熊本地震、避難者が18万人くらいいるというんだが、自宅に戻れるのがどれくらいいるのか? 自宅が完全に倒壊した、あるいは半壊して、直さないと帰れない。そういう人だけでも、ずいぶんの数になるだろう。問題は、老夫婦とか。年寄りはカネもないし、未来もない。何千万もかけて家を建て直しても、自分の寿命が尽きてしまうw 仮設住宅がいつまでも残ってしまうのは、それが原因です。熊本県内の避難者 16万5500人余政府から補助金とか出るのか知らんけど、自己負担が大きい。収入のない年寄りには、そもそも家の建て直しは無理なんです。そういう現実を見ようとしないので、仮設住宅で暑い思い、寒い思いをしながら死んで行く老人が絶えない。今後も大地震は起きる。そうした対策を考えなきゃ。 (夢人追記)「追記」の位置が、「ネットゲリラ」記事内になりそうだが、最初の設定ミスでそうなった。熊本地震がどういうひどい状態になっているかをよく知らせている記事だと思うので、転記しておく。 これは、ヘリコプターによる輸送しか物資を送る手段は無いだろう。こういう時こそ自衛隊(私は、「災害救助隊」にすべきだという意見である。)の出番だ。米軍が協力するなら、その協力も得ればよい。ただし、それと日米安保の承認は別の問題だ。 「食料、底をついた」 足りぬ物資、避難者悲鳴 ガソリン不足も深刻化西日本新聞 4月17日(日)23時34分配信
水も食料もガソリンも仮設トイレも足りない-。16日未明の激しい地震で被害が拡大した熊本県では体育館や駐車場に避難する人が一時、18万人を超えた。道路や鉄道などのインフラが寸断し、多くの被災者に支援物資が届かず、悲痛な声が相次いだ。旅館や民家が山崩れに襲われた熊本県南阿蘇村では、大量の土砂をかき分け行方不明者の捜索が続く。家族は「早く助けて…」と声を震わせた。 ■子どもが空腹 「米・水・保存食 HELP」。熊本県御船町の老人総合福祉施設「グリーンヒルみふね」は、駐車場に白いラッカースプレーで大きな字を書いた。 ■国道は大渋滞 ガソリン不足も各地で深刻化している。同県高森町の国道325号沿いのスタンドは、17日に営業を再開したが、午前8時半の開店とともに給油待ちの車で500メートルの行列ができ、片側1車線の国道は大渋滞に。 西日本新聞社 |
二、三日前からプラトンの「ゴルギアス」を読んでいるのだが、その中で扱われている問題が、私が長い間考えていた問題とほぼ同じなので、興味深い。つまり、
1)悪ははたして当人にとって良いこと(利益のあること、つまり善)なのかどうか。
2)善人として生きること(欲望を抑制し、自分に悪を禁じて生きること)はつまらない人生なのか。
という問題である。
1)は、「悪を為すことは善である」という奇妙な命題になる(同じプラトンの「国家」では、トラシュマコスという男が、まさにそういう言い方をしていた。)が、現実に、そう信じて生きている人は無数にいる。ただし、この場合の悪とは、「他人に害悪を為すこと」の意味である。他人に害を与えることで自分の利益になるなら、それは自分にとっての善であり、それこそが「生きるに値する生」だと思っている人は多いのではないか。
哲学が大多数の人には無意味な学問だ、と思われているのも、この問題に答えきれていないからではないだろうか。
単純な話、「なぜ人を殺してはいけないのですか」という、ある青年の質問に、まともに答えきれた大人はほとんどいなかったのである。せいぜいが、「人を殺していいなら、(そう質問した)あなたを殺してもいいことになるではないか」「殺人を認めると、この社会が成り立たなくなる」くらいのもので、それであの質問者が本当に納得するかどうか、疑問である。
道徳や倫理というものは、単に社会秩序を守るだけの意味しかないのか。
それとも、社会秩序とは無関係に、悪を否定し、善を守る意義が別にあるのか。
この問題に真摯に答えている哲学というものを私はプラトン以外に知らない。というより、あまり哲学自体を知らないのだが、学校で習った「倫理社会」での各哲学の要約でも、そのことには触れていなかったと思う。
だが、この問題は、あらゆる人の人生の根本にある問題であり、さらにはあらゆる社会の倫理や道徳に、それが成り立つだけの重みがあるかどうかの大事な問題なのである。倫理や道徳が、社会秩序維持のためだけの意味しかないなら、「世界がどうなろうと、俺ひとりが一杯の紅茶が飲めればそれでいい」と思う人間を倫理や道徳は縛れないことになる。そして、実際、そういう人間はこの世界に無数におり、しかも社会の上位層(特に経済界)にこそその割合は多いのである。
長くなるので、「ゴルギアス」の話は数回に分けて書いてみたい。
1)悪ははたして当人にとって良いこと(利益のあること、つまり善)なのかどうか。
2)善人として生きること(欲望を抑制し、自分に悪を禁じて生きること)はつまらない人生なのか。
という問題である。
1)は、「悪を為すことは善である」という奇妙な命題になる(同じプラトンの「国家」では、トラシュマコスという男が、まさにそういう言い方をしていた。)が、現実に、そう信じて生きている人は無数にいる。ただし、この場合の悪とは、「他人に害悪を為すこと」の意味である。他人に害を与えることで自分の利益になるなら、それは自分にとっての善であり、それこそが「生きるに値する生」だと思っている人は多いのではないか。
哲学が大多数の人には無意味な学問だ、と思われているのも、この問題に答えきれていないからではないだろうか。
単純な話、「なぜ人を殺してはいけないのですか」という、ある青年の質問に、まともに答えきれた大人はほとんどいなかったのである。せいぜいが、「人を殺していいなら、(そう質問した)あなたを殺してもいいことになるではないか」「殺人を認めると、この社会が成り立たなくなる」くらいのもので、それであの質問者が本当に納得するかどうか、疑問である。
道徳や倫理というものは、単に社会秩序を守るだけの意味しかないのか。
それとも、社会秩序とは無関係に、悪を否定し、善を守る意義が別にあるのか。
この問題に真摯に答えている哲学というものを私はプラトン以外に知らない。というより、あまり哲学自体を知らないのだが、学校で習った「倫理社会」での各哲学の要約でも、そのことには触れていなかったと思う。
だが、この問題は、あらゆる人の人生の根本にある問題であり、さらにはあらゆる社会の倫理や道徳に、それが成り立つだけの重みがあるかどうかの大事な問題なのである。倫理や道徳が、社会秩序維持のためだけの意味しかないなら、「世界がどうなろうと、俺ひとりが一杯の紅茶が飲めればそれでいい」と思う人間を倫理や道徳は縛れないことになる。そして、実際、そういう人間はこの世界に無数におり、しかも社会の上位層(特に経済界)にこそその割合は多いのである。
長くなるので、「ゴルギアス」の話は数回に分けて書いてみたい。
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