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「ハンニバル指令」という名称のこと

「逝きし世の面影」の宗純氏が好んで使う「ハンニバル指令(ハンニバル作戦)」という言葉だが、これが歴史的偉人でありカルタゴの名将であるハンニバルとどういう関係があるのか、私がネットで探した範囲ではいっこうに分からない。出て来るのは「羊たちの沈黙」の「ハンニバル・レクター」ばかりである。つまり、「ハンニバルという名前に殺人鬼の汚名を着せよう」という動きをこれらの背後に私は感じるのである。
我々は、マスコミが流す言葉は背後にDSが存在することを常に意識すべきであり、彼らの悪意や策謀はこのような一見「どうでも良さそうな」言葉ひとつにも存在すると思う。少なくとも、この名称は、イスラエルのパレスチナへの蛮行に対し、「これはあの歴史的名将ハンニバルもやったことだ」という言い訳を与えるのである。そして、ハンニバルが実際にそういう作戦をやったどうか、分かったものではない。戦争である限り、どのような非道な作戦も有り得ただろうが、それに「ハンニバル」の名前をつける理由があるとは私には思えないのである。
ちなみに「生きて虜囚の辱めを受けず」は日本の戦陣訓であり、近代以前なら、特に珍しい思想でも無かっただろう。戦闘の最前線から逃亡しようとする自軍兵士を後ろから攻撃し殺害するという「督戦隊」があるのだから、いわばハンニバル指令的なものは珍しくも何ともなかったと思う。ただ、それをたとえば「ジェリコ作戦」とでも言えば、人権意識が高まっている現代においてジェノサイド的作戦を行ったイスラエルという国の非道さ、野蛮さが際立つだけのことだ。まあ、彼らは紀元前の「旧約聖書」の頃から変わっていないとも言える。

(追記)

モーゼの死後ジョシュアは意志を継いで民を率いてヨルダン川を目指した。激流に行く手を阻まれたが、神の奇跡が起きて川は干上がり、一行は川を渡りきった。ジェリコの街では壁に阻まれるが、司祭の角笛の先導でジェリコの街を6日間周回して城壁を打ち崩し、ジェリコ攻略を果たした、というのが「ジェリコの戦い」(Joshua fit the battle of Jericho)という歌になった背景らしい。

(以下引用)

イスラエル軍、ハマス攻撃時 (10/7) に自国の民間人や兵士を殺害(イスラエル有力紙)

<記事原文 寺島先生推薦>
Israeli Army Ordered Mass Hannibal Directive on October 7
原題:10月7日、イスラエル軍は大規模なハンニバル指令を出していた。
筆者:ザ・クレイドル(The Cradle)
出典:Internationalist 360°  2024年1月11日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>  2024年1月17日


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訳註:「ハンニバル」は2001年の米国映画のタイトル。「人食」を表す「カニバル」を連想させることばであり、実際この映画の登場人物「ハンニバル」も人肉を食べる。ここでの「ハンニバル作戦」とは、「自分の味方をも犠牲にして厭わない作戦」の意味で使われている。


 イスラエルの有力紙の調査によれば、イスラエルは、ハマスのアル・アクサ・フラッド作戦の際、ガザに捕虜として連れ戻されるのを防ぐため、自国の民間人や兵士の多くを故意に殺害したという。

 イスラエルの有力紙、イェディオト・アハロノト紙の調査によると、イスラエル軍は10月7日のハマスの攻撃時に「ハンニバル指令」を実行し、ハマスが捕虜としてガザに連れ帰るのを防ぐために自国の民間人や兵士を殺害したという。

 同紙ヘブライ語版は1月11日付で、「調査で明らかになったことのひとつは、10月7日の真夜中に、IDF(イスラエル軍)は、『ハンニバル手順』を使用するよう、すべての戦闘部隊に命令していた。ただし、はっきりとことばでその指示は出していなかった」と報じた。

 その命令とは、「テロリスト・ハマスがガザに戻ろうとする試みはどんな犠牲を払っても、つまり、拉致被害者が敵方にいても」阻止することだった、と同紙は書いている。

 タイムズ・オブ・イスラエル紙によると、ハンニバル手順(指令)は、「兵士が敵の手に落ちるのを防ぐために、兵士が潜在的に大量の武力を行使することを許可している。その兵士を捕虜にさせないためにはその命を危機に晒すこともあり得る」という流れになっていた。

 以前イスラエルのハアレツ紙がこの指令について調査したところ、「軍から見れば、死んだ兵士の方が、捕虜となった兵士が苦しむよりマシであり、その兵士の解放を得るために国家は何千人もの捕虜を解放せざるを得なくなってしまう」という結論に達した。

 10月7日の攻撃で、ハマスと他のパレスチナ人は、入植地(キブジムとも呼ばれる)や軍事基地から約240人のイスラエル軍兵士と民間人を捕虜としてガザに連れ戻すことに成功した。ハマス側は、イスラエルの刑務所に収容されている女性や子どもを含む数千人のパレスチナ人と彼らを交換することを望んでいた。

 ハマスはトヨタのピックアップトラックやオートバイ、入植地から盗んだ車を使って、捕虜をガザに連れ帰った。また、徒歩やトラクターに引かれた荷車で連行された者もいた。

 イェディオト・アハロノト紙によると、入植地とガザ地区の間の地域で、約1000人の「テロリストと潜入者」が殺害されたという。

 しかし同紙は、ハンニバル指令の発動によって何人の拉致被害者が殺されたかは、現時点では明らかではないと付け加えた:

 「攻撃の翌週、精鋭部隊の兵士たちは、入植地とガザ地区の間に残された約70台の車両を確認した。これらはガザに到着しなかった車両で、途中で戦闘ヘリや対戦車ミサイル、戦車に撃たれ、少なくとも車両に乗っていた全員が死亡した事例もあった。」

 ジャーナリストのダン・コーエン氏が報じたように、イスラエル軍は10月7日、エフラット・カッツさん(68歳)を、キブツ・ニール・オズからトラクターに引かれた荷車に乗せてガザに運ぶ途中で殺害した。彼女の娘ドロン・カッツ=アッシャーちゃんと2人の孫娘ラズちゃん(2歳)とアビブちゃん(4歳)もその荷車に乗っていた。

 ドロン・カッツ=アッシャー氏が後にイスラエルのチャンネル12に語ったところによると、イスラエル軍はトラクターに発砲し、母親のエフラットさんを殺害し、2人の娘を負傷させた、という。

 イスラエル軍が非公式にハンニバル指令を発令していたことが明らかになったことで、当初ハマスの捕虜となったと推定されながら、後にガザ国境フェンス付近で遺体が発見された多くのイスラエル民間人の死について疑問の声が上がっている。

 多くの場合、遺体はひどく焼かれたり、切り刻まれたりしており、歯の記録やDNAでしか身元を確認することができない。このことは、彼らが国境付近でハマスによって機関銃を使って処刑されたのではなく、イスラエル軍の戦車やヘリコプターの射撃などの重火器によって殺されたことを示唆している。

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日本の刑法の犯罪内容と処罰の異常な非対称性

私の意見は、今回のブログ記事タイトルと、選んだコメントで明瞭だろう。

(以下引用)


川入らせ部下溺死させたか、静岡 重過失致死疑い、男を再逮捕

共同通信配信

静岡県警清水署は7日、静岡市清水区の巴川で、会社の部下である太田滉基さん=当時(33)、同区=に川に入るよう指示し溺死させたとして、重過失致死の疑いで、同区の会社役員望月一行容疑者(42)=暴行罪で起訴=を再逮捕した。望月容疑者は太田さんに蹴りや頭突きなどをした疑いで2回逮捕されていた。県警は日常的にパワハラをしていた可能性もあるとみて調べている。  再逮捕容疑は6月24日夜、太田さんに巴川へ入るよう指示し、注意義務を怠って溺死させた疑い。県警は認否を明らかにしていない。  同27日に湾内で服を着ていない太田さんの遺体が発見された。太田さんは裸で川に飛び込んだとみられる。














  • 日本は量刑を見直す必要がある。判例も関係ない。早急に。 ちょうど今日他にも「一度逮捕されてるけどその後同じ人に同じように行為を続け被害が出た」事件のニュースを見た。 日本は犯罪者を軽い刑で解放するけど、それって報復の可能性が高すぎる。 どうせすぐ釈放されて報復されるのが怖くて警察に行けずに泣き寝入りしてる犯罪も絶対に多い。 罪が軽すぎて被害者を余計に苦しめる日本の法や判例は改めるべきだ。









  • こういうタイプの男、子供の頃からイジメなどを繰り返していたのだろう。大人になって急にイジメを始めるとは考えられない。 やはり子供のイジメも犯罪と認識し、強引に止めるようにしなければこの手の犯罪は防げない。 また2度の逮捕の後のリンチ殺人、1度目の逮捕後も2度目の逮捕後も、その次があることがわかっていて釈放されている。 いずれ改心してくれるのを信じて、という偽善者的発想ではこの手の犯罪は防げない。









  • この報道が事実だとすれば、パワハラなどと言うハラスメントを超えた犯罪そのものだと思います。溺れる可能性があるにも関わらず、無理やり川に入らせるなど注意義務を怠ると言うよりもなぜそんな事をさせるのと言う、理不尽さを感じます。そうしたことも踏まえれば日常的に暴力を行っていた可能性も濃厚でしょう。会社役員である容疑者が、これまでに被害者に行ってきた数々の事柄を全て明らかにして、被害者のご遺族に一生を掛けて謝罪をして、罪を償うべきです。







  • 殴って蹴って脅して川に入らせて死んだら殺人じゃないの? 本当に法律って現実に則してないと思う。 ビルで追い込んで飛び降りさせたのとかも殺人になってなかったりするし、国民感情に配慮するって事で裁判員制度が出来たけど、意見は参考程度で通らないから前例を作る事すら出来ない。 そんなの意味あるのかと思う。



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「尻尾」考

九井諒子(「ダンジョン飯」の作者)の短編集の中の「現代神話」の中で、馬人(ケンタウロス)である奥さん(旦那は猿人=人間)が、自分の尻尾のことを「尻毛」と言うのだが、成る程、そう言えば尻尾(しっぽ)というのは尻毛だったのだなあ、と思い、逆になぜ「尻尾」という言葉が生まれたのか、という疑問に至った。
というのは「尾」は尻にしか生えないからで、頭や肩に生えたりはしないからだ。それをなぜわざわざ「尻」という言葉につなげる必要があるのか。まあ、「お」という短すぎる言葉は、発音する時に心理的安定感が弱いから、ということもあるだろうが、それでも「尻」と「尾」をつなげるのは無意味である。
で、思いついたのが、これは「尻緒(しりお)」が本来の言葉で、それが発声の便宜上「しっぽ」という発音に変化し、「ぽ」では意味不明の言葉になるので、「緒」を「尾」という漢字表記にして念押ししたのではないか、という推理である。
ちなみに「緒」は「紐」のことで、和歌の「玉の緒よ絶えなば絶えね 長らへば忍ぶることの弱りもぞする」などの「玉の緒」という言葉は、「玉」が「魂」の意味で、「玉の緒」全体は、「生命や精神(魂)と肉体を結ぶ紐」が転化されて魂そのもの、あるいは生命そのものを表すようになったのだろう。

ちなみに「ダンジョン飯」のファリン(主人公?の妹で、気立てが良い少女)が変化するキメラは、上半身が人体で、ある意味「ケンタウロス型」のキメラである。つまり、作者久井は、わりとケンタウロスが好きなようだ。

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いざ鎌倉?

前回記事のついでに「逃げ若」こと北条時行についてのコラムも載せておく。学者の書いた記事と違って、かなり面白い。学者の発言や文章は、大半がポジショントーク(地位防御目的の発言)だからまったく面白くないのである。

(以下引用)

北条時行はなぜ【逃げ上手の若君】なのか?【鎌倉殿の13人】北条義時との関係は?(家系図/相関図)

陽菜ひよ子歴史コラムニスト・イラストレーター









2024年7月より、アニメ『逃げ上手の若君』(原作:松井優征)がTOKYO MXなどで放送開始しました。



原作は2021年1月『週刊少年ジャンプ』8号より連載開始、2022年、「全国書店員が選んだおすすめコミック」にて第8位、2023年、第69回小学館漫画賞を受賞した話題作です。



『逃げ上手の若君』(以下・逃げ若)とは、南北朝時代に活躍した武将・北条時行のこと。コミックは作者の大ヒット作『暗殺教室』を彷彿とさせるシュールでポップな世界観で、時行もある意味ちょっと「ヤバ目」に描かれています。



物語冒頭の時行はまだ8歳と幼少。武芸の稽古から逃げ続け、戦力はあまり期待できません。その代わり、防御力がとてつもないのです。自分を殺害しようとする相手の刀を笑顔でひょいひょいとかわす若君



そんな武士の御曹司らしくない「逃げ若」北条時行。まずは、史実に伝わる彼がどのような人物か?について書いてみたいと思います。



同時に、2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で一躍有名になった鎌倉幕府第2代執権・北条義時(演:小栗旬)との関係についても紹介します。



ここから先はネタバレになるので、注意してお読みください。


◆北条氏得宗家最後の当主

◎執権北条氏の嫡流「得宗家」の直系

逃げ上手の若君・北条時行は、鎌倉幕府第14代執権にして、北条氏得宗家9代当主・北条高時の次男です。



得宗家とは、北条氏惣領の家系のこと。


2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場した北条時政(演:坂東彌十郎)初代執権。そして2代義時、その嫡流の3代泰時(演:坂口健太郎)に続きます。義時から数えて、時行は8代目の直系子孫です。



北条氏は大きく5つの家系に分かれ、そのうち4つは義時の子を祖としています。残り1つは義時の弟・時房(演:瀬戸康史)の家系です。



執権北条家の家系図はざっとこんな感じ。



◎足利高氏により北条家滅亡・時行逃げ延びる

鎌倉幕府は1333年、のちに室町幕府を開く足利高氏(尊氏)によって滅ぼされました



同年にはじまった「元弘の乱」で、鎌倉幕府軍は後醍醐天皇や足利高氏を相手に戦い敗北。北条一族のほとんど(800人以上とする説も)が自刃したのです。(上の図の赤字の人物は元弘の乱で死亡)



父・高時が乱で死亡し、遺児となった時行は、北条得宗家の御内人(=従者)・諏訪頼重の庇護を受けて逃げ延びました。(諏訪頼重は『逃げ若』にも重要人物として登場。諏訪大社の神官のため、神通力があり未来が見えるという設定)



◆時行はなぜ「逃げ上手」なのか?

◎時行、高氏への復讐を胸に誓い、3度挙兵し鎌倉奪還に成功

その後、各地に残った北条一門や家臣らが次々と打倒足利を目指して蜂起。時行以外にも挙兵したと伝わる人はいますが、鎌倉を奪還することなく処刑されています。



時行のすごいところは、鎌倉を奪還していること。しかも、1335年「中先代の乱」、1337年「南北朝の内乱」、1352年「武蔵野合戦」と3度も奪還しているのです。



奪還しては足利氏に取り戻されることを繰り返しますが、その都度、時行はうまく逃げ延びました。これが「逃げ上手」の本来の意味だと思われます。



2度目と3度目の間は15年もの期間、じっと身を潜めて機会を待ち続けたのです。



時行は幼子から20代の立派な青年に成長していたでしょう。それでも彼の中の一族の敵を討つという強い執念は消えなかったのですね。



残念ながら「3度目の正直」はありませんでした。3度目は奪還後に制圧されて時行は捕らえられ、1353年鎌倉で処刑されてしまいます。鎌倉幕府の滅亡からちょうど20年後のことでした。


◎歴史を変えた「中先代」

時行は一時期(20日間ほど)ですが鎌倉の支配者となりました。そのため、父高時と足利高氏の間という意味で「中先代」と呼ばれます。



時行は敗者であるがゆえ、歴史に大きく名前を遺してはいません。しかし、時行は短い期間でも支配者と認められました。彼の起こした乱は、歴史を変えているのです。



鎌倉幕府は後醍醐天皇と足利氏によって滅亡しました。しかし時行の起こした「中先代の乱」のあとには、後醍醐天皇と足利高氏が対立して「建武の乱」が勃発。



乱には高氏が勝利して室町幕府が成立しました。後醍醐天皇を退けた高氏は、光明天皇を擁立(北朝)。対抗した後醍醐天皇は吉野に南朝を開き、南北朝時代がはじまります。



「中先代の乱」はその後の南北朝時代のきっかけを作ったといえるのです。




◎歴史のロマン「時行・伊勢生存説」

非業の死を遂げたと伝わる歴史上の人物には、日本各地に生存説があることが多いものですが、ご多分にもれず時行にも伝説が残ります。



時行は鎌倉で処刑されてはおらず、伊勢の地に逃げ延びたという説です。かの地で伊勢氏を名乗った時行の子孫が、のちの後北条氏の租・北条早雲、というもの。



後北条氏※とは、戦国時代に関東地方に勢力を伸ばし、1590年小田原征伐で豊臣秀吉に滅ぼされた一族。2023年大河ドラマ『どうする家康』北条氏政(演:駿河太郎)と氏直(演:西山潤)親子が登場したのは記憶に新しいところ。



(※本来の氏は北条ですが、鎌倉幕府の執権北条氏と区別するために後北条氏と呼ぶのが通例となっています)



後北条氏は、執権北条氏とは血縁上無関係というのが定説です。



そんなわけで、時行→早雲説、かなり眉唾なのですが、早雲の素性には不明な点が多いため、はっきりと否定もできないようです。



信憑性は低いとはいえ、実は執権北条氏と後北条氏は繋がっていた!と考えるとワクワクするのは筆者だけではないでしょう。できれば、『逃げ若』の時行もずっと逃げ続けて、最後は伊勢にたどり着いてほしいものです。



(イラスト・文 / 陽菜ひよ子)


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足利尊氏と直義

市民図書館から「太平記」を借りて、その前書き部分だけ読んだが、そこに載っていた足利尊氏の清水寺への祈願文を(その筆致、筆跡も含めて)見て、足利尊氏という人物は、野心も欲心もほとんど無い、弟思いの繊細な人物であると感じたのだが、鎌倉末期南北朝初期の争乱の有為転変の中で勝ち残ったこと、そして太平記などの「楠木正成美化」がそのライバルの彼を邪悪な人間であるかのように印象づけているようだ。彼は、筆跡の印象だと良寛に似ている感じで、武家の棟梁という立場が、我欲の無い彼をあのような闘争と有為転変に巻き込んだのだろう。
尊氏と弟の直義との関係がよく分かるウィキペディアの直義についての記述を転載する。

(以下引用)赤字は夢人による強調。尊氏の人物像をはっきり示している。下線も夢人によるもので、北条時行が、確かアニメ「逃げ上手の若君」の主人公だったはずである。


足利 直義(あしかが ただよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将公卿・政治家・歌人。鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の三男[2]。兄に足利高義足利尊氏がいる。室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟。養子に直冬


元弘の乱で兄の尊氏に従って北条氏から離反し、後醍醐天皇や兄と共に鎌倉幕府を滅ぼした。建武の新政では兄と同様、後醍醐から多大な恩賞を受け、後醍醐皇子の成良親王を奉戴して鎌倉将軍府の事実上の長を務めた。中先代の乱では北条時行に敗退し、鎌倉撤退の混乱の中、後醍醐皇子で前征夷大将軍護良親王を殺害した。建武の乱湊川の戦いでは足利方陸軍の主将を務め、陸軍副将の高師泰と共に建武政権軍の名将楠木正成を討ち取る武功をあげた。


室町幕府草創期においては、「三条殿」と称されて実質的な幕政の最高指導者となり、公卿の地位に登った。卓越した政治的手腕によって幕政の礎を築き、北朝光厳上皇との関係強化にも努め、厚い信頼を得た。是円らによる幕府基本法『建武式目』も直義の意向が大きく反映されているとされる。政策は保守的で、鎌倉幕府の古法を多く模倣した。その後、革新派の執事高師直との間で、政策や養子の直冬の処遇を巡る対立関係が発生、観応の擾乱という武力闘争に発展し、最終的に薩埵峠の戦いで実兄の尊氏に敗れた。鎌倉に蟄居の後、政敵の師直が暗殺された丁度一年後という日付に急死を遂げた。


冷静沈着・実直な人間であったとされ[注釈 6]、室町幕府の成立は名政治家である直義の手腕に大きな部分を負っている。禅宗を篤く敬って庇護し、 臨済宗高僧の夢窓疎石(夢窓国師)との対話は『夢中問答集』として出版された。また後醍醐帝鎮魂のため、尊氏・夢窓・光厳と共に天龍寺を創建した。兄に次ぐ優れた武家歌人でもあり、『風雅和歌集』以下の勅撰和歌集に26首が入集した。

生涯

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誕生

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次兄の高氏(尊氏)と同じく父・足利貞氏の側室である上杉清子が産んだ子で、母は北条氏ではない。


生年は古くは『公卿補任貞和5年(1349年)条等から徳治元年(1306年)とするのが通説だった[4]。しかし、『三宝院賢俊僧正日記』の暦応5年(1342年)2月条に「三条殿 卅六 丑未」とあり、これにしたがえば逆算して徳治2年(1307年)となり、通説とは1年異なる[5]。賢俊という尊氏・直義兄弟に近い人物による証言であり、さらに「門葉記130」[6]という傍証もある[5]。2010年代時点で新説の徳治2年(1307年)説を採用する研究者には、森茂暁[5]清水克行[7]亀田俊和[4]等がおり、森・亀田は新説が有力であると述べている[4][5]

倒幕から幕府創設まで

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足利氏の慣例に従い、二人の兄同様に初めは、得宗鎌倉幕府執権)・北条高時より賜った偏と祖先にあたる源義国の一字により高国(たかくに)と名乗るが、桓武平氏を称した北条氏(本来であれば家格が劣る)が実権を握る幕府に叛旗を翻した後は、河内源氏の通字である「義」を用いた忠義(ただよし)、直義(ただよし)に改名する。正慶2年(1333年)、後醍醐天皇が配流先の隠岐島を脱出して鎌倉幕府打倒の兵を挙げると、兄の高氏とともにこれに味方し六波羅探題攻めに参加する。


建武の新政では左馬頭に任じられ、鎌倉将軍府将軍成良親王を奉じて鎌倉にて執権となり、後の鎌倉府の基礎を築く。建武2年(1335年)、中先代の乱が起こり、高時の遺児時行信濃国に挙兵し関東へ向かうと、武蔵国町田村井出の沢(現東京都町田市本町田)の合戦にて反乱軍を迎撃するが敗れる。反乱軍が鎌倉へ迫ると、幽閉されていた護良親王を配下の淵辺義博に命じて混乱の中で殺害させ、足利氏の拠点となっていた三河国矢作(愛知県岡崎市)へと逃れた[8][9][10]。もっとも、成良親王は無事に京都に送り返されており、護良親王殺害も建武政権の立場に立った行動であった[11]


同年、後醍醐天皇に無断で来援した尊氏と合流すると東海道を東へ攻勢に転じ、反乱軍から鎌倉を奪還する。奪還後も鎌倉に留まった尊氏は付き従った将士に独自に論功行賞などを行うが、これは直義の強い意向が反映したとされている。しかし、建武政権から尊氏追討令が出、新田義貞を大将軍とする追討軍が派遣されるや、尊氏は赦免を求めて隠棲する。直義らは駿河国手越河原(静岡県静岡市駿河区)で義貞を迎撃するが敗北する(手越河原の戦い)。これに危機感を持った尊氏が出馬すると、これに合して箱根・竹ノ下の戦いで追討軍を破って京都へ進撃する。足利軍は入京したものの、建武3年(延元元年/1336年)に陸奥国から上洛した北畠顕家楠木正成、新田義貞との京都市街戦に敗れる。再入京を目指すも、またしても摂津国豊島河原での戦いに敗れて九州へと西走する(豊島河原の戦い)。道中の備後国鞆の浦にて光厳上皇院宣を得て、多々良浜の戦いで建武政権側の菊池武敏に苦戦を強いられながらもこれを撃破するなど、西国の武士の支持を集めて態勢を立て直して東上を開始。海路の尊氏軍と陸路の直義軍に分かれて進み、湊川の戦い兵庫県神戸市)で新田・楠木軍を破って再び入京する。

二頭政治から観応の擾乱へ

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(前略)

しかし、貞和4年(1348年)頃から足利家の執事を務める高師直と対立するようになり、幕府を直義派と反直義派に二分する観応の擾乱に発展し、さらに吉野へ逃れていた南朝も混乱に乗じて勢力を強める。

(中略)


観応の擾乱は直義の死により終わりを告げた[19]。ただし、直義派の武士による抵抗は、その後直冬を盟主として1364年頃まで続くことになった。


なお、尊氏はその死の直前の延文3年(1358年)に、直義を従二位に叙するよう後光厳天皇に願い出ている。その後、年月日は不詳であるが更に正二位を追贈された[20]康安2年(1362年)7月22日には「大倉宮」の神号が贈られ、「大倉二位明神」として直義の邸宅であった三条坊門殿の跡地に三条坊門八幡宮(現・御所八幡宮社)を創建して祀った他、直義が失脚後に滞在していた綾小路邸にも祀った。さらに天龍寺の付近に直義を祀る仁祠(寺)が建てられている[21]

人物

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性格

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尊氏が激しい感情の起伏がある人物とされるのに対し、直義は冷静沈着であったとされる。また『太平記』などでは汚いやり口を嫌う兄の尊氏に代わって自ら手を汚す役割を務めたとされており、同書では親王の殺害や天皇との折衝における背反行為などは尊氏ではなく、直義が果たしたものとされている。


尊氏が山のように贈られてきた品物を部下たちにすべて分け与えたほど無欲だったという逸話は有名であるが、直義はそもそもそういう贈り物を受け取ること自体を嫌った、と言われている[22]


直義は足利一門の渋川貞頼の娘を正室とした他に側室を迎えなかった。二人の間には長く子が生まれず、尊氏の庶子直冬を養子にしたが、夫婦ともに40歳を過ぎてから思いがけず男子(如意丸(如意王))が誕生した。このことが直義に野心を芽生えさせたと『太平記』は描いている。

政治家として

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(省略)

尊氏との関係

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観応の擾乱で天下を巻き込んで争った尊氏と直義だが、2歳違いの同母兄弟ということもあって元来仲はすこぶる良かった。幕府滅亡後の鎌倉を預かっていた直義が中先代の乱で敗走したときには、尊氏は後醍醐天皇勅許を得ぬまま軍勢を催して東国に下り、直義を救援した。


直義は、乱の平定後帰京しようとする尊氏を説き鎌倉に留まらせた。これを警戒する反尊氏派の運動によって追討令が出ると、尊氏は後醍醐の恩を思い出家して恭順の意を示そうとするが、直義らは尊氏の罪を一切許さないとする偽の綸旨まで示して翻意させようとした。さらに軍勢を率いて西上した直義らが敗北すると、これを救うべく尊氏もついに官軍に立ち向かうことになった。このように建武政権に対抗し、積極的に武家政権の再興を推し進めたのは直義以下の武士たちで、弟想いの尊氏は板挟みの末に後醍醐に反旗を翻す決断に至ったといえる


京都を手中に収めた足利方の推す光明天皇が践祚してわずか2日後、尊氏が石清水八幡宮に奉納した願文には「尊氏に道心給ばせ給候て、後生助けさせおはしまし候べく候。猶々、とく遁世したく候。道心給ばせ給候べく候。今生の果報に代へて、後生助けさせ候べく候」とある。持明院統の天皇・上皇を擁して逆賊の名を一応逃れたとはいえ、後醍醐を逐ったことは尊氏を沈鬱にし、出家遁世の志を起こさせた。これに続けて「今生の果報をば、直義に給ばせ給ひて、直義安穏に守らせ給候べく候」と、弟想いの心情が現れるとともに、新たな政治の現実は直義が担っていくものという意識も滲ませている。




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若者は社会の迷惑

「阿修羅」から転載。
好記事である。まあ、だから転載するのだが。と同時に、私の書いた記事(自分でも何を書いたか忘れたがww)が、かなり的を射ていた気がする。要は、学生運動などロクなもんじゃない、ということだ。学生は馬鹿が多すぎる。簡単に騙されすぎる。
40歳以下の人間は無知で馬鹿なのだから、選挙権は要らない。老害どころか若害である。もっとも、年をとれば賢くなるわけでもないが。

(以下「阿修羅」から引用)


学生抗議行動の仮面がついに暴露された:イスラム主義者、ジハード主義者、テロリストの結束がシェイク・ハシナの権力追放を要求 - 8月4日から非協力運動を開始(Weekly BLiTZ)
http://www.asyura2.com/24/kokusai34/msg/795.html
投稿者 幽季 茶良 日時 2024 年 8 月 05 日 23:06:59: thE/xNYvEIXI. l0iLRyCSg5fH
 

バングラデシュで暴動が激化し、首相が逃亡しました。そのことに関する記事です。

https://weeklyblitz.net/2024/08/04/mask-of-student-protests-finally-exposed-nexus-of-islamists-jihadist-and-terrorists-demand-ouster-of-sheikh-hasina-from-power-begins-non-cooperation-movement-from-august-4/
翻訳引用
>8月3日、シェイク・ハシナ首相は、クオータ制改正の抗議行動をめぐる暴力を終わらせるために、首相の公邸であるゴノ・ババンで彼女と会うよう、扇動する学生たちに呼びかけた。
>彼女は、「ゴノ・ババンの扉は開いています。私は、動揺する学生たちと一緒に座って、彼らの話を聞きたいのです。私は争いたくない」と言いました。彼女はまた、当局に拘束された一般学生の釈放を求めた。
>しかし、「反差別学生運動」のコーディネーターは、対話による平和的解決を求める首相の呼びかけを拒否した。
>アルカイダとつながるバングラデシュ民族党(BNP)の有給宣伝者であるデイビッド・バーグマンは、学生たちにこの申し出を拒否するよう促し、運動全体がバーグマンの上司で、
>2007年以来英国に亡命している有罪判決を受けたテロリスト、タリケ・ラーマンによって支配されていることを示唆した。
>バーグマン以外にも、BNPは、アルカイダとつながる党で数年間働いてきた元アメリカ外交官のジョン・ダニロヴィッチを含む、他の偽情報の売人やプロパガンダ屋も雇っている。
>これらのいわゆる学生抗議行動の本質が、アメリカのCIAとパキスタンのISIによって青写真が描かれた今、暴露されれば、バングラデシュが、国家を不安定化させようとしているイスラム主義者、
>聖戦主義者、テロリスト分子の結びつきによる重大な脅威に直面していることは明らかだ。

このようなことが起こった経緯について、クオータ制への反発から始まったようですが、政府が譲歩しているのにより運動が激化しています。
https://weeklyblitz.net/2024/08/05/bangladesh-student-protest-turns-into-anti-government-terrorist-acts/
翻訳引用
>バングラデシュ政府の求人におけるクオータ制は、長い間論争の的となってきた問題である。もともとは、自由の闘士の子孫、女性、少数民族など、さまざまな不利な立場にあるグループの代表を確保するために設計されましたが、
>このシステムは、時代遅れで差別的であると多くの人々に認識されるようになりました。2018年、学生たちはクォータ改革運動を開始し、より公平で能力主義の採用プロセスを求めました。
>彼らの議論は、公平性と現代の能力主義的基準の原則に根ざしていました。
>政府が定員制を廃止することで学生の要求と権利に対処しようと努力しているにもかかわらず、不安は収まっていません。
>それどころか、この運動は明らかに反政府的なトーンを帯びており、その根底にある動機や国の将来の政治的安定について疑問を投げかけている。

ポケットwifiを使って偽情報を拡散し、暴動を煽り立てているようです
そのコストは日本円で40万円ほどになり、とてもバングラデシュの学生の払えるお金ではありません
https://weeklyblitz.net/2024/08/04/terrorists-provide-wifi-facility-to-disinformation-peddlers-through-dozens-of-pocket-routers/


ロシアおよびインドが、アメリカによる政権転覆を事前に予見しています
https://en.somoynews.tv/news/2023-12-16/us-might-fan-unrest-in-bangladesh-after-elections-russia
>米国は選挙後のバングラデシュでアラブの春のような騒乱を煽るかもしれない:ロシア
>ロシアは、1月7日の議会選挙後、アメリカ合州国がバングラデシュで「アラブの春」スタイルの革命を実行するかもしれないという懸念があると言っている。
https://japanese.cri.cn/2024/06/15/ARTIpu4atColYzRgl1DfsEAC240615.shtml
>米CIAが新国家建設を画策?インドメディアが懸念
>ある国がバングラデシュに空軍基地を新設することに同意すれば、今年1月7日の選挙で彼女が困らないようにすると提案されたものの、同意しなかったと暴露したことを伝えました。
>ハシナ首相によると、バングラデシュとミャンマーから土地を割いて東ティモールのようなキリスト教国家を作る陰謀を企てている人物がいるということです。

また、バングラデシュはBRICSに強く興味を示していた国のひとつでもありました
https://infobrics.org/post/41846


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バングラデシュ騒動を過激化させたのは誰か

バングラデシュ騒動(革命でも倒閣運動でもないと私は推測している)に関する次のコメント(引用文)は、イスラムへの悪意が土台にあるが、面白い情報も含まれている。
最初の2行の意味がよく分からないが、そのまま読めば、現政権が「公務員既得権益削減」したのに対し、既得権益層が怒ってデモをしたら、何となくそれが膨れ上がって結果的に倒閣してしまったという話ではないか。
デモがイスラム原理主義によって主導されたという部分は嘘くさい。欧米メディアがそう宣伝しているのだろう。そもそも、バングラデシュはイスラム教徒が90%を占めると何かで読んだ気がする。現政権は当然、その基盤に乗っていたとすれば、このデモが倒閣運動だったとするのは、蛸が自分の足を食うようなものだろう。単なる「政権への部分的不満」が、それを扇動する勢力によって過激化したのだというのが私の考えだ。そしてその背後勢力はイスラム勢力とは思えない。おそらくCIAだろう。
まあ、これが革命なら「カラー革命」である。ベンガルならベンガラ色かww

(上記赤字部分について、徽宗皇帝のブログに載せた記事の注にこうある。)


[1] バングラデシュの人口は約1億6千900万人で、イスラム教徒が91.1%、ヒンドゥ教徒が7.9%、仏教徒は0.6%、キリスト教徒が0.3%、その他が0.1%となり。エスニック・マイノリティは人口の約1%にあたる。(Bangladesh Census 2021)

(以下引用)

独立戦争の子孫を公務員の30%は一度廃止されて復活しそうになったが
現政権はそれに批判的で最高裁の再判断の末5%になった

デモを主導してたイスラム原理主義勢力はのぼせ上がった学生を使って
首相官邸を襲撃し事実上のイスラム革命にしようとしてる
イスラム原理主義政権が出来たらインドとの友好関係が崩壊する
 

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