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「罪と罰」の「罪」と「罰」は何か

昨日の「『実践理性批判』批判」の前書き末尾に私はこう書いた。

さらに言えば、下のカントの説は、それ自体「証明不可能な断定」そのものなので、それを信じるのは、宗教信仰と同じになる。つまり、それは哲学としてはダメダメだ、と私は思う。

しかし、それは宗教が無意味だということを意味しないのはもちろんだ。私はこの世界からフィクションが消えたら地獄以下だ、ということすら書いているのである。宗教がフィクションだとしても、その効用が素晴らしい(ただし、その悪用の危険性も物凄い)ことを私は当然認めている。カントの説への批判は、「世界の真理を追求するのが使命である『哲学』としてはダメダメだ」、ということだ。

で、昨日だったか、たまたま読んだ小林秀雄の対談集にこういう一節(小林発言)がある。

「罪と罰」は純粋心理批判だよ。心理記述じゃないのだ。カントの意味の批判なのだ。

「カントの意味の批判」とは「分析と考察」くらいに解すればいいかと思う。で、「罪と罰」が「心理記述ではなく心理批判だ」という小林の説は、分かるような分からないような言葉である。「罪と罰」の中にはラスコリニコフの「心理記述」はたくさんあるが、「心理批判」はほとんど無かったように私はうろ覚えで記憶しているからだ。特に最後のラスコリニコフの「回心」あるいは「改心」の内容はまったく記述すらされていないのである。とすると、この作品の最大の問題(謎)は実は「罪と罰」という題名そのものにあると思う。
まあ、私も含めてたいていの人は、

「真の罪とは法的な罪ではなく、『神への罪』であり、その罰も罪びと自体の心に起こる後悔と反省である」

と考えるかと思う。この問題を私はこれまで考えたことすらなかったが、あの作品の末尾(ラスコリニコフがソーニャの前に膝をつき、彼女の足に接吻する行動)を見ると、そうとしか思えないわけだ。つまり、ソーニャこそは彼の回心を告げるべき「神の代理」であるわけだろう。

ということで、いずれまた「罪と罰」を再読する必要性が出てきたわけだが、それまでは生きていたいものである。

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「実践理性批判」批判

「ダイヤモンドオンライン」から転載。
なるほど、「3分で分かる『実践理性批判』」である。カントの本の面倒くさい文章の内容をこれだけ簡潔に書けるのは、なかなか凄い。
ちなみに、「批判」は現代日本語の「批判」ではなく、単なる「考察」の意味と解するのがいいと思う。
さらに言えば、下のカントの説は、それ自体「証明不可能な断定」そのものなので、それを信じるのは、宗教信仰と同じになる。つまり、それは哲学としてはダメダメだ、と私は思う。

(以下引用)

3分でわかる! カント『実践理性批判』


世界に多大な影響を与え、長年に渡って今なお読み継がれている古典的名著。そこには、現代の悩みや疑問にも通ずる、普遍的な答えが記されている。しかし、そのなかには非常に難解で、読破する前に挫折してしまうようなものも多い。そんな読者におすすめなのが『読破できない難解な本がわかる本』。難解な名著のエッセンスをわかりやすく解説されていると好評のロングセラーだ。本記事では、カントの『実践理性批判』を解説する。


『純粋理性批判』で人間の認識の限界を示したカント。ところが、それによると「自由の存在」「霊魂の不滅」「神の存在」などの哲学が全部否定されてしまう。そこで、今度は道徳哲学でこれらの回復を目指そうとしたのだが──。

Photo: Adobe Stock

「自由に我慢できること」が自由?

 カントは人間の認識の仕組みを『純粋理性批判』で説明しました。けれども、『純粋理性批判』によると、「神」「霊魂」などの人間が経験できない領域は人間は推理できないということが明らかになりました(神や霊について考えてもわからないということ)。


 そこで、カントは新たにこれらを回復するために、道徳的な形而上学をうちたてようとします。その内容が『実践理性批判』です。


 自然科学の世界では、ニュートンの万有引力の法則があります。そこで、カントは自然の世界と同様に、道徳の世界にも普遍的な法則があると考えました(道徳法則)。


 それは、自然の因果法則とは違って、私たちの意志を規定する命令であって、「~すべし」という命令の形をとります。


 また、それは幸福(快楽)を得るための条件付きの命令ではありません。たとえば、「もしお金がもらえるなら、人を助けよ」というような条件付き命令ではダメなのです。これを「仮言命令」といいます。


 真に道徳的な命令は、自分の幸福を計算に入れず、行為の結果をまったく顧慮しないで、いついかなる場合でも「~せよ」と命ずる無条件的な命令です。これは「定言命令」と呼ばれます。


 「もしお金がもらえるなら」のところをカットして、「人を助けよ」だけの部分にしたら「定言命令」になります。


 道徳法則が命令の形をとるのは、私たち人間が理性的存在者であると同時に感性的存在者(欲望に負けてしまう存在)でもあるので、道徳法則に従って行為するとは限らないからです。


 だから私たちは、いつも「無条件に~をするべし」と言い聞かせながら生活しなければなりません。ついつい寝過ごしてしまったり、食べすぎてしまったりするのは、本能のままに生きる感性的存在としての動物と同じです。


 でも、理性をもった人間は自分で自分の欲望をコントロールすることができるのです。

「霊魂不滅」「神の存在」は要請される

 道徳法則という人生の公式は、人間がもともともっている実践理性が自分自身に与える法則です(理性の自己立法)。


 自分で自分を律するわけですから、これを「自律」といいます。カントによると人間が「自律」的存在であるということは、人間が「自由」であるということを意味します。


 自分でルールに従うこと、つまり、「無条件に~せよ」という命令に従うのは自由なのです。


 これは、普通に考えると不自由であるという印象をもちますが、「他のいかなる権威にも他律的に拘束されることなく、実践の原理をみずから洞察し、それによってそのつどの自己の実践生活をみずから規制していくことができる」という意味なので「自由」なのです(自分の欲望をコントロールできるということ)。


 カントによると、それが人間の「尊厳」にほかなりません。


 ところで、『純粋理性批判』では、人間の意志の自由の証明は認められなかったのですが、このように『実践理性批判』では、道徳的命令において意志の自由が確保されました。


 同じく、霊魂の不滅も神の存在も『純粋理性批判』によれば、証明することはできませんでした。しかし、『実践理性批判』によると、「最高善」の概念を介することで、これらが実践的に要請されるのです(証明はできないけれど、「霊魂」も「神」もあるのです)。


 最高善の実現は、人間が感性的存在者である限り、現実において期待できません。


 だから、来世におよぶ無限の道徳的努力が、したがって「霊魂の不滅」が要請されます。また、最高善が実現されるべきであるとすれば、徳と幸福との完全な合致を保証する全能な「神の存在」が要請されなければなりません。


 このようにして、実践理性は、「自由の存在」「霊魂の不滅」「神の存在」という3つの理念に対して実在性を与えることができたのです。

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善と悪、暴力と平和(「チェラブ」のこと)

市民図書館から借りた「チェラブ」という変な題名のジュブナイルは、子ども向けの小説としては大きな問題がある内容だが、人間の本源的な悪を描いている点では「文学」ではある。
問題は「普通の子供(時には天使的な子供)」が、置かれた状況によって悪魔にもなる、ということだ。
世界中の悲惨さ、特に犯罪事件や戦争における悪の暴発は、そうした「社会的に教育された悪」によるものではないか。

この「チェラブ」という小説は、私立探偵をやっていた作者(ロバート・マカモア)が読書嫌いの甥のために書いたものがイギリスでベストセラーになったものだというが、内容は、「不良少年少女や孤児の中で、スパイになれる素質を持つ可能性のある者をスパイ訓練学校に入れて鍛え上げ、子どもスパイにする」という荒唐無稽なものであるが、第一巻「スカウト」の前半に書かれた内容のリアリティは、さすがに私立探偵経験から来ると思われる「徹底的な悪の描写(ただし、主に暴力描写であり、性描写は避けている)」が見事で、いわば「時計仕掛けのオレンジ」はまさしく今のイギリスの姿を予見していた、と思えるものだ。
そして問題は、そうした子供による悪や暴力は、彼らが社会から学んだものだ、ということだ。つまり、法はドジな奴しか罰せないし、法を免れることが簡単なら、悪事を犯さないほうが馬鹿だ、と彼らは「社会から学んでいる」のである。

ついでに言うと、チェラブという子供スパイ養成組織は「子供を完全な悪魔にする」組織と言ってもいい。その冷酷無比な訓練によって訓練生は超人的な戦闘能力を身につけるが、同時に温和な人間性(道徳性)を失い、悪魔化するのである。はたして、悪魔は「上司の命令にだけは無条件で従う」のかどうか疑問だが、そうするのも訓練次第だろう。善良な人間がいかに容易に非人間的になるかは、軍隊という存在(埴谷雄高の言葉を便宜的に借りれば「あいつは敵だ。敵は殺せ」という簡単な教育で兵士・殺人者を大量に作る組織)を見れば明白だし、有名な科学的実験もある。

ちなみに、チェラブのマークは「軍帽(ヘルメット)をかぶり、腰に弾帯を巻き、弓矢を今まさに射ようとしている『天使』の姿」である。まさしく、善がそのまま悪に変わるということだろうか。それとも「暴力こそ平和を作る」という偽善だろうか。おそらく後者だろう。


*追記すれば、「あいつは敵だ」とは、兵士本人が判断するのではなく、上司や上官、政府がそう決めるのである。つまり、兵士はこの場合、ただの機械、ロボットでしかない。戦場では、相手が「敵の軍服を着ているから敵だ」と判断するしかないので、相手が私服なら「こいつは便衣兵(私服の偽装兵)の可能性があるから、とりあえず殺せ」となる。(埴谷雄高のこの言葉は戦争ではなく「政治」について言われたものだが、戦争はまさにその尖端的状況である。)
*私は「チェラブ」第一巻の前半しか読んでいないし、読んで「楽しい」内容でもないので、残りを読むかどうかは未定である。しかし、「問題作」であるし、考察すべき大きな問題を含んでいるので、ここで宣伝する次第だ。まあ、第一巻前半だけ読むのも有益だと思う。


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「嘘」の哲学的考察

さっき、「ハンター×ハンター」を見ていて、主人公のゴンが敵の言うことをあっさり信じて逆に敵を驚かせる場面があったのだが、戦いの現場で敵の言葉(まず99%嘘)を信じるのが身の破滅であるのは言うまでもない。だからこそ、このゴンの行動が面白いのだが、そこで「嘘」ということへの哲学的思考を試みてみたい。

おそらく、このテーマはこれまで考察した哲学者はほとんどいないのではないか。それは、「嘘=悪」という等式がアプリオリに信じられていて、論じる価値もない、という考えからだろう。だが、はたして嘘はすべて悪かというと、そうでないことは誰でもすぐに分かる。今にも死にそうな相手に「大丈夫だ、お前はかならず助かる」と嘘を言うのはよく見る光景だ。そこで、「そうだ、お前は必ず、絶対に、あと10分以内に100%死ぬ」と正直に言う人は、たぶん医者でもいないと思う。
そういう「善意の嘘」は許容できる、としたら、裁判事件での嘘はどうなるか。被告への同情から証人が善意の嘘をついたら裁判制度は成り立たないだろう。可能なのは、被告の近親者の証言は求めないようにする、くらいか。あるいは「証言」は基本的に採用せず、物的証拠だけを採用する、という方法くらいか。まあ、そうなると、犯罪事件の7割くらいは立件不可能になると思う。

ここで「嘘の文化的・文明的効能」について考えてみる。

題名は忘れたが、(たぶん「ギャラクシー・クエスト」だったか)、ひと昔前の人気テレビ番組「スタートレック」のパロディSF映画で、非常に面白い作品があったが、その中に出てくるある宇宙種族が「嘘を知らない種族」だったのである。高度な文明は持っているが、嘘を知らないため、嘘を悪辣に利用する敵種族の作戦に簡単に騙され、種族滅亡の危機に立ち、その中の一部が、テレビ番組(彼らはそれを本当の記録だと信じている)で見ていた「スタートレック」の俳優たちに助けを求めて地球に来るという話だ。
ここで注意したいのは、この「嘘を知らない種族」が文明的には高度な発展を遂げていて、ただ戦争(争いごと)ではとんでもなく無力だったということだ。当たり前の話だが、それが面白い。

古代中国でもたしか孫子が「兵は詭道なり(戦争は騙し合いだ)」と言っていて、これは人類共通の認識だと思うが、戦争に至らなくても政治もまた半分(重要部分なら90%)は大嘘だ、とは多くの人が感じているだろう。新コロ詐欺やガザ虐殺、ウクライナ戦争への欧米の対応を見れば明白だ。

まあ、人類の文明の歴史がたとえば1万年くらいあったとして(それ以前の原始人時代の文明は文明には入れない)、おそらく、人類が嘘をあまりに多用したために、人類の文明史は8000年くらい遅れていると思う。つまり、嘘が無ければ人類はとっくに地上の天国を作っていただろう。

では、私は「嘘の無い世界」を望むかと言えば、そうでもない。あの何とか星人みたいに、「嘘とフィクションは区別できない」のであり、私はフィクションの存在しない人間世界は地獄以下だと思うからである。天国に嘘が存在しないなら、私は「その入場券をお返ししたい」。

まあ、要は、嘘を嘘だと識別できる理性を持ちながら、フィクションはフィクションとして楽しめばいいという、当たり前の話である。





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悩みも苦しみも人生のうち

これもある種の悟りであり、立派な生き方だと思う。
発言のすべてが立派だ。そして嘘や虚飾は無いと思える。坊主の説教より人生を教えてくれる。

(以下「大摩邇」から引用)

「元セクシー女優 延命治療を拒否して見つけた生きる意味」という記事から学ぶ「医療介入の意味」

BrainDead Worldさんのサイトより
https://nofia.net/?p=24446
延命治療って新薬を投与されて治験されるようなものですよね。
うちの義父がそうでした。
で、亡くなったら研究の為解剖させてくださいときます。
もちろん断りましたが!
<転載開始>

> 余命1年という宣告からは、すでに4年の月日が流れている。


とありまして、医療介入がなければ、結構長く生きることを示してくれるものです。こういう方だとワクチンも接種していなそうですし、まだまだ長く活躍されると思います。人生とか死ぬことに対しての考え方が私と似ているなあとは思いました。

余命1年と宣告された元セクシー女優 延命治療を拒否して見つけた「生きる意味」

女性自身 2024/12/14


幼少期の壮絶な家庭環境や、撮影現場での暴力を経験しながらも、セクシー女優として活躍してきた元セクシー女優のピンク映画女優・風見京子(55)。ところが、’20年10月、50歳の時に突如肺腺癌と診断され、余命宣告を受けることになる。延命治療を拒否した理由、そしてその後の日々について聞いた。


「お仕事を続ける中で、いい年齢になってきたので、先のことを考えるようになりました。そこで映像のお仕事のかたわら、準社員として働くことにしたんですけど、その矢先に肺腺癌が見つかりました。そこで、余命宣告も受けたんです」(以下、カッコ内は風見の発言)


告げられた余命は、あと1年。もともと体調不良は感じていたという。


「映像のお仕事のかたわら、バイトをしていたんですけど、次第に体調不良で休むようになって。朝、目が覚めると人前に出られないくらいすごく目が腫れていたこともありましたね。救急で病院に行くことも増えていましたが、更年期にさしかかっていたので、あまり気に留めていなかったんです。余命宣告を受ける1年前にも実は病院でレントゲンを撮っているんですけど、何も言われなかったですし。多分、見落とされてたんでしょうね。


それで1年後に新入社員になり、その健診でひっかかって『余命1年です』と言われて。作り話みたいですよね(笑)」


自分の“命の期限”を告げられる、余命宣告。その時、風見はどんな気持ちだったのだろうか。


「正直に言うと、子供の頃からいろいろな経験をしてきて、傷をたくさん持っているんですね。多分、自分が意識していないところでも、心の奥底でもついてる傷もあって。その影響で『死にたい』という気持ちは、どうしてもずっと拭えないんです。こういう風に言うと、ネガティブだと思われるかもしれませんが……。


でも、大変なこともあったけれど、好きに生きてきて、大女優にはなれなかったけれども小さな夢は全部叶えたつもりでいます。もう、人生に満足しているんですよね。


ですから、余命宣告を受けた時の気持ちは、首を吊ったり飛び降りたりしなくても人生をやめられるんだとわかって、正直ホッとしたんです。『私、やっと死ねるんだ』といいますか。もちろん全然悩まなかったというと嘘になりますけれど、そういう気持ちのほうが大きかったんです」


延命治療を拒否して見つけた“夢”


そういった気持ちを裏付けるように、風見は“延命治療を受けない”という選択肢をとっている。そう決めたのは「自然に任せたい」と考えたからだという。


「子供の頃から『癌で死にそうになったら延命治療はしない』と決めていたんです。以前乳癌の疑いがあった時も、治療はしないと考えていました。肺腺癌だとわかったのは50歳の時で、先生にも『70歳や80歳のひとがいうならまだしも医学的には50歳でまだ若いから、治療を受けてみないか』と言われて。でも私は『50年生きられたらいい』って常々言っていたし、もう人生にも満足しているしで、『延命治療は受けません』と譲りませんでした」


余命1年という宣告からは、すでに4年の月日が流れている。それでも風見は今、日々を楽しく生きているという。「治療を受けても手術が成功するわけじゃないし、治療の影響でずっと寝続けなきゃいけない人もいると聞きます。結果的に、今の自分は元気。もちろん痛みや呼吸苦はあるので、それを緩和するために病院に通っています」


死は恐ろしくないのだろうか?


「死ぬこと自体は怖くないんです。むしろ安らぎだと思ってます。人間って修行のために生まれてきてるって言うじゃないですか。だから、私はもう十分に生きたし、神様の元に行けるんだなって思ってるんです。


でも、肺癌って苦しむ病気のトップスリーに入るらしくて、死に際が辛いって聞くんですよ。肺が塞がれていくと、生きたまま溺れるような状態になるっていうし、全身に転移しやすいから、脳とか腰に行くと動けなくなるかもしれないって。


それはやっぱり怖いんです。だから、脳と骨だけは勘弁してほしいし、痛みや苦しむ期間がどれくらいなのかは心配です。死が怖いんじゃなくて、生きて苦しむのが怖い。だから、緩和ケアをしてほしいと思って病院に通ってるんです」


風見は「正直、死にたかった私からすると長生きすることは、別にいいことではない。でも元気にしてると周りの人が喜んでくれる。結局、これで良かったんだと思います」と話す。そして、こう続ける。


「生きてる限りは人を楽しませたり、役に立つことをしたりして生きていきたいなと考えています。ですから、今はボランティアをしています。また、ありがたいことにピンク映画の撮影を今年8月に行っていて、来年公開予定でもあります。それに身体は元気なので、いつか就職できたらいいなと思って動いています。生活の基盤を立てた上で、女優としてやっていきたいなと考えていて、今はそれが夢ですね」


風見はまた、子供の頃の夢を追い続ける。

 

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理想の人生

私の別ブログから転載。あるいは既に転載したことがあるかもしれない。だが、世の中の多くの老人にとって「啓蒙的」意義があるかと思うので、載せておく。
要するに「理想の人生」とは、「いつの時点での理想か」ということが問題であり、幼児の理想など、腹がはちきれるほど菓子を食いたい程度のものだ。で、それが簡単に実現できる年齢になると、別の「手に入らない理想」を勝手に決め込んで、一生を欲求不満で送るわけである。
アレキサンダーの「理想」は、はたして世界を幸福にしたか?
世界全体を幸福にするのでなければ、世界征服に何の意義がある? 膨大な人間を殺し世界を奴隷化したら「偉人」なのか?

(以下自己引用)

「勉強」と「娯楽」

私は現在、中学生の頃に考えていた「理想の生活」をしているのだが、残念なのは、老齢で身体の不調があることだ。
中学生のころの理想の生活とは、要するに、誰からも邪魔されず一日中好きなことをしているということだが、年金生活に入った老人はそれが可能になる。ただし、その「好きな事」は、カネがかからないことに限定されるのだが、中学生レベルの「好きな事」とは、色気づく前なら、さほどカネはかからない。つまり、好きな菓子を好きなだけ食うとか、好きなゲームを気の済むまでやるとか、一日中漫画を読むとかいった類のことで、それらにはほとんどカネはかからない。
つまり、「理想の実現」というのは実に簡単な話なので、問題はいつの時点の理想を実現するのか、ということだ。これが、世界中の美女を手に入れたいとかいった理想になると、どこかの国の独裁者になるかビル・ゲイツのような大金持ちになるしかないわけで、それでもすべての美女が手に入るわけではない。そもそも、毎日違う美女を相手にしても、1年で365人、10年で3650人しか相手にできない。そのうち、セックスするのも嫌になるだろう。
豪華な料理が食いたいとか高価な酒が飲みたいという欲望もあるだろうが、安い食い物、安い酒で満足できるなら、そのほうがお手軽な幸福だ。つまり、欲望というのは、思うほど達成が難しくもないし、達成してもさほど満足できるとは限らないのである。で、最初からそう推測して「やーめた」という生き方もあり、それが仏教の「小欲知足」であり、「我唯知足」である。
で、現在の私の生活だが、まあ、中学生くらいの学校のカリキュラムを「まったく束縛なしに」やることを楽しんでいるという感じである。
つまり、絵を描く、音楽を聞く、「社会科」の勉強をする、「英語」の勉強をする、体育をする、といったようなことで、学校のカリキュラムとの違いは、「勉強内容は自分で決める」「時間も好き勝手にする」という2点である。たとえば、「体育」というのは、他の科目の合間に部屋から部屋へ歩いたりする程度のことだ。その途中に階段などがあると、もっといい。「音楽」は言うまでもなく、ユーチューブで好きな曲を探してそれを流すだけである。たまにギターを弾いたり(というより音を出すだけだが)するが、ギターは部屋の片隅にあって「いつでも弾ける」という満足感だけで十分なのである。
英語の「勉強」は、英書を一度に数行読むだけだ。今はアガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」を読んでいる。もちろん、翻訳で読んだことがあるが、英語原文で読むのは違った面白さがある。たとえば、例の童謡の行の終わりが韻を踏んでいるのは、翻訳では分からない。原則として詩は原文でないと本当の味わいは無いだろう。
社会は現在立花隆の「日本共産党の研究」を読んでいるが、これが抜群に面白い。これまで共産党関係の文章を読んでまったく理解できなかった事柄が、実に分かりやすく書かれている。これはメモを取りながら読んでいる。
というわけで、私の一日は中学生レベルの「勉強」を「娯楽として」やっているわけである。私は集中力が無いので、文章を数行読むと、目を上げて窓から庭の木やその向こうの空や雲を眺めるのだが、それがいいアクセントになる。学校なら教師に怒られているところだ。
強制の無い「勉強」は娯楽なのだ、ということである。

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「怒れる若者たち」の怒りはどうなったか

アニメ「ルックバック」がアカデミー賞アニメ部門候補になっているということで、その原作の漫画「ルックバック」が、「怒りをこめて振り返れ」からタイトルを取ったという話があって、「怒りをこめて振り返れ」の英語原題は何かな、と気になったが、それを調べる前に、「怒れる若者たち」は何に対して怒り、その結果はどうだったか、ということが気になって、次の記事に出会った。
まあ、要するに、彼らの「怒り」は「固定された階級社会」への怒りとはならず、革命にも、有効な社会運動にもつながらず、うやむやになったようである。しかし、それが「ロックンロール」の精神とも言える「何か得体の知れないもの(既成秩序や道徳のように、自分たちを拘束するもの?)への怒り」「自由の渇望」となって続いてきたとは思うが 今ではその「ロック」な精神も、ただのお洒落な現代ポップスに圧倒されているようだ。
まあ、要するに「反体制運動」というもの自体が「体制の何をどう変えるのか」という具体性を持たず、明確な敵を特定していなかったのが彼らの無様な闘争とその結果だろう。

で、現代の若者たちは、彼らの「生き苦しさ」が経済的問題から来ていて、その根本原因は社会の見えない階級性にある、ということを分かっているだろうか。さらに、社会変革を叫ぶ一派(一部の野党議員たち)もまた、その見えない階級の上級国民であることに気づいているだろうか。

(以下ウィキから転載)


シリトーの文壇への登場は、『怒りをこめてふりかえれ』のジョン・オズボーンen:John Osborne)、『ラッキー・ジム』のキングスレー・エイミス、『急いで駆け降りよ』のジョン・ウェインen:John Wain)など、「怒れる若者たち英語版」と呼ばれる一派と時を同じくしていたため、そのメンバーの一人と見なされることが多い。


しかし、この一派の中心となった作家たちは、おおむねオックスフォード大学卒のインテリであった(ただし、オズボーンの学歴は高くなく、出身階級もシリトーと同じ労働者階級である)。この点、工場労働者の息子であり、自らも工場労働者であったシリトーとは異質のものであった。反体制を叫ぶ「怒れる若者たち」の怒りは、体制の改革と共に消えてゆく。しかし、シリトーの主人公たちはなおも怒り続ける。


社会が不当に築いた彼らの周りの規制への反撥、その規制を守ろうとする権力者の偽善に対するアナーキックな憤りから、不道徳行為という方法で権威へのささやかなプロテストを試みる。しかし彼らの行動は、積極的に体制を破壊しようとする方向には向かわない。反体制的反抗ではなく「非体制的」な反逆とでも呼べそうなものである。

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酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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