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運命(7)

「諸王不穏」の流言がしきりに朝廷に聞こえてきたので、一日、帝は子澄を召しなさって「先生、かつての東角門の話を覚えておられるか」と言う。子澄言う「けっして忘れ申しません」と。東角門の話とは、子澄が七国の故事を論じたことである。
子澄は退いて斉泰と議する。泰が言う、「燕は重兵を握り、もとより大志あり。まさに、まずこれを削るべし」と。子澄言う「そうではない。燕はあらかじめ備えていることが長いので、すぐには謀り難い。まず周を取り、燕の手足を斬って、その後で燕を謀るべきである」と。
そこで曹国公李景隆に命じ、兵を整えて素早く河南に至らしめ、周王とその世子、および妃と嬪(正妃以外の妃)を捕え、周王の爵位を削って庶民とし、これを雲南に移した。周王は燕王の同母弟であったため、帝もこれを疑い、周王もまた異心があった。
これは実に洪武三十一年八月のことで、太祖が崩じて幾ばくも月を経ていなかった。
同じ冬十一月、代王(「代」は国名らしい。)の暴虐が民を苦しめたという理由で代王を蜀に送り、蜀王と共に居らせた。

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「私的所有」と「個人的所有」の個人的解釈

タイトルどおり、これから書くのは私の「個人的解釈」にすぎない。

思考の出発点は「私的」の対立概念は「公的」だということだ。
つまり、「私的所有」とは、「公的所有」すなわち共同体全体の所有となるべきものを、個人が、その社会の合意に反して所有することである。たとえば、地下資源や生産手段や、労働の結果を個人が不適切に(そしてしばしば過度に)所有することだ。この行為は資本主義社会では当たり前に行われているが、社会主義国家では不適切な行為(反社会的行為)となる。
それ以外のもの、つまり「社会の共有財産」以外のものの所有は、「個人的所有」が許される。たとえば、人間という存在の社会的所有(共有)は「非常識(アンコモン)」な行為であるから、結婚や恋人関係は「所有概念」に属さないことになる。個人的創作物の創作者自身による所有も同様だ。社会的資本を使った利殖行為の結果は、基本的に社会の所有になる。
マルクスの言う「共産主義」が、上記の「公的所有」概念にとどまるなら、それはキチガイ思想ではなくなるわけである。しかし、その場合、それと通常の社会主義との境目も無くなるわけで、そこに「共産主義と社会主義の同一視」「共産主義(社会主義)嫌悪思想」の発生源があるのではないか。つまり、人間というのは平等・公平が実は大嫌いなのであるwww

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「私的所有」と「個人的所有」

政治思想というのは本来誰でも理解できるはずだが、下の引用文は、何を言っているのか、私にはほとんど意味不明である。これは、政治を哲学的に考察するという、「水と油を混ぜる」行為をしているためではないか。
そして、政治改革(昔の学生運動など)が常に中途で大混乱し、挫折するのも、こうした「意味不明の思考」が現場を混乱させるからではないか。つまり、誰も理解できないことを大声でわめき合い、互いに殴り合うからである。これを「内ゲバ」という。

(以下「蚊居肢」から引用)「混沌堂主人雑記」でこの文章の存在を知った。「私的所有」と「個人的所有」とどう違うのか、説明してほしいものだ。まあ、あとで私自身、真面目に考察するかもしれない。この両者が同一なら、「私的(個人的)所有を認めない」共産主義は即座に破綻するからである。私(社会主義者である)の共産主義否定論も、その論拠によるものだ。
なお、引用記事冒頭の「マルチチュード」は、最近古書店で買った仏日辞典によると「多数、群衆」の意味らしい。「俗衆、衆愚」の意味もあるようだ。「ひとつの公民one people」というのは、頭がひとつで胴体が八つ(九つ)という「逆ヤマタノオロチ」みたいに思えるwww そんな国民って存在可能かね。まあ、ナポレオン時代のフランスのようなものか。
もっとも、ナポレオンはべつに民主主義者ではなく、独裁者に近かったのだが。つまり、彼自身が龍の頭ではなく、龍の背中に乗って操縦していたのである。独裁者の意志が民意と合致することもある。さて、それは「民主主義」か? その時、独裁者は批判され、殺されるべきか?

マルチチュードは、主権の形成化 forming the sovereign power へと解消する「ひとつの公民 one people」に変容するべきである。(…)multitudo 概念を強調して使ったスピノザは、政治秩序が形成された時に、マルチチュードの自然な力が場所を得て存続することを強調した。実際にスピノザは、マルチチュードmultitudoとコモンcomunis 概念を推敲するとき、政治と民主主義の全論点を包含した。(…)スピノザの教えにおいて、単独性からコモンsingularity to the commonへの移行において決定的なことは、想像力・愛・主体性である。新しく発明された制度newly invented institutionsへと自らを移行させる単独性と主体性は、コモンティスモ commontismoを要約する一つの方法である。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018)


なぜ我々はこれをコミュニズムと呼ばないのか。おそらくコミュニズムという語は、最近の歴史において、あまりにもひどく誤用されてしまったからだ。(…だが)私は疑いを持ったことがない、いつの日か、我々はコモンの政治的プロジェクトをふたたびコミュニズムと呼ぶだろうことを[I have no doubt that one day we will call the political project of the common ‘communism' again]。だがそう呼ぶかどうかは人々しだいだ。我々しだいではない。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018)



▶︎「俗に知られているマルクス主義と真のマルクスの思考の相違」



特にマルクスは私的所有[Privateigentum]を否定しつつも個人的所有[Inndividuelle Eigentum]を肯定していることに注意。


 






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「古典」の講談性とは何か

「運命」の現代語訳(明治文語文は、もはや古語である。)をしながら、その中に露伴の表現をそのまま残している部分が多いのは、そのような部分は現代人でも理解ができるか、完全に理解はできなくても、意味が推定でき、そして何よりも、言葉のリズムや調子の面白さがそこにあると思うからである。これを「講談性」と言っておく。(これは現代の小説からは完全に失われている。)
この「講談性」はほとんどの古文の古典の文章の中にあるもので、その特長は「聞いていて、あるいは読んでいて気持ちがいい」ということだ。読むというのは、それが自分の脳内で音声化されることでもあるわけだ。

たとえば、「平家物語」の「小督」の章で、帝の命を受けて、帝の愛人だった官女小督(宮廷から行方不明になっている)の居場所を探す侍(?)が、小督が琴の上手だったことを頼りにして発見に成功する、その直前の文章はこうだ。

「峰の嵐か松風か 尋ぬる人の琴の音か」

今、耳に聞こえたかすかな音は、ただの峰の嵐の音か、松風の音か、それとも小督の弾く琴の音だろうか、と侍が自問自答しているわけだ。(私は、この一文以外はロクに読んでいないので、かなり間違いを書いていると思うが。)この文章の「7,5,7,5」の見事なリズムと音韻を味わえない人は、気の毒だと思う。それに感動できる自分が、まさに、「日本人で良かった」と思う。

あるいは、私は「源氏物語」はまったく読んだことが無い(せいぜい、須磨流謫の章だけ。)が、田辺聖子が「文車日記」の中で取り上げた、闇の中に白く咲いている花の名を光源氏が(だったと思う)少し離れた人に問う場面だ。(前に、この言葉について書いたかもしれない。)

「うちわたす遠方人(をちかたびと)に物申す。それそのそこに咲けるは何の花ぞも」

という言葉(発言)の見事な音韻とリズムに感動する。(これも、いい加減な記憶で書いているが。)特に「それそのそこに」が素晴らしい。「咲ける」まで入れれば、S音の4連発だ。しかも、それが少しも嫌みが無く、耳に心よい。

sore sono sokoni sakeruwa

である。しかも、一見無意味な「それ」「その」「そこに」の3連発が、自分の問いを正確にしようとする心理的必然、人がやりがちな「質問の不正確さ」への半無意識の自覚があるのである。古典古文の「見えないリアリズム」と言っておく。


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運命(6)

太祖未だ存命の時において、この道衍のごとき怪僧あって燕王に白帽を奉らんとし、燕王もまたこのような僧を帷幕の中に居く。燕王の心、もとより清からず。道衍の爪また毒あり。
道衍、燕邸に至るに及んで、袁珖(珖の字は当て字)を王に勧む。袁珖は占いをよくし、百にひとつの誤りもない。燕王に見えて言うには、御年四十にして御髭が伸びて臍を過ぎなさるに至れば、大宝位(皇位)にのぼること、疑うべからず、と。燕王笑って言うには、私はまさに年四十であり、また、髭がこれ以上伸びることがあろうか、と。
道衍は、そこで金忠という者を勧める。金忠は若くして書を読み、易に通じる。燕王は忠に卜占させる。忠は卜して卦を得、尊きこと言を絶する、と言う。燕王の意、ここにおいて固まる。

帝の傍らには黄子澄・斉泰あり、諸藩を削減し、封土を奪う意志がどうして止むことがあろうか。
燕王の傍らには僧道衍・袁珖あり、秘謀を醸成することがどうして止むことがあろうか。
両者の間がこうである以上は、風声鶴唳、剣光火影、世はだんだんと乱れていく。

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文脈から推定できない難語・難読語を使う愚劣さ

私は、問題となっている事件(出来事)についてまったく知識が無いが、ここでは単なる「言葉の問題」に興味があるので、それを書く。

まず、「アファーマティブ・アクション」という長いカタカナ語だが、affirmativeという言葉自体は「肯定の、賛成の」の意味で、それが米国で「affirmative action」という連語が「(積極的)平等施策」「差別解消積極措置」つまり、たとえば大学入学などに一定の人種枠を最初から設置するという、「全体的には(受験者全体に対しては)不平等行為だが、それによって人種間の数の平等に近づける」という施策になったようだ。で、最近は日本の大学でそれを真似ているところがあるのだろう。あるいは、それを推進すべきだという層(主にフェミニストか)があるのだと思われる。要するに、「アファーマティブアクション」という言葉だけでは、それがどういうものか想像できない類の名称だというのが、私の言いたいことだ。その結果、この運動について、世間の関心はゼロに等しいと私は推測する。
もうひとつは「悍ましい」という言葉の問題で、私の持っている国語辞書には、「おぞましい」に「悍ましい」という表記が無い。つまり、これはひらがな書きするのが当然の言葉だということだ。ところが、なぜかワープロ(パソコン)の語句変換機能で、「おぞましい」と打つと「悍ましい」と変換されるので、最近はこの漢字を使って書く例が多い。ついでに言えば、この漢字は「悍馬」や「剽悍」のように、「たけだけしい」意味の漢字であり、それを「おぞましい」と読ませるのは、誰が始めたのか、また、過去に有名著述家が「おぞましい」を「悍ましい」と書いた例があるのかどうか、私は知らない。おそらく、IME漢字変換機能を作った集団の誰かが、「惧」か「惶」(どちらも「おそれる」意がある)を「悍」と間違えたのではないか。

(以下引用)

若手男性研究者が、お茶の水女子大学ハラスメント告発の件に思う事

アファーマティブ・アクションという名の『トロッコ』の下敷きになっている一人であると同時に、


告発の発端となったDMの送り主と同じく、ちゅうしたいしえっちしたい(泣)騒動を当時間近で見聞きしていた一人として、


よくもまあそんなえらそうなことが言えたものだと、かねてより神山翼氏の厚顔無恥ポジショントークを大変苦々しく思っていたのですが、


あろうことか氏が女子学生不適切な関係にある上にハラスメントの加害当事者である蓋然性が高いだけでなく、


それが事実であった場合本来その被害者たちの最も心強い味方であるべき(特に同性の)研究者たちが


臆面もなく公然セカンドレイプを加えているというあるまじき惨状を目の当たりにし、あまりの悍ましさに筆を執らずにはいられませんでした。


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「Prima Sedes a nemine judicatur」

記事そのものよりも、引用記事の中のラテン語の格言らしきものが面白い。これは「主席者(最上席の者、組織のトップ)は誰にも審判されない」(「主席者に審判無し」)という意味ではないか。(裏)政治教科書の最初に置くべき格言だろう。
ユダヤ人は、まず、さまざまな分野での「組織」を作り、そのトップをユダヤ人(人種とは無関係)で占めるのである。ノーベル賞選定委員会やオリンピック運営委員会やIMFなど。そうすれば、どんな支配も容易になる。
そして、あらゆる「帝国」で、国家主席、帝王の権限が絶大であることは言うまでもない。それがまた帝国自体の堕落と滅亡の原因にもなる。まあ、政治を影で操作する連中は、「新たな帝国」を作ればいいだけだ。


「Prima Sedes a nemine judicatur」(※ ラテン語で「最初の席は誰にも審判されない」というように読めますが、意味は不明)という格言


(以下「大摩邇」から転載)

速報:バチカンはヴィガノ大司教を分裂の罪で「有罪」とし破門した

BREAKING: Vatican says Archbishop Viganò ‘guilty’ of schism and excommunicated
LifeSite News 2024/07/05


フランシスコ法王のバチカンは 7月4日、米国大司教の元大使であるヴィガノ氏が「分裂の留保された罪」で有罪であると認定し、自動的に破門されると発表した。



バチカンの教義省は 7月5日、元米国大使カルロ・マリア・ヴィガノ大司教が「分裂」の罪を犯したと宣言し、自動的に破門されたと発表した。


教義省は、聖座の報道陣に予告なく発表した声明の中で、7月4日に同党の大会がヴィガノ氏に不利な判決を下すために開かれたと述べた。声明には次のように書かれている。


2024年7月4日、信仰教義省会議は、教会分裂の罪(教会法第 751条および第 1364条、 SST第2条)で告発されたウルピアナ名義大司教カルロ・マリア・ヴィガノ大司教に対する教会法第 1720条に規定される超法規的刑事手続きを終了するために開催された。


教皇を認め服従することを拒否し、彼に従属する教会のメンバーとの交わりを拒否し、第二バチカン公会議の正当性と教権を拒否したという彼の公的な声明はよく知られている。


刑事裁判の結末として、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は分裂の罪で有罪判決を受けた。


教皇庁は、教会法典第 1364条第 1項に基づき、破門を宣告した。これらの場合の譴責解除は使徒座に留保される。この決定は、2024年7月5日にヴィガノ大司教に伝えられた。


最新版の教会法の規定によれば、破門された者は聖餐を執り行うことが禁じられている。


6月20日、ヴィガノ氏は、教義省が 6月11日付けの書簡で、同高位聖職者を「分裂の罪」で告発し、彼に対する「超法規的刑事裁判」を開始したことを明らかにした。


教義省の懲戒部門を率いるジョン・ケネディ大司教が発行したバチカンの書簡は、同大司教に対し、「同大司教が告発されている分裂の罪(カトリック教会との交わりを維持するために必要な要素を否定する公的な発言、フランシスコ教皇の正当性の否定、同教皇との交わりの断絶、第二バチカン公会議の拒否)」について警告した。


ヴィガノ氏は当時、この非難を否定し、「私は使徒の後継者として、ローマカトリック使徒教会、ローマ教皇の教導権、そして彼らが忠実に守ってきた途切れることのない教義、道徳、典礼の伝統と完全な交わりを持っていると主張します」と述べた。


さらにヴィガノ氏は、「教会の権威を正当化する目的に反して、絶対的に専制的な権力管理を行っているホルヘ・マリオ・ベルゴリオ(※ フランシスコ法王の名前)のスキャンダル、誤り、異端を私は否認し、拒絶し、非難します。教会の権威とは、 キリストの代理であり、キリストのみに従わなければならない権威です」と付け加えた。


6月28日に発表された詳細な声明の中で、元米国大使は教義省の分裂の告発に対して痛烈に反論し、「分裂派が私を分裂の罪で告発しています。これは破壊活動が行われていることを示すのに十分であるはずです」と証言した。


ヴィガノ大司教は続けてこう述べた。


… ホルヘ・マリオ・ベルゴリオとの教会の交わりから私自身を離れるためには、まず彼と交わりを持たなければなりませんが、それは不可能です。


なぜなら、ベルゴリオ自身は、彼の数々の異端と、彼が無効かつ違法に担っている役割との明らかな異質性と不適合性のために、教会のメンバーとは見なされないからです。


ヴィガノ氏はバチカンの告発を自分たちに向け、フランシスコ教皇を分裂主義者として非難し、次のように書いた。


私はホルヘ・マリオ・ベルゴリオを異端と分裂の罪で告発し、彼が異端者、分裂主義者として裁かれ、11年以上不当にその座を占めてきた王座から解かれるよう求めます。


これは 「Prima Sedes a nemine judicatur」(※ ラテン語で「最初の席は誰にも審判されない」というように読めますが、意味は不明)という格言とまったく矛盾しません。なぜなら、異端者は教皇の地位に就くことができない以上、彼を裁く高位聖職者たちより優位ではないことは明らかだからです。


バチカンの判決に対するコメントを求めてヴィガノ大司教に連絡が取られており、このレポートはそれに応じて更新される予定だ。





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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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