「混沌堂主人雑記」から抜粋転載。引用記事自体は「蚊居肢」記事。長いので途中省略。
「自体性愛」は、簡単に言えば「オナニー」であり、他者を必要としない性愛だ、と私は解釈するが、まあ、自閉症を自慰者だと言うと社会的にかなり問題があるだろう。
しかし、「他者を必要としない」ことを「直接的には(接触可能な肉体的外部物体としては)必要としない」の意味だとすれば、読書から思索まですべてが自慰的行為だとなり、私のブログなどその最たるものだろう。他のブログも同様ではないか? 「いや、私は、自分のブログが読まれ、名前が売れて、稼げることを目指しているから自慰ではないし、自己完結的でもない」と言う人は、まあ、私は下品だとは思うが、他者とつながることを重視していると言えないこともない。
もちろん、フロイトその他も「自体性愛」は「主体の起源」である、としているわけで、特にそれを否定しているわけではない。むしろ、他者との関係が幻想の出発点とも言えるだろう。いや、外部との関係そのものが私やあなたの幻想でしかないかもしれない。その思い違いが悲劇にも喜劇にもなるわけだ。自分の思考全体が幻想でもあるわけで、何だか岸田秀みたいになってきたwww
(以下引用)
「自体性愛」は、簡単に言えば「オナニー」であり、他者を必要としない性愛だ、と私は解釈するが、まあ、自閉症を自慰者だと言うと社会的にかなり問題があるだろう。
しかし、「他者を必要としない」ことを「直接的には(接触可能な肉体的外部物体としては)必要としない」の意味だとすれば、読書から思索まですべてが自慰的行為だとなり、私のブログなどその最たるものだろう。他のブログも同様ではないか? 「いや、私は、自分のブログが読まれ、名前が売れて、稼げることを目指しているから自慰ではないし、自己完結的でもない」と言う人は、まあ、私は下品だとは思うが、他者とつながることを重視していると言えないこともない。
もちろん、フロイトその他も「自体性愛」は「主体の起源」である、としているわけで、特にそれを否定しているわけではない。むしろ、他者との関係が幻想の出発点とも言えるだろう。いや、外部との関係そのものが私やあなたの幻想でしかないかもしれない。その思い違いが悲劇にも喜劇にもなるわけだ。自分の思考全体が幻想でもあるわけで、何だか岸田秀みたいになってきたwww
(以下引用)
僕も似たようなことを言ってきたがね、でもポカンとしているのは日本人だけじゃないよ。最近は大量虐殺があったって自分や自分の愛するひとに関わりがなかったらヒトはポカンとしているものじゃないか、そこから出発すべきじゃないかと考えるようになったね。
繰り返し引用してきたが、ルソーとフロイトの古典的な同一化の話がある。
私たちはどのようにして憐れみに心を動かされるのであろうか。私たちを自分の外に連れ出して、苦しんでいる存在に同一化することによってである。
Comment nous laissons-nous émouvoir à la pitié ? En nous transportant hors de nous-mêmes ; en nous identifiant avec l'être souffrant.( ジャン=ジャック・ルソー『言語起源論』1781年)
同情は同一化によって生まれる[das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung]〔・・・〕
一人の自我が、他人の自我にある点で重要な類似をみつけたとき、われわれの例でいえば、同様な感情を用意している点で意味ふかい類似をみとめたとき、それにつづいてこの点で同一化が形成される[ Das eine Ich hat am anderen eine bedeutsame Analogie in einem Punkte wahrgenommen, in unserem Beispiel in der gleichen Gefühlsbereitschaft, es bildet sich daraufhin eine Identifizierung in diesem Punkte](フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年)
これを受け入れるなら、人は同一化しなかったら憐れまない、同情しないんだ。
さらにルソーはキツイ「真理」を言っている。
人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけを憐れむ。
On ne plaint jamais dans autrui que les maux dont on ne se croit pas exempt soi-même.(ジャン=ジャック・ルソー『エミール』1762年)
つまり自分はまぬがれると思ったら、憐れまないと言ってる。ガザのジェノサイドを自分は免れると思ったら同情しないんだ。ここはヒトそれぞれの想像力の問題があるがね。
僕もこのガザの学校の死者たちの家族に真に同一化しているか言えば危ういよ、自分は免れているとおもっているね。
ヴェイユのいうエゴイズムを人はみな持っているんじゃないかな。
一般にエゴイズムといわれるものは自己愛ではなく、遠近法の効果である。人は、自分がいるところから見える物の配置が変わることを悪と呼び、その地点から少し離れたものは見えなくなってしまう。中国で十万人の大虐殺が起こっても、自分が知覚している世界の秩序は何の変化もこうむらない。だが一方、隣で仕事をしている人の給料がほんの少し上がり、自分の給料が変わらなかったら、 世界の秩序は一変してしまうであろう。それを自己愛とは言わない。人間は有限である。だから、正しい秩序の観念を、自分の心情に近いところにしか用いられないのである。
Ce qu'on nomme généralement égoïsme n'est pas amour de soi, c'est un effet de perspective. Les gens nomment un mal l'altération d'un certain arrangement des choses qu'ils voient du point où ils sont ; de ce point, les choses un peu lointaines sont invisibles. Le massacre de cent mille Chinois altère à peine l'ordre du monde tel qu'ils le per-çoivent, au lieu que si un voisin de travail a eu une légère augmenta-tion de salaire et non pas eux, cet ordre est bouleversé. Ce n'est pas amour de soi, c'est que les hommes étant des êtres finis n'appliquent la notion d'ordre légitime qu'aux environs immédiats de leur coeur.
(シモーヌ・ヴェイユ 「前キリスト教的直観」Intuitions pré-chrétiennes )
ましてやフロイトのいう「病者のエゴイズム」状態にあれば、身近な人にだって関心がなくなる。
(中略)
自閉症はフロイトが自体性愛と呼ぶものとほとんど同じものである[Autismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nennt. ](オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群』1911年)
この自体性愛=自閉症が、ラカニアンにとって主体の起源であり、享楽である。
自閉症は主体の故郷の地位にある[l'autisme était le statut natif du sujet](J.-A. MILLER, - Le-tout-dernier-Lacan – 07/03/2007)
享楽とは、フロイディズムにおいて自体性愛と伝統的に呼ばれるもののことである[la jouissance …qu'on appelle traditionnellement dans le freudisme l'auto-érotisme.](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
ーー《身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である[The jouissance of the body is autistic: thanks to love and to the fantasy we can have relationships with partners – but in the end jouissance is autistic]》.(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)
ま、要するに現在は幻想が剥がれ落ちたんだな、エディプスの幻想やら宗教の幻想やらが。かつての礼儀作法の国日本なら礼儀の法の幻想が。
最近は自閉症者と呼ばれる人が多いようだからな、特に日本では。というわけで、彼らみな「病者のエゴイスト」だよ、ツイッター眺めるとそんなヤツばかり目につくね。
とはいえ主体の根にあるのは自閉症であり、現在はそれが露骨に現われているという前提に立ったとき、どうしたらいいかってのは容易には見出せない。人間はこういったもんだと諦めるほかなくなってしまう。悪はやりたい放題となる。
これじゃあいくらなんでもマズイ、・・・で、こういった文脈のなかに例えば、柄谷やラカニアンによる「普遍宗教の回復」の議論がある。
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