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日本人の「神」観念と社会秩序

私自身の別ブログから転載。

(以下自己引用)



日本人の「神」観念と社会秩序



単なる思い付きだが、白川静の「回思九十年」の中の対談の一部に、「人が神や死者を叱責する」話があり、そこに、日本人にとっての神や死者はやたらに崇高なものでもやたらに畏怖する対象でもなく、もっと身近な存在だったのではないか、という発想を得たのだが、いわば「となりのトトロ」である。人間でも動物でもないが、意思を通わせることが可能な不思議な存在が神や死者だったのではないか。
それは何かの禁忌を人間が犯すことで時には人間に罰を与えもし、捧げものをすることで喜びもするという「人間的感情」をもったもの、というわけだ。と同時に、キリスト教やユダヤ教のように人間が神の奴隷というわけでもない。神や死者は天国や地獄にではなくもっと、「隣りにいる存在」である。
つまり、「物の怪」と「神」、あるいは「神」と「死者」はさほど遠い存在ではない、という思想である。祖霊崇拝は、まさしく「人間が神になる」のと同義である。そして人間(死者)は幽霊にもなるのである。

そこからの思想の系として、日本人は「偉い人」を心から畏敬してはいない、という考えも生じる。神や死者でさえ「隣人」なのだから、支配者など同じ人間でしかない、というのは明白であるわけだ。
西洋や中東の絶対神思想と、支配者の絶対性というのは表裏の関係ではないだろうか。

すなわち、日本の民衆は権力者には従うが、尊敬はしない、ということだ。そうすると、「面従腹背」というのは重要な思想である、とも言えそうである。いざとなれば、どんな偉い人でも刀を振るって殺す、というのが本来の日本人だったとまで言えば大袈裟になるが、とりあえずは「利害計算で従っているだけだ」というのはむしろ日本人の「誇り」を示すものだろう。それは精神の奴隷化とは正反対なのだから。会社社長は君主ではないし、社員は奴隷でもない。(某大会社の社長は子供に「社員は犬だ」と言っているらしい。)単なる雇用関係だ。
そしてその「面従腹背」によって社会は安定し、和が保たれるのである。これこそが、「実用道徳」かもしれない。






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「和の精神」と「大和の精神」

私は「神戸だいすき」さんのブログは「娯楽として」読んでいるが、下の記事は思想的にも素晴らしいというか、私の言う「大和(だいわ)の精神が世界を救う」思想とまったく同じで、引用された動画の内容も素晴らしいので、視聴をお勧めする。
ちなみに、「和の精神」が「事なかれ主義」や「大勢順応主義」に陥りがちなことへの懸念から私は、手垢のついた「和の精神」という言葉を使わず「大和の精神」というまるで「大和魂」を連想させる極右的印象の尖った言葉を使っただけである。まあ、「世界に広げよう、人間の和」ということだ。(この元ネタであるタモリの番組の終了とフジテレビの破滅が同期していたのも面白い。)

(以下引用)



譲り合い、許しあい、支えあう・・・それしか、世界を救う道はない。

奪い合う限り滅びてしまう。

そのことを、地球上で一番長い歴史を持つ日本人は、体の中で知っている。

限られた土地と資源の中で、生き抜くには、日本方式しかないと、気づく西洋人が出始めた。

列に並び、分け合い、ともにいきぬく、周囲の人々をおもんばかる。


残念ながら、トランプのやり方は、その正反対。
だから、トランプ革命は、壮大なブーメランになると、私は思う。

大型船は、周囲を渦に巻き込んで沈む

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欧米のネクロポリティクス(死の政治)

「混沌堂主人雑記」からの孫引き記事で、長文だが、我々がぼんやりと考えていたことを実に明確に表現した文章なので全文転載する。

(以下引用)


ゲオポリティカ  より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・
「集団的西側の死の政治」
ボバナ・M・アンジェルコビッチ



西側諸国の弱体化と無力感は、さまざまな形で顕在化しています。なかでも顕著なのは暗殺の実行や死を招く危機の人工的な演出、大規模な死傷を目的とした破壊活動の組織、死者を伴うクーデター、人身売買の末に命を奪う行為、奴隷取引や臓器売買といった命を脅かす犯罪的行為であると言えます。
これら一連の病的かつ非道徳的、破壊的な行為は、いずれも旧来の西洋列強が掲げてきた、あるいは新たに設定した目的 - グローバルな覇権の回復と、かつて撤退を余儀なくされた地域への再進出 - を達成するために行われているものと見る事が出来ます。
なぜ「国際社会」と称される集団、すなわち西欧列強 - オランダ、フランス、スペイン、ポルトガル、イタリア、ドイツ - およびヨーロッパ近隣の島国であるイギリス、そして彼らの旧植民地であったアメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、さらにアジアやアフリカに点在する一部の国家が、再び影響力の回復を志向しているのか。その理由は明白であり、彼らがかつて有していた支配権を取り戻したいという欲望によるものと考えられます。
数世紀にわたり世界中のあらゆる地域で繰り返されてきた略奪、殺戮、窃盗、脅迫、人種差別、覇権主義、破壊行為は、西洋世界の人々を怠惰にし、精神を腐敗させ、人間性や情感を損なわせてきました。その結果、彼らは神なき存在、すなわち悪魔的で冷徹な、まるで機械のように感情を失った存在へと変貌し、自らの優越性という根拠なき幻想に取り憑かれているように見受けられます。
内面に空虚を抱えるほど、彼らは次第に破壊的かつ虚無的となり、その傾向は世代を越えて連鎖しています。美辞麗句が増せば増すほど裏で行われる行為はより醜悪なものとなり、寛容を語れば語るほど、不要な苦痛を引き起こす結果となっています。自己の内部にある空虚さが深まれば深まるほど、周囲には破壊が広がり、現実を歪めれば歪めるほど、自身への妄信が増幅されていく様相を呈しています。
世界情勢には数十年にわたって大きな変化が見られない時期もあれば、わずか数年で数十年分の変化が起きることもあります。そして今まさにその「数年」の変化が始まっており、それは現在進行形で続いている状況にあります。
多くの人々が、トランプ氏が「世界を救う」と期待しました。しかし、どのようにしてそれを成し遂げるというのでしょうか。彼には、高い価値や優れた質に属するような事柄を実現する能力はありません。彼に可能なのは、量的な空白を埋めることであり、質を欠いた「量」、すなわち価値を失ったドルを維持し、ドルの価値を回復させるために、純然たる実利主義にもとづいた基準を設定することだけに限られています。
では「平和の大統領」と呼ばれたトランプ氏のことは忘れることにしましょう。彼をそう称したのは、常軌を逸したタルシ・ギャバード氏でありましたが、現実にはイエメンを24時間にわたり無差別に爆撃し、シオニズム勢力に武器を供給してパレスチナ人への殺戮を加速させ、さらにはグリーンランドを威嚇するなど、平和とはほど遠い行為を繰り返してきたのです。
また現在ガザにおいては、まるで数日前まで死者が存在しなかったかのように、犠牲者の数があらためて数え直されている状況にあります。つまりトランプ氏は病的とも言えるシオニズム勢力を救済するために、何万人ものパレスチナ人を歴史ごと抹消しようとしていると見受けられます。
DJ・ヴァンス氏がピーター・ティール氏の影響下にある人物であることも、決して忘れてはなりません。イーロン・マスク氏の祖父がカナダにおけるナチス関係者であった事実も記憶にとどめるべきでしょう。さらに言えば現米国防長官が、重要な軍事経験も安全保障に関する知見も持たないのみならず、人間としての価値観さえ欠如している愚鈍な人物であることも、看過すべきではありません。
英米諸国は自らの病的な妄想を、美しく包装された空疎な物語に仕立て直しながら、再び世界中の人々を欺こうとしているように見えます。
そもそも植民地主義の開始以来、欧米諸国の政治において本質的な変化は見られませんでした。彼らの政策は、標的とした国々の先住民に対する大量虐殺、死と恐怖の喧伝、そして計画的な暗殺に基盤を置いているのです。
最近になって顕在化した米軍によるディエゴ・ガルシア島への移動は、米国およびその同盟諸国による新たな「コーチング戦争」の準備行動であると見られます。彼らはイランを征服することが不可能であり、とりわけイラン革命防衛隊との地上戦において自軍の歩兵部隊が勝利を収める見込みは皆無であることを十分に理解しています。それでもなお彼らはイラン国内に死と破壊をもたらすことを望み、そこから何らかの利益を得られると信じているのです。
彼らがイランに死をもたらす唯一の手段は、1999年にセルビアで行ったように、高度1万メートル以上からの空爆であると考えられます。当時、アルバニア経由の地上侵攻が不可能と判明すると、空爆を激化させましたが、それは明らかに追い詰められた末の行動でした。
世界中が認識しているように、集団的西側は追い詰められれば自暴自棄な行動に出る可能性があります。自らの時代がすでに終わったことに気づけないほどに自己中心的であり、同時に、その妄想の規模があまりに肥大化しているため、今こそ彼らを精神療養施設に送り、精神医学的な治療を受けさせる最後の機会なのかもしれません。
イギリスの首相やドイツの情報機関の長官、さらにはフランス大統領やNATOの議長に至るまで、いずれも哀れな「オメガ的」男性たちが、ロシアとの戦争はウクライナにとって好ましい選択肢であると声高に主張しています。まるですでに命を落としたウクライナ兵が、100万人を超えていないかのように、家を追われ避難民となったウクライナ国民が2000万人以上に上っていないかのように、さらにはこの無益で愚かな戦争において、最終的に敗北するという事実すら理解していないかのように聞こえます。
現時点で挙げられるある種の「笑える事実」はこうです。
イギリスでは保有する軍艦の数よりも提督の数のほうが多く、ドイツではロシアとの戦争が、いかなるものであるかを理解できる軍人よりも、常識を欠いた人物のほうが多いとされています。そして、そのドイツにはかつてのナチス将校の孫娘でありながら、国連事務総長を目指しているアナレーナ・ベアボック氏も存在しています。
またオランダにはまるで薬物の影響下にあるかのような、異常なNATO幹部が見受けられ、デンマークには政治の本質を何一つ理解していない女性首相がいます。EUでは安全保障の責任者として、極めて思慮に欠けるカヤ・カラス氏が任命されており、彼女の表情ひとつでその限界が察せられるようです。イギリスでは、偽装された結婚の背後に身を隠しながら、極めて脆弱かつ軽薄な首相が、英米的な「善悪の役回りゲーム」に都合よく適合しているのが現状です。
欧米人の死への執着 - いわゆるタナトス的衝動 - は、彼らの無知と不道徳性と非人間性、そして深層に刻まれた破壊への欲望から生じています。
それがニーチェ的ニヒリズムに起因するのか、あるいは単なる愚かさからくるのか、その点はもはや重要ではありません。
我々セルビア人はこのような話をよく知っております。彼らの本質を私たちは、とうに理解しています。長い年月を経ても彼らの本質に変化は見られませんでしたが、世界のほうは確かに変わったのです。いまや欧米諸国は「世界のその他大勢」となり、つまり少数派に転じたのです。
そして彼らは、少数派としての扱いを受けるべきであり、もし彼らが無意味な発言や破壊的行動を取るのであれば、その声は黙殺されるべきだと考えられます。
欧米的な死の政治 - すなわちネクロポリティクス - は、人間的価値のすべてを否定するものであるため、徹底的に排除され、破壊されるべき存在であると断言できるのです。
翻訳:林田一博

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近代日本における戦争への日本仏教の関与

「宗教情報センター」というサイトから転載。


(以下引用)

第18回 2012/08/01

近代日本における戦争と宗教——―仏教界の視点から

1.生存競争としての戦争協力

 戦争と宗教。それは、もっとも遠いようでいて、もっとも近いテーマです。平和や共存・共生を願うはずの宗教が、紛争や戦争の原因となり、世界情勢の混乱要因とさえなっていることは、あらためて例を挙げるまでもない、近年の国際政治情勢でしょう。とりわけ、東西冷戦というイデオロギー対立が終焉して以降、紛争が地域レベルに拡散され、その主要因のひとつとして宗教の存在が注目されてきました。
 その際、特に注目を浴びるのはイスラム教であり、その過激派や原理主義といった考え方や勢力でしょう。一方で、9・11テロ以降、中東での戦争を継続してきたアメリカの兵士たちも、自らの信仰するキリスト教の神に勝利や生存を祈り、戦い続けてきました。冷戦終結直後に刊行された『宗教から読む国際政治』(日本経済新聞社)はかつて、「新しい国際秩序が形成されるなかで宗教が重要な要素になるならば、今後世界は、非妥協的な紛争に少なからず直面するのではないか。冷戦構造のタガが緩むと共に世界で発生した民族紛争の多くが宗教対立を背景にする事実は、不安な兆候である1」と予言しましたが、不幸なことに、我々はこの予言が当たっていないことを確言できる現実のなかに暮らしていません。
 では、日本人の多くが親しんでいる仏教はどうでしょうか2 。仏教では、その信者が守るべき戒めとされる五戒や八戒において、「不殺生戒」が第一に置かれています。その原理的・教義的観点からみるなら、明らかに戦争は殺戮行為であり、否定されなければなりません。しかし、近代日本の歴史を振り返ってみるとき、戊辰戦争から太平洋戦争まで、仏教勢力のほとんどは戦争に協力してきた、という歴史的事実が存在しています。戦争を行う国家に対し資金や人材、物資を提供し、従軍僧を派遣して布教や慰問に努め、戦争の正当性を僧侶が説いて回ったのです。
 それは、なぜでしょうか。最初の経験であった戊辰戦争が勃発したとき、発足したばかりの薩長を中心とする新政府が「官軍」となり、これに敵対する旧幕府軍は「賊軍」となりました。よく知られている通り、江戸時代において、寺院は戸籍の管理という行政の一端を担っており、その意味で、幕府ときわめて近しい関係にありました。その幕府が倒れてしまう。その現実を前に、いわば新時代における「生存」を賭けた承認競争がはじまります。たとえば東西両本願寺では、もともと倒幕側に肩入れしてきた西本願寺は継続して新政府軍に協力し、莫大な人材や資金を提供しました。一方、徳川家康の寄進によって設立され、それ以降も幕府との関係が密接であり続けた東本願寺は後手に回ることになり、必死になって旧幕府との関係を断ち切り、新政府軍に協力することで、その「生存」を勝ち取ろうとします。仏教だけではありません。神道の神職たちもまた、新政府からの承認を得ようとして自ら武器を取って立ち上がり、新政府軍に参加しました。「生存」のための競争。それが、政治権力の交代という大変動期にあって、仏教者たちの戦争協力を支えた論理であり、心理でした。

2.    国家間戦争と戦争協力

 戊辰戦争では新政府軍が勝利し、明治政府が以後、本格的な国家建設を進めていくことになります。目標としたのは西洋列強であり、対外的独立であり、近代化でした。そうした西洋化路線や、それを推し進める薩長藩閥政府への権限の集中、さらには、近代化のための改革によって特権が切り捨てられていく士族たちの間には不平が広がり1870年代、続々と不平士族の反乱が勃発していきます。
 最大の士族反乱となった1877年の西南戦争では、反乱の勃発地点となった鹿児島が新政府発足以降も半独立国状態で中央政府の統治が十分に行き届いておらず、それまでの長い歴史を踏襲して、浄土真宗の信仰を禁じていました。武士の支配社会を横断する講組織や、年貢が本願寺への寄進に流れる、といった点を警戒したためだといわれています。その禁止が、戦争勃発の前年に大久保利通や西郷隆盛の尽力で解かれたことから、本願寺は積極的な布教攻勢に出ます。戦争がはじまったあとも、政府に不満を持つ人々を鎮める、という論理で政府からの公認を得て、布教を続けていきました。かくして、いまの真宗王国・鹿児島が形成されていきます。
 「生存」から「拡大」へ。仏教勢力の視野がさらに広まった一幕でした。「拡大」の視野は、海外へも広がっていきます。明治の開国以降、日本の仏教は積極的な海外布教を展開していきますが、その重要な契機となったのが、日清・日露戦争でした。日清戦争では、不殺生戒という原理的課題に対して、あくまで戦争の廃滅を目標としながらも、日本がアジアの指導者として覚醒をはかるための「義戦」に参戦することは仏教の唱道するところである、などと解いて戦争協力を正当化しました。こうした姿勢の背景には、当時、布教や慈善事業・教育活動などを通して勢力を拡大してきていたキリスト教への対抗という意識もあったといわれています。そして、この戦争の勝利によって台湾を植民地化した日本側では、積極的に現地での仏教布教活動が展開されていくことになります。「生存」と「拡大」。その交差点に、戦争への協力が位置していました。
 日露戦争の際も本願寺派は、帝国未曾有の事変に際して挙国一致で対処すべきであり、真宗門徒は兵役や軍資募集などに積極的に応じ、「国民」として「王法」を守るよう法主・大谷光瑞は宣言し、日清戦争をはるかに越える規模の従軍層の派遣、軍資献納、恤兵品の寄贈、軍事公債応募の奨励、出征・凱旋兵の送迎・慰問、出征軍人の留守家族の慰問・救護、傷病兵の慰問、戦死者の葬儀、戦死者遺族の慰問・救護などにありました。従軍僧は、宣戦詔勅や法主のことばを基準にして法話・説教を行い、たとえば、真宗門徒の多い石川・富山・福井の3県の連隊から構成される第9師団の従軍僧となった佐藤厳英は、前線出動を控えた師団将兵に対し、この戦争が仏教の殺生戒とは矛盾しないこと、平和のための戦いであること、慈悲の精神から捕虜や非戦闘員を助けるべきこと、そして恐怖心が湧いた時は南無阿弥陀仏を唱えよ、国家のために死ぬのは名誉であり、靖国神社にまつられるのは身に余る幸せである、などと語っています。そしてこの第9師団は、有名な旅順総攻撃で一斉に「南無阿弥陀仏」と唱えながら突貫したと伝えられています。当時第9師団の士官だった林銑十郎(のち首相)は、「第一回の総攻撃で第九師団はほとんど全滅と迄言いわれた。・・・真宗門徒の半死半生の兵士は皆口の中では称名を唱へて居る。夜になると全部が『南無阿弥陀仏』をやるので囂囂と聞こえる位である。助けて呉れなどと言ふ者は一人もない。それに依つて私は北国に於ける仏教の力は茲だと云ふことを感じたのであります」と回想しています3 。
 こうした協力的姿勢、そして兵士への影響は、他宗派においても同様であり、一部の僧侶からは非戦・反戦の声はあがったものの、それは教団から非正当な主張として退けられていきました。

 3.国家行為と宗教行為

 「生存」と「拡大」。前者がほぼ保証された状況の中で、仏教者をさらに後押ししたのが後者でした。アジアへの日本仏教の拡大という課題が、アジアへの勢力を拡大する日本の国家行為と連動して捉えられていたわけです。
 この国家行為と宗教行為との連動を考える上で、重要なキーワードがあります。それは、「布教権」です。もし、中国大陸で日本仏教が自由に布教する権利を獲得していたなら、日本政府や日本軍のアジア戦略とは自立した形での布教活動が、可能だったかもしれません。実際、日露戦争に続く第一次世界大戦の際、日本政府は有名な対華二十一箇条の要求を中国側に突きつけ、日本仏教の布教権の獲得をその一項目に盛り込みました。すでに欧米諸国のキリスト教の布教権を中国側は承認しており、日本仏教もこれと同等の権限を保有すべきである、というのが、日本仏教側の主張でした4 。しかし、中国側はこれを含むいわゆる第5号要求の削除をもとめて日本政府もこれを受諾し、結局、布教権は設定されませんでした。それ以降中国では、終戦まで、結局自立した布教権が確立されることはありませんでした5
 このため、日本仏教の活動領域は、日本軍が公式・非公式に制圧した実効支配地域に限られることになり、必然的に布教をはじめとする宗教行為は戦争という国家行為と連動し続けることになります。実際、アジアに急速に勢力を拡大していった昭和期、仏教界は各戦争に積極的に協力し、そして敗戦によってアジアの支配権を失った瞬間に、日本の寺院も神社も、一斉にアジアから消えてなくなることになったのです。
 もとより、昭和の戦争期において、「生存」を考えるとき、非戦や反戦の声を上げることは簡単ではありませんでした。実際、日中戦争期に「戦争は罪悪である」などと発言した結果、陸軍刑法によって有罪判決を受けた真宗大谷派明泉寺の住職・竹中彰元は、法要座次を最下位に降格されました。宗教者個人としては国家的・社会的制裁と教団的制裁を覚悟しなければならない、そして教団としては国家的・社会的制裁を覚悟しなければならない、すなわち、「生存」を賭けなければならない、それが戦争協力をめぐる態度の是非を決定付けました。
 竹中彰元は2008年に大谷派によって名誉を回復されていますし、いま、仏教各派では戦争協力に対する反省や、戦争反対の声を上げた人々の名誉回復が進められています。それはたしかに必要なプロセスでしょう。ただ、なぜ、不殺生戒を掲げる仏教界が戦争に協力したのか、その「生存」と「拡大」をめぐる当時の状況や意欲はいかなるものであったのか、そうした実態の実証的分析なくして、反省を踏まえた次の一歩は踏み出せないのも事実です。現代に平和や共生を呼びかける資格、それは平和や共生をおびやかしてしまった過去の精算からしか生まれてこない。宗教学でも仏教学でもなく、政治学という門外漢の立場からあえて宗教界の歴史と現状をみつめてきた者として、そのことを痛感しています。

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専門家(僧侶)の知的レベルの低さ

ナカムラクリニック記事の一部である。
「因果応報がこの世の摂理」とは、どういう仏教宗派の教えなのだ? 中村氏の質問にまともに答えていない。明白な詐欺説法である。こんなのは本来のブッダの教えでも何でもないだろう。

(以下引用)

当院を受診された、とある僧侶がこんな話をした。
「仏教の教えるところでは、善因善果、悪因悪果、因果応報がこの世の摂理です。ひらたくいうと、『いつか必ず自分に返ってくる』ということです。いいことであれ、悪いことであれ、人はその報いを必ず受けます。分かりやすいでしょう?」
ああそうですか、で済ませてもよかったのだけど、僧侶の話を聞ける機会は多くはない。そこで、こんな質問をしてみた。
いや、でも本当に世の中、そんなに分かりやすいんですか?好き放題、悪行の限りを尽くし、不法に富を得て、それで幸せな老後を過ごし、一生を終えた。そういう人もたくさんいると思います。
というか、東京大空襲とか原爆投下で何万人という市民を殺して、戦後には日本の労働力が生み出す莫大な富を吸い上げてボロ儲けしているアメリカの金融マフィアの人たちに、悪因悪果の摂理が機能しているかというと、そういう印象は受けないんだけど。世界観や宗教観が違えば、下るべき天罰も下らないということですか?
僧侶はほほえんで、
「今生で償いがなされなければ、来世での報いが待っています。前世で人を殺せば、今世で殺されるかもしれない。それがカルマです」
前世で一人殺せば、今世で誰かに殺されて、それで収支トントン。自分の命で以って前世での殺人を償う。そういう仕組みだとして、しかし、たとえば広島の原爆で14万人が死んだ。そんな途方もない悪因を、いったいどんな悪果が埋め合わせてくれるというんですか?
言ってしまってから、すぐに反省した。患者として来てくれた人にぶつける質問ではない。

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古代における漢字の誕生と白川漢字論

私は当今の学者の言説をほとんど信用していないので、少し前から一部で高い評価をされていた白川静の漢字論も、まあ、「自分を売り込むための言説」だろう、としか思っていなかった。何しろ古代漢字の原初的意味についての説なのだから、いくらでもデタラメを作れるだろう、というわけだ。特に「文字の呪術的機能」というのなど、嘘くさい、と思っていた。
だが、例によって(私は硬い本はトイレで読むことが多い)トイレで朝便をしながら朝勉をしている時に読んだ白川静の「漢字百話」の一節に少し感心した。
それは「字」という漢字の起源のことで、見てのとおり、この字は「うかんむり」の下に「子」である。で、うかんむりは家を表すというのが一般的な理解だろう。だが、なぜ「家の下(中)に子供がいる」のが、「字」なのだ? それを白川はこう書いている。色字にして引用する。

字をその字形のように家のなかにいる子供というのでは、そこから何の意味も生まれない。会意字の形態素は、すべて象徴としての意味を含むものと見なければならない。屋根の垂れている家は、古代の文字にあっては必ず廟屋、先祖のみたまやである。そこに子がかかれているのは、氏族員の子としてはじめて祖霊に謁見することであり、その生育の可否について祖霊に報告し、その承認を受ける儀礼を意味する。そのとき幼名がつけられるのを小字という。字はアザナである。かくて養育のことが決定される。ゆえに字に「字(やしな)ふ」の意があり、滋生の意もそこから生まれるが、本義はアザナである。(夢人注:「あざな」は通称のこと)

というように、「字(じ)」と「字(あざな)」とが結び付き、本来は「アザナ」という意味が先行していたという、見事な説明である。

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ユダヤ教とキリスト教と神道と仏教

「東海アマブログ」記事で、ユダヤによるキリスト教乗っ取り説は私がずっと言い続けていることである。つまり、これに関しては同じ意見だ。
末尾の、「日本神道ユダヤ教起源説」という妄想論が、せっかくの好論説を台無しにしているので、省略した。内容において、日本神道は「戒律」がほぼゼロの珍しい「宗教(?)」であり、厳格な戒律主義のユダヤ教との類似性はゼロである。と言っても、私はべつに神道支持者ではない。他の「宗教」に比べればかなりマシという程度だ。
宗教としては「本当(本来)のキリスト教」つまり、新約聖書から読み取れるキリスト教が優れているとは思うが、これは「創造神」という基盤が「悪の存在」と矛盾するという大きな欠陥があり、信じる対象にはできない。だが、キリストの教えの道徳性は優れている。
なお、私は「本来の仏教」は哲学であって宗教ではない、という考えであり、その「哲学」は世界最高の哲学だと思っている。それは「空」という概念を自分で咀嚼し、納得すればいいだけだ。

追記する。神が人間を創造した時に「自由意志」を与えたので、「悪は神ではなく人間が作った」と考えることもできる。とすると、「人間そのものが悪の発生源である」ことになり、それを「人間の原罪」とすることも可能だろう。とすると、普通の人間は「何が神にとっての悪か」も分からないので、「天国に行く」には宗教指導者が勝手に作った怪しげな教えに従うしかないわけで、これは人間支配のもっとも強力な手段になる。つまり、「奴隷化する手段」である。それがユダヤ教、偽キリスト教(主にカトリック)、イスラム教が西洋や中東社会にはびこり、社会を支配した理由である
アジアは「仏教」という解毒剤があったために救われたのだろう。


(以下引用)





 キリストの登場には巨大な意味がある。
 現在、キリストを教義に利用するため、たくさんのキリスト教を自称する宗教団体が勝手な解釈をして、新約聖書でさえ本質的に歪曲した解釈を押しつけているが、それは旧約聖書を信奉する勢力が、キリストの本当の言葉が、自分たちを全否定するものだからだ。

 たとえば、エジプトで、一番新しく発見されたトマス福音書は、死海文書と同じ内容で、そもそも「薪を割ってもそこにいる。石をどけてもそこにいる。石造りの建物に私はいない」
 と書かれていたものを、教会キリスト教の全否定と捉えた全世界のキリスト教が、「石造りの建物に私はいない」を世界中の記述から消してしまって、おまけに「偽書」と決めつけて排除した。

 新約聖書は、勝手な改竄の上に改竄が積み重ねられている。死海文書も、ファティマ第三預言も、既存キリスト教の権威を揺るがすものだから、決して公開されることはない。
 イエスは、本当はキリスト教会どころか、「キリスト教」はいらないと示しているのだ。
 モーゼ2戒「偶像崇拝の禁止」は、教会も、その組織も、キリスト像も含むのであって、権威化したキリスト教会のシステム全体を無意味なものと定めている。

 ユダヤ人=ユダヤ教徒は、新約聖書が世界に拡散されると、「キリストを殺した人々」と罵られるようになり、キリスト教徒から「ボグロム」という集団虐殺を受けるようになった。(イエスがユダヤ教戒律主義者のパリサイ人と激しく衝突し、パリサイ人の陰謀によって張りつけ処刑された)
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%A0

 ボクロムからユダヤ教徒を守るためにどうしたらいいのか? と考えたユダヤ人たちは、キリスト教の指導部に入り込んで、キリスト教そのものを改竄してしまえばよいと考えた。指導部に入り込んでキリスト教を偶像化(虚構化)させてしまうことで、その意味を失わせようとした。

 カトリックの司祭の8割がユダヤ人だという(宇野正美)。これは、カトリックをユダヤ教徒が乗っ取る目的で入り込んでいるものだ。
 プロテスタントも同じで、アメリカの近代福音派の指導者の大半がユダヤ人だという。これも、福音派の教義にシオニズムを紛れ込ませて、新約聖書ではなく旧約聖書を重用させる教義に変えてしまう目的があった。

 これによって、イエスが存命中、シオニズムなど一度も口にしたことがないのに、なぜかキリスト教プロテスタントは、「クリスチャンシオニズム」と呼ばれるほど、強烈にシオニズムを信奉するようになり、パレスチナ先住民の本当のユダヤ人末裔であるカナン人たちを殺戮し、追放しているイスラエルを全面的にバックアップしている。

 つまり、プロテスタント福音派のシオニストたちの正体は、キリスト者ではなくユダヤ教徒なのだ。
 彼らは、キリスト教、新約聖書を捨てて、旧約聖書を絶対視するようになった。そして、旧約聖書の核心部分は、トーラー五書であり、それはイエスが徹底的に拒絶した戒律殺人の連続なのだ。

 レビ記20章の戒律による処刑指示の連続を見て、吐き気を催さない者がいるのだろうか?
 https://www.churchofjesuschrist.org/study/scriptures/ot/lev/20?lang=jpn

 「神は、どれだけ殺したら腹いっぱいになるのか?」
 と嘆いた人がいるが、まさに、このような処刑の洪水は、悪魔の所業というしかなく、旧約聖書の神=ヤハウェとは、ルシファー(サタン)であると考える人も多い。

 この悪魔の旧約聖書の戒律が、パリサイ人などの戒律派(律法派)と呼ばれる人々によって、ユダヤ人の心を拘束し、いたるところで投石処刑が行われる残酷な社会にイエス・キリストが登場した。

 イエスは、旧約聖書の戒律を真正面から否定した。
 ヨハネ福音書に示された「罪なき者は石撃て」こそ、戒律否定の神髄である。
 https://muchacafe.hateblo.jp/entry/2017/07/10/000807

 旧約聖書は、出エジプト記10のなかで、モーゼの言葉として「汝殺すなかれ」と強く戒めながら、レビ記では「殺せ殺せ」の連続であり、イエスの時代、律法主義を掲げていたパリサイ派が、戒律殺人を奨励し、女性が夫以外の男に誘惑されただけで石で殴り殺していた。

 だが、イエスは「人を裁くな」と言った。
  https://yokohamashiloh.or.jp/mt-fj-07-01/
 これも、旧約聖書とユダヤ教の戒律処刑を全否定するものだった。

 イエスは、ユダヤ人に戒律殺人をやめさせるために登場したのだ。
 それなのに、今、自称ユダヤ人たちがパレスチナを「自分たちの領土」と決めつけ、ユダヤ人にはシオンの地(約束の地)に帰還する義務があるとして、先住民を片っ端から虐殺して、イスラエル国を肥大させている。

 これを全面支持しているのが、アメリカ福音派であり、共和党である。
 よって、パレスチナでの自称ユダヤ人による大虐殺をやめさせるために、彼らのバックボーンであるアメリカ福音派を批判し、排除しなければならないことになる。

 そもそも、パレスチナを侵略したユダヤ人たちがニセモノであることを何度も書いた。
 彼らは、ハザール国由来の自称ユダヤ人(アシュケナジム)であって、旧約聖書の「約束の地」に、ヤハウェによって示された民族は、誰一人含まれていない。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%84%E6%9D%9F%E3%81%AE%E5%9C%B0

 自称ユダヤ人たちが、殺戮し、排除しているパレスチナ先住民のカナン人こそ、ホンモノのユダヤ人であり、ヤハウェがその地に繁栄を約束した人々である。
 それなのに、戦後、欧州ホロコーストの恐怖に追い立てられたユダヤ人たちが、勝手にイスラエルにやってきて、「自分たちは2000年前から、ここに住むことを約束されている」として、先住民を追い出し始めた。
 リクード党、ネタニヤフに至っては、1980年代のウクライナ極右勢力だった。

 たぶん彼らは自分たちがニセモノであることを知り、焦りから強引な手法で自分たちこそユダヤ人であることを世界にアピールしたいのだと思う。
 だが、もう取り返しがつかない。イスラエルが崩壊滅亡を免れる要素など一つもない。あと数年で、イスラエルという国家は残酷な形でこの世から消えると、私は確信している。

 ガザ大虐殺を全面支持しているアメリカ福音派は、実は、第二次世界大戦では日本への原爆投下を支持した。さらに、ベトナム戦争の北爆への支持も表明した。
 アメリカが死刑廃止に向かうなか、頑なに死刑制度を維持し、復活させようとしている州は、すべて福音派が権力を得ている州であり、現在のトランプ政権も、福音派を支持母体としている。
 https://www.tais.ac.jp/faculty/graduate_school/major_incomparative_culture/blog/20130601/24682/

 もっとひどいのは、女性の権利を抑圧し、旧約聖書の戒律社会に戻そうとしているのも福音派であり、トランプ政権である。
 福音派は、キリストの言葉を否定し、戒律主義を復活させようとしている。
 アメリカは、現在、世界的な死刑国家に向かっているが、その主役は旧約聖書の戒律を掲げた福音派である。
 https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6057169.html

 キリストは、「殺すなかれ」と言った。だが福音派(モルモン教やエホバも同じ)は、「殺さねばならない」と、寛容の心を排除し、人々の意識を変えようとしている。
 人間の心を刑罰と処刑の恐怖で支配しようとしているわけだ。
 それは、世界の軍需産業の大半をユダヤ人が経営し、ユダヤ人たちは戦争の人殺しでボロ儲けすることを目的にしているからだろうと私は思う。
 戦争殺人を正当化するために、人殺しを正当化する戒律社会が必要なのだ。

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