東海アマ氏の「過疎地住民=防人」説について、氏は防人というのが古代政府によって徴兵され、大きな犠牲を強いられた存在だということを知って「防人」という言葉を使っているのか疑問に思ったので、先に関連記事を引用しておく。そして、氏の最新記事の一部(藤井総の記事を含む)を「引用2」として転載する。
要するに、古代の防人も、東海アマ氏の「防人として過疎地に住み続けろ」というのも、国民一般、あるいは下層国民だけに犠牲を強いるものだ、ということだ。防人が必要なら、過疎地住民に「防人」を任命し、給与を与えるべきである。それなら、その道を選ぶ現地住民も出るだろうし、私も大いに賛成する。
辺境の過疎地住民に不便と危険な生活を耐え忍べ、というのと、より住みやすいところに転居する費用を国が出すのと、どちらが人道的か。
国を守りたければ、自分が防人に応募すればいい。もちろん、そのまま「ふるさと」に住みたい人はそうすればいい。とにかく、他者の犠牲で国を守るという点で、私は東海アマ氏の言うような「防人」論を否定する。防人が必要なら、日本の海岸線全体に給与支弁の「防人」基地を、交番のように置けばいい。暇な老人の有効活用になるだろう。
とにかく、巨大災害被災地が過疎地の場合、「復興」と「移住」のふたつの選択肢で、財務省が「復興するのは対費用効果が悪すぎる」と言うのは当たり前の話で、問題は、「移住」の費用すら出さないことなのである。
本当は、財務省側に立った、もっと冷酷な言葉も書きたいのだが、自制しておく。私は藤井総などの言葉は、きれい事を並べただけにしか聞こえない。もちろん、今の軍拡をやめれば、復興費用など即座に出るだろう。だが、財務省としても、米国の命令で、軍拡費用を最優先させなければならないのである。そうしないと社会的に抹殺されるか、実際に殺されるだろう。それを知っていて好き放題のことを言っていられるのは幸せな人種だ。
(引用1)ふりがなが変な形(1字ごとに本文に挟まる形)になっているので、最初は訂正したが、あまりに多いので残りはそのまま放置した。
1 防人の制度
防 人 とは、九州沿岸の防備にあたった兵士のことである。646(大 化 2)の改 かい 新 しん の 詔 みことのり に設 置の記載がみえるが、663年の白 はく 村 そん 江 こう の戦 たたか いに敗れたことにより、九州北部の防衛強化が必要と なり、本格的に整備されたと考えられている。701(大 たい 宝 ほう 元)年に制定された大 たい 宝 ほう 律 りつ 令 りょう により、 防人は律令制度に組み込まれる。防人の勤務期間は3年であり、在任中は課 か 役 やく を免除され、勤務 終了後には国内の軍団への勤務が3年間免除された。 しかし、3年間での勤務の交替は規定通りには行われず、帰 き 郷 きょう しない防人も多かったといわ れる。また、特に規定はないが主に東国の兵士がその任にあたり、東国の軍団から徴 ちょう 発 はつ された 防人は国司(部 ことりづかい 領使といわれた)に統率され難 なに 波 わ まで自 じ 弁 べん で赴 おもむ き、難波で各国の防人と集結して 筑 ちくし(つくし) 紫 に派遣された。防人の制度は、武器などが自弁である負担や、家庭の有力な労働力が奪 われる反発などから、757(天 てん 平 ぴょう 宝 ほう 字 じ 元)年には東国からの徴発は廃止された。その後、たびた び制度の改廃が繰り返されたが、防人の制度は実施が困難になり、次第に有名無実化していった。
(引用2)
2024.08.14「過疎地の復興はムダ」「移住を考えよ」…財務省財政審が能登半島地震の被災者に言い放つ「許しがたい棄民思想」藤井 聡
「被災地の多くが人口減少局面にある」から!?
今日は、南海トラフ地震の「注意」情報についてさらに書こうと思っていたのですが、目を疑うようなトンデモナイニュースが飛び込んできました。
「能登の復旧・復興『コスト念頭』 財務省、被災地は人口減」
――財務省は9日、財政制度等審議会(財務相の諮問機関)の分科会を開き、能登半島地震の被災地の復旧・復興は「将来の需要減少や維持管理コストも念頭に置き、住民の意向を踏まえ、十分な検討が必要だ」と訴えた。
「被災地の多くが人口減少局面にある」ことを理由に挙げ「過去の災害の事例も教訓に集約的なまちづくり」を提言した。復興が本格化する中、無駄な財政支出は避けたいとの立場を明確にした。――
要するに財務省の財政審議会は、「過疎地の復興は無駄」だと断じ、
「そんな過疎地に住んでいた人間は移住しろ」
と言っているわけです。
これはまさに棄民思想。「政府であるにも関わらず民を捨て去り、見殺しにする」思想そのもの。「政府は遂にここまで腐ったか」と思わざるを得ぬ暴言です。国民は「自衛」のためにもこんなあからさまな棄民思想を顕わにする政府を絶対に許してはなりません。
見殺しの思想そのもの
この政府の棄民思想は、この審議会の増田寛也会長代理の次の言葉にも明確に表れています。
「家の片付けが進んでない地域に、将来の議論をしようと言っても難しい」
あまりにも酷すぎるもの言いです。
家の片付けすら済んでいない方々だからこそ、「大丈夫、なんとかしますから安心して下さい。オカネの心配なんて何もしなくても大丈夫です」という態度を国家は取る必要があるのです。つまり、必ず街を復旧、復興させまるという「将来の議論」を通してはじめて、被災地の方々に希望が生まれるのです。
つまり増田氏は「家の片付けも済んでないから未来の議論はできない」と言うわけですが、それとは逆に「未来の議論があるからこそ家の片付けをしようと思うようになる」のです。誠に以て許し難い話です。
それにも関わらず、家の片付けも済んでいない被災者の方々に「もうオカネがないから復旧・復興なんて難しいですよ。移住考えてくださいよね」なぞと、政府が公式に言ってのけるなど、見殺しの思想そのものです。
棄民思想が文字通り蔓延ってしまっている
こうした政府による「棄民思想」的態度に対して徹底批判すべく、まさに今週、元国交省技監の大石久和氏と出版したのが書籍『日本人は国土でできている』です。
本書では過疎地における「棄民」や将来の災害における想定被災地における「棄民」など、様々な棄民思想批判を展開しましたが、その中でも特に強く非難したのがまさに、能登半島地震の被災者に対する棄民的態度です。
実際、大石氏は次のように本書の中で語っています。
「大石 能登半島地震ではもう一つ、非常に憤りを感じたことがあります。それは新潟県知事を務めた米山隆一さんがX(エックス)で、こう投稿したのですね。
『非常に言いづらい事ですが、今回の復興では、人口が減り、地震前から維持が困難になっていた集落では、復興ではなく移住を選択する事をきちんと組織的に行うべきだと思います。地震は、今後も起ります。現在の日本の人口動態で、その全てを旧に復する事は出来ません。現実を見据えた対応をと思います』(二〇二四年一月八日)と。
この人は、本当に過疎地を多く抱えている新潟県の知事をやっていたのだろうかと思うぐらい、ひどい発言だと感じました。
われわれは何をするにしても、誰一人として日本人を失うことがあってはなりません。それと同じで、寸土といえども毀損させていい地域があるはずはないのです。
われわれは、いただいた日本の国土をそのまま次の世代に引き継いでいく責任があります。そこに人が住んでいなければ、国土は荒れていくしかないわけです」(『日本人は国土でできている』第六章『棄民思想がはびこっている』p.154)。
本当に酷い話ですが、恐るべきことに、この言語道断の米山発言は、SNS上でさして批判されることも炎上することもなく、世間からほぼスルーされたのでした。
つまり、この令和日本には、棄民思想が文字通り蔓延ってしまっているのです。そして今回の財務省の財政審の「過疎地の復興は無駄。そんな過疎地に住んでた人間は移住しろ」と言わんばかりの提言は、この空気を捕まえて出されたものなのです(無論、財務省は「そんな事言ってない!」「移住も選択肢の一つだと言ったに過ぎない」なぞと言うでしょうが、復興のための事業費を所管する財政当局が、被災者にそんな選択肢を提示するだけでもはや言外に「移住しろ」と言っているに等しいものです)。
補正予算が1円も組まれない
しかし、一昔前の平成日本では、そういう空気は必ずしも支配的ではなかったのです。『日本人は国土でできている』(p.155)の以下の一節をご覧下さい。
「藤井 東日本大震災のときも、実はそういう声を政府近辺で聞きました。主に経済官僚や財務官僚からそういう声が出ていました。霞が関、永田町ではずっと囁かれていた発言なのです。東日本大震災のとき、まったく米山さんと同じものの言い方が暴露されたニュースがありました。
経産省の役人が自身のブログに『復興は不要だと正論を言わない政治家は死ねばいいのに』『もともと滅んでいた過疎地』『じじぃとばばぁが既得権益の漁業権を貪る』等と暴言を書き込んでいたのです。
これが発覚してこの役人は懲戒処分を受けていますが、この事案は単なる氷山の一角であって、多かれ少なかれこうしたメンタリティは霞ヶ関、永田町では潜在的に共有されてしまっていたのが当時の実態だったのです。」
つまり、一昔前の平成日本では、こういう棄民思想発言は、炎上し、大問題となり、懲戒免職を受けるに至ったのです。そして当時の財務省の財政審は決して、今回の財政審の提言のようなものは決して提言されはしなかったのです。
ところが、今やもう、そういう財務省的な棄民提言が正式に公表されても、さして炎上しないくらいにまで、棄民思想が世間一般に蔓延してしまっているのです。
事実、これだけの大震災なのに補正予算が1円も組まれないという異常事態に陥っているのです。
政府によって「見殺し」にされてしまう
このままでは、本当に能登の人達は政府によって「見殺し」にされてしまうことになります。
そしてそんな事態を放置すれば、今まさに起こるリスクが高まっている南海トラフ地震が起こった時に何百万人、何千万人と産み出されてしまう被災者達も全く同じ様に政府に見殺しにされることになるでしょう。
そんな日本で、本当にいいのでしょうか?
私は絶対にそういう日本を拒否したいと思います。
そしてそう思う方は当方や大石先生だけでは決してないでしょう。
日本がそんな畜生以下の下劣な棄民思想に支配された国家に堕落してしまうことを避けるためにも、心ある国民の皆さんには是非、今回の財政審の提言に対して徹底的にご批判頂きたいと、考えています。
それは被災者の方々を救い出すためだけでなく、災害大国日本の将来の国民を、そして何より自分自身と自身の子供達を守るために今、強く求められている姿勢なのです。
追伸 ここで紹介した『日本人は国土でできている』(大石久和・藤井聡著)にご関心の方は、下記をご参照ください。
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引用以上
このブログで、何回も「米山隆一批判」を掲示してきた。
被災地の「復興より移住を」 ネットで物議 米山隆一氏の真意は? 2024/1/26
【「人口が減り、地震前から維持が困難になっていた集落では、復興ではなく移住を選択する事をきちんと組織的に行うべきだ」】
米山氏は、魚沼・小千谷・長岡圏の人で、私の母のルーツでもあるので親近感を抱いていたのだが、上の発言に愕然として、抗議の意味で、米山事務所に以下のメールを送った。
米山さんが発した【「人口が減り、地震前から維持が困難になっていた集落では、復興ではなく移住を選択する事をきちんと組織的に行うべきだ」】について異議があります
これは住民に、「生まれた土地を捨ててしまえ」と迫る乱暴な意見です。
そもそも日本の過疎地帯は、自民党と新自由主義によって金儲け優先の目的で意図的に作り出された結果であって、住民の意思ではなかったのです。
みんな故郷を離れたくなかったが、仕事がない、農業が低迷しているなどの理由で都会でしか生きられなくなりました。
地方は、「金にならないことは捨てる」という「資本の論理」 「新自由主義の論理」によって、公共交通や医療機関などの生活インフラが廃止され、住民は生きて行くためにやむなく都会に仕事を求めるしかなかったのでです。
もし自民党が大企業の金儲けを優先させるため、地方の農業を軽視・無視していなかったなら、地方はこれほどの過疎に苦しむことはなかった。
自民党は、海外の一次産品を大規模に輸入することと引き換えに、工業製品を輸出することで大企業を儲けさせる政策を行ったのでした。円高により、多くの工場まで外国に移転してしまいました。
この自民党の大企業優遇政策の結果、全国の農村、とりわけ能登のような地方は過疎に追い込まれたのです
地方に、まんべんなく人が住んでいるということには国家の基盤として重要な意味があることを米山氏は理解していないように思えます。
過疎地方は、いわば「防人さん」なのです。過疎地方に水源があり、河川と森林がある。これを監視し、崩壊を通報することで、下流の大都市の安全が守られています。
そのために、住民がいなければならない。その住民を意識して守らなければならない。地方を廃村にしてしまうことは、大都会を危機に晒すものです。
さらに、地方の本当の役割は、大都市が大震災や戦争で機能不全に陥ったときの逃げ場所でもあります。食料の生産供給地であり、水資源の補給地でもあるのです。
米山さんの言うとおりに、金にならない地方を無人地帯にしてしまえば、いざ阪神大震災や東日本震災が再来したとき、インフラの崩壊した都市住民は、どこに逃げたら良いのですか?
どこから清冽な飲料水が得られるのですか? 誰が食料を生産してくれるのですか? みんな地方ではないですか。
日本国というのは大都市だけでなく過疎地方も含めた全体の有機的結合によって成立している本質が、なぜ米山さんに理解できないのでしょう?
大都市を本当の意味で支えているのは地方だと理解できませんか?
衣食住だけではない。みんな自然豊かな地方の存在に癒やされて、大都会での生活を送ることができています。
地方は、大都市住民の安全を保証するクッションであることをなぜ知ろうとしないのか? なぜ大都市生活のことしか分かろうとしないのか?
米山隆一さんの地方廃絶説には、とうてい賛同できません。
ちなみに私は熊の徘徊する過疎の田舎に生きていて、ここから動きたくはありません。
地方の住民を大切にできない政府に未来は存在しない!
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引用以上
要するに、古代の防人も、東海アマ氏の「防人として過疎地に住み続けろ」というのも、国民一般、あるいは下層国民だけに犠牲を強いるものだ、ということだ。防人が必要なら、過疎地住民に「防人」を任命し、給与を与えるべきである。それなら、その道を選ぶ現地住民も出るだろうし、私も大いに賛成する。
辺境の過疎地住民に不便と危険な生活を耐え忍べ、というのと、より住みやすいところに転居する費用を国が出すのと、どちらが人道的か。
国を守りたければ、自分が防人に応募すればいい。もちろん、そのまま「ふるさと」に住みたい人はそうすればいい。とにかく、他者の犠牲で国を守るという点で、私は東海アマ氏の言うような「防人」論を否定する。防人が必要なら、日本の海岸線全体に給与支弁の「防人」基地を、交番のように置けばいい。暇な老人の有効活用になるだろう。
とにかく、巨大災害被災地が過疎地の場合、「復興」と「移住」のふたつの選択肢で、財務省が「復興するのは対費用効果が悪すぎる」と言うのは当たり前の話で、問題は、「移住」の費用すら出さないことなのである。
本当は、財務省側に立った、もっと冷酷な言葉も書きたいのだが、自制しておく。私は藤井総などの言葉は、きれい事を並べただけにしか聞こえない。もちろん、今の軍拡をやめれば、復興費用など即座に出るだろう。だが、財務省としても、米国の命令で、軍拡費用を最優先させなければならないのである。そうしないと社会的に抹殺されるか、実際に殺されるだろう。それを知っていて好き放題のことを言っていられるのは幸せな人種だ。
(引用1)ふりがなが変な形(1字ごとに本文に挟まる形)になっているので、最初は訂正したが、あまりに多いので残りはそのまま放置した。
1 防人の制度
防 人 とは、九州沿岸の防備にあたった兵士のことである。646(大 化 2)の改 かい 新 しん の 詔 みことのり に設 置の記載がみえるが、663年の白 はく 村 そん 江 こう の戦 たたか いに敗れたことにより、九州北部の防衛強化が必要と なり、本格的に整備されたと考えられている。701(大 たい 宝 ほう 元)年に制定された大 たい 宝 ほう 律 りつ 令 りょう により、 防人は律令制度に組み込まれる。防人の勤務期間は3年であり、在任中は課 か 役 やく を免除され、勤務 終了後には国内の軍団への勤務が3年間免除された。 しかし、3年間での勤務の交替は規定通りには行われず、帰 き 郷 きょう しない防人も多かったといわ れる。また、特に規定はないが主に東国の兵士がその任にあたり、東国の軍団から徴 ちょう 発 はつ された 防人は国司(部 ことりづかい 領使といわれた)に統率され難 なに 波 わ まで自 じ 弁 べん で赴 おもむ き、難波で各国の防人と集結して 筑 ちくし(つくし) 紫 に派遣された。防人の制度は、武器などが自弁である負担や、家庭の有力な労働力が奪 われる反発などから、757(天 てん 平 ぴょう 宝 ほう 字 じ 元)年には東国からの徴発は廃止された。その後、たびた び制度の改廃が繰り返されたが、防人の制度は実施が困難になり、次第に有名無実化していった。
(引用2)
2024.08.14「過疎地の復興はムダ」「移住を考えよ」…財務省財政審が能登半島地震の被災者に言い放つ「許しがたい棄民思想」藤井 聡
「被災地の多くが人口減少局面にある」から!?
今日は、南海トラフ地震の「注意」情報についてさらに書こうと思っていたのですが、目を疑うようなトンデモナイニュースが飛び込んできました。
「能登の復旧・復興『コスト念頭』 財務省、被災地は人口減」
――財務省は9日、財政制度等審議会(財務相の諮問機関)の分科会を開き、能登半島地震の被災地の復旧・復興は「将来の需要減少や維持管理コストも念頭に置き、住民の意向を踏まえ、十分な検討が必要だ」と訴えた。
「被災地の多くが人口減少局面にある」ことを理由に挙げ「過去の災害の事例も教訓に集約的なまちづくり」を提言した。復興が本格化する中、無駄な財政支出は避けたいとの立場を明確にした。――
要するに財務省の財政審議会は、「過疎地の復興は無駄」だと断じ、
「そんな過疎地に住んでいた人間は移住しろ」
と言っているわけです。
これはまさに棄民思想。「政府であるにも関わらず民を捨て去り、見殺しにする」思想そのもの。「政府は遂にここまで腐ったか」と思わざるを得ぬ暴言です。国民は「自衛」のためにもこんなあからさまな棄民思想を顕わにする政府を絶対に許してはなりません。
見殺しの思想そのもの
この政府の棄民思想は、この審議会の増田寛也会長代理の次の言葉にも明確に表れています。
「家の片付けが進んでない地域に、将来の議論をしようと言っても難しい」
あまりにも酷すぎるもの言いです。
家の片付けすら済んでいない方々だからこそ、「大丈夫、なんとかしますから安心して下さい。オカネの心配なんて何もしなくても大丈夫です」という態度を国家は取る必要があるのです。つまり、必ず街を復旧、復興させまるという「将来の議論」を通してはじめて、被災地の方々に希望が生まれるのです。
つまり増田氏は「家の片付けも済んでないから未来の議論はできない」と言うわけですが、それとは逆に「未来の議論があるからこそ家の片付けをしようと思うようになる」のです。誠に以て許し難い話です。
それにも関わらず、家の片付けも済んでいない被災者の方々に「もうオカネがないから復旧・復興なんて難しいですよ。移住考えてくださいよね」なぞと、政府が公式に言ってのけるなど、見殺しの思想そのものです。
棄民思想が文字通り蔓延ってしまっている
こうした政府による「棄民思想」的態度に対して徹底批判すべく、まさに今週、元国交省技監の大石久和氏と出版したのが書籍『日本人は国土でできている』です。
本書では過疎地における「棄民」や将来の災害における想定被災地における「棄民」など、様々な棄民思想批判を展開しましたが、その中でも特に強く非難したのがまさに、能登半島地震の被災者に対する棄民的態度です。
実際、大石氏は次のように本書の中で語っています。
「大石 能登半島地震ではもう一つ、非常に憤りを感じたことがあります。それは新潟県知事を務めた米山隆一さんがX(エックス)で、こう投稿したのですね。
『非常に言いづらい事ですが、今回の復興では、人口が減り、地震前から維持が困難になっていた集落では、復興ではなく移住を選択する事をきちんと組織的に行うべきだと思います。地震は、今後も起ります。現在の日本の人口動態で、その全てを旧に復する事は出来ません。現実を見据えた対応をと思います』(二〇二四年一月八日)と。
この人は、本当に過疎地を多く抱えている新潟県の知事をやっていたのだろうかと思うぐらい、ひどい発言だと感じました。
われわれは何をするにしても、誰一人として日本人を失うことがあってはなりません。それと同じで、寸土といえども毀損させていい地域があるはずはないのです。
われわれは、いただいた日本の国土をそのまま次の世代に引き継いでいく責任があります。そこに人が住んでいなければ、国土は荒れていくしかないわけです」(『日本人は国土でできている』第六章『棄民思想がはびこっている』p.154)。
本当に酷い話ですが、恐るべきことに、この言語道断の米山発言は、SNS上でさして批判されることも炎上することもなく、世間からほぼスルーされたのでした。
つまり、この令和日本には、棄民思想が文字通り蔓延ってしまっているのです。そして今回の財務省の財政審の「過疎地の復興は無駄。そんな過疎地に住んでた人間は移住しろ」と言わんばかりの提言は、この空気を捕まえて出されたものなのです(無論、財務省は「そんな事言ってない!」「移住も選択肢の一つだと言ったに過ぎない」なぞと言うでしょうが、復興のための事業費を所管する財政当局が、被災者にそんな選択肢を提示するだけでもはや言外に「移住しろ」と言っているに等しいものです)。
補正予算が1円も組まれない
しかし、一昔前の平成日本では、そういう空気は必ずしも支配的ではなかったのです。『日本人は国土でできている』(p.155)の以下の一節をご覧下さい。
「藤井 東日本大震災のときも、実はそういう声を政府近辺で聞きました。主に経済官僚や財務官僚からそういう声が出ていました。霞が関、永田町ではずっと囁かれていた発言なのです。東日本大震災のとき、まったく米山さんと同じものの言い方が暴露されたニュースがありました。
経産省の役人が自身のブログに『復興は不要だと正論を言わない政治家は死ねばいいのに』『もともと滅んでいた過疎地』『じじぃとばばぁが既得権益の漁業権を貪る』等と暴言を書き込んでいたのです。
これが発覚してこの役人は懲戒処分を受けていますが、この事案は単なる氷山の一角であって、多かれ少なかれこうしたメンタリティは霞ヶ関、永田町では潜在的に共有されてしまっていたのが当時の実態だったのです。」
つまり、一昔前の平成日本では、こういう棄民思想発言は、炎上し、大問題となり、懲戒免職を受けるに至ったのです。そして当時の財務省の財政審は決して、今回の財政審の提言のようなものは決して提言されはしなかったのです。
ところが、今やもう、そういう財務省的な棄民提言が正式に公表されても、さして炎上しないくらいにまで、棄民思想が世間一般に蔓延してしまっているのです。
事実、これだけの大震災なのに補正予算が1円も組まれないという異常事態に陥っているのです。
政府によって「見殺し」にされてしまう
このままでは、本当に能登の人達は政府によって「見殺し」にされてしまうことになります。
そしてそんな事態を放置すれば、今まさに起こるリスクが高まっている南海トラフ地震が起こった時に何百万人、何千万人と産み出されてしまう被災者達も全く同じ様に政府に見殺しにされることになるでしょう。
そんな日本で、本当にいいのでしょうか?
私は絶対にそういう日本を拒否したいと思います。
そしてそう思う方は当方や大石先生だけでは決してないでしょう。
日本がそんな畜生以下の下劣な棄民思想に支配された国家に堕落してしまうことを避けるためにも、心ある国民の皆さんには是非、今回の財政審の提言に対して徹底的にご批判頂きたいと、考えています。
それは被災者の方々を救い出すためだけでなく、災害大国日本の将来の国民を、そして何より自分自身と自身の子供達を守るために今、強く求められている姿勢なのです。
追伸 ここで紹介した『日本人は国土でできている』(大石久和・藤井聡著)にご関心の方は、下記をご参照ください。
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引用以上
このブログで、何回も「米山隆一批判」を掲示してきた。
被災地の「復興より移住を」 ネットで物議 米山隆一氏の真意は? 2024/1/26
【「人口が減り、地震前から維持が困難になっていた集落では、復興ではなく移住を選択する事をきちんと組織的に行うべきだ」】
米山氏は、魚沼・小千谷・長岡圏の人で、私の母のルーツでもあるので親近感を抱いていたのだが、上の発言に愕然として、抗議の意味で、米山事務所に以下のメールを送った。
米山さんが発した【「人口が減り、地震前から維持が困難になっていた集落では、復興ではなく移住を選択する事をきちんと組織的に行うべきだ」】について異議があります
これは住民に、「生まれた土地を捨ててしまえ」と迫る乱暴な意見です。
そもそも日本の過疎地帯は、自民党と新自由主義によって金儲け優先の目的で意図的に作り出された結果であって、住民の意思ではなかったのです。
みんな故郷を離れたくなかったが、仕事がない、農業が低迷しているなどの理由で都会でしか生きられなくなりました。
地方は、「金にならないことは捨てる」という「資本の論理」 「新自由主義の論理」によって、公共交通や医療機関などの生活インフラが廃止され、住民は生きて行くためにやむなく都会に仕事を求めるしかなかったのでです。
もし自民党が大企業の金儲けを優先させるため、地方の農業を軽視・無視していなかったなら、地方はこれほどの過疎に苦しむことはなかった。
自民党は、海外の一次産品を大規模に輸入することと引き換えに、工業製品を輸出することで大企業を儲けさせる政策を行ったのでした。円高により、多くの工場まで外国に移転してしまいました。
この自民党の大企業優遇政策の結果、全国の農村、とりわけ能登のような地方は過疎に追い込まれたのです
地方に、まんべんなく人が住んでいるということには国家の基盤として重要な意味があることを米山氏は理解していないように思えます。
過疎地方は、いわば「防人さん」なのです。過疎地方に水源があり、河川と森林がある。これを監視し、崩壊を通報することで、下流の大都市の安全が守られています。
そのために、住民がいなければならない。その住民を意識して守らなければならない。地方を廃村にしてしまうことは、大都会を危機に晒すものです。
さらに、地方の本当の役割は、大都市が大震災や戦争で機能不全に陥ったときの逃げ場所でもあります。食料の生産供給地であり、水資源の補給地でもあるのです。
米山さんの言うとおりに、金にならない地方を無人地帯にしてしまえば、いざ阪神大震災や東日本震災が再来したとき、インフラの崩壊した都市住民は、どこに逃げたら良いのですか?
どこから清冽な飲料水が得られるのですか? 誰が食料を生産してくれるのですか? みんな地方ではないですか。
日本国というのは大都市だけでなく過疎地方も含めた全体の有機的結合によって成立している本質が、なぜ米山さんに理解できないのでしょう?
大都市を本当の意味で支えているのは地方だと理解できませんか?
衣食住だけではない。みんな自然豊かな地方の存在に癒やされて、大都会での生活を送ることができています。
地方は、大都市住民の安全を保証するクッションであることをなぜ知ろうとしないのか? なぜ大都市生活のことしか分かろうとしないのか?
米山隆一さんの地方廃絶説には、とうてい賛同できません。
ちなみに私は熊の徘徊する過疎の田舎に生きていて、ここから動きたくはありません。
地方の住民を大切にできない政府に未来は存在しない!
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