お盆の起源についての前回の記事についてのザウルス氏のブログのコメント欄での問答も紳士的な議論で面白い。ただし、私は、信仰についてはザウルス氏のように頭から否定するのもどうかと思う。迷信でも、その迷信によって救われている人間もいるし、真実でもその真実が人を絶望させることもある。
などと宗教擁護的なことを言うと、カルトをどうするか、という問題が出てきて、これは対策が困難である。まあ、金銭的被害や奴隷的使役などの「実害があるか」どうかが鍵だろう。
(以下引用)
などと宗教擁護的なことを言うと、カルトをどうするか、という問題が出てきて、これは対策が困難である。まあ、金銭的被害や奴隷的使役などの「実害があるか」どうかが鍵だろう。
(以下引用)
- 習合とも言えるのでは? (ji)
- 2018-08-14 18:34:19
- お釈迦様は、確か輪廻転生を否定してましたと私も記憶しています。
なので、先祖供養にまつわるもの全てが後付けの物だと私も思います。
しかし、中国大陸に仏教が伝わった際に人民に受け入れやすくする為に道教などの要素を取り入れたのも納得できます。
土着の物と渡来の物が習合するのは、宗教だけでなく、あらゆる物がそうだと思います。
時代が経てば、時流に合わせて教えの解釈や後付けのモノが加わるのではないでしょうか。
大乗仏教も上座部仏教、チベット仏教も、その時代や地域に馴染むために発生したとも考えられると思います。
例えば、般若心経も元は中国で作られたとも言われているそうです。
空の概念を道教の無で表現しようとした解釈もあるそうです。
また、お釈迦様はマントラを否定していたそうですが、般若心経は思いっきり呪文を讃えています。
だからと言って、般若心経は偽物と言えるでしょうか?
それらが本当だったとしても、般若心経の価値は変わりないと思います。
時代と共に全ての物は変化していきます。これが正しい正しくないは、確かに研究としては面白いですが、一概に否定するのは良くないと私は思います。
事実、それを信仰し頼ってきた人たちがいますので。
- ji さま (ザウルス)
- 2018-08-14 18:46:52
- 「事実、それを信仰し頼ってきた人たちがいますので」 という理由で 「否定するのは良くない」 というのなら、オウム真理教だって、信仰して頼ってきた人はいるんじゃないでしょうか?
けっきょくあなたの主張は 「何でもアリでしょ」 と言っているだけのように聞こえます。
- ありがとうございます (ji)
- 2018-08-14 18:53:27
- 確かに、おっしゃる通りです。
信仰している人がいるから否定してはならないというのは、良く有りませんでした。
洗脳されている人は、それを信仰しているわけですから。
- ji さま (ザウルス)
- 2018-08-14 19:19:38
- あなたのようにさっと、ご自分の非を認めることができるひとは世の中には決して多くないと思います。敬意を表します。
つまり、信じている人がいるのなら、そこには何か真実があるはずだ、とはかぎらないということです。
この記事で明らかにしたように、いつの時代にも自分たちの利益や権力のために大衆を騙そうとする人間はいるのです。
宗教家(スピリチュアルリーダー)のような知識階級はつねに言葉 (プロパガンダ) によってひとを支配し、操ろうとするものです。それは1500年前でも現代でも同じです。わたしはそういったプロパガンダに対して警鐘を鳴らしたいだけです。
- ありがとうございます (ji)
- 2018-08-14 19:32:04
- カラマーゾフの兄弟の大審問官を思い出しました。
権力者は勿論ですが、多くの人間は現状が変化する事に酷く拒否反応を示します。
現状に慣らさせ、それが普通だと常識だと洗脳し、いざ真実を突き付けられても、真実を受け入れられない状態にする。
勉強になりました。
- Unknown (コメット)
- 2018-08-14 20:34:31
- 仏教教典の原典は釈迦存命当時の北インドの民衆が話していたパーリ語で書かれているが、玄奘その他が訳した仏教教典は当然、中国語で書かれている。中国ではこの漢訳仏典を当然、中国語発音で読む。読経は一般民衆が分かるようにその国の言葉で行われるべきであり、タイではタイ語訳が使われる。ところが日本では漢訳を音読みして読経するので、一般民衆は意味が分からない。最初から庶民に有り難がってもらうため、わざといやがらせしているとしか思えない。私はザウルス様のように文献の追求は出来ていないが、日本仏教は胡散臭いと前から思っていた。一時、中村元氏その他の本に凝ったことがあるが、膨大な仏典の中で、お釈迦様のお言葉を原型通り残している事がほぼ確実なのは、岩波文庫に収められている法句教(真理の言葉、感興の言葉?)ぐらいかもしれないと読んだような気がする。早起きすると今でもチェンマイの人々は托鉢に回る僧侶の読経を聞いて、お布施をしているのを見るにつけ、日本より仏教が一般民衆の生活の中に生きていると感じる。
- コメット さま (ザウルス)
- 2018-08-14 21:02:08
- 「ところが日本では漢訳を音読みして読経するので、一般民衆は意味が分からない。最初から庶民に有り難がってもらうため、わざといやがらせしているとしか思えない。」 ・・・ まさに我が意を得たり、です。
日本の仏教では、もはやブッダの主張や思想はどうでもよく、ブッダという当時絶大な人気を誇っていたスーパースターの “威光と権威” を利用しているだけなので、ブッダの本当のメッセージを伝える必要はほとんど無かったのです。大衆操作するために “ブッダ・ブランド” を利用していただけなのです。
自分たち僧侶集団の繁栄のために仏教という言説体系をうまく利用していただけなのです。そして、実質的にはそれは今日でもそのまま続いているのです。
PR