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日本の「過去を忘れ、失策を思い煩わず、現在の大勢に従って急場をしのぐ伝統文化」

「混沌堂主人雑記」所載の「蚊居肢」所載の加藤周一の文章で、私は加藤周一をそれほど重要な思想家だとは思ってもいず、ほとんど読んでいないが、政治評論家としてはかなり深層まで目が行き届いていたのだなあ、と思う。つまり、「物事の本質」が分かっている。

話は変わるが、岸田総理が次期総理選に出ないということで、「次の総理は誰か」をマスコミはおそらく盛り上げ、「次期総理となることが決まっている人物」をあらかじめ褒めたたえてブームにするだろうが、まあ、昔の便所の糞の山の上の金蠅や蛆のお祭りである。
誰が総理になろうが、この国は変わらない。変わりようがない。それは安倍総理射殺で保守派政治家には警告済みである。あんな、既に半分引退したようなどうでもいい政治家でも、射的場の的としては価値があったわけだ。麻生や岸田も、安倍暗殺は事前に知っていたと思う。

(以下引用)

戦後の日本の外交に関しては、もちろん、さまざまな要因を考慮しなければならない。
2・26事件の1936年以後敗戦の45年まで陸軍は事実上外交を無視していた。45年から52年まで占領下の日本には外交権がなかった。52年から「冷戦」の終わった89年まで、日本は「米国追随」に徹底していた。
ということは、事実上外交的な「イニシアティブ」をとる余地がほとんどなかった、ということである。日本国には半世紀以上も独自の外交政策を生み出す経験がなかった。そこでわずかに繰り返されたのが、情勢の変化に対するその場の反応、応急手当、その日暮らし、先のことは先のこととして現在にのみこだわることになったのだろう。
おそらく過去を忘れ、失策を思い煩わず、現在の大勢に従って急場をしのぐ伝統文化があった。〔・・・〕
人々が大勢に従うのは、もちろん現在の大勢にである。大勢は時代によってその方向を変える。…当面の時代、歴史的時間の現在、大勢の方向が決定する今日は伸縮するが、昨日の立場から切り離して、今日の大勢に、それが今日の大勢であるが故に、従おうとするのが大勢順応主義の態度である。その態度は昨日と今日の立場の一貫性に固執しない。別の言葉でいえば、大勢順応主義は集団の成員の行動様式にあらわれた現在中心主義である。
(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)

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