先ほど眠りから覚めると窓が薄明るいので、上空を見ると、ほぼ満月に近い月が出ていて、その月が空中の湿気でぼんやりとした、いわゆるおぼろ月であった。まあ、居室の窓ガラスを拭いたことが無いので、単に窓が汚れていただけかもしれないwww で、何となく、俳句が詠みたくなったが、(俳句は「詠む」ではなく「ひねる」だと言う説もあるが、どうでもいい。)夜空に浮かぶおぼろ月以外に句の中に入れたいものもないので、こんな句になった。
春の月 中天にあり 朧月 (夢人)
ひとつの句の中に「月」という言葉を二度入れるのも、「無駄を排斥する」俳句の基本思想に合わないし、もしかしたら「朧月」は春の季語かもしれないから、「季重なり」かもしれない。まあ、それもどうでもいい。私にとって俳句は心境や風景の、言葉によるスナップ写真であり、「舌頭に千転させて」傑作をひねりだすような「芸術」ではない。
なお、暦(と言っても100円ショップで買った「高島易断」に載っているものだ。)を調べると、今日は旧暦3月14日で、明日が3月の十五夜のようだ。
ついでに、覚醒前の朦朧思考の中で考えていたのが、昨日、羽海野チカのツィッター経由で読んだ、「逃げ恥」考察ツィートの中で書かれていた、「『逃げ恥』は『鶴女房(鶴の恩返し)』である」という発言に対する否定論で、「『逃げ恥』は『鶴女房』ではなく『雪女』である」というものだった。(私は『逃げ恥』は一度も見ていないが、SNS情報などから、その概要は知っているのである。)そもそも、みくりさんは平匡(こんな字だったか? どう読むのだ?)のところに、恩返しのために現れたわけではない。単に自分の都合でそこに来ただけである。要するに、平凡な主人公のところに美女が「突然落ちて来る」という、アニメの王道なのである。それを、美女の側をむしろ主人公として、「落下」「降嫁」の理由も書いたところが新しいわけだ。今どき、美女であるだけでは生活にも困るわけで、芸能人になるか体を売るしか、美貌の使い道は無いwww みくりは自分を「小賢しい」と言っているのだから、この契約結婚も愛情より先に経済問題が頭にあるのは間違いない。そして、それは過去の日本社会ではごく当たり前のことだったのである。結婚と愛情が関連するようになったのは西洋由来の「恋愛信仰」が日本に渡来してからのことである。
要するに、「自分プロデュースの見合い結婚」「愛情は結婚してから育てればいい」というのが「逃げ恥」のテーゼだったのだ、というのが私の結論である。
そうすると、みくりが体はでかいが心は冷たい「冷蔵庫のような女」(@山本直樹)であるのが、ガッキーの可愛さに隠されている、というのが「逃げ恥」の深さではないか、と愚考する。すなわち、みくりとは「雪女」であり、契約を破ったら、いつでもそこから消えてしまうだろう、ということが、あの不穏な最終回(らしい)の意味だったのではないか、と思われる。
なにせ、作者は「海野つなみ」という、「災害」を意味する名前なのだから、平穏な海でも、いつ「津波」になるか分からないのである。まあどんな女でもそうだろうが。
つなみに、ではなく、ちなみに、当該のツィッターは下のツィート経由でたどれると思う。
羽海野・そごう広島原画展11日迄さんがリツイート
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