忍者ブログ

「明朗時代小説」の需要

これは何事にでもあることだろう。若いころには「つまらん」「無価値だ」と思い込んでいたのが、単に自分が無知なために理解できる能力が無かっただけだった、ということである。
もちろん、年を取ると好みが固定化してしまい、新しいものが理解できなくなる、という逆のパターンもある。いくら接しても自分には受け入れられないというものもあるだろう。いろいろである。だが、基本的には、物事は「感受する側」の問題だ、と思うほうがいいかと思う。

私はこの年になるまで松本清張の作品は「暗い」というイメージでほとんど読まなかったのだが、一昨年から昨年にかけてその長編時代小説を幾つか読んで、これほどハイレベルな時代小説があったのか、と感嘆した。司馬遼太郎作品などの数段上だと思う。松本作品に匹敵するのは、中里介山の「大菩薩峠」くらいだろうか。ただ、松本清張の時代小説の欠点は「タイトルが覚えにくい」ことで、今でもその数編の名前を覚えていない。(江戸の三大改革の2番目と3番目のあたりが話の舞台である。)そしてユーモアの欠如はどの作品にも共通している。そのあたりは司馬作品のほうが親しいやすく読みやすいだろう。つまり若者でも読める。
松本清張の長編時代小説にはある程度の年齢層でないと理解できない深さがあり、おそらく、私が若いころにこれらの松本清張作品を読んでも、理解はできなかったと思う。
よく覚えているのだが、私は高校1年くらいのころにバルザックの「ゴリオ爺さん」を読んで、つまらない作品だと思ったのだが、大学2年くらいの時に再読してその異常な面白さに感嘆した記憶がある。わずか3年か4年でも理解力はまるで違うのである。いや、「真面目に読んだ」か「いい加減に読んだ」かの違いだったかもしれない。
本を理解するには集中力と真剣さも必要なのである。

だが、読書はそういうものばかりでもないのは勿論だ。

この年になると、暢気な気持ちで楽しく読める、というのはなかなか得難い。だから、山手樹一郎などは一時期(おそらく高年齢層を中心に)非常に人気があったのだろうが、残念ながら今は地元の図書館にはほとんどないし、昔の私はそんなのは馬鹿にして読まなかったのである。
これから大衆作家になろうという人は山手樹一郎的な「明朗時代劇小説」を書いたら需要は大きいと思う。何しろ高齢社会だから時代小説は「これから」ブームになると予想する。いや、時代小説は山ほどあるのだが、「明朗時代小説」はほとんど無い(と思う)のである。

(「時代劇小説」というのと「時代小説」と文章中に混在しているがそのままにしておく。)




  1. 自分は映画「風と共に去りぬ」かなぁ。少年期に観た時は「キツいお姉さんとキザを貫けないオッサンの話」としか思わなかったけど、いい歳になったらレット・バトラーの弱さに泣けるようになって自分でも驚いた(笑)【RT】
    1. これ、若いころに見たときには「ふーん」くらいだったものが 「ええっこんなに良いものだったのか!」になるというのも多々含まれてるんですよ。だから若い時の感動を再確認するというのでもなく、ノスタルジーともたぶん違う。
    2. 5件の返信 206件のリツイート 291 いいね



拍手

PR

男の敵はどっちだ

正しくは「出張マッサージ」の女性らしいが、デリヘルとの違いは私には分からない。妙齢の美女が自宅に来てマッサージをしてくれたら、堅物の私でも完全に理性を失う自信があるwww
なお、半年も前の事件が今になって公表されたのは、例によって何かの(もちろん、国会関係の)スピンだという説もある。





さんがリツイート

嫁に新井浩文がデリヘルでセックスしようとして捕まったよと教えたら嫁がデリヘルはセックスしたらダメなの?と言うのでダメだよと説明したら「なんでそんなにデリヘルに詳しいの?」と聞かれて地獄のような尋問が始まったので僕は新井浩文を許さない。




拍手

「山月記」問題

新井先生の「山月記」評というのがどんなものか知らないが、前に私が問題にした「中島敦の作品は若書き」という中島敦評のツィートと同一人物でないなら、一部で「中島敦を論じる」ブームでもあるのかもしれないwww 
で、新井先生とやらは、「中島敦作品は(視覚的描写が薄いから)教科書に載せるにはふさわしくない」とかいうトンチンカンな批評で「炎上」したようだ。
まあ、「教科書に載せる」云々を論じているのだからそうした立場の人間、あるいは教育界の人間かと思うが、実にアホである。
小説とは、書かれたものを読者それぞれが自分の想像力でイメージ化するものであり、下の高瀬理恵氏の高校時代の落書きは、実に見事な視覚化である。つまり、そういう視覚化を可能にする迫真性が、「山月記」の表現にはあったわけだ。



(追記)世代のまったく違う多くの人が「山月記」を論じて、それが理解可能だということは、それが「教科書に載った作品」だからである。しかも、長い時代に渡って載っていたから違う世代で共通の話題にできる。これもひとつの「伝統の利点」である。たとえば、小学校の音楽教科書から「小学唱歌」が消えたために世代間の共通話題が大きく減少したと私は思っている。小学唱歌は「文語表現」への入り口だったから、小学唱歌が消えた後では人々に古典文学への親和性もまったく無くなったわけである。「思えばいと疾(と)し、この歳月(としつき)、今こそ別れめ、いざさらば」の「今こそ別れめ」など、古典文法基礎の「こそ→已然形」の係り結びの最高の教材(「今、別れむ」が、「こそ」で強調されると、文末の終止形「む」が已然形の「め」になる。)なのだが、今では「仰げば尊し」の歌を卒業式で歌わない学校が多いのではないか。まあ、教師の大半が「仰ぐ」存在でもなく、「尊い」存在でもないのだから、仕方がないかもしれないwww



  1. さんがリツイート
  1. >RT 「『山月記』の視覚描写が足りない」云々が取り沙汰されているが高校の時「山月記」をオチャラケ漫画化していた奴がいて自分もオチャラケ劇画1コマ劇場にして笑われ合って遊んでいた。こんな↓。DM広告の封筒だけど。ひでえ…(^◇^;)文学の視覚化は各自のイマジネーションで遊ぼう✧
  1. 4.「山月記の視覚的描写は薄いので、教科書に相応しくない」という新井先生の論理は妥当性を欠くので、反論されるのは当然である。 5.今回は、結論の導き方のまずさを批判するべきで、「門外漢は口を出すな」とは言うべきでない。 6.先生も「袋叩き」なんて言葉を使って被害者面しないでほしい。
  1. 新井先生の「山月記」評について思ったこと。 1.たとえ専門外でも、国語教育に提言しようとするのは悪いことではない。 2.名作とされる「山月記」には虎の描写などがなく、違和感があったそうだ。これも個人の感じ方である。 3.しかし、物の描写の詳しさがイコール文学の価値になるわけではない。

拍手

leaping lizards

漫画版「Little orphan Anny」 の中でAnnyがよく使う間投詞(感動詞)だが、昔の英和辞書には出ていなくて(今の辞書にも出ていないと思う。)、どういう意味なのか、悩んだものである。
今のネット辞書のほうがこういう俗語も網羅していて非常に助かる。長年の「心の中のモヤモヤ」が解消された。訳は難しい。「トカゲが跳んでる(跳んだ)」では意味不明だし、無難に意訳して「まあびっくり」程度だろうか。
なお、「Little orphan Anny」は大恐慌時代に幸運にも大金持ちの養女となった孤児アニーが、大恐慌によってその養い親が破産し、いろいろ苦労しながら明るく生きていくという話で、大恐慌時代の世相などが描かれていて面白い漫画だが、昔、古本屋で見つけて購入して読んだ数年後にミュージカル映画化され、それほど有名な作品だったのか、と驚いたものである。映画は「Tomorrow」という国民的佳曲を残した以外は、下手くそなミュージカルだった。途中で映画館を出た数少ない映画のひとつである。監督はギャング映画の名作を幾つか残した名監督(ジョン・ヒューストン)だったが、土俵が違ったようだ。(舞台ミュージカル化が先で映画化はその後追い企画かもしれない。)

追記すれば、漫画のキャラの目に瞳を入れない(白い丸で描く)描き方は、日本の漫画家にもわずかにいて、それはハロルド・グレイ(確か作者は数人いて、新聞紙上で長年継続された漫画だが、私が読んだハロルド・グレイが最初の作者かと思う。)のこの漫画でのキャラの描き方の模倣だと思う。初期のあずまひでおもそういう描き方を一時しており、今でも、「あずまんが大王(あずまきよひこが描いた、物凄く影響を漫画アニメ界に残した歴史的な漫画。ほとんどの「女の子集団キャッキャウフフ」漫画はこの後で出てきた)」系統の日常漫画などで驚いた時などに目が白くなる、というように漫画的伝統になっている。「目が点になる」という言い方があるが、実際には点ではなく、白丸で描くほうが多いのではないか。いや、実際に点で描く漫画家もいるとは思うが、遠景人物の目を点で描くのとはまた話が別だ。




Wiktionary英語版での「leaping lizards」の意味

leaping lizards

拍手

謎の替え玉

「ネットゲリラ」コメントのひとつだが、これは気が付かなかった。確かに「替える」なら、元の麺と新しい麺を取り換えるのでなければおかしいわけだ。そんな事をする奴などいない。
替え玉とは「おい、このラーメンの麺が気に入らないから、麺だけ替えて」ということである。
ところで、なぜ「玉」なのだろうか。玉状に丸まっているからなのだろうが、「隠し玉」という言葉もあるように、何か、大事な物を指す時に「玉」という言葉を使うように思う。
なお、私は中華そばは好きだが、ラーメンはさほど好きではない。ラーメンを食うくらいならウドンか蕎麦を食う。コンビニの麺を買って自分で作って食う。店で食うラーメンなど(概して、だが)さほど美味いとは思わない。昔の中華料理屋の麺は日本のラーメン屋の麺とは違って、麺自体に味があって美味かったのだが、それは私の子供時代のことであり、しかも食べたのは一度だけだからその店だけの話かもしれない。


(以下引用)



ラーメンの替え玉って替え玉って名前は付いてるが追加玉だよな

拍手

なぜ組織では馬鹿が出世するのか

メディア企業に限らず、大企業の不祥事や経営悪化の様を見ると、ほとんどの企業がそうなのではないか、という気もするし、あるいはこれはあらゆる組織に共通する現象のような気もする。
そういう点でも私はいずれ「組織悪」というテーマへのまとまった考察をしたいと思っているが、まあ、思っているだけで死ぬまで着手しないかもしれないwww
なお、この記事のタイトルは言い過ぎで、「馬鹿」ではなく、「人格低劣な人間」と言うべきだろう。目先の事に関してははしっこく、小ズルいから、上の人の覚えはめでたいという人間が出世するのかと思う。人格の優れた人物は「汚いこと」ができないから出世競争ではほぼ負けるのかな、というのが当面の結論だ。だが、人格低劣な人間が組織の上に立つと、当然不祥事を起こし、あるいは目先の利益だけに釣られて大失敗をするわけである。
なお、馬鹿(上司へのおべっか使い)を気に入って高い地位に取り立て、その馬鹿が仕事で失敗をした場合、その人間を引き上げた上司の責任になるので、その失敗は決して追及されず、責任も取らないままになる。プロ野球などで、ダメ外人選手を高額でトレード入団させ、その選手がまったく働かなくても、そのトレードの責任を球団フロントの人間が取ったことは一度もない、というのがそのいい例である。あるいは太平洋戦争時の日本の参謀本部などもその好例である。



  1. 小田嶋隆‏ @tako_ashi 13時間13時間前
  1. というよりも、自分たちの会社が属する業界がまるごと「既存メディア」という言い方で足蹴にされて行く近未来の中で暮らしている人間たちにしてみれば、バカを出世させることで防衛できる何かにしがみつくことぐらいしか考えられないのかもしれない。
  1. でもまあ、あんなに優秀な人たちをあんなに大量に雇用しておいて、どうしてバカばかりをを出世させるのかというのは、しょせん外から見ている素人の観察で、きっと中の人たちには彼らなりの考えがあるのだろうね。
  1. メディア企業の主たる問題点は「バカが出世する」ことだと、さるメディア企業を辞めて別の道を歩むことになった知人が断言しておられました。同意せざるを得ません。
  2. 7件の返信 145件のリツイート 259 いいね



拍手

なぜ自動販売機とツーショット?

私は、ネットによくある「日本サイコー!」スレが、ネトウヨ的な感じであまり好きではないが、そういう記事を読むとやはり自分が褒められたようで少し嬉しくなるwww なぜ、日本と自分自身を同一化してしまうのか、変と言えば変だし、褒められている部分は自分とはまったく無関係の事柄なのだから、それでプライドがくすぐられるのはおかしいわけである。
で、そういう「日本褒め」記事の中によく出てくるのが、「日本には自動販売機が平気で外に置かれているのが凄い」という話題で、外国なら確実に叩き壊されて中のカネや商品を盗まれるだろう、というわけのようだ。
下の写真で、ヒュー・ジャックマンがわざわざ自動販売機とツーショットで記念写真を撮っているのを見ると、実際、その話は信憑性が高いような気がする。もっとも、この場合はその自動販売機に妙な飾り付けがあるのが日本的で面白い、ということかもしれない。



拍手

カレンダー

05 2025/06 07
S M T W T F S
10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析