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ユニオン号の謎

「ヒダリナナメ45度の竜馬伝」という、謎のブログの記事で、私は、第二次長州征伐で人数的に圧倒的劣勢の長州が勝ったのは、イギリス(グラバー)が長州側に近代的銃砲を売り与えたためだと思っているが、この時には既に薩長同盟的な密約ができていて、坂本龍馬も長州側に立って加勢したようだ。
まあ、私は長州的な「陰謀体質」(これが明治政府とその後の日本政府の体質となった)が嫌いだが、幕府を良しとする者でもない。
で、この時点での薩長同盟の証拠が、下の記事にある「ユニオン号」の購買経過である。しかも、竜馬はこのユニオン号に乗って、幕府軍を砲撃しているというわけだ。この一戦での敗北が、江戸幕府の命運を決めたと言えるのではないか。

(以下引用)

薩長密約の契機となった、ユニオン号取引。ユニオン号についての情報をさぐると、

通説では、亀山社中が中心になって、長州が欲しがっていた西洋船舶や新式武器の購入を斡旋したことになっている。長崎・グラバー商会から、買い付けた表向きの買主は、薩摩。だが、それはあくまで書類上だけのことで、実際は長州が金を払って買っている。この取引の功労者は、亀山社中。もし、社中がなければ、この取引は成立しなかったとされる。仲介斡旋業をおこなった日本初の事例。だから亀山社中は、日本初の商社であるとされる。これが、教科書的な説明だろう。しかし、本当の所はどうなのだろうか。



当時、長州藩は追い詰められていた。いわば国存亡の危機だ。京において、帝(天皇)を拉致。幕府寄りの公卿から引き離せば、かならず話を聞いてくれるはず。こんな思いから、長州藩は強硬手段にでた。英国官邸焼き討ち、外国船への砲撃。八月一八日の政変。禁門の変(蛤御門の変)。しかし、薩摩と会津藩のまえに、跳ね返された。



幕府もここまでくると黙ってはいなかった。懲らしめなくてはならない。徹底的に痛めつけろ。諸藩にも、そんな声があがってくる。しかし、水面下では今後の政局をどうするか。いまや政治の中心となった、有力諸大名が顔を合わせて会議を繰り広げていた。公武合体論の是非が中心課題だ。しかし、一橋慶喜だけが、首をたてに振らない。かんぜんに暗礁に乗り上げる。



ここに、薩摩が心変わりする理由があった。さすがに藩主、島津久光も業を煮やしたのだ。ここで、重臣、小松帯刀が動き出すことになる。龍馬等、土佐脱藩浪士が行き場を失ったのも、ちょうどそんな時だった。海舟から彼らの面倒をみてくれ。そんな要請に、気軽に受け入れる空気にもなっていたのだ。


そして、そんな理由から、薩摩は、長州の欲していた船舶や武器の購入を手助けするという流れがでてくる。たしかに、龍馬等、土佐脱藩浪士を中心にみると、周旋した功績は大きい。しかし、この当時、金も行き場も失っていた一介の浪士集団である。薩摩の庇護がなければ何もできない状況であったことは、周知の事実だろう。薩摩側にとっては、龍馬等はあくまで、外人部隊的な存在とみていたようだ。龍馬等の思惑とは別にして、、、。



さて、社中が斡旋仲介したのが、ユニオン号である。このユニオン号は、ロザーヒザ造船所(Charles Lungley,Rotherhithe)で1854年に建造された船だ。この造船所は、イギリス、ロンドン・テムズ川沿いにあった。全長40m、300トンの木鉄混合蒸気船。海運会社・P&O汽船(英)の所有だったものを、グラバーが仲介売却したものだ。このユニオン号について、社中・薩摩・長州藩の三者のなかで、変わった取り決めをしていた。それが、『櫻島丸条約』。薩摩は、ユニオン号を櫻島丸と命名した。そして社中が、薩摩所有を表すため、薩摩旗を掲げて運用するというもの。目的は、薩摩のみならず長州藩のための運行もするということだ。 しかし、長州の方で異論がでてきた。自分等(長州)が購入費用を負担するのだから、当然自分等(長州)で使用すべきだろう!と。話しは、かなり揉めたようだが、最終的には龍馬の判断により、長州海軍局の所属となった。そして、船名を新たに、「乙丑丸(オツウシマル)」とした。このとき、提携したのが、『櫻島丸改訂条約』。帰属は長州とはなったが、亀山社中の運用権も残されていた。



この取引で中心的な役割をはたしたのが、近藤長次郎(上杉宗次郎)だ。そして、このユニオン号をめぐる取引のなかで、彼は非業の死を遂げることになる。通説では、近藤の死は、社中の盟約を破り、独断で「イギリスへの密航」しようとしたこととなっているようだ。私が、このBLOGで以前書いた説は、この通説とは異なる。支払い代金の不足とする説だ。そして、長州側の責任者、伊藤博文と、井上馨に疑いの目を向けた。(参照



さて、このユニオン号は、第二次長州征伐、いわゆる幕長戦争にも参戦している。幕府は、すでに力が衰えていたものの、そのことに気づいていなかった。幕府諸藩連合軍は長州を取り囲み、四方向(芸州口・石州口・大島口・小倉口)から攻撃を加える。芸州口が岩国、石州口は島根県、大島口が山口県大島、小倉口が門司。幕府連合軍10万にたいし、長州軍はわずか5千。20分の1の兵力である。慶応2年(1866)6月に戦いの火蓋は開かれた。このときユニオン号は、海軍総督・高杉晋作の指揮下にはいる。小倉口戦だ。亀山社中にこのユニオン号を託された。菅野覚兵衛が艦長、石田英吉が砲手長だ。




ユニオン号の標的は、小倉藩領田ノ浦・門司である。結果は、アウトレンジ戦法により、大勝利だった。アウトレンジ戦法とは、敵の火砲などの射程外から一方的に攻撃を仕掛ける戦術のこと。小倉藩の砲は旧式で射程が短かった。射的距離が長い新型砲のまえに、小倉藩は壊滅的な被害をこうむる。龍馬は、この戦いには参戦せず、別のところで見ていたようだ。そして、観たことを余すところ無く「姉・乙女」に絵入りの書簡で知らせている。


一、ここに小倉藩の蒸気船、肥後藩の蒸気船、
幕府の蒸気船が出たり引っ込んだり
しておれども
なぜ故に救いに
来ないのか ←がんりゅう島




このように二度まわり打って
二度目に帆船の
いかりをおろして戦う




桜島という
蒸気船で長州の軍艦を引く即ち
私が船将




長州の
軍船の帆船
この船に弾が二十発ばかり当たる




小倉船 長州軍船
この船に弾が三十発ばかり当たる。
二十四斤以下の弾丸なり
いかりのツナが弾に当たり
切れて流れる また替え、いかり
を降ろして留める。




「オテント」と申す
蒸気船
高杉晋作が船将




長州方の諸隊小船にて
渡り、陸戦をする。
銃の音ゴマをいる
ように聞こえる。




ここの山より船の
戦いを助けモルチール砲を
用いて大小砲撃を数十発
快く敵の上に打ち
気分がよい。




七月十八日は小倉より長府を
攻めると聞き十七日の夜明け前
こちらから攻めた。
ぶんどったのは火薬など
長持ち七十個分
大砲三十門あまり旧式の
大砲なり。
【高知県立坂本龍馬記念館所蔵】

 ※下の画像は、ユニオン号のイメージ

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