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インフルエンザ・ファッシズム

飯山老人のホームページから転載。
またしてもインフルエンザで大騒ぎの季節である。インフルエンザワクチンが効かないことや、タミフルやリレンザは効かない上に危険であることや、マスクなどやっても無意味であることを知っている人は多いが、「やらないと周囲の目が怖い」からやるという悪循環。まったく、製薬会社と医療業界とマスコミと政府がよってたかってそういう状況を作り上げてしまったのである。いわばインフルエンザ・ファッシズム(全体主義)だ。
インフルエンザなど、仕事や学校を休んで3,4日も家で寝ていれば治るものだ。それをまるで昔のライ病患者のように、ゴホンと咳をしただけで周囲から睨まれるとは、日本という国は狂っている。


(以下引用)


◆2009/05/17(日) インフルエンザ・ウイルスを完全に撃退する方法!
 日本のテレビ局は,滑稽なほど “騒ぎ屋” だ.
 はっきり言って…,
 日本は,まだまだ 「インフルエンザ・パンデミック」 という状態ではない!
 しかし,テレビ局は 「インフルエンザ・パニック」 の噴霧機だ.
 おっと,雰囲気だ. だが…,
 タミフルの効能を,ちらちら “宣伝” しているところをみると…,
 ははぁ,これって タミフル増販キャンペーンかぁ! とも思ってしまう.
 しかも,不安をあおって,妊娠した女性にまでタミフルを “推奨” している.
 これから,大勢の妊婦たちが,タミフルを飲まされるんだなぁ…,
 緑茶生姜湯でも飲んで身体を温めて安静にしてれば自然治癒するものを…,
 テレビ局の “宣伝” をまともに信じて,保健所や病院に駆けつけて,ゴックン.
 いやはや,日本の妊婦さんは,なんともかんとも可哀相だ.
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 きょうは,効くか効かないか? あやふやなタミフルなんぞ足元にもおよばない…,
インフルエンザ・ウイルスをバッチリと撃退する “お茶の効能” を科学的に説明したい.
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 なぜ? どういうふうに? お茶はインフルエンザ・ウイルスを撃退するのか?
 結論を先に述べたい.
 「ウイルス粒子は,茶ポリフェノールと接触すると瞬間的にウイルスのスパイクがポリフェノールに覆われて感染性を失ってしまう!」 ということだ.
 このことは多くの科学者たちが実験によって証明してきた.論文も数百以上ある.
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 どんな実験をしたのか? まず,マウスを使った実験.
 病原性の高いマウス・インフルエンザ・ウイルス溶液を,マウス鼻腔より吸入させる.
 すると,マウス群は1週間前後で100%死亡した.
 このとき,茶葉抽出液を添加したウイルス溶液を吸入させたマウス群は,体重増加率,摂食量なども正常群と変わらず,ウイルスによる影響を全く受けないことが確かめられた.
 これはウイルスが茶ポリフェノールとの接触により感染性を失い,発病が阻止されたことを示すとともに,茶ポリフェノールと反応したウイルス粒子が体内に取り込まれた後に感染性を取り戻すことがないということも示している.
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 どうだろうか? 茶ポリフェノール(カテキン)の効果は.絶大といっていい.
 おなじような動物実験は,大規模豚舎でも行われ,同様の結果が出ている.
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 じつは,動物実験だけでなく,“人体実験”,“生体実験” も行われてきた.
 ヒトの実験としては,某職域集団を実験群と対照群とに分け,実験群にはお茶によるうがいを日々行わせたところ,インフルエンザ感染者が対照群に比べて有意に減ったことが認められた,と.
 ようするに,茶ポリフェノール類には,インフルエンザウイルスの抗原型にかかわらずその感染を阻止し,かつ自然界におけるインフルエンザの流行を予防する効能があるということだ.
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 現実は,茶葉の活用は,“実験レベル” の話ではなく “実用の段階” になっている.
 たとえば,数年以上も前から,静岡県の小中学校では,蛇口をひねると茶水が出る装置を校内各所に設置して,生徒たちにうがいを励行させてきたという.
 結果は,周辺の学校では “学級閉鎖” で大騒ぎなのに,茶でうがいをしていた学校は,発症者ゼロ! だったという.
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 以上のような “お茶の効能” は,衆知の事実である.
 なのに,テレビ局は一顧だにせず,インフルエンザ・パニックを演出し…,
 あげくは,“タミフルの宣伝” まで行っている.
 まったくもって,日本のテレビ局は悪質である.
 東京地検特捜部の “国策捜査” に全面協力して悪質な “選挙妨害” に手を染め,
今回は,“タミフルの宣伝” を,ニュースという形式で行う悪辣さだ.
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 あ,言っとくけど…,
 いまバラまかれているインフルエンザ・ウイルスは,マスクなんかしても駄目だぜ!
 目の粘膜に付着して,そこで増殖をはじめるからだ.

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命令する言語・戦闘的言語

TORA氏の「株式日記と経済展望」に次のような一節があった。


英語というのは基本的に人に命令する言葉であり、ハリウッド映画などを見ても人の顔面に拳銃を突きつけて命令する場面が多い。つまり論争するときなどは都合がいいが、英語を話すと戦闘的になりすぎて、アングロサクソンのように戦争大好きな国民性になりやすい。


もちろん、これはかなり強引な論法だが、私も少し共感している。英語は「交渉」「論理」「契約」の言語であり、情緒的要素が少ない。あえて言えば「もののあはれ」に乏しい言語だ。だから英詩などでも日本人の心に訴えかける詩は本当に少ない。とくに自然との一体感などほとんど無い。ワーズワースだったか誰だったかが水仙を歌った詩などが希少な例だが、それも日本の詩歌の世界に汗牛充棟する自然を詠んだ詩歌とはレベルが違いすぎる。夏目漱石が英文学研究を志しながら英文学になじめなかったのも、東洋人とのこの感覚の違いのためだろう。


英語が命令する言語であることの一例になるかどうか、私の昔の文章を紹介しよう。




#50 英語的国民性


 記念写真を撮る時、昔なら「はい、チーズ」と言って撮ったもので、フーテンの寅さんが、間違えて「バター」などと言うギャグがあったりしたが、今は「1+1は?」と聞いて「ニー(2)」と答えさせたりする。これはもちろん、「チーズ」も「ニー」も「イ」の音を出す口の形が、笑う時の口の形であるからだが、では、英語国民はこのような場合、何と言うのだろうか。
 昔、「笑っていいとも」に、あるアメリカの女優(ジェイミー・リー・カーチスという女優だ)が出演したことがあったが、その女優はインスタントカメラを持参していて、舞台を写真に撮ろうとする観客を逆に記念撮影した。その行為自体のユーモアにも感心したが、その時、彼女が言った言葉が忘れられない。彼女は、観客席にカメラを向けて何と言ったのか? それは「スマイル!」という命令だったのである。なるほど、相手の笑った顔を写すのだから、「笑え!」と命令するのは理にかなっているが、何と言う端的な発言だろう。日本人の持って回ったようなやり方にくらべて、大雑把というか、ストレートというか、……。しかし、これが英語国民の国民性ではないかと思うのである。目的を達するための最短距離は何かと考え、それを実行する。その際に、相手がどう思うかなどは考慮する必要はない。なぜなら、相手は自分ではないのだから、いくらこちらがどう配慮しようが、その反応は予測と一致するとは限らない。相手が不快感を表明したら、その時点で交渉し、調整すればいい、というのが、英語的国民性だと私は思っている。

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ニュアンスのニュアンスによる視聴者誘導

今日の朝のテレビで、カツラ疑惑で有名な司会者が「ドラッグ・ラグ」のニュースを解説していた。
若くして乳がんのために死んだ女性が、欧米で承認されている治療薬が日本で早く認可されていたら「治ったかもしれない」というような解説だが、正確に言うと「治る」とも言っていなかった。とにかく、その認可を待ち望みながら死んでいったというニュアンスの話だった。
その後は、この「治療薬」が日本でも開発されているという話で、ここでもその認可が待ち望まれるというニュアンス(ニュアンスばかりなのである。)だった。とにかく、こうしたぼやかした話で、印象だけを聞き手に伝えることにかけては日本のマスコミは名人芸だ。
言うまでもないが、こういった治療薬で「治る」などとは絶対に言わないのである。言えるはずがない。ただ、患者はそれを待ち望んでいる、という情報を視聴者に与え、その薬が福音であるという期待感を醸成するのが、こうした「報道番組」「情報番組」の役割だ。
死んだ女性も、自分の死がダシにされて他の患者を誤った方向に導き、無数の薬害被害者を出すことになったら、往生できないだろう。

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トカゲのしっぽ切り

イレッサ問題について、製薬会社の現場医者への責任転嫁というのもなかなか大きな問題かと思うので、関連記事を転載する。

(以下「阿修羅」記事より転載)


何でも医者のせいにする薬害報道 (イレッサ薬害)NHKニュース9の報道は酷かった
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/477.html
投稿者 虹の仙人 日時 2011 年 1 月 20 日 13:02:24: ZmDTMI6bcHXKo


これは大昔からづっと続いている事であるが、薬害が起ったときは常に医者への責任転嫁報道をして、製薬会社を護る。それはナゼか。報道で触れてはいけない3つの掟があり、そのうちの一つが製薬会社についてである。
今回のNHKニュース9の報道が問題なのは
1.訴訟されている製薬会社の名前が一切出てこない点。厚労省の責任論も論じられない。薬害報道では製薬会社の名前は極力出さない掟がある。

 下にNHKの「イレッサ訴訟“話し合いを”」という記事を上げておいたが製薬会社の名前は出てこない。
 聞き漏らしたのでなければ、ニュース9でも製薬会社の名前は一切出てこなかった。

2. 医者に対する責任のすり替え。製薬会社ではなく、現場の医者を矢面に上げる。
 下のNHKの記事にはないが、NHKニュース9では、大越、青山キャスターとスタッフによる医者への責任転嫁が行われた。どういう事かというと、医者がチャンと診ていないといういつもの報道陣の主張である。多くの日本人は医者がチャンと診ないから薬害が起るという意識を何十年と植え付けられてきた。しかしそうではないのである。薬が悪いから薬害が起きるのである。
 今回のイレッサも「副作用が少ない夢の新薬」として、(いつも遅すぎる薬事審査が批判される機関としては珍しく)世界で初めて日本の厚労省が承認した薬である。夢の薬であれば使わないほうがおかしいのであるが、実際は悪夢の新薬であった。
“夢の新薬”ともてはやされたイレッサの「薬害」を裁判で問うを
下に上げておく。
 今回のニュース9の報道で際立っていたのはすり替え方法が進化した点にある。抗がん剤の専門医がいないということに終始していた。専門医の不足をこの薬害が起った根源としていたのである。大越、青山キャスターは、医者がチャンしてないからと軽く誘導し、専門医がいないのが一番の課題と断罪した。薬の害=医者のせい という長年にわたる刷り込みで条件反射の域に達した方程式で多くの日本人はだまされているのである。 製薬会社は報道機関にとってアンタッチャブルな存在なのである。
 小泉政権の時、今もそうであろうが、製薬会社が史上最大の利益を計上したとき、取りあえずNHKはニュースで報道したが、その次のニュースは、日本の製薬会社が国際競争に打ち勝つためには多額の資金が必要というニュースであった。
 古い話であるが、大腿四頭筋短縮症も薬害である。生理食塩水以外のどの薬を注射しても起るという研究報道が有り、科学的に薬害であるという事を証明したにも関わらず、わざわざ医者がチャンとしていないからとアナウンサーが非科学的なコメントした。これの繰り返しである。医者は神様でもなんでもなく、その時々の情報が間違ったり不足していたりすればどうしようもないのである。人が仕事をしているのである。
NHKに良心があるなら、科学的スピリッツがあるならこのようなニュースキャスターとスタッフを総入れ替えすべきだある。医者と患者の信頼関係を損なう報道をした責任は重大である。

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情報学的に見た「運命」


情報学的に見た「運命」     (酔生夢人)

(1)

運命はあるか無いかと言えば、それはある。ただし、運命が不変的か可変的かと言えば、それは可変的だろう。簡単な話、君は今すぐにでもビルの屋上から飛び降りて自分の人生を終わりにすることもできる。この場合、運命は君によって作られた。つまり可変的だったのだ。だが、それをする「勇気」というより無謀さは君にはおそらく無い。それに対して、君がビルから飛び降りなかったのが君の運命であり、だから運命とは不変的なのだ、と占い師の類は言うかもしれない。だが、運命を司る存在がいちいち君のことなど考えているはずはない。もしも「彼」が君の運命にそれほど関心があるなら、「彼」はなぜ犬や猫やミミズやアメーバの「運命」に無関心なのか。それともミミズやアメーバの運命まで「彼」はいちいち考えて決定しているのか。運命という思想は、自己の存在や人間存在を過大視したがる人間の自惚れの産物だとも言える。
もちろん、不変的だからこそ「運命」と言うのであり、可変的な運命という考えは論理矛盾だと考える人もいるだろう。それならば、そういう意味での「運命」は存在しない。
では、可変的なのになぜ運命という言葉を私はここで使うのか。それは、個人の人生には大きな傾向があると考えるからだ。

その考えを簡単に言えば、「人は自分の望む人生を無意識的に選び取っている」ということだ。べつに新しい思想ではない。多くの「生き方指南の書」が同じことを言っている。しかし、それを詳しく説明した書物が少ないから、私がこの文章を書いているのである。

私のこの文章は、情報学的観点から「運命」について考え、良く生きるためのヒントを探ってみようというものだ。


(2)

そう、人は自分の望む人生を無意識的に選び取っている。
別の言い方をすれば、自分はこのような人生を望んでいる、とあなたが情報を外部に発信しているから、外部の状況はあなたにそれを実現させるように変化していくのである。
そんなはずはない、私の不幸な運命を私自身が選び取るはずはない、と思う人もあるだろう。もちろん、世の中には不可抗力的な運命もある。天災地変などは個人の意思や生き方とは無関係に不特定多数の人の身の上に起こるものである。そういう偶発事を私は運命とは言わない。それはただの災難だ。だが、生き方の上では、不幸な生き方を自ら選び取っている事例は無数にある。
よくある例が、すべてに恵まれた女性が、ろくでもない男に騙されて不幸になるという事例だ。芸能界や芸術の世界では、優れた女性はだめな男とくっつくべしという法律でもあるのかと思うくらい、そういう例が多い。
では、これは不可抗力だったのか? そう思う人はいないだろう。それとも、女性が馬鹿だっただけなのか? そう言ってしまえば話はお仕舞いである。だが、おそらく事実はそうではない。これは一種のタナトス(死や破滅への欲望)が働いた結果だというのが私の考えだ。つまり、彼女たちは破滅したかったのである。それは、彼女たちの社会的成功によって得られたもの(金・名声・豪勢な生活等々)が彼女たちに真の満足を与えず、心の中に空虚なものがあったからである。彼女たちは自分の現在の生活が癪に触っていたのである。なぜ自分はこれほど成功しながら不幸なのか。そこで、彼女たちは自分の生活を破壊する可能性のある男が近寄ってきた時に、ぞくぞくするようなスリルを味わう。
つまり、彼女たちはそういう駄目男、ロクデナシをこそ求めていたのである。
まあ、以上は話の一つの側面にすぎない。そういう駄目男が本当に彼女たちには魅力的に見えたのかもしれないし、そういう男たちの詐欺師的技能が奏功したということも多いだろう。
私が言いたいのは、彼女たちは無意識的にそうなる運命を選んでいたということだけだ。

(3)

我々は常に外部に情報を発信しながら生きている。
あなたの着る服、あなたの髪型、あなたの話し方、あなたの表情、あなたの癖の一つ一つが外部への情報なのである。もちろん、あなたの話す内容や行動はもっとも大きな情報だ。だが、毎日の微細な表情の一つ一つも情報なのである。それはあなたがどういう人間であり、何を望み、何を好んで何を嫌っているかを周囲の人に教えている。
変な話だが、あなたを真に知っているのはあなたではなく、あなたの周囲の人間なのである。あなたが自分自身について知っていると思っていることはあなた自身の主観にすぎない。あるいはただの「そう見えてほしい」という願望や妄想にすぎない。
この言葉を嘘だと思うなら、自分の写真を見てみるとよい。それはあなたの予想とは大きく異なるはずだ。あるいは自分の録音された声を聞いてみるとよい。これが自分の声とも思えない変な声のはずである。ではどちらがあなたの真の姿か? もちろん写真や録音された声だ。我々は自分自身を騙しながら生きていると言っていいくらいである。そういう甘やかしがないと生きるのが苦痛なのだから、この騙しは無益なわけではないのだが、しかし、それを事実だと思わないほうがいい。
まず、「我々は自分自身の客観的な姿を知らない」ということを肝に銘じておこう。ソクラテスが一生のモットーとしたデルフォイの神託も「汝自身を知れ」ということだった。それだけ自分自身の真の姿を知るのは困難なことなのである。

さて、我々は自分自身についての情報を周囲に撒き散らしながら毎日を生きているわけだが、考えてみるとこれはなかなか危険な行為である。自分の弱点を自分の敵に知られてはいけないわけだから、我々は自分の欠点や弱点をなるべく隠すようにする。これを「蔵拙」と言う。精神年齢の低い人間は「嘘はいけない」という大人の嘘を心から信じていたりするから、こういう蔵拙も嘘の一種だと思って偽悪的な生き方をしたりするが、これはあまり賢い生き方ではない。周囲の人間はそれを微笑ましく思って許容しはするだろうが、「社会の暗黙の了解」との本格的な衝突が起こった場合にそのかっこいい偽悪を守ることは難しい。そこでいつもの偽悪をひっこめて偽善に従うというみっともない羽目になるわけである。まあ、社会人として生きるということは演技者として生きることであり、その演技の大半は偽善なのである。
話が少し逸れたが、我々は日々自分自身についての情報を撒き散らしながら生きている。では、その結果どうなるか。次の章で述べよう。

(4)

我々が自分自身についての情報を周囲に発散し続けると、周囲はそれに反応する。あなたがAという歌手が好きでBという歌手が嫌いなら、周囲の人間はあなたと話す場合にAという歌手の話をし、Bという歌手の話を避けるだろう。
これが運命を引き寄せるということである。
つまり、あなたが発信した情報によってあなたに集まってくる情報にバイアス(偏向)や制限がかかってくるのである。
そこで、女が好きな人間の周囲にはワイ談好きな連中や女そのものが集まり、金が好きな人間の周囲には金の話が集まることになる。そうなると、相互作用によってより一層、女関係やお金関係の情報が彼のところに集まりだす。女についての情報が集まれば、当然、女を得る機会が増え、金についての情報が集まれば、金を得る機会が増える。

プレイボーイが女にもてるのは、彼に魅力があるからではない。彼が、自分は女好きであるという情報を発信しているからである。プレイボーイであること自体がもてる理由だと言ってもいいだろう。
金の好きな人間が砂漠の真ん中で生活していて金が儲かるわけはない。金の集まる場所で生活し、自分は金を欲していることを明らかにするからこそ、彼のところに金の情報が集まるのである。もっとも、そういう儲け話は「そんなに儲かるなら自分でやれば」という一言でお仕舞いになる怪しげな話も多いのだが、少なくとも金儲けの機会が増えることは間違いない。
これが運命を引き寄せるということだ。
そして、その人の運命はその人が無意識に選んでいる、ということだ。

(5)

デール・カーネギーやナポレオン・ヒルなどの「生き方指南の書」で言われているのは、「目標を具体的にし、それを常に意識せよ」ということである。このことの理由は、情報論的に言えば、目的を意識し明確化することで、その目的に関連する情報に対して意識が強く働くようになるからである。その目的に関連する情報に気がつけば、その情報を利用して目的が達成できる可能性も高まるわけだ。しかし、私はそれだけでは不十分だと思う。自分の願望や目標を情報として周囲に発信すると、いっそう成功可能性が高まることは前に書いた部分から明らかだろう。あなたがその情報を求めていることが分からないと、周囲の人もあなたにその情報を伝える必要を感じないだろう。
「類は友を呼ぶ」というのは、情報の集まり方についても言えることなのである。情報は類似情報を集める、と言い換えてもいいだろう。
逆に言えば、いくら情報を集めても、その視野から外れた情報は集まらないということだ。その外部的情報の中にこそ必要な情報がある可能性もあるわけだから、創造的な仕事をしようという場合は「食わず嫌い」をしてはいけないということである。

(6)

もう一度「運命」の話に戻ろう。

ほとんどの人間は自分の現在の状況に不満を持っているだろう。では、どういう状況を望むのかと言えば、案外とそれを明確に言える人はいないものだ。せいぜいが、男なら美女をはべらして酒池肉林の御馳走を食うという程度の、低レベルの極楽をイメージするくらいだ。あるいは恋愛中の人間なら、愛する相手に愛し返されたならそれだけで天国だと言うかもしれない。はっきり言って、どちらも馬鹿馬鹿しい望みである。前者は1時間もたてば満腹して、それ以上は食い物を見るのもいやになるだろう。後者は、自分を愛するようになった相手の現実の姿が、そのへんのただの男や女と何も変わらないことに半日で気づくだろう。枯堂夏子ではないが、恋愛など、片思いの間が最高なのである。
つい興奮して乱暴な発言をしてしまったが、要するに、我々の願望などあいまいなものにすぎないのである。だから、我々は(いつでも望む物に交換可能だと信じている)金を得ることを目標にするのである。だが、その金を得た後、どうするのかはほとんど考えていない。まあ、働かないで、のんびり遊んで生きられたらいいなあ、というのがほとんどの人間の願望の最大公約数だろう。ところが、一生遊んで暮らせる財産を持っている大金持ち連中が毎日遊んで暮らしているかというと、そうでもないのである。つまり、彼らにとっては遊びよりも仕事の方が楽しいのである。働くのが楽しいのだから、金が儲かる。金を得るのは楽しいから、もっと金を求める。金を求める明確な目的があるのだから、金が集まる。こういうサイクルで、金持ちはいっそう金持ちになり、貧乏人はずっと貧乏人のままとなるのである。
こうして金持ちが自分の望む運命を手に入れるのは分かった。だが、では貧乏人は貧乏人の運命を望んだだろうか? そんなはずはない、と世の貧乏人の皆さんは声を荒げるだろう。まあ、落ち着きなさい。かくいう私も貧乏人だが、自分が自分の求めた運命を手に入れていることは分かっている。

あまりにも有名な話で、世界中に同じパターンの話があるのだが、知らない人のために書こう。
ある南のリゾート地に、大会社の社長が遊びにやってきて、休暇を楽しんだ。彼がぶらぶらと散歩をしていると、そこに原住民が昼寝をしていた。こういう怠け者の大嫌いな社長さんは、その男を叩き起こして、「そんなに怠惰な生活をして恥ずかしくないのか。少しは働いたらどうだ」と言う。男は「働いたらどうなる」と言う。社長さん「金が手に入る」男「金を手に入れてどうする」社長「いくらでも遊べる」男「たとえば?」社長「そうだな、こんなリゾート地でのんびりと昼寝ができる」
という話だ。
意味わかりません? 分からない人はもう一度読むように。
つまり、私が貧乏人であるのは、このリゾート地の原住民と同じことである。金があっても金がなくてもやることは同じだから、金を求める気持ちがない。だから、金が手に入る気づかいはない、というわけだ。せいぜいが、病気の時の保険程度の金があればいいなあと思っているが、無ければ無いで、医者にかからなければいいだけだ。医者に行くのを我慢した結果、病気をこじらせて死んでも仕方がない。近代以前の社会では、どんな高貴な人でもたいした治療は受けていなかったのだから、何も不満はない。
というわけで、私が貧乏なのは、私が、あくせく働いてまで金を求めるのは嫌だなあ、と心の底で思っているからである。そしてそういう情報を私は常に無意識のうちに外部に流しているわけだ。そうなると、金の話は私の上空を素通りしていくのは理の当然だろう。
これが、多くの貧乏人の方々が貧乏人の運命を自ら手に入れているということの説明だが、まだ納得いただけないだろうか?
同様に、男運の悪い女はそういう運命を自ら求めているのであり、やたらと病気や怪我になる人間はそういう運命を自ら求めているのである。後者は、考えられる限りの不摂生をしながら、病気になるとその治療に狂奔するという場合もある。まあ、病気や怪我は本人の責任ではない場合も多いのだが、私のように臆病な人間は生まれてから一度も骨折などしたことはない。骨折などというのは勇敢な人間、言い換えれば危険に立ち向かう人間の勲章であり、それもやはり自らを骨折する可能性の中に投げ込んだことから来る、性格的運命の一つなのである。

(7)

最後に、こういう「運命原理」に対し、どういう態度を取るのがいいかと言えば、言うまでもなく、何もしなくていいのである。その運命は、あなたが望んだものなのだから。もしも自分の運命を心から変えたければ、まず自分自身の無意識を見つめることである。その結果、自分の性格的運命に甘んじるか、それを変えるか決意するが良い。運命を本気で変えるつもりなら、前に書いたように「外部への情報発信」をすることである。できるだけ多くの人に対して情報を発信すれば、運命を変えるきっかけとなる情報もそのうち手に入るだろう。簡単な話、海で溺れている人間が「助けて」と叫べば、誰かが助けるだろうが、叫ばないと、ただ泳いでいるだけと見做されるかもしれない。情報発信とはそういうものである。助けが欲しければ、助けを求めて叫びなさい。これが「求めよ。さらば与えられん」ということである。

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苫米地英人の「スピード頭脳」開発法のエッセンス  

苫米地英人の「スピード頭脳」開発法のエッセンス  *「補足」は夢人によるもの。

1 高度な思考は「情報量」と「抽象化」から生まれる。
2 問題解決のためには「盲点の存在」に気づくことが必要。
3 スピード思考のためには直線的論理を捨て、複線思考をすること。
4 実用的思考には「データ」「ワラント(論拠)」「クレーム(主張)」の三要素が大切。
5 ディベート(または交渉)においては、相手のデータ・ワラント・クレームへの反論をそれぞれ3つ考える。それも相手の弁論を聞きながら考える。話しながら考えるな。
6 情報収集には「ゴール」をまず設定する。つまり、何の目的での情報収集かを意識する。文章など読まずに、まず複数資料から同時的に検索する。それ自体思考訓練になる。


1の補足:「抽象化」とは、思考の次元を一つ上げることである。2次元で認識、思考していたものを3次元で見るイメージ。たとえば、個々の現実的事物を一般的・抽象的存在として見ることである。問題にとって不要な要素(たとえば感情的要素)を捨てると良い。

2の補足:認識にも盲点がある。人は自分が見たいものしか見ていない。訓練のために、1日に1回でも目に見えるものをすべて明確化(意識化)する実験をするとよい。さらに、それらの存在の来歴や用途、目的、意義などを即座に考える習慣をつける。(内容は適当でよい。)これが気づきの訓練と同時に複線的思考(立体的思考)の訓練になる。

3の補足:アリストテレス的な三段論法をリニア(直線)思考と言い、極度にスピードの遅い思考法である。現実生活において三段論法の必要な場面は無い。我々はただ相手の「データ」「ワラント」「クレーム」の弱点を見出し、それを提示するだけで相手を論破できる。

4の補足:データとは「事実」であり、ワラントとは「クレーム(主張)」と結びつくデータである。思考(主張)の正しさを担保するのがワラントだ。自分の内部思考においてはクレーム=[問題の結論]であり、ディベートにおいてはクレーム=[主張]である。

5の補足:ディベート達人なら自分の弁論の弱点をすでに分かっている。こちらが相手への反論をデータ・ワラント・クレームのそれぞれに三つ用意するのはそのためである。

6の補足:ゴールを設定することで、そのゴールに必要な情報だけが選択的に吸収され、不必要な情報が排除される。つまりスピードアップになる。目標が無いと意識は拡散する。

◎全体的補足:自分の中に自己肯定的感情を育てることが、思考効果と効率を高める。

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水田にかかる労力と金

食糧自給の障害は「水田」にある、という話。「阿修羅」から転載。その対策部分には疑問符がつくので転載しないが、日本農業は「水田」依存を変えるべきだというのは重要なヒントである。


(以下引用)


その最初の食い物の問題

現在職業農家に依存していますが、ホントに作っているのは自然の摂理です。
それは種という精妙なプログラム、虫や鳥による交配、微生物による分解、地球と太陽という巨大施設がもたらす気象というインフラです。
これらの提供は全て無償となっています。空気も水も。何もかも。
なのに何故、人はお金を払って食糧を購入しなければならないのでしょう?
精妙で巨大なインフラや資源が全くタダで使えるというのに...。
其処に、ばからしくアホくさい余計なインフラとそのために付随して生まれた弊害を、あえて打ち消す労力を付け足しているからです。
しかもそれが食糧生産には欠かせない要素だと思い込んでしまった。

この解決は実は至極簡単です。
付け足されたその無意味なインフラを捨て去れば、殆ど自動システムの自然まかせ農法で労力も掛からず、毎年タダで収穫し、しかもそれは無限循環するのです。その年間労働時間は十日ほど。後の355日が自由時間(故福岡正信翁曰く)。
つまり天国の舞台は既に整っていたというわけです。

その為の障害に焦点を絞ります。

主食は米とか麦ですね。飽きが来ない素晴らしい食べ物です。日本では米。
では何故水田で作るか?
一粒の実が小さいという問題がまずはそこには有りそうです。
これが主食がかぼちゃだというのならば、雑草に埋もれていても収穫収集は容易ですが、米は雑草に紛れると、その雑草の種や茎枝との選別が大変になり、従って出来る限り広範囲で雑草を生やさない工夫が必要となります。それは麦も然り。
苗床を別に作るのも鳥害を避けたり、一度田を耕して雑草をリセットするため。
そして田に水を張り、田植えとなります。この労力は大変です。
更に水田は水源となる河川や沼が近い土地に限定され、水路や水門という個人負担では不可能なインフラを必要としますので、集団管理と協力体制が必要。ここで集団を束ねる権力機構が発生し、諸悪の根源がスタートします。

人が等しく平等であるための根本がここから失われてしまっています。
ならばまずは其処から改める為には、その水田に変わる手法を生み出す必要があります。

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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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