私は、16歳のころ、学校行事で北アルプス焼岳に集団登山したのを皮切りに、すっかり山歩きにはまってしまって、20~40代は、年間50回近くの山歩きを続けた。雨だろうが大雪だろうが、山を歩かなければ気分が悪いという中毒だ。
おかげで1990年頃には、日本百名山を完登してしまった。
だが、山歩きで健康になったかといえば、必ずしもそうでもない。第一に、異性との交際機会を失っていたので、もう墓場が近い今に至るまで一度も結婚したことがない。
性欲はあるので、裏世界で金の力を借りて欲求を満たすことはした。
自分ながら、人としての社会的使命を忘れた、ろくでもない人生だったと思う。
私は、20代前半は東京近辺にいて、ベ平連シンパだったので反戦デモには積極的に参加していた。
だが、健康など顧みたことはなく、自分の好きなものを食べて、酒を飲んで転がって布団もかけずに寝るという生活だった。
立川にいたときは、北口に在日の大衆食堂があって、そこのねーちゃんから「モツライスのにーちゃん」と呼ばれていたくらい、もつ煮込みライスしか食べなかった。
だから40代になると当然、高尿酸症から痛風発作を繰り返すようになった。
普通は足の親指に発作が起きるのだが、私の場合は、長年の山歩きで膝に負荷がかかっていたので、突然、片方の膝が真っ赤に腫れ上がって激痛で歩けなくなるという症状が出た。
近所の医者や病院を7軒も回ったが、どこでも原因不明の診断で、痛み止めと抗炎症湿布剤で終わり、なかにはステロイド注射をした医師までいたが、完全な逆効果だった。
これが痛風発作であると分かったのは、山仲間の石川外科医師の指摘だった。長年、の外科医としての経験から、痛風が、体内のもっとも負荷が大きく、組織が壊れ始めている箇所に発症するもので、決して足の親指だけではないことを認識していたのは、石川医師ただ一人だった。
これが、医学というものの本質的な欠陥を思い知らされる端緒となった。
痛風も、サイトカインストーム(免疫暴走)の一種である。この特徴として、激しい炎症が暴走する箇所は、ただ一箇所だけで、同時に複数で起きることはない。
人の炎症性疾患が命や生活に重大な影響を及ぼす正体は、このサイトカインストームであることを知っておいた方がいい。
これにステロイドを注入したりすると、一時的に効果があっても、後に深刻なリバウンド現象が起きて、患者を殺してしまうことも珍しくない。
だから、「炎症はなんでもステロイド」という先入観念の医師は信用すべきではない。
それにしても、私が痛風で分かったことは、多くの医師が痛風という、非常にありふれた病気を正しく診断する能力がなかったということだ。
私が凍結スリップ事故で入院した東濃厚生病院の整形外科、磯部医師(2011年当時)は、足の親指が真っ赤に腫れ上がって変形しているのを見ても、「痛風かどうかわからない」と言い放ち、アロプリノールの処方さえ拒否した。
それだけでなく「態度が悪い」と決めつけて、鎖骨を四箇所複雑骨折して緊急手術が必要な私を病院から追い出した。おかげで、私の肩は、その後治癒することなく、大関雅山のようなひどい偽関節になってしまった。
これが、私が医療全般に対して強い悪感情を抱く、最大の決め手になった。
他にも、医療に対して強烈な不信を抱くことは複数回あった。
私は、医療というものが、人を救うかのように装いながら、医師の名誉欲や金銭欲など、たくさんの不純な要素にねじ曲げられ、患者の苦しみに寄り添って問題を解決してくれる「赤髭医」は、たぶん数百名に一人もいないのではないかと確信するようになった。
医療は、患者を治すためにではなく、医師が自分の技量を患者に見せつけるためのもの、あるいは、最適医療を目指すよりも、金儲けを狙って、必要のない処方料、手術料を得るための手段に成り下がっているように思うしかなかった。
もちろん、すべての医師がそういうわけではないが、「赤髭医哲学」を持っているような人物と出会ったことは非常に少なかった。
以来、私は、「本当の医療とは何か?」という命題を、自分の健康に照合して考えるようになった。
医師たちは医学教育カリキュラムのなかで、医療とは、「確定診断と投薬と手術」だけであるように洗脳されているとしか思えない。
だが、私が自分の病気と健康を長年向き合って得た結論は、医療の本質は、ホメオステーシス=恒常性維持機能であり、自分の本来持っている力で自分を救援することが医療の本質であると確信するに至った。
だから、私は中央アルプスの単独沢登りで事故を起こして骨折したときも、救援を求めず、岐路のバスで他の乗客が恐怖するような異様な姿で帰宅し、訪ねてきた母親を驚愕させたが、ホメオステーシスを信じて、医者には行かなかった。
2012年に、未だに原因が分からないユスリカの大量発生があり、私は激しいアレルギー性呼吸障害を起こし、2014年には、肺線維症(IPF)の特徴を持った呼吸音になってしまった。
ネットで調べてみれば、ベルクロラ呼吸音が出た間質性肺炎(IPF)患者の余命は、最大で発症から5年と書かれていた。普通は3年くらいで死んでしまう。
当時、富士山を2時間で登れる心肺能力のあった私の呼吸機能は、半分以下に落ち込み、わずか数メートルの階段を上がるにも、激しい息切れを起こすようになっていた。
だが、医療を信用していなかった私は、IPFの医療マニュアルを読んで、ますます、これで医療に頼ったなら殺されると確信した。
その公式治療マニュアル=プロトコルには、X線CTスキャナーと、X線平板撮影、っそして肺穿刺細胞診がなければ確定診断として認めないと書かれていたし、治療手段としては、最初にステロイド、そしてピルフェニドン、ニンテダニブなどが挙げられていた。
IPFを診断するのに、X線CTや肺穿刺が必要だとは思えなかった。ベルクロラ呼吸音だけで十分なのだ。
なぜ患者に強烈な負荷を与える確定診断が必要かといえば、それは医師の理論的関心と名誉のためであって、患者の治療のためではないと考えられた。
また、呼吸リハビリよりもステロイドを重用する医療にも大きな疑問があった。ニンテダニブのような医薬品を投与するよりも、呼吸トレーニングを重視した方が、間違いなく患者の延命を実現できるのだ。
IPFの死亡症例を調べてみると、大半がサイトカインストームによるもので、そのきっかけの多くが肺穿刺細胞診だったし、おそらくステロイドリバウンドが多く含まれているように思えた、
私は、放射線生物学を学んでいたし、30ミリシーベルトにおよぶCTスキャン被曝が激しい不可逆的炎症を起こしている患部に与える影響を考えれば、どうみても、無益な診断治療が患者を殺しているようにしか見えなかった。
そこで私は医療を拒否し、ホメオステーシスに依存した自家治療の方針を立てた。
まず、外国の治療プロコトルなどを調べてみて、本当に効果があるのは「呼吸トレーニング」であると確信し、毎日歩くことで、呼吸機能を活性化させる方針を選択した。
幸い、私の住む中津川市には清浄な大気のなかで歩ける森林浴コースが無数にあった。
私は毎日1~2時間、歩数にして7000~10000歩程度、標高差が100~200mのハイキングコースを選んで、よほどの風雨降雪日を除く年間350日ほどを呼吸トレーニングにあてた。
呼吸トレーニングとはいうが、やることは思い切り呼吸し、思い切り排気するだけのことだ。深い呼吸ほど効果が強いと思われた。
このおかげで、ブツブツバリバリと蜂巣肺特有の呼吸音と、小さな空咳が絶え間なく出ていた苦しい状況を脱することができた。
その後の体験のなかで分かったことは、肺にタンが分泌されることの意味は、炎症を起こしている患部を守るためにタンが出ることだ。
もしもタンが出なければ、炎症が加速し、必ずサイトカインストームが起きる。
だから、タンを咳によって排泄するのは良いが、意図的に除去すべきではないと思う。
サイトカインストームを抑止するには西洋医薬品よりも、漢方の方が圧倒的に効果がある。なかでも肺の炎症には葛根湯に強い効果がある、サイトカインストームを抑止できたとの論文が多数ある。
私は、咳に苦しむときは、葛根湯に依存するようになった。
数年間、毎日歩いているうちに、肺胞細胞による呼吸能力はどうしても回復しなかったが、いつのまにか肺線維症の独特の呼吸音と辛い空咳は消えていった。
また血中のヘモグロビン濃度が高まることで、潜水のプロのように、呼吸をとめて血中酸素だけで仕事ができる長さが大きくなっていることを自覚できた。
さらに、肺胞細胞以外の呼吸の連携が洗練されてゆき、全体として呼吸が楽になり、坂道を登るような作業も、それほど苦痛が伴わなくなった。
IPFの治療報告によれば、本来2018年頃には死ぬはずだった私は、全然ピンピンしていることで、私は呼吸トレーニングを主体とした自家治療法が正しいことを確信した。
しかし、険しい山道を登ったり、強い筋肉労働をしようとすると相変わらず、激しい息切れが続き、肺胞細胞回復の兆しはなかった。
2023年を迎え、私はIPF発症から9年前に達した。私の調べた範囲で、IPF患者が延命した最大年数は10年なので、もう近くなった。
今年に入って、3月頃から、急激に症状が悪化し、わずかな動作でも激しく息切れを起こすようになり、自分の死期が近づいたことを悟った。
このときは、中国から黄砂が大量に飛来したのだが、これが原因だったようだ。
次に9月頃にも、中国で放射能炭で火力発電所を運用したとき、大量の「雷雲喘息」という奇病患者が出た。このとき日本にも飛んできたようで、急に空咳が再発して具合が悪くなった。
咳とタンが増えることは、肺の炎症が再発していることを意味する。
このときは、本当に苦しくなって、トイレに行くだけで激しく回復呼吸をしなければならなくなり、草刈りをしようものなら5分で意識が遠くなってしまい、家は完全な幽霊屋敷に変貌した。
自分の死後の始末を姉に依頼することになったが、現在は少しだけ回復しているので、もしかしたら、まだ一年くらいは持つかもしれない。
私の病気を振り返ってみて、これほど延命できていることは、若い頃からの登山習慣が大きなアドバンテージになっていたこと。
普通の人に、毎日2時間歩けといってみても無理かもしれない。私は山の空気に触れることが、ひたすら好きだったのだ。
これで延命できたし、医療を信用せず、自分のホメオステーシスを信用したことが一番良かったと思っている。
人生を振り返ってみて、「歩く習慣」が自分を救ってくれたと強く思う。
病気の9割くらいは、ガンであっても歩いてれば直る。もちろん体調を健全に保つ食生活も重要だ。
私は、このことが正しいことを自分で確かめた。
私は、若い頃から山歩きに夢中になってしまって、結婚も蓄財もできないまま孤独に死んで行くが、日本中を歩いて回ったことだけは一つも後悔していない。