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天皇制と「エタ・ヒニン」の関係?

「逝きし世の面影」の宗純氏の文章の一部だが、粗雑な論理である。
私は尊皇主義だが、「神権的天皇制(古代天皇制)」の支持者ではないし歴史にも詳しくないので、単に論理だけを論じるが、天皇制の本質は「一君万民」だったのではないか。つまり、人民の間に「エタ・ヒニン」を作る(できる)のとは話がまったく違う。
そして「人の上に人を作る」のは資本主義でも共産主義でも社会という組織の活動の上で不可避のことで、天皇制とは無関係な話だ。
その「人の上に人を作る」が、「天皇神格化」のことなら、既に終わった軍部支配時代の話だ。むしろ、半分は意図的に作られたとしても、「神の存在しない」近代社会において「天皇の神格化」がなぜ可能だったか(それが日本の文化の土台に存在し、民衆の好意的反応があったからこそ、そしてそれが「日本の誇り」の象徴であったからこそだろう。)を考えることこそが、日本という国の未来を考える上で有益なのではないか。
なお、「民主主義」が事実上不可能な政治システムであることを聡明な宗純氏は分かっていると思う。だから「代議制民主主義」という「背後から操作可能」な偽民主主義が世界のほとんどの国で行われ、そのほとんどが「民衆搾取政治」になっているのである。

言うまでもないと思うが、私は「民主主義批判」を「天皇親政」に直結させるほどの馬鹿ではない。それでは226の過激派青年将校と同じである。しかし、天皇こそが日本の象徴だ、という意見は私の信念であり、それは日本国憲法の言明するところだ。そして天皇は、あるいは「日本を守る最後の盾」になる可能性もあると思う。なぜか。それは天皇はその存在意義の上で日本と一心同体だからだ。

(以下引用)


この「逝きし世の面影」ブログのカテゴリー「部落解放同盟」が詳しいが、生まれながらに尊い人を作れば自動的に生まれながらに卑しい人も生まれる。人の上に人をつくる仕組みは絶対に駄目で、天皇制とエタヒニンは一つのコインの裏表の関係で、基本となる仕組みが同一なのである \(^o^)/




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神道と日本人精神

サイト名は忘れたが、神道の根本的知識である。
こういうのを載せたからと言って、私が「日本神道連盟」なる右翼組織に共鳴しているなどと思わないように。あんなのは政治活動家による宗教利用である。

ごく主観的な意見を言えば、神道は、世界で唯一の「和の思想」である。その和は祖先から子孫に至り、自然や地球全体に及ぶもので、当然、世界中の人間が和の対象だ。自然破壊もしない。
引用記事中の言葉を借りれば、

神道は生きている今(今中)を大切にした森羅万象や宇宙などへの信仰です。この世での生活を大切にし、自然と調和しながら充実した人生を送ることが重要であると考えられています。

つまり、あなたも私も、いや世界全体、宇宙全体が「神」なのである。あるいは「神性」を本来持っているのである。

で、神道の最大の特徴は「穢れ」を忌むことで、この「穢れ」は(私の考えだが)当然「汚い行動」をも含むだろう。つまり、これだけですべての倫理道徳を含むのである。

すべてを「法律的に」定義する西洋的(ユダヤ的)発想(契約の思想)とは大違いであり、後者は「その法規をいかにして搔い潜るか」の永遠の連鎖となる。(山本七平の本は、ほとんどがそうした「ユダヤ的発想」肯定論になっている。)結果的に「無邪気な、信じやすい善人が苦しみ、狡知に長けた悪人が栄える」社会になる。契約社会とは近代資本主義社会でもある。それは道徳性とは無縁の社会だ。

西洋思想が入ってくるまでは、武士には武士道徳、商人には商人道徳、庶民には庶民道徳、ヤクザですら「任侠」というヤクザ道徳があり、それらは日本文化の根底に根差していたはずだ。つまり「汚らわしい行為をしない」である。金持ちが軽蔑され、常に話の悪役にされたのは、「汚らわしい行為をしないで蓄財ができるはずはない」と考えられたからだ。だから心ある富商は慈善や社会貢献もしたのである。

さて、今の日本はどうだろうか。

カネがすべて」の社会になっていないか? 宗教的集団が社会不和の種を撒き、戦争肯定(殺人肯定)思想を平気で主張していないか?

参考として、下のコメントを挙げておく。ここに書かれた「日本の美点」が消えつつあるとしたら、その原因が「新自由主義的精神(獰猛な利己主義)」の拡大にあるのは明白だろう。

■ 私は10年以上前に日本に引っ越してきたけど、
  それ以来日本を出る意欲がなくなってしまった。
  日本は美しく、清潔で、安全で、平和で、
  人々は信じられないくらい親切。
  ビーチにも行けるし雪だって見られる。
  あらゆる体験が出来て、よく整備されていて、
  そしてどの季節も素晴らしい。 +7 ベトナム




(以下引用)

神道は「宗教」ではない?

神道は一般的に「宗教」とは呼ばれません。なぜなら、神道には明確な教義や経典、開祖が存在しないからです。


神道は、自然への畏敬と祖先崇拝を中心に、長い歴史の中で自然発生的に形成されてきた信仰体系です。そのため、「信じなければならないもの」が明確に定められていないのです。


一方、仏教は釈迦を開祖とし、経典に基づいた明確な教義を持つ宗教です。

世界観の違い

神道は自然や人間、生命体など、宇宙に存在する一切のものを神格化し、お祀りしたり、信仰したりします。一方、仏教は「悟りを開く」ことを目指し、心の迷いがなくなり安らかな境地に達することを求めます。

生前・死後の考え方の違い

神道には輪廻転生の概念はありません。死後、人は黄泉の国と呼ばれる死者の国へと旅立ち、そこで祖先と再び出会うと考えられています。


一方、仏教では輪廻転生を信じ、悟りを開くことで輪廻から解脱し、涅槃(ねはん)と呼ばれる理想的な境地を目指す考え方があります。

人生の捉え方の違い

神道は生きている今(今中)を大切にした森羅万象や宇宙などへの信仰です。この世での生活を大切にし、自然と調和しながら充実した人生を送ることが重要であると考えられています。


一方、仏教は来世重視の宗教です。仏教では、「人生は苦」という根本的な教えから始まります。


無常、無我、非苦という三つの真理に基づき、老病死や人間関係の悩みなど、あらゆる苦しみは避けられないものであると考えます。また、仏教は、苦しみの根本的な原因を明らかにし、苦しみから解放されるための具体的な方法を示します。*4)

神道と天皇の関係

神道と天皇は、古代から深い関係にあります。天皇は、神道の神々、特に天照大神の直系の子孫とされ、国家の象徴として、また神聖な存在として尊重されてきました。また同時に天皇は、宮中三殿において全ての神々祀る神主の役割を果たしています。天皇が古代から行ってきた宮中祭祀を中心として「皇室神道」があります。


現代の天皇は、政治的な権力を持たず、象徴としての役割を果たしています。しかし、国家と国民の安寧と繫栄を祈る「宮中祭祀」を執り行うことは、今日でも天皇の重要な役目です。

神道における神社の役割

神社は、日本固有の宗教である神道の神々を祀る施設で、全国に10万社以上あり、生活に密着したものになっています。


一般的に神社は神様の家とされ、参拝場所としての役割があります。多くの人は毎日の感謝の気持ちを伝え、また家内安全や無病息災、合格祈願といった願いをし、人々の心の拠り所となっています。


神社によって祀っている神が様々なことも神社の特徴です。高天原に住む神々(天津神)や土着の神々(国津神)だけでなく、歴史上の偉人、動物や自然、中には外国の神様を祀った神社もあります。


神社は色々な神様の家であると同時に、パワースポットや地域文化の継承地といった様々な側面があり、日本人のアイデンティティを形成しています。

神道に関してよくある疑問

【『日本略史 素戔嗚尊』に描かれた須佐之男命とヤマタノオロチ】

神道は日本の伝統と文化、そして人々の生活の中に深く根ざした信仰体系です。しかし、神道の起源は非常に古く、未解明のことや今なお研究中のことも多くあり、その本質や特性については、多くの人々がまだ理解していない部分があります。


ここでは神道についてのよくある疑問にお答えします。

宗教ではないの?

神道は、一般的な宗教の枠組みには当てはまらないと考えられています。神道は、自然や祖先、そして日常生活に存在する神々を尊重し、感謝する信仰体系です。


神道には、一元的な神や教義、組織的な教会体制は存在しません。自然や祖先への畏敬の念に基づいた、長い歴史の中で自然発生的に形成された信仰体系と言えるでしょう。

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物事には複数の面がある(東海アマ氏批判)

これも「東海アマブログ」記事の一部で、アマ氏が何度も書いていることだが、私はこれを違う見方で考えてみたい。
ユダヤ人が13歳までに旧約聖書の一部を(かなり膨大に)暗記するという義務のことである。氏はこれを、その内容の残虐さや不道徳性から否定的に捉えているが、私は、この「教育」がユダヤ人の「記憶力」を圧倒的に向上させ、その知的能力の拡大の土台になったのではないか、という説を提起する。
つまり、前に書いた、短い真言「オン・バサラ・アラタンノウ・オン・タラク・ソワカ」を百万遍唱えて覚えるという「強制的記銘」が、その後の暗記課題の克服の起点になるというのと同じ意味である。百万遍唱えるという「努力の経験」が、その後の学習への取り組みを容易にするということである。「あれができたのだから、これくらい何でもないさ」となるわけだ。1秒で暗記できたから終わり、とはならないのである。「百万遍唱えた」という経験が大事なのだ。
これは、昔の中国の「科挙」の試験のために、受験者が四書五経を暗記したのと同じである。受験者の「暗記能力」を測るのが科挙の真の目的で、それがあれば役所の仕事に必要な能力の土台はあるということだ。もちろん、儒教自体が、いわば「公務員心得」的なものであり、その内容を覚え、身に着けるというのも大事だっただろう。(だから徳川政権は武士たちに儒教学習を推薦したのである。)(要するに、アマ氏の「儒教=身分差別の根源」という見方はかなり近視眼的である。今の公務員や上級国民に「仁義礼智信」の儒教精神の持ち主などいるか?)


(以下引用)

だが、ユダヤ人には、バルミツワという宗教的義務が課せられていて、13歳までに旧約聖書の一部を暗唱してラビの前で暗唱しなければならない。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%84%E3%83%AF%E3%83%BC

 ここで暗唱するのは、創世記の一部、陰謀で他部族を殺戮するものや、たくさんの虐殺処刑ばかりが含まれている。
 https://www.churchofjesuschrist.org/study/scriptures/ot/gen/34?lang=jpn
 https://www.logos-ministries.org/old_b/lev19-20.html

 このなかに陰謀殺人や姦通の投石処刑などが、これでもかと詰め込まれていて、これを幼いうちから暗唱させられると、どんな人間性が成立するのか?
 それは、ビルゲイツのような超絶サイコパスばかりを大量に生み出すのだ。
 https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6199388.html

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小室直樹の「日本仏教非仏教論」


「これ(注:すべてを因果応報で説明すること)を別の言葉で言うと、徹底した輪廻の法則による因果律なんですよ。それくらい徹底させれば、もう仏教じゃない。仏教の目的は解脱することで、悟りを開くことである。悟りを開けば輪廻の因果律から外へ出ることができる。それがあり得ないというのは、悟りを開かないということですからね。日本にくると、仏教みたいに見えながら仏教とは全く違ったものになる。」(山本七平対談集「日本教の社会学」の中の小室直樹の言葉)

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「家庭の幸福は諸悪の本」と「悪の凡庸さ」



闇の中でソファに座ってぼんやりと考えていた時に、太宰治の「家庭の幸福は諸悪の根源」(正確には「諸悪の本」のようだ。)という言葉が頭に浮かび、もしかしたら、これこそが、私が延々と構想している(というか、書きたいと思っている)「組織悪」の本質、あるいは機序ではないか、と思いついて、ネットで調べていて見つけた記事である。
実にいい記事で、なぜ「家庭の幸福は諸悪の本」なのかが明白に分かり、それが私の考えていた「組織悪」の根本であることが確認できたので、転載する。先に、私によるまとめを赤字にして書いておく。

つまり、「家庭を守るため」という名目が、自分の属する組織の悪を自分が実行する名目になり、免罪符になるということである。しかもそれは「自分の家族」だけでなく「組織構成員全員の家庭の幸福を守る」という「立派な」大義名分を持っている。

これで、なぜ組織悪が発生するかは明白になったようだ。言いかえれば、組織は善人を容易に悪に変えるのである。それが「悪の凡庸さ」の本質であり、これは「状況(組織)次第で普通人が簡単に悪事を働く」という意味である。

(以下引用)「ことばとつばさ」というサイトから転載。

太宰治「家庭の幸福」を読んで

わかば
2021年1月25日 08:34

2021年1月23日(土)にオンラインで読書会を行いました。
ご参加いただいた4名の皆様、ありがとうございました。


読書会報告記事ということで無料版です。


以前の読書会では課題本はわたしが決めていたのですが、最近では会の終わりに参加者で話し合って決めています。


前回『ヴィヨンの妻』を読んだ際に、もっと太宰治を読みたいという話になり、参加者のお一人の『家庭の幸福』がおすすめだという話を受けて、今回はこの課題本になりました。


青空文庫で読めます。


太宰治、あいかわらず

太宰治は相変わらずな生活です。飲み歩き、借金を作り、女と遊んで、朝帰り。家族は明日食べるお金にさえ困っているのに、自分だけは放蕩生活の通常運転です。それなのに本人は「死にたい」……。


そんななか、奥さんと子どもたちが原稿料が入ったのをいいことにラジオを買ってきます。そして、みんなで楽しく聞いているのです。


このラジオ、みんなで楽しく聞いて笑顔になるところ、家庭円満の象徴ですね。


太宰(主人公)は、にがにがしく思いながらも、病気で寝ているときにラジオを聞くのです。引き込まれて聴き続けているうちに夜になると、『妙なもの』を聴きます。それは、政府の役人と民衆の街頭録音でした。

太宰治、公務員にキレる

この辺りから、太宰が役人の態度に対してキレはじめます。


現在の国会中継と同じで、役人は奥歯にものが挟まったような言い方しかしないわけです。しかもニヤニヤしながら。

つまり、その官僚は、はじめから終わりまで一言も何も言っていないのと同じであった。

と言い切り、もし、その場にいたらこう言うのだ!といきまきます。読書会では音読をしたのですが、このあたりを声に出して読むととてもスカッとします。

あなたはさっきから政府だの国家だの、さも一大事らしくもったい振って言っていますが、私たちを自殺に導くような政府や国家は、さっさと消えたほうがいいんです。誰も惜しいと思やしません。困るのはあなたたちだけでしょう。何せクビになるんだから。

今の世にもう一度生き返って言ってほしいくらいですよね。というより私たちが言わなければならないことです。


そして、さんざん文句を言ってから、自分は政治活動に興味がないとして、

私の視線は、いつも人間の「家」のほうに向いている。

と言います。これ読書会でもお話したんですけど、すごく印象的な言葉です。太宰は家庭というものを嫌悪してたのかな?家庭の幸福を手に入れたくて、でも、手に入れられず癇癪を起こしていたのかな?


このあたりで読了後のトークが盛り上がりました。


実は、わたしも家庭というものに心安らがない人なので、少し太宰の気持ちがわかるんですよね。

太宰治、読者に一撃を与える

それで、太宰は、公務員が家庭の幸福を守ろうとすればするほど、国民にとって優しくない社会になると結論づけます。めちゃめちゃ極論です。


そして、物語の最後はこう締めくくられます。

家庭の幸福は諸悪の本

これはかなりの一撃でした……。


自分のいい加減さを棚にあげ、国民が貧困に喘いでいるのは、公務員が、恵まれた待遇で「ラジオ」なんかを聴きながら、自分の家庭のためだけに働いているからだ。それが諸悪の根源なのだと喝破されるのです。


極論だとは思うけれども、あながち間違ってもいないし、政治、社会、家庭など太宰の描くもの全てが繋がっている気がしました。


その極論に乗せられて物語としても、社会に対する抗議としてもどこかでその世界観を楽しませてもらっている自分がいました。不思議です。


でも、考えてみたら、幸福で理想的な家庭なんてあるんでしょうか。わたしはないとおもいます。太宰が断罪している役人の家庭だって何かしら不幸の種はあるはずです。それが見えないところがまた人間なのだと感じられました。


みなさんと最後にああだこうだいう物語としても最高の一編でした!次回も楽しみです。


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ユダヤ的発想が、今のイスラエルの姿勢と結びつくわけ

引用文を書き起こすのが面倒だが、先にやっておく。山本七平「日本人的発想と政治文化」からの転載である。
まず、この文章全体を読んで、何か論理的違和感を覚えないだろうか。先に言っておけば、ヘブライ語そのもので論理的議論が可能かどうかと、その後に続く「日本人批判」との関連が妥当かどうかだ。

(以下引用)文中の(も)は私の補足。

ギリシア語は分析的であるのに対し、ヘブライ語は包括的である。たとえば「罪」という言葉(アオン)は「罰」という言葉で(も)ある。罪を犯すということ自体が罰であるという形に包括してしまう。日本語に訳す場合は、文脈で「罪」と訳したり「罰」と訳したりする。
ところが、ある文章が、たとえば「その罪は重過ぎて負いきれません」と訳すこともできるし、「その罰は重すぎて負いきれません」とも訳すことができる場合、意味が違ってくる。一方は、自分の罪は重すぎて、どんな罰を加えられても負いきれないの意味であるのに対し、一方は、大したことをやっていないのにそんな罰を下されては、重くて負いきれないという意味になる。一体どちらかなと迷う。
単語のひとつひとつはイデオロギーで、それだけ切り離してもどうにもならない。グレゴリー・クラーク氏がいうように、単語のひとつひとつがイデオロギーなのに、日本人は平気でそれを日本語のなかにまぜるから不思議だという発言も出てくる。ところが、日本では原意の何かを抜いて日本的イデオロギーに変質させてしまうから平気なのである。

(以上引用)

どうだろうか。私はこの連続する三つの段落の最初の二段落を読んで、ヘブライ語の非論理性と、ヘブライ語で議論をするのは不可能だという、ヘブライ語批判に帰結するのかな、と思っていたら、それが突然日本語(日本人)批判になって驚いたわけである。
どうだろう。ドストエフスキーの「罪と罰」をヘブライ語にして「と」だけ日本語にしたら「アモンとアモン」になるわけである。そういう言葉で議論が可能だろうか。
つまり、これは「議論はラビ(ユダヤ教の師父)の専権事項であり、民はそれに従うだけでいい」という高圧的姿勢以外になりようがあるだろうか。民衆支配の言葉としては使い勝手はいいだろうが、少なくとも、こうした言葉で論理的議論が可能だとは思えない。常に、「過去の解釈」を土台にして裁きは行われることになるのではないか。そしてそれは差配者の恣意的裁きにしかならないだろう。
とすると、ユダヤ人は頭がいいという「世間の常識」もかなり怪しくなってくる。単に、「ノーベル賞はユダヤ人が主にユダヤ人に与えるから、ユダヤ人からノーベル賞受賞者が大量に出る」という、当たり前の話と、偉大な科学的発見や文化的創造をした者は「あれはユダヤ人だった」と後付けしているだけではないのか。
そして、「言葉自体がイデオロギーである」という発想もユダヤ的、あるいは西洋的な「初めに決めつけがある」という、天地創造主的な発想ではないか。いかにして相手を圧伏するかが議論の目的になるのであり、お互いの協調や(より強い側の、人道に基づく)譲歩は最初から度外視されていないか。

(追記)ユダヤ的思想を上記の事例から端的に言えば、「言葉は嘘をつくためにある」、そして「強者の嘘は問答無用で通用する」だろうか。



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山本七平の評価

山本七平の「日本的発想と政治文化」という古本を読んでいて、その詭弁性に呆れたのだが、私は昔は彼を高く評価していたのである。まあ、下の小室直樹による山本評にあるように「浅学菲才だが、物事の本質を見抜く目がある」人ではあったと思う。だが、時として「為にせんがための論」を書く、ずるいところがあったと思う。特に、日本人を貶め、ユダヤ人を持ち上げる際に、しばしばその詭弁が使われたようだ。もちろん、彼の日本人批判、特に戦時の軍部批判などはまったく正当であったが、それを「日本人一般の性格」とした感じがあり、一種の誣告だろう。
後で、上記書の中の非論理性(詭弁性)の事例を書く、かもしれない。

(以下引用)

評価

[編集]
  • 『小林秀雄対談集 歴史について』(文藝春秋 1972年)[要ページ番号]で、小林秀雄が、河上徹太郎今日出海との対談で『日本人とユダヤ人』に触れ、「ベンダサンという人が『語呂盤』という言葉を使っている」ことを紹介し、「フランスの教育におけるテーム(作文)の重大性というものはとても日本では考えられぬということを、以前パリにいたとき、森有正君がしきりに言っていた。テームの問題には、数学の定理まであるということを彼は言っていた。面白く思ったから覚えているのだが、それが、今度ベンダサンの本を読んで、はっきりわかった気がした。」「もっと微妙なことを言っているが、まあ読んでみたまえ。面白い。」と述べている。
  • 『私の中の日本軍』[要ページ番号]において、自らの軍隊経験から、日本刀は2~3人切ると使い物にならなくなると主張した。また、同じ刀を使った場合でも、状況によって切れ味は1,000倍も違うとも評した。この部分は、文学者の文学的表現と言われる。また、戦地という劣悪な状況下で日々酷使され、満足に手入れも出来ず自然とナマクラになってしまった刀に限った話であり、本来の日本刀の性能について誤解を招くものだという批判がある[10]。さらに、同書における『戦ふ日本刀』からの引用は、自説に都合の良い部分のみを引用した不正確なものだという批判もある[11]。また、山本は本多勝一との百人斬り競争における論議において、イザヤ・ベンダサンの名義で、持論である「日本刀は2~3人斬ると使い物にならなくなる」という論理を中心に本多を批判した。この論理はこの論争の後に一般に広がった。
  • 浅見定雄は、『にせユダヤ人と日本人』において、『日本人とユダヤ人』における翻訳の誤りを指摘し(たとえば、聖書の「蒼ざめた馬」を山本は間違った訳であると言うが、これは正しい訳である[12]など)、山本の語学力を批判した。山本が訳者となった、浅見自身の師である聖書学者の著書を題材に、山本が高校生レベルの英文を理解できず、明らかな誤訳をしているとして、「ヘブル語アラム語はおろか、英語もろくに読めない」[13]人物だと批判した[14]。また浅見によると『日本人とユダヤ人』によって、一般に流布されていた「ユダヤ人は全員一致は無効」という話も、実は完全な嘘あるいは間違いであり、「こんな無知な人が何をどう言おうとも、現代イスラエル国の裁判所や国会で全員一致が無効とされるわけではなく、また世界各地のユダヤ人が、さまざまな集会から家族会議まで、あらゆる生活場面で全員一致をやっている事実が消えてなくなるわけでもない」[15]と批判した[16]。また「ニューヨークの老ユダヤ人夫婦の高級ホテル暮らし」というエピソード[17]も、実際にはあり得ない話で、「この話は全部、一つ残らず、まったく、ウソ」[18]であると批判した。そして、同書が「『フィクション』ではなく『評論』」である以上、「解釈の違いは別にして評論の対象は実在しなければならない」にも関わらず「本書は作り話の上に成り立っている」ことから、「本書の価値はゼロどころかマイナス」[19]であると批判した[20]
  • また浅見は、『日本人とユダヤ人』及び山本の聖書に関する著書を取り上げ、山本は、自分でもよくわかっていないことを、わからないまま書き連ね、収拾がつかなくなると決まって「『読者にはおのずからお分かりいただけるだろう』というふうに書いて」[21]、よくわからないのは読者の頭が悪いからだと思わせるごまかしのテクニックを使っていると指摘した[12][22]
  • 浅見は他にも、あるホステルの主人が、ユダヤ人を「においで嗅ぎ分けた」という話[23]や、「関東大震災で朝鮮人が虐殺されたのは、体臭が違うからと語った老婦人」なども、山本がでっち上げた作り話だと断じた[24]。浅見はこの他にも、数多くの誤りを指摘している。
  • 山本は、かつて田中角栄が有罪となったロッキード事件でコーチャン氏がアメリカ合衆国議会の公聴会で宣誓したか否かについて「キリスト教徒は誓わない」と断じて当時の宣誓文を翻訳した宗教学者佐伯真光の訳文を批判し、両者で激しい論争となった。その経緯は本多勝一編『ペンの陰謀』「佐伯/山本論争」[要ページ番号]に詳しい。
  • 山本を絶賛する評伝を書いた稲垣武は、『怒りを抑えし者 評伝 山本七平』の中で以上の批判をまともに扱っていない。参考文献からは、山本を批判する文献はほぼ無視しており、批判したのが誰なのかも書いていない(例外として、本多と山本の共著の形になっている一冊のみ挙げている)。浅見についても、「落ちた偶像となった進歩的文化人らが、『日本人とユダヤ人』の著者と目された山本七平を、右翼保守反動の権化と蛇蝎視し、特に同じキリスト教徒であるプロテスタント左派が、山本に悪意に満ちた攻撃を加え続けたのも当然であった」(前掲406ページ)と、名指しせずにプロテスタントである浅見を意識した非難をするに留まり、「悪意に満ちた攻撃」の内容については触れていない。
  • 小室直樹は、『論理の方法』(東洋経済新報社、2003年)[要ページ番号]の中で、丸山真男の業績について論じているところで、「丸山教授の偉いところは、知識がそんなに少なくても大発見をしたところです。驚くべき大発見をしています。物事の本質を見抜く能力が凄い。その意味で山本七平氏もよく似ています。山本氏もそれこそ典型的な浅学非才の人。キリスト教の大家なんて言うのは嘘です。専門家と称する人が『聖書』の読み方が間違っているなどと言うのだが、あの人の偉いのはそんなところにあるのではない。ほんの僅かな知識で本質をずばりと見抜く。だから日本史なんて少ししかやらないにもかかわらず、崎門の学、山崎闇斎の学こそ明治維新の原動力になったということをはっきり知っている。」と述べている。
  • 辛口の書評で知られた谷沢永一は、「昭和四十五年から六十二年まで、足かけ十八年間における山本七平の著作三十二冊から、その急所を引き出し、山本学の大筋を読者に眺めわたしていただきたいとひそかに願った」として書かれた著作があり、たとえば『「空気」の研究』について、“この「空気」というのはちょっとコメントをつけにくいが、言われたらいちどにわかることである。これを最初に持ち出した着眼はすごいと思う。日本人のものの考え方、意思決定の仕方に、もしエポックを見つけるとするなら、この『「空気」研究』が書かれたときではないか。」と述べている[25]
  • 山本は著書『空想紀行』[要ページ番号]で偽フォルモサ人のジョルジュ・サルマナザールが書いたとされる偽書『台湾誌』を紹介した。イギリス社交界でもてはやされた偽のフォルモサ人(フォルモサは台湾列島にあるオランダ人が領有した台湾とは別の島と主張)であるサルマナザールと、本当に中国で18年間布教をし極東情勢を知っていたイエズス会のファウントネー神父の真贋対決で、サルマナザールは縦横無尽の詭弁で勝利を得た。サルマナザールは極東情勢がほとんど伝わっていなかった英国で、イギリス国教会と対立するイエズス会が極東情勢を故意に隠蔽していると非難し、ファウントネー神父もその陰謀の片棒をかついでいるとするなどの詭弁を繰り返しているが、山本はこのときのサルマナザールの詭弁の論法を分析し、『対象そのものをいつでもすりかえられるように、これを二重写しにしておくこと。これは"フェロモサ"と"タイワン"という関連があるかないかわからない形でもよいし…』などと細かく分析し『以上の原則を守れば、今でも、だれでも、サルマナザールになれるし、現になっている。』と記述している。これについて原田実は、自らが偽ユダヤ人として活躍した山本の面目躍如たるものがあるとしている[26]
  • 自らを外国人と称し、発言に重みを増す行為はヤン・デンマン斎藤十一)やポール・ボネ藤島泰輔)なども行っていたとされる[要出典]。また、『醜い韓国人』の著者が韓国人ではなく日本人ではないかと言われた際にも、当時公然の秘密であったイザヤ・ベンダサンの事例が韓国側から提示され[27]、日本の出版界の体質が批判された。『醜い韓国人』は韓国人協力者はいるものの、韓国人なら当然知っているような事柄にも誤りがあり、ほとんどの内容は加瀬英明が書いたものとされている。

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