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逆優先席という思想

「ヤフーニュース」から転載。元記事は「プレジデント」のようだが、なかなかいい記事である。
ここに書かれている事例は、両親の貯金が2000万円あったという恵まれた例だが、それでも、親の介護でほぼ破産状態である。もっと貧乏な家庭なら一家心中するしかないだろう。
で、この問題を解決するのは実は簡単な話で、認知症になった段階で、その対象者を「殺処分」すればいいのである。
「殺処分」が聞き苦しいなら「安楽死」でも「尊厳死」でもいいが、できれば60歳くらいを期に、全国民に対して意思確認をするのがいい。それは、自分が将来認知症になった場合、「殺処分」されることに同意するかしないかという意思確認だ。(いや、認知症でなくても、精神的肉体的障害などで生活の見込みが立たなくなった人間は国家が殺してやるという施設を作ればいいのである。だが、そこまでは難しいだろう。)
というのは、認知症になった人間にはもはや自殺すらできず、生きれば生きるほど周囲を不幸にするだけであるからだ。不幸でないのは、それで金儲けをする施設や機関だけだろう。そういう人間は国家の手で殺してやるのがお慈悲というものだ。これこそ究極の福祉国家だろう。
芥川龍之介の「河童」の社会では、生まれる前に胎児に対して(笑)生まれたいかどうかの意思確認をする。自分の両親からの遺伝や財産状況などから自分の将来像を予測して、暗い将来が予測されるなら、生まれる前に流産させてもらうわけだ。
そこまでの親切を国家に求めることは困難だし、さすがに胎児段階でそこまでの判断はできにくいだろうから、せめて60歳くらいで自分の将来の大事なポイントについての意思確認をさせるのがいいのではないか。
それが、冗談抜きに国民を介護地獄から救う道だろう。
念のために言っておくが、これは「役に立たない人間は殺せ」という思想ではない。60年も生きた人間は、そこまで生きていない人間にこの世界の座席を譲るべきだという「逆優先席」の思想である。
もちろん、経済的にこの社会が老人や病人に無制限に金を投入できるユートピアであれば、この問題そのものが存在しない。結局、老人というのは現在の経済社会では介護産業や医療産業のための資源でしかない、という話である。と言って、自力で自分の親を殺すと犯罪だし、このままだと介護問題は「出口無し」の地獄だ。
もちろん、自分たちがどんな経済的困難に陥っても、認知症の老親の介護をするのが誇りであり、生き甲斐である、という立派な人々には、まあ頑張ってください、と言うしかない。
ただ、そういう「立派な人々」を社会全体の標準や指標としてはいけない、ということだ。一部の人々の立派な生き方や立派な言動が逆に社会全体を誤らせることもある。こういうのもまた「合成の誤謬」と言えるだろう。


(以下引用)*後半省略。


入院2年、老親の2000万がなぜ底をついたか

プレジデント2012/8/13 08:00
西川修一=文 山口典利、松田健一=撮影

証拠調査士平塚俊樹メーカーのクレーム処理担当等を経て2004年より企業・弁護士等を対象に危機管理コンサルティング。著書に『Lawより証拠』ほか。

■母がタクシーで徘徊 一回で3万円超請求

 “その日”は必ず訪れる。しかし、親が元気なうちに介護のことを考えるのは億劫だ。考えたくないことは考えず、中途半端な情報でタカをくくってしまう。

 それだけに、いざその事態に陥ったときの動揺は大きい。

 「トラブルで食ってる僕ですら、ひどいものでした」――警察・医師・法曹界に幅広いネットワークを持ち、危機管理のコンサルティングを専門とする平塚俊樹・武蔵野学院大学客員教授(44歳)は、8年前、父親(当時73歳)が認知症となった当時をそう振り返る。今でこそ介護関係者の相談にも乗っている平塚氏だが、かつてわが身に起こった“親の介護”という突発時に、ベターな方策を選び続けるのは難しかった。

 父親が居宅の近所を徘徊するようになった頃、平塚氏夫婦は実家から車で30分程度の場所に自宅を購入していた。

 「当時はまだGPSを使った本人の位置確認ができなかった。言葉は話せても自宅に帰れなくなる、警察に保護され迎えに行く、という日々が続き、介護認定を周囲から勧められたんですが……」

 母親(当時67歳)がかたくなに嫌がった。父を自宅に閉じ込め、区役所の担当者が来たら「出ていけ」と邪魔をする。離れて暮らす実姉が母親の肩を持ったために家族ぐるみの大ゲンカ。そこで、母親が不在の間に、近所の人々や医師の協力を得て介護認定「3」を取得。デイケアと訪問介護を半々で続けた。

 そんなある日の夜中の3時頃、平塚氏の携帯電話に救急隊員から「今すぐ来てください」と連絡が入った。

 徘徊した父親が階段から落ちて、頸椎を骨折したのだ。そのまま労災病院の個室に運び込まれた。しかし、そこで「うちは介護病院じゃありませんから、看護師一人付きっきりにするのは保険適用外」と言われ、費用は実に月80万~90万円。しかも、「今の保険制度では、面倒を見られるのは3カ月だけ。次の病院を探してくれ」といわれた。

 ソーシャルワーカーとともに「まるで就活みたいに」あちこちの病院に電話をかけまくり、面接を繰り返した。ようやく見つけた介護専門の病院も、入居すれば月額30万~40万円。やはりリミット3カ月を言い渡された。

 困ったことに、父親は転倒時に通帳、財布、キャッシュカードを紛失していた。

 「銀行に行ったら、『本人じゃないから通帳の再発行はできない。本人を連れてきてください』。でも、父は病院から出られない。途方に暮れていたところで、両親と20年以上付き合いのあった銀行支店の融資係長が声をかけてくれた」

 幸い、その融資係長が気を利かせて代理人契約を結んでもらい、ようやく父親名義の預貯金を使えるようになった。

 このころから、母親の様子もおかしくなってきた。父親の面倒を見る平塚氏の携帯電話に、毎日150回以上電話をかけてくる。生肉を食べ、冷蔵庫の中をすべて腐らせた。タクシーで何度も徘徊し、請求額が毎回3万円超……平塚氏は、ついに当時の勤務先を辞めた。

 「介護休暇なんてなかった。母親を保護した警察から突然連絡があっても、有給休暇では対応できない。当然、営業成績は下がります。嫁は嫁で私が両親に時間の大半を取られているのが気に入らずケンカの毎日。もう辞めるしかないですよ。デイケアの方から『実の息子が面倒を見るのは珍しい』と言われました。サラリーマンだと、妻に丸投げする人がほとんどで、多くの夫婦が離婚に至るそうです」

その次に見つけた有料の住居型老人ホームも月50万円。ようやく事の重大さを悟った姉夫婦が奔走、月35万円の老人ホームを探し出した。

 「姉と連絡を取って、母親を『旅行だ』と騙して連れていきました」

 しかし、健康保険だけで2人で月5万円、住民税が3カ月に一度、約5万円も支払わねばならず、そこに医者の治療代や生活費も加わった。一児を持つ平塚氏の妻の病気入院も重なった。

 「僕が約300万円持ち出しました。いまだに借金が残ってます」

 その後、姉が苦労のすえ嫁ぎ先の地元の特別養護老人ホームでようやく空きを見つけた。が、「地元住民である」ことを示さなければ特養には入れない。そこで、姉が嫁ぎ先の実家にいったん父親を住まわせ、そこから特養に通わせる“儀式”を経てようやくそこに落ち着いた。

 「母についても同様の儀式をやってから、同じ特養に入れた。向こうの実家には本当に迷惑をかけました」

 約2年間の回り道。その間に、両親の預貯金2000万円を使い果たした。

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見るべきものは見つ

毎朝の習慣として「つむじ風」ブログを読んでいたら、そのコメントに私の名が出てきてびっくりした。いや、「谷間の百合」さんを介して、こんなところでつながりができるとは、嬉しい驚きだ。
「谷間の百合」さんの、以前の私へのコメントにもお礼を言おうと思っていたのだが、私は自分のブログのコメント欄への投稿の仕方も実はよく分かっていないのだ。仙人を通り越して原始人並みである。ここ、ブログ本文で今、お礼を言っておきます。「百合」さんのようなこうした優しいコメントは、実に書き手を勇気づけてくれる。
「谷間の百合」、いい名前だ。私はその名前が好きです、と「荒野の決闘」のワイアット・アープみたいな台詞でも言っておきましょう。バルザックの同題名の小説は中学生の頃読んだが、中学生には理解できない精神的不倫の話だった記憶がある。
今日は、中高生のためのクラシック音楽入門の話でも書こうと思っていたが、とりあえず、「谷間の百合」さんへの挨拶とします。
コメント内容について、少し補足。私も実際に死ぬ場面では泣きわめいて怖がるかもしれないが、60年も生きれば、もう十分に生きた、とも思っているわけです。「平家物語」の清盛の長男だか誰かの最期のセリフ、「見るべきものは見つ」という心境かな。まあ、正直言えば、もう少し、様々な芸術や文化を味わってから死にたいな、とは思います。後は、この日本が少しでも良くなったという状況を最後に見られれば満足なんですがね。


(以下「つむじ風」ブログより引用)



よく、あの国と戦争すれば、日本が強いとか言われるのですが
それは,兵器や兵員の比較だけで言われていることですね。
しかし、そんなことは大した問題ではないと思います。
気概をもって腹をくくれば、これほど強いものはありません。
そのことをベトナム戦争が教えてくれたと思っています。
ベトナム戦争のことはよく知りませんが、
とにかく、アメリカが逃げ出したことだけは知っています。

きょうの「酔生夢人」様が、まったく別のことですが
「いざとなれば死ねばいいさ」と書いておられたことに
わたしは、即反応して、「そういうことですね」と
コメントしたのですが、だからといって、けっして、何もしない、
何も想定しないということではありません。
だれよりも、そういうことは怠りません。
当たり前のことですが、最後は死ねばいいということです。

日本人は、きっと目覚めますよね。
アイツらの挑発にはゼッタイに乗らず、
腹を括って、淡々と待ち構えていればいいのです。
投稿 谷間の百合 | 2012-08-18 22:01

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目覚めよと呼ぶ声がする

「in deep」から転載。
実は、毎晩のようにほぼ同じ時刻に目が覚めるというのは、私もそうである。それはだいたい午前3時40分ころか午前2時40分ころだ。1時間のずれはあっても、40分ころというのは変わらない。で、一度目が覚めると、その後はほとんど眠れない、というのも下記記事と同じである。
眠りに入るのが特に難しいということは無い。それに、通常、夜の8時9時には眠くなるので、早寝することが多く、その分過度の睡眠不足にはなっていないが、日中でも急に睡魔に襲われて意識が途切れそうになるのは、やはり睡眠不足かもしれない。あるいはこれはただの老化現象か。
それより面白く思うのは、毎晩(毎朝か)同じような時刻に目が覚めるという点だ。この午前3時40分、あるいは午前2時40分というのは、私が生まれた時刻か、それとも死ぬ運命の時刻かもしれない。死ぬ時刻であれば、それは多分、床の中で死ぬということを示しているのだろうから、嬉しい話だ。
要するに、目覚めとはある意味では新しく生まれ変わることであり、我々が眠りの後で昨日と同じ意識や記憶を持った同一の自我として目覚められるのは、不思議と言えば不思議なのである。あまりに当たり前のようだから、誰も不思議がらないが、まあ「薔薇の木に薔薇の花咲く。何の不思議なけれども」(北原白秋)ということだ。
で、これが私だけのことならばわざわざ話題にすることでもないが、世界的現象だとなると、これにはもしかしたら重大な意味があるのかもしれない。すなわち、「全人類的覚醒の予兆」であったりして。
バッハに「目覚めよと呼ぶ声がする」という名曲があるが、我々は誰かから「目覚めよ」と呼ばれているのかもしれない。


(以下引用) *長いので、後半のニュース記事翻訳などを適宜省略。


2012年08月17日

睡眠障害が地球レベルで拡大していることがイングランドの大学の大規模な調査で判明



(訳者注) かつてウェブボットを読ませていただいていた時に、「世界的な睡眠障害が広がる」という内容の予測の記述がありました。
2009年の春頃のウェブボットです。

その記事に私は当時大変に興味を持ったのですが、その理由は、当時、私自身に深刻な睡眠障害が続いていたからでした。

今から3年以上前ですが、あれを睡眠障害と言っていいのかどうかわからないのですが、「何時に眠りについても、毎日同じ時間(深夜)に目覚めてしまう」ということになっていて、正直かなり疲れていました。

その頃書いていたブログ(クレアなひとときのこちらの記事など)にもちょっと書いたりしたこともあったのですが、今はもう忘れてしまいましたので、その記事(当時はコメント欄もありましたので、当時のコメントもそのままです)から、当時の私の様子を転載しますと、

(自分の睡眠の問題について)ここ数日の自分を観察していますと、漠然と「夜中に目が覚める」というより、1時55分に目が覚めて、そこでうまく再度眠れても、次は2時55分に目覚める、というように、目覚める時間がわりと決まっているようです。

2時55分の場合は少なくとも朝5時くらいまでは再び眠ることができません。周囲の他の睡眠障害の人たちもそのようですが、就寝の時間はあまり関係ありません。午後9時に寝ても夜1時に寝ても、大体同じ時間に目覚めます。


とありました。

この問題は、つまり、「場合によっては1日1時間くらいしか眠れない日が続いていた」ということになって、どのくらい続いたのか正確なところは覚えていませんが、数ヶ月とか半年とか、そういうレベルで続いていたように思います。うちの奥様などもやや心配げな感じでした。

まあ、私本人は疲れていることを除けば大した気にしてはいなかったのですけれど。

そこに、当時のウェブボットの「世界的な睡眠障害」についての予測記事があったので、とても興味を持ったということでした。

その部分を少し抜粋してみます。
2009年4月に配信されたものです。
ウェブボットは、書かれてある予測年代とか予測日時は気にしないで読むほうが良いです。
________________________________________


ウェブボット 非対称型原語傾向分析報告書 1309 パート5
2009年4月11日配信

・世界的な規模で睡眠障害が発生する。最初は個人的な問題として見過ごされるが、多くの人々が同時に同じ問題に苦しんでいることが次第に明らかとなる。これは2009年の夏の終わりから秋にかけて明らかとなる。 この現象はこれから3年間継続するが、問題が発見されるのは2009年である。

・この現象は宇宙関連のカテゴリーに出てくる宇宙からの未知のエネルギーと関連の深い現象である。この現象はすでに始まっているが、今の時点でそれを体験しているのはもっとも敏感で繊細な人々に限定されている。その後、次第により繊細ではない多くの人々が同じ症状を体験するようになる。

・集団的な睡眠障害の現象は2009年秋の「病気」のキーワードとの関連でも現れているが、これはいわゆる病気ではなく、その原因は太陽系にある。 睡眠障害に対する薬物療法はほとんど役に立たない。むしろ睡眠障害を悪化させてしまう。

________________________________________


というものでした。

まあ、これらは「予言・予測」ということで、オカルト的な意味合いが強いとはいえ、それを別にしても、この「睡眠障害」というのは、日本を含めてどこの国でも大きな問題ではあるはずです。

そんな中で、先日、イングランドにあるウォーリック大学で、いわゆる発展途上国といわれる国々での睡眠に関しての大規模な調査を、複数の研究機関と合同でおこないました。この調査はこれが初めてとなるものです。

その結果、発展途上国の睡眠障害の問題も、先進国とほぼ変わらないか、国によっては、さらにひどいことが判明したという報道です。かなりの大規模調査で、信頼度は高いものと思われます。


また、西側諸国ではすでに問題となっている睡眠障害による抑うつ(うつ状態のような気分)や、強い不安感、落ち込みといった問題の率も先進国と同じレベルだということが判明したというものです。

興味深かったのは、今回の調査は特に「地方に住む人々」を対象におこなわれたのですが、

・地方も都市部も睡眠障害の問題レベルは変わらない

ということがわかったりしています。

調査した国は8カ国の複数の地方で、国は、アフリカのガーナ、ケニヤ、タンザニア、南アフリカ、そして、アジアから、ベトナム、バングラデシュ、インドネシア、インドで、この中でケニヤだけは都市部の人を調査したようですが、他はすべて地方、つまり田舎です。

日本の田舎と違い、上の国々あたりの田舎となると、「本格的な田舎」のはずで、携帯もパソコンも、場合によっては、電話やテレビや街灯もないという場所も含まれるかもしれません。

つまり、人工的な光も騒音も、都市化によるストレスも、下手すると公害もあまりない。そんなところでも、「先進国と同じかそれ以上の率(ベトナムとバングラデシュは、特別に睡眠障害の率が高い)」で睡眠障害が存在しているという事実は大変に興味深かったです。


私たちが「なんとなく」不眠の原因と考えやすい都市部での生活というものは、実際には睡眠障害とはあまり関係がないのかもしれません。

考えられないほどの大自然の中で、東京等の都市部に住む人たちと同じような睡眠障害の発生率があり、それが引き起こす問題もほぼ同じだという現実。つまり、「地球の上ならどこでも同じ」という事実。上のウェブボットにある、「その原因は太陽系にある」というような感覚もあながち完全には否定できない面も感じないではないです。



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人生の中仕切りの弁

私の愛読するブログの一つに「がま仙人のブログ」というのがあって、その清貧の生活ぶりを私は尊敬しているのだが、収入がまったくゼロではいかに仙人であってもこの社会では生きてはいけないだろう。
それは私も同様だ。実は、私は今年会社を定年退職し、今は無職状態である。収入も今はゼロだから、金は出て行くばかりである。まあ、そのうちいい仕事に出会えるだろうと気楽に構えるようにしているが、やはり心の隅には常に近い将来への不安もあるわけだ。まあ、いざとなれば死ねばいいさ、という覚悟はあるけどね。
子供に関しては、私の持論として、義務教育までを終えれば親としての養育義務は果たしたと考えている。その後は、子供が自力で生きていけばいいのである。親などいないほうが子供は性格がしっかりし、立派に育つのではないか。親は早死にする方が子供のためかもしれない。
昔は40歳くらいで隠居して、後は遊んで暮らすというのがちょっとしたレベルの町人の暮らし方だったようだが、今では死ぬまで働くのが当たり前だという風潮である。40歳定年ならば、40歳で老齢年金を支給するのかと思えば大間違いで、年金支給年齢は逆にどんどん引き上げられて、大半の人間は年金を受け取る前にとっくに死んでいる、となりそうだ。
まあ、働くのがまったく嫌いというのでもないが、20歳から60歳まで40年間も働かされたのだから、定年退職を機に、しばらくは骨休めをさせてもらおう、というのが私の気持ちだが、他人が働いている時に、自分だけ働いていない、というのはやはり肩身が狭い気分だ。気が小さい、と言うべきか。
などとは言いながら、今の自由な状態を楽しんでいるのも確かである。とにかく、「予定が何一つ無い」というのが嬉しい。
自由な状態だと「勉強」も苦にならないから、今は高校生レベルのリライト版で「シャーロック・ホームズ」の英書などを読むのが娯楽の一つだ。多少意味不明の部分があっても、日本語で読むよりも面白い。日本語だと読むスピードが速すぎて、「筋を追うだけ」になるが、英書だと1行1行を味わいながら読める。
それに、今はユーチューブでいくらでも好きな音楽が聴けるから、読書と音楽を同時に楽しみ、それに昼ならコーヒー、夜なら安ワインを味わうという、実に安上がりの快楽である。
今日など、窓から気持ちのいい風が入るので、クーラーもつけずに一日中家の中にいたが、それで十分満足である。
田舎に帰ってきてから、兄弟たちに会った以外は、昔の知り合いにすら連絡もしていないのは少し気が咎めているのだが、それも実は「予定」を作るのがいやだから、という現代人にあるまじき我儘な理由からである。
まあ、自称「仙人」のすることだからと許してもらおう。

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沖縄の風





いやはや、画像がくっついたり、画像コメントの位置が逆になったり、面倒だが、携帯画面だとわけのわからない画像が拡大できるのは助かる。まあ、自分のファイルに秘蔵すればいいだけだが、読む人にも多少の気分は伝わるだろうから、今後も時々は画像を添付する。ただし、何のために載せた画像なのか、筆者以外には分からない内容になるとは思う。べつに芸術的な意味はない。ただ、空や雲や風景を適当に切り取っただけだ。その風景も、名所でも何でもない。
さて、私はずっと田舎に帰っているわけだが、もはや両親もこの世にいない以上、田舎と言うよりは「生まれ育った場所」や「長い間過ごした思い出の場所」と言う方が適切だろう。
で、久しぶりに帰ってきて、何よりも良かったのは、「自然の風」である。
沖縄は暑いと思っている人が多いだろうが、昨日今日の最高気温は京都が35度くらい、沖縄は31度くらいである。しかもその31度が暑いかというと、そうでもないのだ。もちろん、日向は暑い。しかし、物陰や木陰に入ると、実に爽快な気温なのだ。そこに風でも吹いてくれば、その気持ち良さは最高だ。
時々、スコール的な雨が降ったりするが、そういう場合は濡れればいい。雨が過ぎたら、自然に乾く。そういう自然を体感するのが、沖縄を味わうということだ。首里城だの南部戦跡だのよりも、普通の町を歩き、時々空を見上げて雲の姿を楽しみ、腹が減れば小さな食堂に入って沖縄ソバを食い、オリオンビールを飲むのがいいだろう。

画像を最後に貼るつもりが、勝手に最初に載ってしまった。こういう画面構成を自由自在にできるまでには時間がかかりそうである。
例によって意味無し画像であるが、沖縄の空だ。




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思い出の場所

娘からブログへの画像の載せ方を習ったので、試験的に、昨日携帯で撮った写真を掲載する。この写真でそこがどこか分かる人はほとんどいないとは思う。どうでもいいような写真である。しかし、私にとっては思い出の場所だ。
近況については、この実験の後で、気が向いたら書こうかと思う。






この坂を下ってずっと小学校まで通ったが、もちろん昔は舗装などされていなかった。






築60年近い古いビルで、背後から撮ったもの。この家で私は小学生時代を過ごした。




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ブログ中断の挨拶と「梅ちゃん」感想まとめ

この頃は毎日2回投稿して、そのうち1回は「梅ちゃん先生」感想になっていたが、今日はしばらくお別れする挨拶である。と言っても、ただの夏休みだ。しばらく田舎に帰るので、ブログも中断されると思う。まあ、パソコンは持って帰るつもりだが、うまく接続されるかどうか。下手をしたら数週間の中断になるかもしれない。
と言うわけで、ブログ更新が途絶えていても、死んだり刑務所に入ったりしているわけでは(多分)ないので、ご心配なく。
挨拶だけでは素気ないので、例によって「梅ちゃん先生」感想を少し書いておく。
まあ、「梅ちゃん先生」は面白かった。通常の意味では最低、最悪のドラマだが、「悪口を言う楽しみ」「他人の悪口を聞く(読む)楽しむ」をこれほど与えてくれるドラマは稀有だろう。
「2ちゃんねる」に生息する連中の気持ちが少し分かった気がする。あれも他人の悪口を言う快感、自分の知性を誇る快感、自虐の快感という病的神経の解放の場だと私は思っている。つまり、私もそういう現代人の一人であるようだ。仙人などとはおこがましい、と少し反省している。

で、「梅ちゃん先生」批判コメントを読んでいて気がついたことを少し書く。
1)松岡先生、大好評だったこと。:コメントの中に松岡の退場を悲しむ声、再登場を期待する声が非常に多いのが目についた。これは日本人の健全さの現れだろう。つまり、真面目、誠実、素朴、思いやりという性格は多くの人に好まれるということだ。簡単に言えばジェームス・スチュアートのキャラクターである。このキャラクターはハリウッドからも日本のテレビドラマや映画からも長い間姿を消していたが、その久しぶりの復活が松岡というキャラだったのである。で、このキャラはほとんど全国民的な共感を得たのだが、ところが制作陣はそういう宝箱を掘り当てながら、それをあっさり捨て去るという愚行をした。そこからこのドラマの転落が始まり、批判が急上昇したのである。
2)南果歩(梅母)が異常なほど嫌われていること。:主人公の梅ちゃん、こと堀北マキ(漢字は知らん)も嫌われているが、それよりもコメントでの梅母嫌悪の声は驚くほど多い。なぜなのか、男性である私には理解できないのだが、女性からはとにかく嫌われているようだ。私はこういう「可愛いお母さん」は好きなのだけどね。色白であることまで文句を言われて「白塗り母」とか悪口の言われ放題で可哀相なほどだ。祖母役の倍賞美津子も大不評で、どちらにも共通しているのは「男に好かれそうな女は女に嫌われる」ということかと思う。べつに彼女たちのせいではなく、脚本と演出のせいなのだが、半分は彼女たちの容姿のせいでもあると私は睨んでいる。倍賞さんなど、あの年にしては色気がありすぎだから、女性に憎まれたのではないか。前の朝ドラの主人公は、少なくとも男好きのする女優ではないから女性には大好評だったのかと思う。あのドラマを評価する男は、ドラマを評価しているのであって、主演女優を女として好き、というわけではないだろう。はっきり言ってブスだしね。女はブスな女優を好む、というのは定説だ。まあ、オードリー・ヘップバーンやマリリン・モンローのレベルになると女優というよりは美女の象徴だから、女も彼女たちを好きだと言えるようになるわけだ。男だってイケメン男優は嫌いだろう、と言うかもしれないが、少なくとも私はそうでもない。まあ、私はルーファス・シーウェルやルパート・エヴェレット、仲代達矢、若手なら城田優などをいい顔だと思う人間だから、そういうのはイケメンではない、というなら話は別だ。ジャニーズ系の軽薄な顔は大嫌いである。
3)視聴者のドラマを見る目は鋭く厳しいこと。:世間の人間は、政治的にはB層が多いかもしれないが、それは教育とマスコミによる洗脳の結果であって、知性的には優れた人間が多い。むしろ社会の上にいる人間たちよりも、無名の庶民の中にこそ知的に優れた人間が、ごく普通に隠れ住んでいるのではないか。

以上である。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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