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大恐慌(大不況)の時代

とある人のツィートだが、大恐慌を背景にした映画や文学はたくさんあると思う。たとえば、「俺たちに明日は無い」なども「アニー(原作の新聞漫画は『小さな孤児アニー』)などもそれだろう。スタインベックの作品の多くもそれだと思う。「怒りの葡萄」や「二十日鼠と人間たち」がそうではないか。チャップリンの初期作品はまさに大恐慌(「大恐慌」後の「大不況」と言うべきだろう。)時代に作られ、その時代が背景のはずだ。「キッド」などがそれ。
「殺人狂時代」は、有名な「1人を殺したら殺人犯だが一万人(?)を殺したら英雄だ」というセリフがあり、このセリフはオーソン・ウェルズがチャップリンに言った言葉がヒントらしい。

(以下引用)


チャップリンの殺人狂時代を見はじめたんだが、主人公ったら大恐慌で1930年に銀行員を解雇されてっていうなんとタイムリーなはじまり方。BSプレミアムです。









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「時を駆ける少女」をエンディング無しで放映

ほんっとうに、今のテレビ局が馬鹿ばっかりというのが良く分かる。こんなテレビを誰が見たいと思うだろうか。今の若者がテレビを見なくなっているというのは賢い。
「第三の男」や「道」をラストシーン無しで放映するのと同じである。

(以下引用)

初見健一
@ken1hatsumi
僕は見てなかったけど日テレの『時をかける少女』がエンディングのカーテンコールなしで放映されたらしい(笑)。あれはあのエンディングを見るための映画で…なんてことは本来説明不要で、地上波映画枠が消えて局にもすっかりド素人しかいなくなり、こういうアホな「放送事故」が本当に起きてしまう。





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鳥の捕らえ方

まあ、このブログは基本的にどうでもいい話が中心なのだが、これもそのひとつ。
アメリカンジョークのひとつ(だと思う。おそらく、作者不詳で人口に膾炙している冗談だろう。)に、「鳥を捕らえるには、その尻尾に塩をかけることだ」というのがあって、私が最初にそれを知ったのはシュルツの漫画「ピーナッツ(ピーナッツブックスと言ったか。チャーリー・ブラウンとスヌーピーのあれだ)」の中でだったが、長い間、その意味が分からなかった。先ほど、その解釈が突然ひらめいたので、書いておく。その時見ていたのが、昔のハリウッド映画「フィラデルフィア物語」で、たぶんその中にこのジョークが出てきたのだと思う。ちなみに、主演はケーリー・グラント、キャサリン・ヘップバーン、ジェームス・スチュアートのラブコメディで、監督はジョージ・キューカーである。その後、グレース・ケリーと誰かの主演でミュージカル映画「上流階級(上流社会)」という題名でリメイクされている。どちらも傑作である。
で、本題の「鳥の捕らえ方」だが、実は「塩」には意味はない。
要するに、鳥の尻尾に塩をかけることができるくらいに、鳥に気づかれずに接近できれば、手掴みにだってできる、ということなのである(と思う。)。
私は、「隠れた物事が一番大事だ」というのを人生のモットーにしている(もちろん、サン・テグジュペリの「星の王子様」で学んだ思想だ。)のだが、このジョークで隠されているのは、「物理的な接近状態」であり、それが「塩をかける」という表面の出来事で隠されたわけである。
ジョークの作り方、という面でも、ひとつの手法になるのではないか。
実にどうでもいい事柄だが、長年分からなかった事柄が分かるというのは(もちろん、これはひとつの「解釈」であって、正解かどうかは分からないが)気持ちがいいことなので、書いた次第である。


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煙を吸うか、ウィルスを吸うか

「ネットゲリラ」記事の、まさにどうでもいいような部分だし、これが事実かどうか知らないが、アベノマスクがこんな代物だとしたら、まあ、使わないで子々孫々に残し、「こういう時代があったんだよ」と伝えるのがいいだろう。恩賜の煙草ならぬ恩賜のマスクとして時代を示す貴重品になるかもしれない。恩賜の煙草はさっさと吸った人が多いと思う。銃殺される直前でも人は煙草を吸いたくなるらしいから、給食マスクよりは数倍有難かっただろう。
ちなみに、ハゲ菅はこの安倍マスクを「二十回洗って使え(る)」と言っているらしいwww

(以下引用)

あたかも、アベシンゾーが作らせた給食マスクの配布が始まったところで、届いた人の話では、「とんでもない粗悪品」だそうで、洗えるというから説明書きにあったように注意深く洗ったんだが、端が切り落としたそのままなので、糸がどんどんほつれて来て、とても洗ってなんか使えないそうでw さすが、アベシンゾーが作らせたアベシンゾーマスク、アベシンゾーの如き不良品ですw

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邪悪な小人

ネットゲリラ氏命名の(か?)「コビト肺炎」だが、人間に悪さをする邪悪な小人と言うと、村上春樹の「踊る小人」を思い出す。私は、この作品が英語翻訳されたものを先に読んでおり、私の語学力不足のために意味不明のところが逆に作品の禍々しさやファンタジックさを倍増させたせいか、後で読んだ日本語原作より英語訳のほうがいいのではないか、と思っている。村上春樹の世界的人気は「翻訳しやすい」、あるいは翻訳されても価値がほとんど落ちないところにあるのではないか。
別ブログに載せた、私が訳した「Dancing dwarf」の一部で、ファンタジー性とユーモアが目立つところを載せておく。私はこの「製象工場」の記述が好きなのである。なお、原作との対照はまったくしていないので、原作通りではない。

(以下自己引用)中途半端だが、これ以上引用するとなぜか文字化けするので、これだけにする。


私は一人で目覚めた。俯けにベッドに寝ていて、体は汗で濡れていた。窓の外に鳥がいた。いつもそこに見える鳥とは違うように感じられた。
私は注意深く顔を洗い、ひげを剃り、パンをトースターに入れ、コーヒーのための湯を沸かした。猫に餌をやり、水を換え、ネクタイを締め、靴紐を結んだ。そして製象工場(「製造」ではない。)へのバスに乗った。
言うまでもなく、象を作るのは簡単ではない。第一に、象は大きいし、複雑だ。ヘアピンや色鉛筆を作るのとはわけがちがう。工場の敷地は巨大で、幾つかの建物から工場はできている。それぞれの建物もまた大きく、それぞれのセクションは色分けされている。その月の私は耳セクションに配置されていたので、私は天井と柱が黄色い建物で働いていた。私のヘルメットとズボンも同様に黄色だった。そこで私がやることは耳を作ることだけだった。ひと月前は私は緑色の建物で働き、緑のヘルメットをかぶり緑のズボンをはいて頭を作っていた。私たちは月ごとにセクションから別のセクションにジプシーのように移動していた。それが会社の方針だった。そうすることで、私たちは誰でも象がどんな風に見えるのか完璧に形作ることができたわけだ。耳だけとか、あるいは足の爪だけとかを一生作ることは誰にも許されていなかった。管理者たちは我々の動きをコントロールするチャートを示し、我々はそのチャートに従った。

象の頭を作るのは非常に報われる仕事だった。その細部を作るには細心の注意が必要だったので、一日の終わりにはあまりに疲れているため誰とも話す気力など残らなかった。そのセクションで働いた一月後には私は体重を6ポンド減らしていたが、非常な達成感が味わえた。それに比べたら、耳を作るのはそよ風のようなものである。ただ、この大きくて平らで薄いものに皺を作り、それで終わりだ。我々は耳セクションで働くことを「耳休みを取る」と言っていた。ひと月の耳休みのあと、私は鼻セクションに行くが、そこは再び、要求されることの多いセクションだった。鼻は柔軟でなければならないし、その鼻孔は鼻の長さの限り通っていなければならない。さもなければ、完成した象は暴れまくるだろう。それが、鼻を作る作業は最初から最後まで神経をすり減らす作業であるゆえんだ。



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COVIDIOT

筒井康隆のブログを読んでいたら「ハインラインの『大当たりの年』みたいになってきた」と書いていて、私も少し前に同作品に言及したが、題を「大当たりの日」と思い込んでいた。
なお、外出自粛要請下で外出すると「COVIDIOT」と言われる可能性について書いてあり、さすがである。分からない人のために解説すると、後半四文字(訂正:五文字である。私自身が老年性IDIOTになったか。)が肝。ただし、発音しにくそうである。
確か「逝きし世の面影」の宗純氏も言っていたが、今の世界はまさに筒井康隆的世界、「パプリカ」的世界だろう。ありえないような幻想や空想が現実世界を侵食して事実になっていく。

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これは女性にだけ許された行為。男がやれば変態仮面である。



9: 名無しさん 2020/04/09(木) 00:54:13.66 ID:JN+lfny70
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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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