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「民主国家」という幻想

まあ、精神科医というのは、現実政治の実態や哲学や論理学とは無縁だなあ、と思うような記事だが、政治と民主主義について考察するいい起動装置にはなる。(長い記事なので、新コロ関係の記述は省略する。)

上で「論理学」というのは数学と言ってもいい。つまり「極限」の思考法だ。数学の土台にはこの思考法がある。たとえば「直線や線分には太さがない」というのもそれだ。太さのある線分が存在すると仮定したら、その線分は「四角形」と見做せる、というのも極限的思考である。縦が1mmで横が1Kmでも、それを四角形(長方形)と見做すのである。

「5人を救うために1人を犠牲にする」と言うから話が曖昧になる。「100人のうち51人を救うために49人を犠牲にしてもいいか」というのが、民主主義の土台である「多数決」への一大詰問である。しかも、そこには数字だけしか表面化していない。ここで「質」の問題を入れると話ははるかに難しくなるが、その分、より現実に近くなる。それは「51人の糞野郎の悪党を救うために49人の善人(聖人や天使のような人々)を犠牲にしてもいいか」という問題だ。で、それでいい、というのが「多数決」であり、それに基づく「民主主義」であり、「現実政治」なのである。ついでに言えば、この「多数決」の票はカネで買えるし、マスコミで誘導できるのである。言うまでもないが、世界で真の民主主義が機能している国は存在しない、というのが私の考えだ。
要するに、民主主義が可能なほど国民の教養水準と現実知識と思考力・判断力が熟成しないと民主主義(名ばかりの民主国家以外)は存在しえない、ということである。まあ、早くても22世紀に実現できるかなあ、とは思うが、ウクライナ戦争や新コロ詐欺や地球温暖化詐欺の欺瞞性の経験で、世界全体の理性は向上しているので、案外早くなるかもしれない。


(以下「シロクマの屑籠」から転載)

新型コロナ対策というトロッコ問題と民主国家の責任問題を考えていたらわけがわからなくなった

走るトロッコに乗った5人を見捨てるのか。それともトロッコを止めるために待避線へと進路を切り替え、そこにいる1人がトロッコに轢かれて犠牲になるのはやむなしとするのか?
そもそもそういう選択を迫ること自体がひどいとか色々なことが言われがちだけれど、この問題を正面きって考えることは哲学領域では重要なことだと考えられ、たくさんの論者が考察していると聞く。それはそうなのだろう。
 
問題は、私たちは哲学領域で考察しているわけでも、哲学者なわけでもない、ということだ。哲学者はトロッコ問題に考察をもって挑めばいい。しかし私たちまでトロッコ問題を考えるよう迫られ、考えないのは人間失格だと言われてしまったらまあその、困る。そもそも、そんな選択を迫る前になんとかすれば良かったじゃないかと言いたくなるのが非-哲学者の心情だろう。
 
ところが新型コロナウイルス感染症によって、私たちはトロッコ問題を回避不能な選択として迫られ続けているのではないだろうか。もちろんここでの選択は、トロッコをどうするかではなく感染症対策だし、決定の段を下すのは医療や政治の偉い人ではある。けれども私たちだって本当は、人々の行動選択や世間の雰囲気をとおして、間接的には感染症対策の決定に影響をおよぼしているはずだ。ことの真っ最中に国政選挙が行われたとなれば尚更である。
 
そうやって私たちだって、少なくとも間接的には誰かの命が助かるかわりに誰かの命が削られたり失われたりする、そういったたぐいの選択をしてきたのだとしたら? で、それは医療や政治の偉い人の責任であると同時に、民主国家においては私たちの責任でもあるとしたら?
 
 


人の顔が見えるのにトロッコのレバーを引けるのも、それはそれで恐ろしいのだけど

 
「民主国家において、感染症対策にはトロッコ問題的側面がある」と気づいてみると、私などは、なんと恐ろしい意志決定だろうと怖気づいてしまう。しかし民主国家としての年季が違う欧米諸国をみる限り、たぶん、彼らはそれをやってきているのだろう。欧米諸国が日本よりデモクラシーの意識が高いという通説に基づくなら、欧米諸国の人々は、トロッコ問題的側面があるとわかったうえで日本よりもずっと早くコロナによる自粛を緩和し、沢山の人が新型コロナウイルス感染症にやられる状況を甘受してきたってことになる。たとえ、そこにうまくいく/うまくいかないといった目算があり、その目算の当たりはずれがあるとしてもだ。
 
たとえばスウェーデンのコロナ政策は透明性が高い議論がなされている、と往時には盛んに報じられたものだ。透明性が高い議論が行われるってことは民主国家として褒められることのはずだし、少なくともなし崩し的に決定がなされるよりは好ましいはずだろう。しかしその透明性が高いと報じられた議論の結果として、2021年のスウェーデン人はコロナにさんざんにやられた。透明性が高い議論、民主国家として(たぶん日本に比べて)優れた意思決定の果てにそれが起こったのだとしたら、スウェーデンの人々は、自分たちがトロッコのレバーを引いたというその感触を自覚していたのだろうか?
 
こちらの東京新聞の記事を読む限り、スウェーデンの人々といえども、醒めた目でトロッコのレバーを引いていたとは言い切れないようにみえる。Aを選んでもBを選んでも誰かが助かって誰かが犠牲になるとわかっている選択を、醒めきった意識でやってのけるのはスウェーデンの人々にだって簡単ではないのだろう。たとえ民主国家の取り決めとしてそうなっているとしても、人間は、哲学命題の水準で実地の選択肢をそう簡単には選べない。
 
もちろん数字だけを見ていればそれができるかもしれないし、数字だけを見て判断しなければならない場面もあるかもしれない。そう考えると、各方面の偉い人に課せられた責務の大きさは知れない。しかし、身内に高齢者がいる人、職場で基礎疾患のある人を診ている人、経営の厳しい観光業やサービス業の身内のいる人、ひと夏をコロナに潰された子どものいる人、等々が、トロッコのレバーを引けるとはちょっと思えない。つまり人の顔が見えるのにトロッコのレバーを引くのはめちゃくちゃ難しいように思える。ポジショントークや自己中心的な動機に基づいて、やれ、自粛しろ、自粛やめろと主張するほうがある面においてよほどマトモではないだろうか。たとえそれが、民主国家の主体としてふさわしくないとしても。
 
感染症対策に限らず、本当は、民主国家のさまざまな決定にトロッコ問題的側面があり、たいていの選択肢が誰かを救うと同時に誰かを救えない、そういった性格のものだとしたら、民主国家の主体としての私たちは、それを醒めきった意識でいちいち決定できるものなのか。また仮に決定すべきだとして、決定するのが人間的だと言えるのか? 人間が哲学命題の水準でデザインされているならそうかもしれないが、きっと人間は哲学命題の水準でデザインされていないから、それって非人間的ではないかと思わずにいられない。だとしても、独裁を否定し、民主国家のていのもと私たちがそれをやっていかなければならず、意識していかなければならず、責任を負うていかなければならないとしたら、なんと難しいのだろう……と思う。
 

 
それとも実際には他の民主国家でも「おれたちは雰囲気で民主国家をやっている」のが実態であり、本当はそれぐらいでちょうど良いってことなんだろうか? そのあたりもあまりわからない。
 
新型コロナウイルス感染症をとおして、私は、民主国家とその責任の所在にトロッコ問題がくっついていることを次第に意識するようになった。だけど本件に限らず、民主国家が有限のリソースを振り分ける際にはトロッコ問題的要素は常についてまわっているはずなのだった。そして戦争が起こる/起こらないといった極端な状況下では、感染症対策よりも鋭利な決断を迫られるかもしれない。
 
こうやって考えているうちに、こうした決定と責任のプロセスが正気とは思えなくなってきた。しかし正気とは思えなくても民主国家の主体たるもの、それを引き受けるのが筋なのかもしれない。人の顔が見えるのにトロッコのレバーを醒めきった意識で引くのは私には正気とは思えないから、私だったら人の顔を思い出しながら引いてしまうだろう。で、その総体として民主国家の意志決定がなされていく……という風に考えたくもなる。どうあれ、責任を医療や政治の偉い人だけに帰するわけにはいかないはずだ。
 

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