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自然に対する西洋文明と日本文明の違い

西洋文明がなぜダメかというと、自然に対する畏敬の念の欠如のためである。
人間の力が自然以上のものだという傲慢さ。
日本文明の長所も、その反対である。
人力は自然の前に無力であるという謙虚さが、日本文明の根幹にある、いや、あった。今は、西洋文明に飲み込まれ、同じような傲慢さの中にある。

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宮沢賢治と日蓮宗


私は宮沢賢治の大ファンなのだが、ただひとつ、彼が日蓮宗を信じ、日蓮を「妙法蓮華経の法体」としていたことが理解できない。そもそも、「妙法蓮華経」の現代語訳を眺めても、さっぱり意味が分からないのである。その膨大な経のほとんどは妙法蓮華経自体の自己賛美と自己宣伝であって、その思想そのものが見えてこないわけだ。いや、読むのも困難なので、ただの印象だが。
ところが、日蓮宗そのものは、「経の意味など分からなくていい。ただ、南無妙法蓮華経と唱えれば、それで救われるのだ」という教えであるらしい。

よく、こういう茶番を、宮沢賢治のような優れた人間性と知性の持主が信じることができたものである。なお、上では「救われる」と書いたが、下の日蓮宗(正宗か?)の教えでは「仏の境界に至ることができる」と書いてある。つまり、日蓮宗の信徒はみな、シャカと同レベルということか? www 凄い教えである。10秒で出来るインスタント聖人である。では、日蓮宗の信徒が犯罪を犯したら、それは許されるのか? いや、日蓮宗系の某宗教団体の厚顔さを見ると、本気でそう思っている可能性もありそうだ。
もちろん、人間はみな罪びとである、とする宗教も害悪はあるが「我らはみな神の民で、わが国は神国だから、すべて許される」とするキチガイ思想よりはマシだろう。ちなみに、後者はいま、中東で猛威をふるっている。日蓮宗は、それに少し似ている気がする。だから、国柱会が軍国主義に利用されたのだろう。

(以下引用)

 日蓮大聖人の教え

 釈尊(しゃくそん)は、今から約3000年前、人々を救うため50年間にわたって説法し、その最後の8年間で出世の本懐(目的)である法華経(ほけきょう)を説かれました。
 この法華経の予言どおり、釈尊滅後2000年が経過し、釈尊仏法の功力がなくなる末法(まっぽう)時代に、民衆を救済する仏として出現されたのが、日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)です。
 日蓮大聖人は、法華経の極理を御本尊(漫荼羅)として顕され、その御本尊に向かって“南無妙法蓮華経”の題目を唱えることにより、いかなる人も仏の境界に至ることができると説かれました。

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正義論

ネットの或る記事が、トラシュマコスとソクラテスの有名な問答を簡潔に示しているので転載する。あらゆる「正義」論は、ここから出発すべきだろう。もちろん、このふたりの論争は「正義」の定義の段階ですれ違っているが、まさに「現実の『正義』」が強者の権利を意味しているという点ではトラシュマコスのほうが理想主義のソクラテスを上回っているとすら言える。だからこそ、プラトンは「国家」の残りすべてを使って「理想政治」を考察したのである。そして最終的には「哲人統治」しか理想の政体は無い、と結論したわけだ。言うまでもなく、「民主主義」は落第である。だが、哲人統治はほとんど偶然にしか生まれないだろう。
ついでに、ロールズの「無知のヴェール」の概要を転載しておく。それは、「問題に利害関係を持たない人間の判断が正義にかなっている」という、当たり前の話である、と私は認識しているが、それが現実にはほぼ不可能なことは、多くの政治事件の判決で見られるとおりである。つまり、裁判官も官僚であり、権力の下僕であるからだ。まあ、その解決方法も実は簡単で、AIにあらゆる裁判資料を投入して、法規に照らしてもっとも合理的な判決を出すことである。人間自体が感情的存在であり、正義の原則にかなっていないのだから、この点では機械のほうがはるかに人間に優っているわけだ。

(以下引用)


ソクラテスとトラシュマコスはいったい何について語り合い、見解を異としたのか。それは“正義”の問題である。冒頭でソクラテスに論争をふっかけたトラシュマコスは言う。

「正義」=「力」なのか?

「正義とは、権力者の利益である」


支配者が善悪の判断をする。その利益に反することはすなわち悪である。支配者の利益に則すことが正しい。


「強者の論理」


それは歴史が証明するところではないか。


対して、ソクラテスが問う。権力をもってひたすら自己の利益に変えるのは即ち不正であろう。「不正」は「正義」の真逆ではないか。


この立ち位置から前述の多岐にわたるテーマが語られる。トラシュマコスの語るのは「権力の自己正当化」の問題であろう。この理屈に対峙することから西洋の政治哲学は始まったとして差し支えない。


(引用2)


「無知のヴェール」とは、自分や相手の性別や職業、家族の有無や貯金額などの一切の情報が分からない状態のことをたとえたものです。


ロールズによれば、私たちは正義を考える時、どうしても自分の立場を考慮してしまいます


例えば、自分が貧乏であれば、富裕層への増税を支持しがちです。


あるいは自分が女性であれば、女性の権利を拡大する法案に賛成しがちです。


このように、人は自分が置かれている立場によって別々の正義を主張してしまう生き物です。


ロールズは、全ての人が「無知のヴェール」を被り、一度自分の立場を忘れた状態で議論した場合、どのような結論が出るだろうかと考えました。


そしてその答えは、個々人の立場を越えた普遍的な正義となるはずであり、そのような公平な視点から社会を設計すべきだと考えました。

正義の原理

ロールズは、私たちが無知のヴェールを被った状態で正義を考えた場合、次の2つの原理が導かれると主張します。

第一原理

私たち個人は、自由な権利を平等に持つべきである。

第二原理

不平等は、最も不利な立場の人々にとって有利な形で調整されるべきである。


 


読者の皆様も、いったん「無知のヴェール」を被って考えてみてください。


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人と超人

井口博士のブログから転載。
とある家庭の主婦のモットーは「平凡が一番」だったという。それこそが彼女の頭がいいゆえんだろう。非凡とは、自分以外の他者(凡人)と隔絶する孤独を意味するからである。王侯は絶対の孤独の存在である。まあ、孤独も苦ではない、となれば無敵だろう。幸福になること自体は簡単なことだ。

毎度言うが、あなた、安倍元総理の人生を送りたいですか? 高市早苗の人生を送りたいですか?
孫正義のように禿のブ男でも、何兆円もの財産があれば満足ですか? カネを得て、何をしたいのですか? 毎日、キャビアをどんぶりに3杯も5杯も食いたいですか?

生きるのに最低限のカネがあれば、個人としては幸福にはなれるし、病気になったら死ねばいいのである。死ぬことにおいてはジョブズもあなたも同じだ。何百万の治療をしても、死ぬ者は死ぬ。
誰かの名文句をもじれば、「我々が恐れるべきは死ではなく、死の恐怖である」

まあ、「一切の転倒夢想を遠離する」ことで「無有恐怖」となり、究極的に涅槃(悟りという心的境地)に入れるのである。これこそが(和製仏教ではなく)本来の仏教の真髄だろう。



(以下引用)ジョブズの言葉の部分は赤字にしておく。

7.スティーブ・ジョブズ最後の言葉
STEVE JOBS Last Words - 
スティーブ・ジョブス最後の言葉
 
私は、ビジネスの世界で、成功の頂点に君臨した。    
他の人の目には、私の人生は 成功の典型的な縮図に見えるだろう。     
しかし、仕事をのぞくと喜びが少ない人生だった。
人生の終わりには、富など、 私が積み上げてきた人生の単なる事実でしかない。   
 
病気でベッドに寝ていると、 人生が走馬灯のように思い出される。
私がずっとプライドを持っていたこと、 認証(認められること)や富は、 迫る死を目の前にして色あせていき、 何も意味をなさなくなっている。    
この暗闇の中で、 生命維持装置のグリーンのライトが 点滅するのを見つめ、 機械的な音が耳に聞こえてくる。
神の息を感じる。
死がだんだんと近づいている。。。。    
 
今やっと理解したことがある。
人生において 十分にやっていけるだけの富を積み上げた後は、 富とは関係のない他のことを追い求めた方が良い。    
もっと大切な何か他のこと。      
それは、人間関係や、芸術や、 または若い頃からの夢かもしれない。    
終わりを知らない富の追求は、 人を歪ませてしまう。 私のようにね。    
 
神は、誰もの心の中に、 富みによってもたらされた幻想ではなく、 愛を感じさせるための 「感覚」というものを与えてくださった。
私が勝ち得た富は、(私が死ぬ時に) 一緒に持っていけるものではない。    
私が持っていける物は、 愛情にあふれた思い出だけだ。     
これこそが本当の豊かさであり、 あなたとずっと一緒にいてくれるもの、 あなたに力をあたえてくれるもの、 あなたの道を照らしてくれるものだ。     
愛とは、何千マイルも超えて旅をする。
 
人生には限界はない。 行きたいところに行きなさい。
望むところまで高峰を登りなさい。
全てはあなたの心の中にある、 全てはあなたの手の中にあるのだから。     
世の中で、一番犠牲を払うことになる 「ベッド(賭け)」は、 何か知っているかい? 
シックベッド(病床)だよ。    
 
あなたのために、 ドライバーを誰か雇うこともできる。
お金を作ってもらうことも出来る。
だけれど、あなたの代わりに 病気になってくれる人は見つけることは出来ない。
物質的な物はなくなっても、また見つけられる。
 
しかし、一つだけ、なくなってしまっては、 再度見つけられない物がある。
人生だよ。命だよ。   
手術室に入る時、その病人は、 まだ読み終えてない本が1冊あったことに気付くんだ。
「健康な生活を送る本」   
 
あなたの人生がどのようなステージにあったとしても、 誰もが、いつか、人生の幕を閉じる日がやってくる。      
あなたの家族のために愛情を大切にしてください。
あなたのパートーナーのために、 あなたの友人のために。   
そして自分を丁寧に扱ってあげてください。
他の人を大切にしてください。
ビル・ゲイツの言葉というものを聞くと、ユダヤ人の悲哀というものを感じる。
それは何度も何度も同じことを繰り替えす人種だということだ。
奴らは他人の人生から学ぶということがない。
アルバート・アインシュタインも同じことをした。
ノーバート・ウィーナーも同じことをした。
ジョン・フォン・ノイマンも同じことをした。
ロバート・オッペンハイマーも同じことをした。
なぜ彼らから学ばないのか?
きっと古くはギリシャ時代でもそうだったのだろう。
発見をする。発明をする。大企業を作る。
それで成功する。
しかし逆に多くのものを失う。
死に至って初めて自分の失敗に気づく。
馬鹿なのか?
これが俺がユダヤ人は異常に知能は高い大人子供に過ぎないという理由だ。
大人子供にこの世界を渡すわけには行かない。
まあ、いずれにせよ、日本社会には与野党、官民のエリートに米CIAの手先がいるわけだ。
そして米国as No.1を常に維持しようと画策する。
他の国がナンバーワンになろうとすれば、必ず米国はそれを邪魔する。
昔はソ連、戦後は日本、そして今は中国とEUに対してだ同じことをする。
そこが我々の大和魂とは違うところですナ。
果たしてキル・ゲイツにはジョブズの最後の言葉は響かないのか?

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シン「堕落論」

私の別ブログに書いた記事だが、わりとまともな思想に思えるので、世の批判を顧みず、ここにも載せておく。この思想によって「救われる」人、特に、救われる青少年は多いと思うが、「それこそまさに堕落をもたらす思想である」と、偉い人たちやお堅い人たちには囂々(ごうごう)たる非難を浴びるだろうなあww


(以下引用)
あまり真面目な内容ではないので、いや、書くのは真面目に書くつもりだが、世間的には、不真面目だ、と思われそうな内容なので、この「お遊びブログ」に書くことにする。
テーマは「向上心は人を幸福にするか」というものである。
世界史的というか、歴史的には人類は向上心によって文明を豊かにし、多くの人がそれによって幸福になってきたわけだが、問題は「向上心を持っていた当人は幸福なのか、幸福だったのか」どうかである。もちろん、遊び事ですら向上心があるから上達(向上)してより面白くなる、という事実があるから向上心自体を全面否定するという馬鹿な話はしない。ただ、その本質を「哲学的に」考えてみようというわけだ。
要するに、向上心とは「現在の自分を不満に思うこと」であるのは明白である。幸福とは満足した状態であり、不幸とは不満足な状態なのだから、これ(向上心を持っている状態)は不幸そのものの状態ではないだろうか。
しかも、その「向上した状態の自分」とは「今の自分ではない何か」なのだから、向上した段階でその自分が自分に満足するという保証は無い。まあ、努力次第で勝てる確率の高い賭けだから、やる意味はあるだろう。しかし、その状態に達するまでの苦闘努力は、その成果と釣り合うだろうか。つまり、「努力と成果のコスパ」はどうなのか、ということだ。
ここで、真面目な提言をするが、「不足状態そのものを楽しむ」という生活哲学を持つのは、かなり人生を幸福にするものだと思う。もちろん、これは昔から言われていることで、竜安寺だったかどこかの石に掘られた「吾は唯だ足るを知る」もその思想である。ここでは、それを発展させて、「不足もまた幸福となりうる」という哲学を提唱しているわけだ。つまり、不足があるからその不足を満たすためにあれこれ工夫する、その「頭を使い、身体を使う楽しさ」を不足状態は与えてくれるわけである。
で、これは「向上心」そのものではないか、と文句を言われそうだが、べつに「上に向かえ」と私は言っていない。上に向かおうとするから「自分は今、下にいる」と感じる、その感情こそが実は不幸の根本原因ではないか、と私は言っているのである。向上とは、様々な意味で「重力に逆らうこと」であり、苦しさや不幸の原因である。会社内での出世も政治家の権力争いも学校での成績争いもスポーツの勝ち負けも要は「相手が上か自分が上か」の争いでしかない。「上も下もたいした違いはない」という思想を多くの人が持てば、この世界の争いの9割は無くなるだろう。ただ、「競争がもたらす成果」もかなり無くなるだろうが、人類の文明はそろそろ極限に達しているのだから、人々が争うことで誰かが利益を得る、という思想などもはや人類を幸福にはしないだろう。そんな浅ましい、野獣の思想にそろそろ決別してはどうか。

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東洋の(非「自我中心」的)合理主義

「混沌堂主人雑記」に一部引用されていた「本に溺れたい」というブログの記事で、西洋的な「自我中心合理主義」と対立する「東洋的合理主義」というべき思想が少し面白いので転載する。簡単に言えば、自と他を最初から対立構造とせず、その両者を含む「(問題の)解」を導こうとするのが、「東洋的合理主義」だとまとめておくが、それはもちろん私の解釈だ。
これは私の言う「大和(だいわ)の精神」に近い気もする。

(以下引用)

三、本書に収めた東洋古来の合理思想は欧米流の自我中心的合理主義とはちがって、非自我中心的である。東洋の合理思想も合理思想の一種であり、その限りで矛盾律に従い矛盾を排除するものである(『韓非子』の「矛盾の説」およびインド論理学の「相違」(viruddha)の概念はその端的な表現である)。その点では西洋の合理主義と何ら相違するところがない。ただ、西洋の場合とちがって、東洋では自我中心という条件をつけないのである。


 それは周易の陰陽の弁証法に典型的にみられるように、自我というただ一つの極を立てて、それに背反するものを排除するのではなく、相反し相矛盾する二つの極を立ててその両極の間に補足しあい、相互に相手を肯定する関係を打ち立てるのである。相互に否定するものが相互に肯定するのである。これは矛盾のように見えるが、決して矛盾ではない。たとえば、夫婦の関係を考えてみるがよい。同一人物が夫と妻とを兼ねることはできないので、その限りで(すなわち同一人物に関する限りで)夫と妻という両概念は相反し相互否定する。しかし二人の別人AとBに関して言えば、AがBの夫ならば、BはAの妻となり、またその逆となり、夫と妻のという両概念は相互に相手の必要条件となって相互肯定しあう。これが相互に否定するものが相互に肯定する、ということであって、そこには矛盾は見当たらないのである。つまり、一つの主語に関しては相反または矛盾する二つの概念が、二つの別個の主語に関しては相互に相手の必要条件となり、相互に肯定しあう、という関係である。これは二箇の焦点の結合によって周辺を決定する楕円に似た構造であるから、仮りに「楕円思考」と名づけてもよいであろう。すると、周易の陰陽はまさに楕円思考的な合理思想の典型である。そして本書に紹介した数多くの東洋の弁証法は(仏教であると否とにかかわらず)このような楕円思考的な構造を共有するのであり、それが欧米の自我中心的な合理主義と異なるところである。


 欧米の自我中心的合理主義は自我を独立せる実体と考えることに由来する。デカルトが方法的懐疑の末に到達した「考える我」は一つの実体であって「延長的実体」に依存しない独立せるものである。自我がこのように独立せる実体であれば、自我は自身以外のものに依存するはずがなく、したがって自他二極の間の相互依存のあるはずがなく、つまり楕円思考の成立する余地はないのである。これとは反対に、東洋の合理思想は自我を独立せる実体とは認めない。すべてのものは独立せる実体ではないので、必ず他のものに依存しなくてはならなぬと言う。この非実体的な相互依存の考えは仏教にあって特に顕著であるが、周易の陰陽にも、老子の虚無自然の説にも、たとえ陰伏的にしても、その根底に潜んでいる。そしてこの万物の非実体的相互依存性のうえに非自我中心的な合理思想が成立し、楕円思考的合理思想が成立するのである。そしてこれが欧米流の「万人対万人の戦」を超克する唯一の道を暗示するものと筆者は考えている。


◆目次(文庫版)
増補新版への序文
旧版のまえがき
序論 東洋思想と論理
第一部 悟りへの論理―インドの論理思想
1 初期仏教の合理精神
2 古因明の論理
3 新因明の論理
4 インドの弁証法
第二部 中国仏教の論理思想
1 現実の肯定
2 全体主義の真理観
3 多様性の統一
第三部 合理と非合理―古代中国思想の論理
1 不合理の完全排除
2 合理精神の結晶と矛盾の発見
3 形式論理学の完結
4 調和への弁証法
5 東洋の自然と人間
結論
解説/野矢茂樹


◆紀伊国屋書店WEBサイトの紹介文
東洋の合理思想 / 末木 剛博【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア


東洋独自の合理思想を鮮かに解明し、国際的にも広く影響を与えた名著に、「楕円思考」を論じた書き下しを増補。欧米の自我中心的合理主義を乗り超える可能性を示唆する。


末木剛博[スエキタケヒロ]
大正10年(1921)山梨県甲府市生まれ。昭和20年東京帝国大学文学部哲学科卒業。東京帝国大学副手、電気通信大学助教授、東京大学教養学部助教授、同教授、東洋大学文学部教授を経て、現在、東京大学名誉教授。論理学・分析哲学・比較思想を中心に研究を進め、東洋の精神を生かした新しい合理主義の確立を目指す。なお本書の初版「東洋の合理思想」(’70年)は中国語、韓国語などにも翻訳されて、国際的にも広く影響を与えた。主著に「記号論理学」(’62年)「論理学概論」(’69年)「ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考の研究」全2巻(’76~77年)、「西田幾多郎」全4巻(’83~88年)、監訳に「論理の数学的分析」(’77年)「比較哲学」(’97年)他、論文多数

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仏教の真髄

孔徳秋水氏が(無意味な毒舌、悪口をまき散らすのではなく)珍しくまともなことを書いていて、まあ、まともというのは「私と同じ思想だから」まともと言っているのだが、これは仏教と言うか、和製仏教ではなく、本物の仏教、つまりシャカ、シッダルタの教えの本質、真髄だと私が思っている内容である。
下に書いてあることをひと言で言えば、「般若心経」の一節

厭離一切転倒夢想(漢字はもう少し難しい字を使うが。「厭離」の漢字も違うかもしれない。)
究竟涅槃

ということである。我々を苦しめるすべては、基本的には我々自身が作った妄想だ、ということだ。
もっとも、それで生活苦が消えるわけではないから、私は同時に社会主義者でもあるわけだ。社会の上位層の所有物・財産を半分くらい貧困層に分け与えれば、地上の天国は即座に生まれる。いや、ロスチャイルド家の財産の半分だけで世界のすべての貧困者は救えるだろう。



(以下引用)


さて、きょうの話は、そのような低級低脳には決して理解できない話だ。


 


 


仏教の教えは…


 


「天国も地獄もない」…なのである。


 


 


愚童凡夫にはわかるまい?


 


 


同時にわたしも、


 


「天国も地獄も実在する」と言っているからね…


 


 


しかし、仏の教えをよく聞いてみよう…


 


すると、思わないか?


 


百千万億阿僧祇劫積み上げてきた罪業も


 


念仏で一瞬にして消え去る…とは?


 


それはなぜか?…と。


 


 


つまり、そもそも「ない」のである。


 


 


すべては、人のこころが生み出す「迷い」であり「現実」にすぎないもの…


 


…だからである。


 


 


したがって…


 


テレビのスィッチがOFFになれば音も画像も消えるがごとく…


 


スィッチをONにすれば、そこに「世界」が現れるがごとく…


 


 


創造主が「光あれ」といえば…「そこに光があった」となる…


 


そして、「万物」が作られていく…のでもある。


 


 


もともと、そんなものなどない…


 


「ない」から、突如、現れる…


 


 


「天国も地獄もない」…ということは…


 


「神も仏も悪魔もない」…ということで…


 


さらにいえば、


 


あなたが「ある」と信じているすべてが「ない」ということなのである。


 


 


「格差」もなければ、「不平等」もない。


 


「理不尽」もなければ「差別」も「ない」のだ。


 


 


それらは、そもそもあなたが自分の想念で「でっちあげた」ものである。


 


あなたが、そのような概念形成さえしなければ、そんなものは存在しない。


 


 


「啓蒙」や「教育」とは、思考の「型」を植え付けることで


 


ありもしないものを「ある」と認識するように仕向けることである。


 


カルト宗教は、この原理を熟知して使っている。


 


 


「ポリコレ」も、キモ・リベもまさに、この原理で「運動」している。


 


この「キチガイ」運動は、心理法則を利用しているので、破るのが困難なのだ。


 


 


そもそも「キチガイ」に「なすすべ」などはない。


 


「触らぬ神に祟りなし」…


 


 


「キチガイ」凡夫に、今日の教えの要点をもう一度。


 


「天国も地獄もない」…そう思うか?


 


「神も仏も悪魔もいない」…そう思うか?


 


「イエス」…で、いいね?


 


そうそう…それは「仏の教え」である。


 


あなたが「仏の教え」をちゃんと理解していれば、次に…それゆえに…


 


「格差」も「不平等」も「理不尽」も「ない」とわかるはず。


 


なぜなら、それらは、


 


すべて人が勝手にでっち上げた「想念」であり「区別」だからである。


 


その「作為」を捨てれば、一切は「ない」とわかる。


 


 


ただ、混沌たる、ありのままの世界があるのみで…


 


そこには「無限の解釈」があるということである。


 


 


ポリコレ運動に必死になることこそは、バカの極み


 


だが、そういう愚行を神様というのは面白がるのである。


 


 


あなたがた「キチガイ」は、そういうものが「実在する」と信じる。


 


それは、天国や地獄、神や仏、悪魔が存在すると信じるのと同じこと。


 


 


つまり、あなたがたにとって…


 


天国も地獄も、神も仏も悪魔も存在する。


 


 


ただ、あなたがたは、そのことを認知できないだけなのである。


 


 

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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