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「物神化」と「ミネルヴァの梟」

前回引用した丸山真男の文章を私なりに解読するつもりだが、かなり面倒くさい文章なので、その一部で、有名な「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」というヘーゲルの言葉が書かれた部分だけ考察する。私はこの言葉の意味を、この丸山の文章を読むまで正確には知らなかった。
それと「物神化」という言葉も重要だと思うが、先にこれに関する私の考えを書く。

これは要するに「神格化」とほぼ同じだが、それとの違いは、「神格化」は実際に神の資格があるものを神とする場合もあるが、「物神化」は、「物」つまり創造主の単なる被造物にすぎないものを神格化する(愚行)という違いであるかと思う。つまり、その前提に「創造主と被造物」というユダヤ・キリスト教の「西洋人には説明する必要も無い哲学思想的常識」があるということで、その「物神化」という言葉を非西洋人が軽い気持ちで使うのは、理解が浅い、軽薄だ、となるのではないだろうか。ここで丸山は「理論」の物神化を論じている。

さて、「ミネルヴァの梟」のことだが、これは「世界の正確な認識は世界が終わった段階でしか不可能である」という、実は当たり前だが誰も気づかない真理を示しているかと思う。あなたは工場でベルトコンベアの上に載った部品を見て、その最後の製品の全体を把握できるか?
これは、歴史の完全認識(あるいは過去の歴史から未来を正確に予測すること)の永遠の不可能性と、歴史認識哲学や理論の限界を示すわけだ。
そして、マルクスの試みは、その不可能性への挑戦であり、当然「未熟な思想」「半端な思想」にしかなりえないのだが、それを受容した日本の思想家たちや学生たちはその事実をまったく認識しなかったということだろう。そしてマルクス理論を「物神化」したわけだ。
この指摘が、マルキスト造反学生たちが丸山を嫌悪した理由だろう。東大を占拠した彼らは丸山真男の蔵書(学者の生命に等しい)を焼き捨てるという蛮行をしたのである。


(以下引用)

しかし第三に、理論と現実の関係においてトータルな世界観としてのマルクス主義の特有の考え方が、日本の知識人の思考様式と結合して、一層理論の物神化の傾向を亢進させたことも見逃してはならない。マルクス主義は、周知のように、ミネルバの梟は夕暮れになって飛翔をはじめるというヘーゲル主義、すなわち一定の歴史的現実がほぼ残りなくみずからを展開しおわった時に哲学はこれを理性的に把握し、概念にまで高めるという立場を継承しながら同時にこれを逆転させたところに成立した。世界のトータルな自己認識の成立がまさにその世界の没落の証しになるというところに、資本制生産の全行程を理論化しようとするマルクスのデモーニッシュなエネルギーの源泉があった 。しかしながら、こうした歴史的現実のトータルな把握という考え方が、フィクションとして理論を考える伝統の薄いわが国に定着すると、しばしば理論(ないし法則)と現実の安易な予定調和の信仰を生む素因ともなったのである。

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丸山真男「日本の思想」の一部転載

かなり長い記事なので、途中までしか読んでいないが、非常に重要な思想なのは明白なので転載する。「本に溺れたい」という、あまり魅力のない名前のブログから転載。溺れたければ勝手に溺れろ、と多くの人は(私を含めて)思うのではないか。しかし、ブログ管理者が抜き出した部分は日本の現在と過去と未来を考察する、実に有益な「補助線」だと思う。

(以下引用)

丸山真男『日本の思想』1961年、東京、岩波書店
目次
第1章 日本の思想(pp.1-66)
まえがき 日本における思想的座標軸の欠如、ほか
1.イデオロギー暴露の早熟的登場、ほか
2.「国体」における臣民の無限責任、ほか
3.天皇制における無責任の体系、ほか
4.〔本記事の以下にテキスト化:ブログ主・註
おわりに
第2章 近代日本の思想と文学―一つのケース・スタディとして(pp.67-122)
まえがき 政治‐科学‐文学、ほか
1.明治末年における文学と政治という問題の立てかた、ほか
2.プロレタリア文学理論における政治的および科学的なトータリズム、ほか
3.各文化領域における「自律性」の模索、ほか
おわりに
第3章 思想のあり方について(pp.123-152)
人間はイメージを頼りにして物事を判断する
イメージが作り出す新しい現実
組織における隠語の発生と偏見の沈殿
被害者意識の氾濫、ほか
第4章「である」ことと「する」こと(pp.153-180)
「権利の上にねむる者」
「である」社会と「である」道徳
「する」組織の社会的台頭
「する」価値と「である」価値との倒錯、ほか
あとがき




丸山真男『日本の思想』1961年岩波新書、Ⅰ章「日本の思想」、四節(pp.52-62)


「二つの思考様式の対立」、同書、p.52


 右にのべたような状況、すなわち一方で、「限界」の意識を知らぬ制度の物神化と、他方で規範意識にまで自己を高めぬ「自然状態」(実感)への密着は、日本の近代化が進行するにしたがって官僚的思考様式と庶民(市民と区別された意味での)的もしくはローファー的(有島武郎の用語による)思考様式とのほとんど架橋しえない対立としてあらわれ、それが「組織と人間」の日本的パターンをかたちづくっている。しかもこの両者は全く機能する次元を異にし、思想的な相互媒介ができないためにかえって同一人間のなかに共存して、場によって使い分けられることもあるし、異なった方向から意図的にあるいは無意図的に、同じ目的に奉仕するという結果にもなる。それは近代化の矛盾がはげしくなるにつれて乖離を露わにしたが、もともと日本の「近代」そのものに内在し微妙なバランスを保っていた契機の両極化であり、すなわち、日本における「制度」と「精神」との構造連関が認識論的側面において、両極として表現された形態にほかならない。そうして日本における社会科学の「伝統的」思考形態と、文学におけるそれ以上伝統的な「実感」信仰の相交わらぬ平行線もまたつきつめれば同じ根源に帰着するように思われる。



「実感信仰の問題」、同書、p.53


 日本の近代文学は「いえ」的同化と「官僚的機構化」という日本の「近代」を推進した二つの巨大な力に挟撃されながら自我のリアリティを掴もうとする懸命な模索から出発した。しかもここでは、(ⅰ)感覚的なニュアンスを表現する言葉をきわめて豊富にもつ反面、論理的な、また普遍概念をあらわす表現にはきわめて乏しい国語の性格、(ⅱ)右と関連して四季自然に自らの感情を託し、あるいは立居振舞を精細に観察し、微妙にゆれ動く「心持」を極度に洗練された文体で形象化する日本文学の伝統、(ⅲ)リアリズムが勧善懲悪主義のアンチテーゼとしてだけ生まれ、合理精神(古典主義)や自然科学精神を前提に持たなかったこと、したがってそれは国学的な事実の絶対化と直接感覚への密着の伝統に容易に接続し自我意識の内部で規範感覚が欲望や好悪感情から鋭く分離しないこと、(ⅳ)文学者が(鴎外のような例は別として)官僚制の階梯からの脱落者まはた直接的環境(家と郷土)からの遁走者であるか、さもなくば、政治運動への挫折感を補完するために文学に入ったものが少なくなく、いずれにしても日本帝国の「正常」な臣民ルートからはずれた「余計者」的存在として自他ともに認めていたこと―などの事情によって、制度的近代化と縁がうすくなり、それだけに意識的立場を超えて「伝統的」な心情なり、美感なりに著しく傾斜せざるをえなかった。
 そこでは制度にたいする反発(=反官僚的気分)は抽象性と概念性にたいする生理的な嫌悪と分かちがたく結ばれ、また、前述した「成上り社会」での地位と名誉にたいする反情と軽蔑(ときにはコンプレックス)に胚胎する反俗物主義は、一種の仏教的な厭世観に裏づけられて、俗世=現象の世界=概念の世界=規範(法則)の世界という等式を生み、ますます合理的思考、法則的思考への反発を「伝統化」した。しかもヨーロッパのロマン主義者のように自然科学的知性そのものを真向から否定するには、近代日本全体があまりに自然科学と技術の成果に依存しており、またその確実性を疑うほどの精神の強烈さ(あるいは頑固さ)もわが国の文学者は持ち合わせない。こうして一方の極には否定すべからざる自然科学の領域と、他方の極には感覚的に触れられる狭い日常的現実と、この両極だけが確実な世界として残される。文学的実感は、この後者の狭い日常的感覚の世界においてか、さもなければ絶対的な自我が時空を超えて、瞬間的にきらめく真実の光を「自由」な直観で掴むときにだけに満足される。その中間に介在する「社会」という世界は本来あいまいで、どうにでも解釈がつき、しかも所詮はうつろい行く現象にすぎない。究極の選択は2×2=4か、それとも文体の問題かどちらかに帰着する!(小林秀雄『Xへの手紙』)



「日本におけるマルクス主義の思想史的意義」p.55


 あらゆる政治や社会のイデオロギーに「不潔な抽象」を嗅ぎつけ、ひたすら自我の実感にたてこもるこうした思考様式が、ひとたび圧倒的に巨大な政治的現実(たとえば戦争)に囲繞されるときは、ほとんど自然的現実にたいすると同じ「すなお」な心情でこれを絶対化するプロセスについては、ここで立入った叙述を略する。その代り、最後にわが国では社会科学的思考を代表し文学的「実感」の抵抗を伝統的に触発して来たマルクス主義の問題を、以上のテーマとの関連でとり上げ、近代日本の知的構造における問題性を総括することとしよう。
 マルクス主義が社会科学を一手に代表したという事は後で述べるような悲劇の因をなしたけれども、そこにはそれなりの必然性があった。第一に日本の知識世界はこれによって初めて社会的な現実を、政治とか法律とか哲学とか経済とか個別的にとらえるだけでなく、それを相互に関連づけて綜合的に考察する方法を学び、また歴史について資料による個別的な事実の確定、あるいは指導的な人物の栄枯盛衰をとらえるだけではなくて、多様な歴史的事象の背後にあってこれを動かして行く基本的動因を追求するという課題を学んだ。こういう綜合社会科学や構造的な歴史学の観点は、コント、ルソー、スペンサー、バックルなどの移植された明治初期にはあったけれども、、一つには天皇制の統合過程によって、また二つにはあたかもヨーロッパでは十九世紀以降、社会科学の個別化専門化が急速に進行しアカデミーの各科がそうした初めから専門化された学問形態を受け入れる一方、ジャーナリズムはますます大衆化したという事情の為に、知的世界からいつか失われてしまったのである。マルクス主義の一つの大きな学問的魅力はここにあった。
 第二に右のことと関連して、マルクス主義はいかなる科学的研究も完全に無前提ではあり得ない事、自ら意識すると否とを問わず、科学者は一定の価値の選択の上に立って知的操作を進めていくものである事を明らかにした。これまで哲学に於いてのみ、しかし甚だ観念的に意識されていた学問と思想との切り離し得ない関係を、マルクス主義は「党派性」というドラスチックな形態ですべての科学者につきつけた。しかもその思想は世界をいろいろと解釈するのではなくて、世界を変革することを自己の必然的な任務としていた。直接的な所与としての現実から、認識主体をひとたび隔離し、これと鋭い緊張関係に立つことによって世界を論理的に再構成すればこそ、理論が現実を動かすテコとなるという、これまた凡そデカルト、ベーコン以来の近代的知性に当然内在しているはずの論理は、わが国ではマルクス主義によって初めて大規模に呼び醒まされたといって過言ではない。さらにキリスト教の伝統を持たなかったわが国では、思想というものがたんに書斎の精神的享受の対象ではなく、そこには人間の人格的責任が賭けられているということをやはり社会的規模に於て教えたのはマルクス主義であった。たとえコンミュニストの大量転向が、前述したように思考様式からすれば、多くは伝統的な形でおこなわれたにしても、思想的転向がともかく良心のいたみとして、いろいろな形で(たとえマイナスの形ででも)残ったということは、少なくもこれまでの「思想」には見られなかったことである。マルクス主義が日本の知識人の内面にきざみつけた深い刻印を単にその他もろもろのハイカラな思想に対すると同じに、日本人の新しがりや知的好奇心に帰するのが、どんなに皮相な見解であるかはこれだけでも明らかだろう。



「理論信仰の発生」、同書、p.57


 しかしながら、マルクス主義が日本でこのような巨大な思想史的意義をもっているということ自体にまた悲劇と不幸の因があった。近世合理主義の論理とキリスト教の良心と近代科学の実験操作の精神と―現代西欧思想の伝統でありマルクス主義にも陰に陽に前提されているこの三者の任務をはたしてどのような世界観が一手に兼ねて実現できようか。日本のマルクス主義がその重荷にたえかねて自家中毒をおこしたとしても、怪しむには足りないだろう。このことを逆にいうならば、まず第一に、およそ理論的なもの、概念的なもの、抽象的なものが日本的な感性からうける抵抗と反発とをマルクス主義は一手に引き受ける結果となった。第二に必ずしもマルクス主義者に限らず一般の哲学者、社会科学者、思想家にも多かれ少かれ共通し、むしろ専門家以外の広い読者層あるいは政治家、実業家、軍人、ジャーナリスト等が「教養」として、哲学・社会科学を重要視する際によりはなはだしい形であらわれるところの理論ないし思想の物神崇拝の傾向が、なまじマルクス主義が極めて体系的であるだけに、あたかもマルクス主義に特有な観を呈するに至った。ちょうどマルクス主義が「思想問題」を独占したように公式主義もまたマルクス主義の専売であるかのように今日でも考えられている。その際、「公式」というものがもつ意味や機能は殆んど反省されず、またマルクス主義以外の主義・世界観・教義などが果して日本の土壌で理解され信奉されるときはマルクス主義に劣らず公式主義的にならないかという問題はともすると看過されるのである。
 理論信仰の発生は制度の物神化と精神構造的に対応している。ちょうど近代日本が制度あるいは「メカニズム」をその創造の源泉としての精神 ― 自由な主体が厳密な方法的自覚にたって、対象を概念的に整序し、不断の検証を通じてこれを再構成してゆく精神 ― からでなく、既製品としてうけとってきたこととパラレルに、ここではともすれば、現実からの抽象化作用よりも、抽象化された結果が重視される。それによって理論や概念はフィクションとしての意味を失ってかえって一種の現実に転化してしまう。日本の大学生や知識人はいろいろな範疇の「抽象的」な組合せによる概念操作はかえって西洋人よりうまいと外国人教師に、皮肉を交えた驚嘆を放たせる所以である。
 しかしこうして、現実と同じ平面に並べられた理論は所詮豊饒な現実と比べて、みすぼらしく映ずることは当然である〔ブログ主註:本記事末文の著者註とブログ主註を参照〕。とくに前述のような「実感」に密着する文学者にとっては殆んど耐えがたい精神的暴力のように考えられる。公式は公式主義になることによって、それへの反発も公式自体の蔑視としてあらわれ、実感信仰と理論信仰とが果しない悪循環をおこすのである。
 しかし第三に、理論と現実の関係においてトータルな世界観としてのマルクス主義の特有の考え方が、日本の知識人の思考様式と結合して、一層理論の物神化の傾向を亢進させたことも見逃してはならない。マルクス主義は、周知のように、ミネルバの梟は夕暮れになって飛翔をはじめるというヘーゲル主義、すなわち一定の歴史的現実がほぼ残りなくみずからを展開しおわった時に哲学はこれを理性的に把握し、概念にまで高めるという立場を継承しながら同時にこれを逆転させたところに成立した。世界のトータルな自己認識の成立がまさにその世界の没落の証しになるというところに、資本制生産の全行程を理論化しようとするマルクスのデモーニッシュなエネルギーの源泉があった 。しかしながら、こうした歴史的現実のトータルな把握という考え方が、フィクションとして理論を考える伝統の薄いわが国に定着すると、しばしば理論(ないし法則)と現実の安易な予定調和の信仰を生む素因ともなったのである。


 ブログ主註:ヘーゲル/マルクスの終末論(ヘブライズム=キリスト教神学)的構造。だから、デモーニッシュにもならざるを得ません。「神学」であれば、仮説やフィクションという要素はゼロです。



「理論における無限責任と無責任」、同書、p.60


 本来、理論家の任務は現実と一挙に融合するのではなくて、一定の価値基準に照らして複雑多様な現実を方法的に整序するところにあり、従って整序された認識はいかに完璧なものでも無限に複雑多様な現実をすっぽりと包みこむものでもなければ、いわんや現実の代用をするものではない。それはいわば、理論家みずからの責任において、現実から、いや現実の微細な一部から意識的にもぎとられてきたものである。従って、理論家の眼は、一方厳密な抽象の操作に注がれながら、他方自己の対象の外辺に無限の曠野をなし、その涯は薄明の中に消えてゆく現実に対するある断念と、操作の過程からこぼれ落ちてゆく素材に対するいとおしみがそこに絶えず伴っている。この断念と残されたものへの感覚が自己の知的操作に対する厳しい倫理意識を培養し、さらにエネルギッシュに理論化を推し進めてゆこうとする衝動を喚び起こすのである。
 ところが、実践(実感!)に対するコンプレックスの形であれ、あるいは理論の物神化の形であれ、理論が現実と同じ次元に立って競争するような知的風土では、さきのヘーゲル→マルクス的考え方はややもすると次のような結果を生む。すなわち一方、自己の依拠する理論的立場が本来現実をトータルに把握する、また把握し得るものだというところから責任の限定がなくなり、無限の現実に対する無限の責任の建て前は、実際には逆に自己の学説に対する理論的無責任となってあらわれ、しかもなお悪い場合にはそれがあいまいなヒューマニズム感情によって中和されて鋭く意識に上らないという始末に困ることになる。もっとも、マルクス主義においてはトータルな理論化によって蓄積された現実に対する負債は、現実のトータルな革命的変革で返却される仕組みになっているのだが、この仕組みはトータルな変革が現実の日程に上っているか、そうでなくても組織論が自然成長性と目的意識性との結合を、日常生活面からトップ・レヴェルの問題まで、各々の次元に有効に推し進めているかぎりにおいてのみ実現される。いずれの条件も欠けていて理論の物神化だけが進行すると、社会科学や歴史学の中で革命が自慰を行うという一種の革命アカデミズムの傾向になるか、それとも経典(『資本論』)の訓詁注釈学としてあらわれるか、どちらかに転化することがほとんど避けられなくなるのである。
 繰り返しいうように、以上の問題は必ずしも厳密な意味のマルクス主義者の間にだけ見られるのではなく、多少とも日本の社会科学にこれまで伴って来た傾向である。社会科学は文学とちがって本来、論理と抽象の世界であり、また(それがよいかどうかは別として)必ずしも自己の精神の内面をくぐらずに ― 個性の媒介を経ないで ― 、科学の「約束」にしたがって対象的に操作しうるので、少くも理論化された内容に関する限り、日本の思考様式に直接緊縛されるモメントが希薄である。それだけに対象化された理論とその背後のなまの人間の思考様式との分裂が現れやすいわけである。社会科学の発想と文学的発想とのくいちがいが日本における「ヨーロッパ」対「伝統」の問題のような形であらわれるのはここに由来している。本当の問題は両者に裏はらの形で共通して刻印されている日本の「近代」の認識論的特質なのではなかろうか。それが社会科学者と文学者によってともに自覚されるとき、そのときはじめて、両者に共通の場がひらける。前述した官僚的思考とローファー的思考との悪循環の根をたちきるためのさし当りの一歩がこの辺にあるように思われる。


同書、p.62
※ さきに引用した制度化と現実の関係についてのトレルチの言葉を想起されたい。「理論は灰色で現実は緑だ」というゲーテの有名な言葉は、またマルクス主義最高の理論家でもあるレーニンのもっとも愛好した言葉でもあった。しかしこの言葉もまたさまざまの歪曲のヴァリエーションをもっている。第一には、理論の追求などは所詮人生における本質的なものにかかわりなく、二葉亭ではないが、男子一生の業とするに足りないという慷慨派または実感密着派の正当づけとなる形態、第二に、手足をバタバタ動かす「実践」の優位、第三に、一方で理論のスコラ主義を「堅持」しながら、他方で「実感」に機会主義的に追随するという使い分け等々。(私達知識人はいろいろな形で庶民コンプレックスを持っているから、「庶民の実感」に直面すると、弁慶の泣きどころのように参ってしまう傾向がある。)したがって「理論信仰」と「実感信仰」は必ずしも同一人のなかに併存するのをさまたげないわけである。


〔註〕ゲーテの「理論は灰色で現実は緑だ」、については、下記参照。原文を引いてあります。
Grau, teurer Freund, ist alle Theorie,Und grun des Lebens goldner Baum.(Mephistopheles): 本に溺れたい


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哲学と経済学

「蚊居肢」記事の一節だが、ひとつの考え方として面白いので転載する。まあ、あまりに「思想的にお洒落」すぎる印象だが、それは内容より書き方の問題かもしれない。あまりに純粋な思想は数学の理論みたいなもので、一般人には意味不明である。
我々一般人は、たとえば愛国心がなぜ全体主義や暴力や戦争と直結するのか、という具体的な問題なら考察できるが、哲学が社会を動かしたという話は聞かない。民衆を動かすのは常にデマでありデマゴーグ(扇動者)なのである。フランス革命も、哲学ではなく「スローガン」が民衆を動かしたのであり、それは大きく言えばデマが動かしたのである。
下の引用記事も理解困難だが、読み物として面白いということだ。

この部分の前に書かれた「日銀が利上げできない理由=利上げは日銀の破産を意味する」も面白いので、後で別記事として転載するかもしれないが、まあ、ご自分で読むのが一番だろう。
ただ、私は、そもそも、日銀の利上げがインフレ抑制になるという理屈がよく分からない。インフレは企業の通常の活動の結果であり、日銀金利とさほど関係があるとは思えないからだ。経済学の常識というのは、案外落とし穴なのではないか、という気もする。(大企業は膨大な内部留保があり、銀行からの借入金にさほど頼っているとも思えないから、借入金の利払いのために値上げをするとも思えない。単に、他者が値上げするから自分たちも値上げしても大丈夫という便乗値上げだろう。これも「民衆心理」のひとつだ。日銀が利上げしたらいっそう企業も値上げして大インフレ、そしてスタグフレーションになる、という可能性もあるのではないか。)*スタグフレーション=インフレ+不況
今さら言うまでもないが、私のブログはそういう「素人の寝言・戯言(ざれごと)」であることをお断りしておく。

(以下引用)




ここで、私が好んで引用してきたヴィクトル・フーゴーの言葉と柄谷注釈を掲げておこう。



故郷を甘美に思うものはまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者は、すでにかなりの力をたくわえた者である。だが、全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である。


The person who finds his homeland sweet is a tender beginner; he to whom every soil is as his native one is already strong; but he is perfect to whom the entire world is as a foreign place.


(サン=ヴィクトルのフーゴー『ディダスカリコン(学習論)』第3巻第19章)




こういう言葉があります。 《故郷を甘美に思うものは、まだくちばしの黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられるものは、既にかなりの力を蓄えた者である。全世界を異郷と思うものこそ、完璧な人間である。》


これは、サイードが『オリエンタリズム』においてアウエルバッハから孫引きした、一二世紀ドイツのスコラ哲学者聖ヴィクトル・フーゴーの『ディダシカリオン』の一節です。 



これはとても印象的な言葉で、トドロフも『他者の記号学』の中でサイードから再引用しています。僕なんかが漠然と考えていたことを言い当てている、という感じがするんですね。


その言葉は、思考の三段階ではないとしても、三つのタイプを表していると思います。まず最初の「故郷を甘美に思う」とは、いわば共同体の思考ですね。アリストテレスがそうですが、このタイプの思考は、組織された有限な内部(コスモス)と組織されない無限定な外部(カオス)という二分割にもとづいているわけです。〔・・・〕



次の「あらゆる場所を故郷と感じられるもの」とは、いわばコスモポリタンですが、それはあたかもわれわれが、共同体=身体の制約を飛び超えられるかのように考えることですね。あるいは、共同体を超えた普遍的な理性なり真理なりがある、と考えることです。〔・・・〕



第三の「全世界を異郷と思うもの」というのが、いわばデカルト=スピノザなのです。むろん、ある意味でデカルトは第一、第二のタイプでもあるわけです。スピノザは、そういう意味で「完璧な人間」ですね。この第三の態度というのは、あらゆる共同体の自明性を認めない、ということです。しかし、それは、共同体を超えるわけではない。そうではなく、その自明性につねに違和感を持ち、それを絶えずディコンストラクトしようとするタイプです。それは、第一のタイプが持つような内と外との分割というものを、徹底的に無効化してしまうタイプであり、しかもそれは、第二のタイプで普遍的なものというのとも、また違うわけです。(柄谷行人「スピノザの「無限」」『言葉と悲劇』所収、1989年)



私は愛国ときくとほとんど常に悪い臭いを嗅ぐ。


 


人は共同体のネガを目指すべきである。




ゴダールは『JLG/自画像』で、二度、ネガに言及している。一度目は、湖畔でヘーゲルの言葉をノートに書きつけながら、「否定的なもの(le négatif)」を見すえることができるかぎりにおいて精神は偉大な力たりうると口にするときである。二度目は、風景(paysage)の中には祖国(pays)があるという議論を始めるゴダールが、そこで生まれただけの祖国と自分でかちとった祖国があるというときである。そこに、いきなり少年の肖像写真が挿入され、ポジ(le positif)とは生まれながらに獲得されたものだから、ネガ(le négatif)こそ創造されねばならないというカフカの言葉を引用するゴダールの言葉が響く。とするなら、描かれるべき「自画像」は、あくまでネガでなければならないだろう。(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』2008年)




デカルトは、自分の考えていることが、夢をみているだけではないかと疑う。…夢をみているのではないかという疑いは、『方法序説』においては、自分が共同体の”慣習”または”先入見”にしたがっているだけではないかという疑いと同義である。…疑う主体は、共同体の外部へ出ようとする意志としてのみある。デカルトは、それを精神とよんでいる。〔・・・〕



誤解をさけるために捕捉しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それは共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)


もっとも愛国心にはナショナリズム以外に郷土愛(パトリオティズム)がある(パトリオティズムは、生まれ育った共同体や郷土を意味する「パトリア」に由来する言葉だ)。人はこの郷土愛からは容易には免れ難い。

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「予定説」という奇怪な思想

吉田拓郎の歌で岡本おさみ作詞の「祭りの後」という歌があるが、その中に「日々を慰安が吹き荒れて」というフレーズがある。早朝散歩の間というか、歩き始めになぜかそのフレーズとメロディが頭の中を浮遊していたのだが、なぜ「慰安」に「吹き荒れる」というマイナスイメージの言葉が続くのだろうか、と考え、それは「慰安の前」には「不幸、苦しみ、悩み」があるからだ、という結論になった。つまり、「吹き荒れて」いるのは実は我々の人生の不幸なのである。
そこから、どういう経路でか、「宗教というのも、我々の間で吹き荒れている慰安なのではないか」という思考に至ったのだが、つまりはそれが宗教の「現世利益」であり、それは決して馬鹿にできるものではない。来世に天国に行けるかどうかではなく、その宗教を信じることによる慰安こそが宗教の価値なのだ、というわけだ。
というのは、キリスト教には「死んで天国(神の国)に行けるかどうかは最初から定められている」という恐ろしい思想の宗派があるからだ。とすると、現世で善行をしようが悪行をしようが、無関係だ、ということになる。あるいは、我々の行為は最初から決定されており、自由意志などない、という思想になる。そのどちらも現世の道徳を無化する恐ろしい思想だが、案外、平気で悪行をする宗教者や宗教信者はそういう思想かもしれない。
つまり、宗教が道徳的かどうかは、その宗教と無関係だ、という思想になり、たとえばオウム真理教も、信者に「生きる意味」を与えたとすれば、宗教としての存在意義はあった、となるかもしれない。

「予定説」について、ウィキペディアから引用する。


予定説(預定説、よていせつ、英語: Predestination)は、聖書からジャン・カルヴァンによって提唱されたキリスト教神学思想。カルヴァンによれば、救済にあずかる者と滅びに至る者が予め決められているとする(二重予定説)。神学的にはより広い聖定論に含まれ、その中の個人の救済に関わる事柄を指す。全的堕落と共にカルヴァン主義の根幹を成す。


予定説を支持する立場からは、予定説は聖書の教えであり正統教理とされるが、全キリスト教諸教派が予定説を認めている訳ではなく、予定説を認める教派の方がむしろ少数派である(後述)。

内容

[編集]

予定説に従えば、その人が神の救済にあずかれるかどうかはあらかじめ決定されており、この世で善行を積んだかどうかといったことではそれを変えることはできないとされる。例えば、教会にいくら寄進をしても救済されるかどうかには全く関係がない。神の意思を個人の意思や行動で左右することはできない、ということである。これは、条件的救いに対し、無条件救いと呼ばれる。神は条件ではなく、無条件に人を選ばれる。神の一方的な恩寵である。


救済されるのは特定の選ばれた人に限定され、一度救済にあずかれた者は、罪を犯しても必ず神に立ち返るとされる[1]。これは、聖徒の堅忍信仰後退者の教理である。[2][3]

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論語の考察3 「文章」とは何か

些細な事柄が大きな意味を持つこともある。
ここに書くことは、「論語」の中では些細な事柄だが、様々な分野の「専門家のダメさ」を示すという、「大きな意味」を持っている。専門家は、蓄積された「学問の先達の定説」が固定観念となり、その受け継いだ説の馬鹿馬鹿しさや非論理性に気づきもしないのである。

さて、ここで問題になるのは「文章」という漢字熟語である。この「文」も「章」も「あや、飾り」の意味があることは、漢字の初歩的知識だろう。名前の「文子」を「あやこ」と読ませ、太陽をデザインした国旗を「日章旗」と呼ぶ類だ。つまり、おおげさに言えば、これが「デカルト流」の「分析」である。分けて考えることだ。さらに、分けたものをまとめるのが「総合」だ。

以上は前置きで、本題の「論語」の話である。「論語」公冶長篇に「夫子の文章は得て聞くべきなり。夫子の性と天道とを言うは得て聞くべからざるなり」という文章がある。(書き下しは金谷治のもの。)これを、金谷治と宮崎市定はそれぞれこう訳している。

(金谷訳)「先生の文彩は(だれにも)聞くことができるが、人の性(もちまえ)と天の道理についておっしゃることは(奥深いことだけに、ふつうには)とても聞くことはできない。」

(宮崎訳)「先生の生活の哲学は、これまでいつも教えを受けてきたが、先生の性命論と宇宙論とは、ついぞ伺ったことがない。」

問題は、それぞれの訳文の「文章」の訳である。私が赤字にした部分だ。どちらもひどい訳である。金谷の「文彩を聞く」という日本語もひどいが、宮崎の「文章=生活の哲学」もひどい。

では、どう訳するべきか。例によって漢和辞書を調べると、「文章」の説明の中に「礼楽、制度、教育など、一国の文化を形成しているもの」とある。論語のこの文章の文脈的に明らかにこれが正解だろう。とすれば、どう訳するか。「文彩」や「生活の哲学」がダメすぎるのは当然だが、私なら、「文化規範」とする。

「先生の文化規範論一般は聞くことができましたが、人の本性は何かや天道はどういうものかは聞けませんでした」となる。

これを別の言い方をすると、「孔子は形而下の説は講義したが形而上の話はしなかった」ということだ。まさに「怪力乱神を語らず」である。


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日本精神が世界を救う、か

マッドサイエンティスト井口博士の「大摩邇」所載記事だが、アマルティア・センの思想が私の「大和(大いなる和)の精神」が世界を救うという思想と酷似しているので転載する。
一応、ユーチューブ動画も載せておくが、私は動画嫌いなので自分では見ていない。(文章は一瞬で読めるが、動画は視聴に時間がかかりすぎて時間がもったいない。)(日本語の文章は不要箇所は飛ばして読めばいい。漢字やカタカナ部分を見れば、その判別は容易である。機能性では世界最高の言語だろう。誤字があっても推理・判読は容易だ。)

(以下引用)
【海外の反応】「日本こそ世界の希望だ!」ノーベル経済学賞の権威アマルティア・センが語る、世界が学ぶべき日本の真実
【コンスピラシー】スノーデンの生きる世界と全く違う世界を構築することが日本の道。ノーベル経済学賞の権威アマルティア・センが語る、世界が学ぶべき日本の真実_d0407307_14531034.png
これはインド人のノーベル経済学賞受賞者アルマティア・セン博士の意見ということである。
彼の結論は単純。
日本がなければ地球は崩壊した
ということだ。
なぜ日本がなければ地球は崩壊したのだろうか?
これを我々日本人は肝に銘じてよく理解する必要がある。
アルマティア・センの結論は以下のものである。
日本は世界にとって非常に重要な国だ。
日本は世界の希望である。
日本の調和を重んじ、利他的な精神を基盤とした社会は、人類が未来を築くための手本になる。
「和を以て尊しとなす」の聖徳太子の十七条の憲法の精神が社会の至る所に根付く国である。
日本は性善説の国である。
センさんの結論は非常にシンプルである。
要するに、もし日本がなかったら、ヨーロッパの大航海時代に全世界は白人国家の植民地になり、白人とその奴隷の社会という地球になっていただろうというわけである。
日本人はそれをどうやって阻止してきたのか?
これを我々日本人は今以上に研究しなければいけないわけだ。
要するに、我々日本人がこれまでずっと持ち続けてきた「日本らしさ」、それをこれからもずっと維持していかなければいけない。
これが私の哲学である。
哲学というものが決まれば、それから先は自ずと決まるようになる。
当然そのためには英語や中国語より日本語である。日本語中心で考えること。これが必須条件になる。
日本の作法や日本の様式が重要になる。
しかしながら、戦後一貫してGHQ以降は日本人的なるものはNHKに代表されるメディアから「時代遅れ」「差別的」「権威主義」「談合」というように蔑まれないがしろにされてきた。
だから昔に比べてほとんどアメリカ人と区別できないほどになったわけだ。
1960年代には数学者の岡潔博士がそのことの危険性をずっと警鐘を鳴らし続けたが、いまや岡の危惧は実現してしまった。
それでもまだほんの僅かだが日本らしさは残る。
ここを取り戻すような教育体制・社会体制に戻すのが今の日本にとっていちばん大事なことだと思うのだ。
要するに、前回のメモで見るような白人社会とは全く違う哲学の世界を作り上げることに日本は挑戦すべきだということである。
はたして日本は俺が思う方向に動くだろうか?
これまでの経験ではいつも俺が思う方向へは一度も動いたことはなかった。
だから、この問題も俺の信じる方向とは正反対の方向に動くのではないかと予想する。
いやはや、世も末ですナ!

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「朱子学」は存在しない(朱子批判と「格物致知」批判)

まず、なぜ「朱子学は存在しない」と言うかというと、朱子は自分自身のオリジナルな思想があるのではなく、それまでの儒学を体系化し、「四書五経」を選定し、「四書」を「五経」の上に位置づけ、さらに、「論語」を四書のひとつと位置づけることで孔子や「論語」を格下げし、「四書」の順序を「大学」「中庸」「論語」「孟子」とすることで、「大学」や「中庸」は「論語」以上の価値があるという「無意識を操作した」のである。
そういう意味では朱子は孔子の「敵」とも言えるだろう。
ただし、「大学」や「中庸」の持つ、一種の見かけの「論理性」は、こけ脅かしには最適のもので、それだけに「政治教科書」や「公務員教科書」としては使用しやすかったわけだ。

その「論理性」が見せかけのものだ、ということを「格物致知」を例にして説明する。

最初に、その「格物致知」がどういうように登場するかを引用する。

「古(いにしえ)の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は、先ずその家を斉(ととの)う。その家を斉えんと欲する者は、まずその身を修(おさ)む」
「その身を修めんと欲する者は、先ずその心を正しくす。その心を正しくせんと欲する者は、先ずその意を誠にす。その意を誠にせんと欲する者は、先ずその知を致す。知を致すは物に格(いた)るにあり」(大学・経一章)

まあ、セールスマンの早口トークを聞いているように催眠術にかけられそうなセリフだが、このどこにも論理性は無い。
念のために、どこでもいいから「なぜ?」という言葉をはさんでみるがいい。「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む」「なぜ?」

国を治めるという「君主にしか通用しない話」を、なぜ「公務員」が学ぶのだ?

つまり、ここですでに「朱子学」の欺瞞性が見えるのだが、末尾の「格物致知」が気になる人のために説明をする。

「格物致知」を「物に格(いた)り、知を致す」と読ませる漢学者が多いと思うが、それは習った通りに言っているだけだろう。この「格」は「いたる」ではなく「きわめる」と読むべきである。ちゃんと漢和辞書に「格:きわめる」の意味が載っている。そもそも、「物に至る」では意味不明だろう。「物」とは何か。
この「物」とは「あらゆる物」である。あらゆる物の性質や特質を「極める」のが「格物」なのである。だから、その作業によって「知を致す(知に至る)」わけだ。
だが、その結果が、国を治め、明徳を明らかにすることとどう結びつくのか。物理学者や科学者でないと君主になるべきではないのか。それとも公務員すら学者でなければならないのか。
ここに「公務員教科書」としての朱子学のインチキさがあるわけだ。この公務員を「士大夫」としても「武士」としても同じことだ。要は、「小人閑居して不善を為す」から、「道徳的で難解な教科書でも勉強させておけ」と言う話である。

私なら「その国を治めんと欲する者は、先ずその知を致す」でこの長々しい文章を一文にするところである。そうすれば「君主用教科書」にはなる。だが、あまりにも当たり前の言葉なので、誰も感心しないだろう。それを長々と尻取り文を続けることで、聞いている方は意味が分からなくなり、深遠な思想だ、と思い込むわけである。






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