丸山真男『日本の思想』1961年、東京、岩波書店
目次
第1章 日本の思想(pp.1-66)
まえがき 日本における思想的座標軸の欠如、ほか
1.イデオロギー暴露の早熟的登場、ほか
2.「国体」における臣民の無限責任、ほか
3.天皇制における無責任の体系、ほか
4.〔本記事の以下にテキスト化:ブログ主・註〕
おわりに
第2章 近代日本の思想と文学―一つのケース・スタディとして(pp.67-122)
まえがき 政治‐科学‐文学、ほか
1.明治末年における文学と政治という問題の立てかた、ほか
2.プロレタリア文学理論における政治的および科学的なトータリズム、ほか
3.各文化領域における「自律性」の模索、ほか
おわりに
第3章 思想のあり方について(pp.123-152)
人間はイメージを頼りにして物事を判断する
イメージが作り出す新しい現実
組織における隠語の発生と偏見の沈殿
被害者意識の氾濫、ほか
第4章「である」ことと「する」こと(pp.153-180)
「権利の上にねむる者」
「である」社会と「である」道徳
「する」組織の社会的台頭
「する」価値と「である」価値との倒錯、ほか
あとがき
それと「物神化」という言葉も重要だと思うが、先にこれに関する私の考えを書く。
これは要するに「神格化」とほぼ同じだが、それとの違いは、「神格化」は実際に神の資格があるものを神とする場合もあるが、「物神化」は、「物」つまり創造主の単なる被造物にすぎないものを神格化する(愚行)という違いであるかと思う。つまり、その前提に「創造主と被造物」というユダヤ・キリスト教の「西洋人には説明する必要も無い哲学思想的常識」があるということで、その「物神化」という言葉を非西洋人が軽い気持ちで使うのは、理解が浅い、軽薄だ、となるのではないだろうか。ここで丸山は「理論」の物神化を論じている。
さて、「ミネルヴァの梟」のことだが、これは「世界の正確な認識は世界が終わった段階でしか不可能である」という、実は当たり前だが誰も気づかない真理を示しているかと思う。あなたは工場でベルトコンベアの上に載った部品を見て、その最後の製品の全体を把握できるか?
これは、歴史の完全認識(あるいは過去の歴史から未来を正確に予測すること)の永遠の不可能性と、歴史認識哲学や理論の限界を示すわけだ。
そして、マルクスの試みは、その不可能性への挑戦であり、当然「未熟な思想」「半端な思想」にしかなりえないのだが、それを受容した日本の思想家たちや学生たちはその事実をまったく認識しなかったということだろう。そしてマルクス理論を「物神化」したわけだ。
この指摘が、マルキスト造反学生たちが丸山を嫌悪した理由だろう。東大を占拠した彼らは丸山真男の蔵書(学者の生命に等しい)を焼き捨てるという蛮行をしたのである。
(以下引用)
しかし第三に、理論と現実の関係においてトータルな世界観としてのマルクス主義の特有の考え方が、日本の知識人の思考様式と結合して、一層理論の物神化の傾向を亢進させたことも見逃してはならない。マルクス主義は、周知のように、ミネルバの梟は夕暮れになって飛翔をはじめるというヘーゲル主義、すなわち一定の歴史的現実がほぼ残りなくみずからを展開しおわった時に哲学はこれを理性的に把握し、概念にまで高めるという立場を継承しながら同時にこれを逆転させたところに成立した。世界のトータルな自己認識の成立がまさにその世界の没落の証しになるというところに、資本制生産の全行程を理論化しようとするマルクスのデモーニッシュなエネルギーの源泉があった※ 。しかしながら、こうした歴史的現実のトータルな把握という考え方が、フィクションとして理論を考える伝統の薄いわが国に定着すると、しばしば理論(ないし法則)と現実の安易な予定調和の信仰を生む素因ともなったのである。