新井先生の「山月記」評というのがどんなものか知らないが、前に私が問題にした「中島敦の作品は若書き」という中島敦評のツィートと同一人物でないなら、一部で「中島敦を論じる」ブームでもあるのかもしれないwww
で、新井先生とやらは、「中島敦作品は(視覚的描写が薄いから)教科書に載せるにはふさわしくない」とかいうトンチンカンな批評で「炎上」したようだ。
まあ、「教科書に載せる」云々を論じているのだからそうした立場の人間、あるいは教育界の人間かと思うが、実にアホである。
小説とは、書かれたものを読者それぞれが自分の想像力でイメージ化するものであり、下の高瀬理恵氏の高校時代の落書きは、実に見事な視覚化である。つまり、そういう視覚化を可能にする迫真性が、「山月記」の表現にはあったわけだ。
(追記)世代のまったく違う多くの人が「山月記」を論じて、それが理解可能だということは、それが「教科書に載った作品」だからである。しかも、長い時代に渡って載っていたから違う世代で共通の話題にできる。これもひとつの「伝統の利点」である。たとえば、小学校の音楽教科書から「小学唱歌」が消えたために世代間の共通話題が大きく減少したと私は思っている。小学唱歌は「文語表現」への入り口だったから、小学唱歌が消えた後では人々に古典文学への親和性もまったく無くなったわけである。「思えばいと疾(と)し、この歳月(としつき)、今こそ別れめ、いざさらば」の「今こそ別れめ」など、古典文法基礎の「こそ→已然形」の係り結びの最高の教材(「今、別れむ」が、「こそ」で強調されると、文末の終止形「む」が已然形の「め」になる。)なのだが、今では「仰げば尊し」の歌を卒業式で歌わない学校が多いのではないか。まあ、教師の大半が「仰ぐ」存在でもなく、「尊い」存在でもないのだから、仕方がないかもしれないwww
- 近藤ようこさんがリツイート

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