余地はないのである。これとは反対に、東洋の合理思想は自我を独立せる実体とは認めない。すべてのものは独立せる実体ではないので、必ず他のものに依存しなくてはならなぬと言う。この非実体的な相互依存の考えは仏教にあって特に顕著であるが、周易の陰陽にも、老子の虚無自然の説にも、たとえ陰伏的にしても、その根底に潜んでいる。そしてこの万物の非実体的相互依存性のうえに非自我中心的な合理思想が成立し、楕円思考的合理思想が成立するのである。そしてこれが欧米流の「万人対万人の戦」を超克する唯一の道を暗示するものと筆者は考えている。
◆目次(文庫版)
増補新版への序文
旧版のまえがき
序論 東洋思想と論理
第一部 悟りへの論理―インドの論理思想
1 初期仏教の合理精神
2 古因明の論理
3 新因明の論理
4 インドの弁証法
第二部 中国仏教の論理思想
1 現実の肯定
2 全体主義の真理観
3 多様性の統一
第三部 合理と非合理―古代中国思想の論理
1 不合理の完全排除
2 合理精神の結晶と矛盾の発見
3 形式論理学の完結
4 調和への弁証法
5 東洋の自然と人間
結論
解説/野矢茂樹
◆紀伊国屋書店WEBサイトの紹介文
東洋の合理思想 / 末木 剛博【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア
東洋独自の合理思想を鮮かに解明し、国際的にも広く影響を与えた名著に、「楕円思考」を論じた書き下しを増補。欧米の自我中心的合理主義を乗り超える可能性を示唆する。
末木剛博[スエキタケヒロ]
大正10年(1921)山梨県甲府市生まれ。昭和20年東京帝国大学文学部哲学科卒業。東京帝国大学副手、電気通信大学助教授、東京大学教養学部助教授、同教授、東洋大学文学部教授を経て、現在、東京大学名誉教授。論理学・分析哲学・比較思想を中心に研究を進め、東洋の精神を生かした新しい合理主義の確立を目指す。なお本書の初版「東洋の合理思想」(’70年)は中国語、韓国語などにも翻訳されて、国際的にも広く影響を与えた。主著に「記号論理学」(’62年)「論理学概論」(’69年)「ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考の研究」全2巻(’76~77年)、「西田幾多郎」全4巻(’83~88年)、監訳に「論理の数学的分析」(’77年)「比較哲学」(’97年)他、論文多数
さて、きょうの話は、そのような低級低脳には決して理解できない話だ。
仏教の教えは…
「天国も地獄もない」…なのである。
愚童凡夫にはわかるまい?
同時にわたしも、
「天国も地獄も実在する」と言っているからね…
しかし、仏の教えをよく聞いてみよう…
すると、思わないか?
百千万億阿僧祇劫積み上げてきた罪業も
念仏で一瞬にして消え去る…とは?
それはなぜか?…と。
つまり、そもそも「ない」のである。
すべては、人のこころが生み出す「迷い」であり「現実」にすぎないもの…
…だからである。
したがって…
テレビのスィッチがOFFになれば音も画像も消えるがごとく…
スィッチをONにすれば、そこに「世界」が現れるがごとく…
創造主が「光あれ」といえば…「そこに光があった」となる…
そして、「万物」が作られていく…のでもある。
もともと、そんなものなどない…
「ない」から、突如、現れる…
「天国も地獄もない」…ということは…
「神も仏も悪魔もない」…ということで…
さらにいえば、
あなたが「ある」と信じているすべてが「ない」ということなのである。
「格差」もなければ、「不平等」もない。
「理不尽」もなければ「差別」も「ない」のだ。
それらは、そもそもあなたが自分の想念で「でっちあげた」ものである。
あなたが、そのような概念形成さえしなければ、そんなものは存在しない。
「啓蒙」や「教育」とは、思考の「型」を植え付けることで
ありもしないものを「ある」と認識するように仕向けることである。
カルト宗教は、この原理を熟知して使っている。
「ポリコレ」も、キモ・リベもまさに、この原理で「運動」している。
この「キチガイ」運動は、心理法則を利用しているので、破るのが困難なのだ。
そもそも「キチガイ」に「なすすべ」などはない。
「触らぬ神に祟りなし」…
「キチガイ」凡夫に、今日の教えの要点をもう一度。
「天国も地獄もない」…そう思うか?
「神も仏も悪魔もいない」…そう思うか?
「イエス」…で、いいね?
そうそう…それは「仏の教え」である。
あなたが「仏の教え」をちゃんと理解していれば、次に…それゆえに…
「格差」も「不平等」も「理不尽」も「ない」とわかるはず。
なぜなら、それらは、
すべて人が勝手にでっち上げた「想念」であり「区別」だからである。
その「作為」を捨てれば、一切は「ない」とわかる。
ただ、混沌たる、ありのままの世界があるのみで…
そこには「無限の解釈」があるということである。
ポリコレ運動に必死になることこそは、バカの極み…
だが、そういう愚行を神様というのは面白がるのである。
あなたがた「キチガイ」は、そういうものが「実在する」と信じる。
それは、天国や地獄、神や仏、悪魔が存在すると信じるのと同じこと。
つまり、あなたがたにとって…
天国も地獄も、神も仏も悪魔も存在する。
ただ、あなたがたは、そのことを認知できないだけなのである。