私は、些細な発見や小さな思いがけない学びが面白いという体質で、この年になっても退屈と縁が無いのはそのためだろう。何なら、窓の外の景色、特に空を背景にした樹木を眺めているだけでも面白い。毎日、同じところを散歩しても飽きることはない。そもそも、散歩をしていても、頭の中には空想や妄想だらけだから飽きないわけだ。
で、田舎町に住んでいても、市民図書館に行けば、いくらでも「新しい世界」に触れることはできる。新しい世界とは、当然、私にとって新しいのであり、百年千年前の人が書いた文章でも私には初めて接する以上は「新しい存在」なのである。かえって、ネット世界のほうが「似たり寄ったりの情報」を「似たような意見」の連中があれこれ言うだけで、退屈なことが多い。世間の「新しい情報」は数日のうちに陳腐化するのである。だが、本の中には、自分の知らない情報が無数に入っている。後はただ著者の品性や嗜好が自分の好みかどうかだけだ。
そういう意味では児童文学の棚にも、掘り出し物は多い。作者の真摯さは、かえって大人向け小説の売れっ子作家以上だろう。たとえば「不思議の国のアリス」や「ピーターパン」などは、大人でしか本当には味わえないのではないか。「アリス」などは、作者が数学者だからこそナンセンスの面白さを理解しているわけだ。子供のころに読んだ児童文学を大人や老人になって読むと違った発見がある。
最初に書こうと思っていたのとはまったく違う内容になったが、最初に書こうとしたのは辻真先の「夜明け前の殺人」の目次に使われているカルタの文で、それは「藤村いろはカルタ」、つまり島崎藤村が作ったカルタのようだ。ただし、すべてが藤村の自作ではないようだが、面白いものが多い。
「り・林檎に目鼻」など、「卵に目鼻」の応用だろうが、卵より林檎のほうが可愛い。「ね:猫には手鞠」というのも、「猫に小判」より可愛い。「な:何にも知らない馬鹿、何でも知っている馬鹿」など、非常に現代的である。「さ:里芋の山盛り」など、何が面白いのか気づかない人が多いと思うが、「里」と「山」は通常は対比的に使われるが、「山盛り」だとその対比が隠されて面白いわけだ。「み:耳を貸して手を借りられ」は、江戸川柳にでもありそうだ。ほかにもいろいろあるが、この辺にしておく。島崎藤村というと真面目そのものの印象があるが、おそらく子供に作ってやったいろはカルタだろう。
で、田舎町に住んでいても、市民図書館に行けば、いくらでも「新しい世界」に触れることはできる。新しい世界とは、当然、私にとって新しいのであり、百年千年前の人が書いた文章でも私には初めて接する以上は「新しい存在」なのである。かえって、ネット世界のほうが「似たり寄ったりの情報」を「似たような意見」の連中があれこれ言うだけで、退屈なことが多い。世間の「新しい情報」は数日のうちに陳腐化するのである。だが、本の中には、自分の知らない情報が無数に入っている。後はただ著者の品性や嗜好が自分の好みかどうかだけだ。
そういう意味では児童文学の棚にも、掘り出し物は多い。作者の真摯さは、かえって大人向け小説の売れっ子作家以上だろう。たとえば「不思議の国のアリス」や「ピーターパン」などは、大人でしか本当には味わえないのではないか。「アリス」などは、作者が数学者だからこそナンセンスの面白さを理解しているわけだ。子供のころに読んだ児童文学を大人や老人になって読むと違った発見がある。
最初に書こうと思っていたのとはまったく違う内容になったが、最初に書こうとしたのは辻真先の「夜明け前の殺人」の目次に使われているカルタの文で、それは「藤村いろはカルタ」、つまり島崎藤村が作ったカルタのようだ。ただし、すべてが藤村の自作ではないようだが、面白いものが多い。
「り・林檎に目鼻」など、「卵に目鼻」の応用だろうが、卵より林檎のほうが可愛い。「ね:猫には手鞠」というのも、「猫に小判」より可愛い。「な:何にも知らない馬鹿、何でも知っている馬鹿」など、非常に現代的である。「さ:里芋の山盛り」など、何が面白いのか気づかない人が多いと思うが、「里」と「山」は通常は対比的に使われるが、「山盛り」だとその対比が隠されて面白いわけだ。「み:耳を貸して手を借りられ」は、江戸川柳にでもありそうだ。ほかにもいろいろあるが、この辺にしておく。島崎藤村というと真面目そのものの印象があるが、おそらく子供に作ってやったいろはカルタだろう。
PR