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生きることと死ぬこと

「縛り首の木」という西部劇映画があって、マーティ・ロビンスという歌手(素晴らしい歌唱力で、声に独特のビブラートがある)がその主題歌を歌っているのだが、その中に

To really live, you (must)almost die

という一節がある。括弧に入れたのは、意味の上では必要だろうな、と私には思えるが、耳ではそう聞こえない語句だ。それにmustとalmostが連続するのは耳障りであるから、省いたのだろう。(訂正:toが「する~ために」の意味なら、「真に生きるために、君はほとんど死ぬ(死にかかる)」となるので、mustは必要が無い。)
で、私はこのフレーズが好きなのだが、そういう生き方はまったく私とは無縁のものだ。もちろん、仏教にも「大死一番」とか「百尺竿頭一歩を進む」とかあるが、それは精神的なものだ。現実に「本当に生きるには、ほとんど死ぬ必要がある」という生き方などできるものではない。
まあ、西部劇では常に死が目の前にあるからこそ、そのドラマ性で昔は好まれたわけだ。べつにSFXを使わなくても高度なスリルやサスペンスが作れたのである。日本の時代劇も近い、と言うか、大衆小説や映画の時代劇は、実はあれは元々は西部劇を日本化したものなのである。
黒澤明の「用心棒」に至っては、西部劇どころか、原作(原案)はダシール・ハメットのハードボイルド小説である。(「血の収穫」らしいが、「町の名はコークスクリュー」という作品だ、という説もあるようだ。)
で、「縛り首の木」は、ユーチューブで歌の背景として映画のダイジェストが流れるが、私自身はこの映画を見たことはない。見たくてたまらないが、西部劇は不人気だから、ネットテレビの映画でもなかなかそういうマイナー作品は見られない。
その主題歌の別の一節に、「黄金を求めて来た男が、そこを去る時には彼はもはや黄金を必要としなかった(He needs no gold)」とあるが、これが私には謎である。世の中で黄金(カネ)を必要としないのは、死者(死体)か、お釈迦様のように悟った人間だろう。ゴールドラッシュの時に黄金を求めて来た者の中には死体になった者も多いだろうが、果たして、この場合はどちらなのか。なお、主演はゲーリー・クーパーであるが、彼は縛り首には(なりかかるが)ならないようだ。

 生きるか死ぬかと言えば、「ハムレット」の「To be ,or not to be.That's the question」を「生か死か、それが問題だ」としたのは名訳だと思うが、この元のセリフには無数の日本語訳があって、「to be」を「生きること(生)」としたのは誤訳である可能性もあるようだ。その前の部分を私は知らないというか、読んだのが大昔なので覚えていないが、仮に、その前に書かれた部分が実母の不貞への疑惑や父王の不審死へのハムレットの懐疑なら、この「to be ,or not to be」は「(母の不貞は)(父の暗殺は)事実か否か(その出来事は存在したか、しなかったか)」になるわけだ。これはbeの本義である「存在する」に近い訳だが、さて劇の流れはどう書かれていたか。

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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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