面白い話である。タモリにも少し似た話があって、たしか「笑っていいとも」を始めたときの話だと思うが、プロデューサーで友人でもあった人に、タモリは一つ条件をつけたという。それは、「お互いにほめあうこと。(他人から聞いた)自分(タモリ)の悪口は、絶対に自分の耳に入れないこと」だったという。これは凄い知恵だと思う。あの、一見怖い者知らずのタモリが、いかに繊細な心を持ってるか、(だからこそ芸能界で生き延びることができたのだろう。)を示す挿話だと思う。
「あんたのために言うんだけど、あんた、陰でこんなこと言われているよ」などという「忠言」が、いかに人の心を蝕み、精神を痛めつけるか(「マクベス」のイアーゴーの言葉を見ればいい。)をよく知っているからこそタモリはこういう提案をしたのだろう。
たけしも同じく「メンシェンケンナー」(人間性を熟知した人)であるからこそ、自分の弱さ、人間の弱さをよく知っていたわけだ。
そこで、たけしの失敗にたけし本人を怒鳴らず、相手役の俳優を怒鳴った大島監督も、また「現場の達人」である。(相手の俳優にはいい迷惑だが、俳優稼業にはつきものだろう。)
V9時代の川上監督は、試合でのミスがあると、一番のスーパースターである長嶋を選手たちの前で叱ったという。そうすると選手たちは、「あの長嶋さんでさえ叱られるのだ」と気を引き締めたという話だ。これは、長嶋が、叱られても根に持たない、陽性の性格だったからこそできたことだが、川上もまた「現場の達人」だったわけだ。
(以下引用)
たけし「戦メリ」撮影で故大島監督に突きつけた条件とは… 写真拡大
ビートたけしが24日、テレビ朝日系の「ビートたけしのいかがなもの会~現代の超天才30人!理解を超えたエピソードSP~」(後8時58分)に出演し、故大島渚監督とのマル秘エピソードを明かした。映画「戦場のメリークリスマス」出演時、「映画で食おうと思っていない」と、ある条件を突きつけたという。 たけしは「戦メリ」撮影時を振り返り、「大島渚って怒鳴り散らすから」と同監督が血気盛んだったことから「もし、怒鳴ったら、大島さん。僕は漫才で食えるんで、別に映画で食おうと思わないんで怒られたら帰ります」と条件を付けたことを明かした。映画は1983年公開。大島監督は50歳を過ぎたころで、たけしは30代なかばだった。 大島監督は「いや、たけちゃん、いいんだよ出てくれるだけで」と怒らないことを約束した。撮影が始まり、たけしの出番となった。相手の日本人は「俳優座出身のうまい人だった」とたけし。しかし、たけしはすぐにセリフを忘れてしまったという。 すると大島監督が「カット!」と大声で撮影を中断。たけしの相手役の日本人に、「貴様!」と怒鳴りつけ、「お前がそんなばかだからたけしさんがセリフを忘れるんだ!何をしてるんだ貴様!この野郎!」と、すごんだ。 たけしは「おれ、もう悪くなっちゃって。相手がかわいそうで必死になって台本を覚えた」と振り返った。
不振だった角川の古い純文学中心の文庫路線を、春樹がミステリーを中心に通俗小説で再編して一気に建て直した。角川がなかったら、今のミステリーの隆盛はない。
さらに、活字だけでなくテレビを多用し、アニメや映画などメディアミックスで話題先行させて市場に大々的に次々と作品を投入する手法は、そのままアメリカがパクってしまったくらい。プロデューサーとしての才能は天才的で、敵も多いが信奉者も多かった。東大出の管理職と同族経営で腐りきった日本の映画会社からはみ出した連中が次々と角川の力を借りて好きに映画を撮ったから面白い作品も多かった。セーラー服の相米もそうだが、ほかにも大林や大森のような監督が若々しい感覚で撮った当時の日本の映像は今見ても面白い。ただし、これはATGが好きだとか、自主制作したことあるとか、そういう連中の評価であって一般人から見ると何か不完全な不思議な作品も多かった。
春樹の薬物逮捕はいろいろな説があるが、弟との権力闘争より、復活の日でチリ海軍まで動員して大作映画を作るやり方にハリウッドが危機感を持ったためというのが本当のところだろう。あれはアメリカには今でも撮れない映画だという。
その後結局収監されて満期出所というのも初犯では珍しい。
さて今回の映画は、まあ最近の邦画水準に落ちてしまってますね。
主演が誰かとか、そんなもの吹っ飛ばすのが角川映画で、
オーディションで抜擢した素人少女をあえて使う路線も、従来の映画会社のスターシステムの否定にあったわけです。
橋本カンナはむしろ小さいころからいじくりまわされてきた芸能ガキで、
かつての角川映画からはもっとも遠い存在です。
それも平成という時代の空気なのでしょう。
昭和は遠くなりにけりです。