(以下引用)
wooly thinking(ぼんやり思考)
(以下「ITメディアビジネス」から引用)なお、下記記事の後の部分で筆者は、現今の自民党の暴言問題について「些事を騒がずに、マスコミは大事な問題を考えろ」という趣旨の発言をしているが、これ自体が自民党の病巣擁護になっており、「些事に見えるが大事なこと」を問題にすることが疎かにされる危険性がある、と私は思う。せっかくのいい記事なのだが、筆者自身がwooly thinkingに陥っているのではないか。
「ふわっとした話」にどっと押し寄せる
それからほどなく、デービッドさんのレポートが正しかったことが分かると、彼を批判していた人たちは、そんなことなどまるでなかったような顔をして銀行の怠慢経営を批判した。
つまり、数字に基づいたロジックより、「いくらなんでも日本の銀行がそんなにいい加減なわけないだろ」という「ふわっとした話」に人々がどっと押し寄せるということを、デービッドさんは身をもって経験したということだ。
では、あれから20年近くを経て、日本人のwoolly thinkingは変わったのかというと、「それほど変わっていない」とデービッドさんは指摘する。その象徴が報道である。デービッドさんはNHKのニュースが好きだ。その理由は、多くの日本人が思っているように「中立公平」だからではなく「興味深い」からだという。
例えば、景気が後退したというニュースを報道する。何がどのように後退したのかということを細かく報じるのではなく、小さな町工場の経営者にカメラを向けて「もう潰れそうだ」と言わせる。
今回の景気後退の以前から縮小している産業にクローズアップして、「ほら、こんなに景気は悪くなってますよ」ということを一生懸命伝える。ロジックに重きを置く英国人のなかでもアナリストという数字を客観的に分析してきた人物だけに、経済ニュースを「ふわっとした話」にすりかえることが不可解だという。
(追記:別ブログに載せた記事は以上だが、公正を期するために、私・夢人が「危険だ」と言った部分を追加転載しておく。この部分を「危険」だと思うかどうかは人によるだろうが、私は、大事な問題を矮小化し、社会を悪い方向に導く危険性があると思う。)
●何が問題で何が危険なのか
言われてみれば確かにその通りで、われわれの周りには「woolly thinking」が溢れている。現在、叩かれている自民党の若手議員の勉強会での発言はその象徴だろう。
「マスコミをこらしめるには広告料収入がなくなることが一番だ」
「青年会議所の理事長のときにマスコミを叩いた。スポンサーにならないことが一番こたえるということが分かった」
あまりに低レベルな報道対策論でバカにされてしかるべきだが、これを「国家権力による報道規制だ」というのはかなりの拡大解釈である。野党もマスコミも鬼の首をとったかのように連日大騒ぎをしているが、もっと大事なことを論じるべきではないのか。「違憲」だというのなら、どこをどう変えなくてはいけないのか。安保法制を潰しても、米国の「負担軽減」を求めるプレッシャーはある。それを突っぱねるというのなら日米安保を根幹から見直さなくてはならない。
「安倍政権は危険だから潰さないと戦争になる」みたいなふわっとした論調ではなく、何が危険なのか、そして問題解決のためには何が必要なのかを分かりやすく国民に伝えることこそが、マスコミの仕事ではないのか。
先週末、ニュースを見ていたら普天間基地で座り込みをされている男性がマイクを向けられて興奮気味にこうおっしゃった。
「今、すごく戦争のムードが盛り上がっているじゃないですか」
ムードではなくロジックを報じるマスコミ文化が、この国もそろそろ必要なのかもしれない。