たとえば、マルクスのマルキシズムは、あの膨大な「資本論」を読まないと議論の入り口にも立てないような印象をマルキスト達は世間に植え付けているが、その本質は「資本家たちが民衆から収奪しているから、民衆は常に貧乏で底辺に押さえつけられているのである」という一文で示せる。
キリスト教とユダヤ教はより簡単で、どちらも「創造主(唯一神)へ絶対的に帰依せよ」という命令である。つまり、この両者は本質は同じだと分かる。イスラム教も同じ宗教だ、というのも分かる。その違いは神への「経路」としてユダヤ教は「儀式や宗教的規則」を重んじることで宗教的指導者たちの権威を守ったのに対し、キリスト教は内面での信仰こそを本質として「神との直接の対峙」が可能だとし、それによってユダヤ教から迫害されたわけだ。つまり、その意味ではカトリックによる「教会を神への仲介者とする」やりかたはキリスト教の歪曲だ、となる。イスラム教も、「モハメッド」を神への仲介者とすることや繁文縟礼はキリスト教やユダヤ教の変形にすぎない。
つまり、キリスト教世界とイスラム教世界の対立は愚の骨頂であり、「仕組まれたもの」だと分かる。ユダヤ教とイスラム教の対立も同様の「兄弟げんか」だが、現にガザのジェノサイドという悪魔的行為がこの現代に存在している。
で、いい加減な知識であるとお断りしたうえで言えば、フロイトの「超自我」思想を「集団的無意識」に変形したのがユングで、吉本隆明の「共同幻想」も「集団的無意識が個々に抽象語になったもの」と言えるかと思う。つまり、たとえば「国家」とは「実在物」ではない、つまり物理的存在ではないという点で幻想だが、その幻想は実に巨大な力で全国民を縛っているのだということだ。
ただ、念のために言えば、私は以上に述べた個々の存在が価値がないとは言っていない。価値がないどころかすべて巨大な力を持っているのである。
問題は、上に書いたように、これらの思想の本質は実に単純なのだが、「専門家」がそれを難解にすることで、自分たちの地位や権力や収入の土台にしていることだ。さらには、これらの「本質」が理解されないことで、無数の対立や争闘や殺戮が生じているのである。
楽観的に見るなら、「地球温暖化詐欺」や「新コロ詐欺」で科学者や医学者のインチキぶりと卑怯さが露呈したことで、今後の世界では、多くの界隈での「専門家」が本物か偽物かの人々の判断が厳しくなるだろう。いや、それでないと、これまでの世界が払った膨大な犠牲が報われない。
最後に告白しておくが、私はユングの著作も吉本隆明の著作も一冊も読んだことはない。だから彼らの思想について私が書いたことは単なる想像である。
「資本論」など、覗いたことすらない。読む意義すら認めていない。失礼なたとえで言えば、中身を見なくても、表紙に女性のヌードの絵や写真があればエロ本だと分かるのと同じで、見るまでもないわけだ。ただし、私が「社会主義者(穏健的社会主義者・反暴力革命主義者)」であるのはこれまで何度も言ったとおりである。共産主義は(社会主義全体への偏見まで蔓延させた意味で)社会主義の敵とすら言っていい。