IT革命が雇用を減少させたということを理解している人も増えてきたが、では、どうすればITが社会全体にとって有益なものになるかについて論じた人はほとんどいない。それをこれから考えてみよう。
ITは確かに業務の効率化に役立つ。しかし、効率化とは、たとえばこれまで五人でやっていたことが二人でできる、というようなことだ。それが効率化の意味である。具体的に言えば、これまで事務員や秘書がやっていた仕事を、パソコンを使って事務員や秘書以外の人がやるというようなことだ。そうすれば、大体の企業では事務員や秘書を首にするだろう。そして残った人間の仕事は増える。それが効率化なのだから、効率化とは、いわば個々の被雇用者に対する労働強化がなされ、経営者や企業幹部の得る分の金が増えることである。つまり、IT革命は被雇用者の平均所得を減少させているわけだ。ITはもっと良い方向に使えないものなのかどうか、それを考察してみよう。
下記記事では、中小企業同士の連携、というアイデアを打ち出しているが、はたしてどの程度の可能性があるだろうか。また、それはITを前提とすることが条件なのだろうか。
いったん、下記記事を読んでもらった後で、ITによって社会を良い方向に変える道を模索してみたい。
(以下「JBプレス」から引用)
その場合、どのように内需を拡大させるかの戦略が正否のカギを握る。需要を減退させている原因は、団塊世代の引退というような人口動態による要因もあるが、IT革命が浸透する中で構造的に需要が失われていることにも着目する必要がある。
IT化の波に抗うことはできない。だとすれば、その構造を逆手に取ってITを最大限に利用しながら需要を拡大させなければならない。
実はITには面白い性質がある。大企業のようなピラミッド組織でIT化が進むと、効率がどんどん良くなって非雇用圧力が高まる。しかし、中小企業同士が連携するようなケースを考えると、それまでなかった発想が生まれ新しいニーズを生み出す。
進みすぎた東京一極集中から脱し豊かで特色のある地方を作るという日本が抱えている大きな課題に異論を唱える人は少ないと思う。中央集権的な日本の構造を地方分権に変えた時、IT化は需要創造という意味で強い武器となる。自立分散型のシステムと相性が良いのである。
消費地と産地が結びついて、消費者の声が産地にきめ細かく届くことで今までの農業の形が大きく変わるかもしれない。北海道と九州の中小企業が連携して新しいビジネスが始まるかもしれない。
(引用終わり)
実際、上の記事で書いてある「消費地と産地を結びつける」ことに近いビジネスは始まっている。その仕事を総括的に言えば、「オンデマンド・ビジネス」である。つまり、これまでのように店舗に商品を並べて、客が買うのを待つのではなく、客の注文に即座に応えるビジネスだ。デスクトップ・パブリッシングなどもその一つである。たとえば、絶版になった過去の漫画作品を、注文に応じて、即座に製本する、というような事は可能である。もちろん、美しい製本はできないにしても、その作品本体だけが欲しい、もっと言えば、その作品を読むという経験だけが欲しいという人間にとっては、それで十分なのである。
まだビジネス化されていないが、音楽などでもそれは可能だろう。たとえば、CD化されていない演奏を試聴して、気に入れば、それをその場でCD化するという商売だ。著作権の対象外であるクラシックの楽曲ならば、それも容易だろう。ただし、演奏家の著作権という問題もあるが。
別の形態のITビジネスを考えてみよう。
たとえば、前記記事に書いてある中小企業同士の連携や、産地と消費地の連携である。もちろん、連携することは簡単だし、それをビジネス化しようとして動いている向きもあるだろう。しかし、それによってどのような結実が得られるかというと、これはまだはっきりしない。多くの新興産業の例にもれず、期待感ばかりが先走って、ブームが終わった後は死屍累々という結果にならないとも限らない。つまり、連携すればいい結果が出る、というのはただの希望的観測でしかないのである。
上記記事では、消費者の希望が生産者に届くことで、生産内容が変わる可能性がある、と言っているが、消費者の意向を考えない生産者はほとんど存在しないだろう。なのに消費者の声を生産者が無視するのは、その声がナンセンスであるか生産者にとってマイナスになるからである。
たとえば、農薬を使わない農作物が欲しい、と言うので無農薬野菜を作る。すると、虫に食われた跡のある野菜は買わない、ということになって、作った農家は大損をするわけだ。消費者の声など、そんなものだろう。
では、中小企業同士の連携はどうか。
これには、IT云々は別として、或る可能性がある、と思う。たとえば、トヨタ傘下の下請け企業がトヨタと手を切り、新しい会社を立ち上げるわけだ。トヨタはもともと生産のほとんどを下請けに依存していたのだから、下請け会社連合がトヨタ本社と無関係に自動車を作ることはできるはずだ。そうすれば、これまでトヨタ本社に利益の大半を吸い上げられていた下請け会社連合は、利益のほとんどを自分たちの手に入れることができる。まあ、そういうことができないように契約関係や法律で雁字搦めになっているのだろうが、原理としては可能である。
これはあらゆる分野で言えることで、生産的存在と寄生的存在のうち寄生的存在が利益の大半を収奪しているというのが現代社会の特質である。ソニーのストリンガー会長など存在しなくてもソニーという会社にはまったく影響はないだろう。しかし、彼に10億円近い年俸が支払われているのである。東電幹部や原発関連の天下り団体への膨大な出費は、多くの人が知るところだ。そういう「社会全体の合理化」は必要だろうが、それはITとは無関係な話である。
話が逸れたので、もう一度、ITを社会発展に生かす方法を考えてみる。
ITの持つ特性は、膨大なデータを一瞬で処理できることである。ただし、その処理を指示するのはやはり人間であり、その人間のIT操作能力の有能性に応じてITの利用可能性は天地ほどの開きが出てくる。
データ処理が業務の主要部分である仕事においては、ITは今後飛躍的な活用が見込める。たとえば、裁判や医療である。法律知識や医療知識をいくら覚えても、記憶量と記憶の正確さではコンピュータにはかなうはずがない。したがって、覚える部分はパソコンに任せ、現実問題とのコネクトだけを人間が行うことにこれからはなるだろう。いや、現実に、一部ではすでにそうなっているのではないか?
最近の裁判官は裁判にパソコンを持ち込み、裁判の間、ずっとパソコンを打ち、パソコンを見ているらしい。それは、法律条文や判例を現実の事件と照合しているのだろう。つまり、司法試験に合格した後では、自分の頭の中に法律知識を残す必要もあまりないわけだ。データの記憶に関しては、パソコンが頭脳の代わりをしてくれるのだから。
もっと極端に言えば、素人でも、必要情報範囲を知っていれば、後はパソコンにその情報を打ち込んで、答えを得ることができるようになるだろう。
医療を例に取れば、症例確認フォーマットに従って、幾つかの病症をパソコンに打ち込めば、それらの病症が発現する可能性のある病名が検索される。そこで、さらに精細なデータを打ち込んで、病名を確定する。その上で、病院とコネクトし、医者がそのデータと結論を確認してOKとなれば、治療が開始されるわけである。
つまり、患者が自分の状況を完全に把握した医療が行われることになる。
もちろん、そんな面倒なことはいやだ、というのなら、これまで通りに医者にすべてをお任せの医療を受ければいいだけのことである。
インターネットを通じて膨大な情報倉庫にアクセスできるのであるから、現代の人間は中学までの教育を終えれば、後は自己教育で何の勉強でもできる。これまでのように、知識の独占や権威付けによって専門家が飯を食うと言う時代ではなくなる。全員がアマチュアで全員が専門家という時代になる。ある意味では近代以前に逆戻りである。
法律なども、その主な仕事は検索である。つまり、現実の事件を法律と判例に照合する、というのが主な仕事内容だ。これこそ、まさしくロボット的仕事であり、「裁判などはコンピュータに任せておけ」と言いたいくらいである。そのほうが冤罪も捻じ曲げも国策裁判もなくなるだろうし、裁判処理期間は圧倒的に短くなるはずだ。私が被告の立場なら、人間の裁判官よりもコンピュータの裁判官に任せたい。
もう少し庶民生活に密着したIT利用を考えてみる。
ITの特長は「文書化」にある、というのが私の考えである。もちろん、文書には絵図やグラフなども含める。つまり、テレビやラジオのような一方通行のメディアや、電話のような音声だけの情報機器とは異なり、ITは文書や絵図が即座にでき、かつ双方向性の伝達対象になったというのが画期的なところである。
「文書化」が容易になったというだけでも、革命的な進歩である。文書が簡単に書ける、その恩恵は計り知れない。子供がワープロ打ちを学べば、パソコンで文書を書くことで、膨大な語彙を覚える道が開ける。書いた言葉が即座に漢字に変換されるのだから、それを見て漢字を覚えていくし、あやふやな知識は即座に辞書機能を使って確認できる。また国語辞典に載らない言葉でもインターネットで調べることができる。毒男はブスな男ではなく独身男だとか、鬼女は鬼のような女性ではなく、既婚女性だとかは、国語辞典では調べられない。
つまり、パソコンが一台あれば、その気になれば、自分自身の頭脳のデータバンクをどこまでも拡大できるのである。
そういう「教育手段としてのパソコン」が、ITの利点の第一点である。
次に、「娯楽手段としてのパソコン」が第二点。これは説明不要だろう。
では、「生産手段としてのパソコン」あるいは「経済発展手段としてのパソコン」はどうか。
パソコンが生産手段になるのは、芸術創造の分野に限定されるのではないか、と私は思っている。そして「経済発展手段としてのパソコン(IT)」に関しては、むしろその使用による合理化や効率化は雇用減少と経済縮小につながることが多い、というのが前半で私が述べたことだ。
もちろん、創造性というものは芸術分野だけには限定されない。商業芸術というものもある。また、学術研究でパソコンが活躍することは可能だし、その結果が実業に反映されることもあるだろう。
これまではITが企業合理化にのみ用いられ、それが雇用減少と経済縮小の一大原因になってきた。その合理化が限界に来たら、今度はITが企業活動でも創造的に使われる段階が来るのではないだろうか。
しかし、具体的には? となると、残念ながら、私はその答えは持ち合わせていない。現実生活で我々が必要としているもの、いわゆる「衣食住」は、ITとはほとんど無関係なのである。特に農業や水産業などの第一次産業では、ITはお役所などが装飾的に使用するだけだろう。ITとは人間で言えば頭脳や神経組織である。頭脳や神経だけが発達した人間というものは、あまり健全なものではない。ITはあくまで頭脳補助、神経補助の道具である、という姿勢が社会全体を健全に保つのではないかと思われる。
こう考えてくると、ITが社会を(精神面は別として)豊かにするということにはなりそうもない。なぜなら、ITは効率化を推進するものであり、効率化=人件費削減という等式が根本に動かしがたくあるからだ。しかし、見方を変えると、それは労働がどんどん不要になる、ということでもある。つまり、「働かなくてもいい」のだ。たとえば、これまで8時間労働だったものを、6時間労働にすればいいわけだ。これからの社会は6時間労働を原則とするようにすればいい。もちろん、それで同じ賃金を払うことは雇用者側が拒否するだろう。会社側は6時間労働に対しては、6時間分を払えばいい。労働者個々の所得は減少するが、雇用は守られる。何なら、4時間労働にしてもいいだろう。
まあ、今述べたのは現段階では机上の空論であるが、未来社会においては4時間労働が当たり前になっている、と私は想像している。つまり、機械化やIT化によって、生産に必要な労働はどんどん少なくなっていくからである。問題は、今の社会システムでは、機械化やIT化の進展が失業につながっていることなのだ。
しかし、合理化=必要労働減少ととらえれば、そこで「不要人員解雇」とせず、むしろ「労働時間短縮」と「人員増加」でまかなう方法もあるのだ。要するに、8時間労働の人間3人は6時間労働の人間4人に等しいし、4時間労働の人間6人に等しい。合理化と共に失業者を増やすのではなく、むしろ雇用を促進することも可能なのである。こうして雇用を促進した企業には税制上の恩恵を与えることで、国全体の失業率を下げていけるだろう。失業者数が減れば、政府が失業手当に出す金も減り、企業に与えた税制上の優遇分の金はすぐにカバーされる。
問題は、利益追求が至上命題である企業は、5人でやっていた仕事が4人でできるなら、当然、1人を首にする、という方向でしか動かないことである。これが先進国における失業率激増の根本理由だ。
このベクトルを変えるには、企業に対し、雇用促進のインセンティブを与えねばならない。それが国家のやるべきことなのである。それはプラスのインセンティブ(賞)でも、マイナスのインセンティブ(罰)でも、どちらでもいい。それができるのは、国家なのである。新自由主義経済の「レッセ・フェール(自由放任)」のままでは、ほとんどすべての労働者は過酷な労働と低賃金への道を進んでいくしかないのである。
ITは確かに業務の効率化に役立つ。しかし、効率化とは、たとえばこれまで五人でやっていたことが二人でできる、というようなことだ。それが効率化の意味である。具体的に言えば、これまで事務員や秘書がやっていた仕事を、パソコンを使って事務員や秘書以外の人がやるというようなことだ。そうすれば、大体の企業では事務員や秘書を首にするだろう。そして残った人間の仕事は増える。それが効率化なのだから、効率化とは、いわば個々の被雇用者に対する労働強化がなされ、経営者や企業幹部の得る分の金が増えることである。つまり、IT革命は被雇用者の平均所得を減少させているわけだ。ITはもっと良い方向に使えないものなのかどうか、それを考察してみよう。
下記記事では、中小企業同士の連携、というアイデアを打ち出しているが、はたしてどの程度の可能性があるだろうか。また、それはITを前提とすることが条件なのだろうか。
いったん、下記記事を読んでもらった後で、ITによって社会を良い方向に変える道を模索してみたい。
(以下「JBプレス」から引用)
その場合、どのように内需を拡大させるかの戦略が正否のカギを握る。需要を減退させている原因は、団塊世代の引退というような人口動態による要因もあるが、IT革命が浸透する中で構造的に需要が失われていることにも着目する必要がある。
IT化の波に抗うことはできない。だとすれば、その構造を逆手に取ってITを最大限に利用しながら需要を拡大させなければならない。
実はITには面白い性質がある。大企業のようなピラミッド組織でIT化が進むと、効率がどんどん良くなって非雇用圧力が高まる。しかし、中小企業同士が連携するようなケースを考えると、それまでなかった発想が生まれ新しいニーズを生み出す。
進みすぎた東京一極集中から脱し豊かで特色のある地方を作るという日本が抱えている大きな課題に異論を唱える人は少ないと思う。中央集権的な日本の構造を地方分権に変えた時、IT化は需要創造という意味で強い武器となる。自立分散型のシステムと相性が良いのである。
消費地と産地が結びついて、消費者の声が産地にきめ細かく届くことで今までの農業の形が大きく変わるかもしれない。北海道と九州の中小企業が連携して新しいビジネスが始まるかもしれない。
(引用終わり)
実際、上の記事で書いてある「消費地と産地を結びつける」ことに近いビジネスは始まっている。その仕事を総括的に言えば、「オンデマンド・ビジネス」である。つまり、これまでのように店舗に商品を並べて、客が買うのを待つのではなく、客の注文に即座に応えるビジネスだ。デスクトップ・パブリッシングなどもその一つである。たとえば、絶版になった過去の漫画作品を、注文に応じて、即座に製本する、というような事は可能である。もちろん、美しい製本はできないにしても、その作品本体だけが欲しい、もっと言えば、その作品を読むという経験だけが欲しいという人間にとっては、それで十分なのである。
まだビジネス化されていないが、音楽などでもそれは可能だろう。たとえば、CD化されていない演奏を試聴して、気に入れば、それをその場でCD化するという商売だ。著作権の対象外であるクラシックの楽曲ならば、それも容易だろう。ただし、演奏家の著作権という問題もあるが。
別の形態のITビジネスを考えてみよう。
たとえば、前記記事に書いてある中小企業同士の連携や、産地と消費地の連携である。もちろん、連携することは簡単だし、それをビジネス化しようとして動いている向きもあるだろう。しかし、それによってどのような結実が得られるかというと、これはまだはっきりしない。多くの新興産業の例にもれず、期待感ばかりが先走って、ブームが終わった後は死屍累々という結果にならないとも限らない。つまり、連携すればいい結果が出る、というのはただの希望的観測でしかないのである。
上記記事では、消費者の希望が生産者に届くことで、生産内容が変わる可能性がある、と言っているが、消費者の意向を考えない生産者はほとんど存在しないだろう。なのに消費者の声を生産者が無視するのは、その声がナンセンスであるか生産者にとってマイナスになるからである。
たとえば、農薬を使わない農作物が欲しい、と言うので無農薬野菜を作る。すると、虫に食われた跡のある野菜は買わない、ということになって、作った農家は大損をするわけだ。消費者の声など、そんなものだろう。
では、中小企業同士の連携はどうか。
これには、IT云々は別として、或る可能性がある、と思う。たとえば、トヨタ傘下の下請け企業がトヨタと手を切り、新しい会社を立ち上げるわけだ。トヨタはもともと生産のほとんどを下請けに依存していたのだから、下請け会社連合がトヨタ本社と無関係に自動車を作ることはできるはずだ。そうすれば、これまでトヨタ本社に利益の大半を吸い上げられていた下請け会社連合は、利益のほとんどを自分たちの手に入れることができる。まあ、そういうことができないように契約関係や法律で雁字搦めになっているのだろうが、原理としては可能である。
これはあらゆる分野で言えることで、生産的存在と寄生的存在のうち寄生的存在が利益の大半を収奪しているというのが現代社会の特質である。ソニーのストリンガー会長など存在しなくてもソニーという会社にはまったく影響はないだろう。しかし、彼に10億円近い年俸が支払われているのである。東電幹部や原発関連の天下り団体への膨大な出費は、多くの人が知るところだ。そういう「社会全体の合理化」は必要だろうが、それはITとは無関係な話である。
話が逸れたので、もう一度、ITを社会発展に生かす方法を考えてみる。
ITの持つ特性は、膨大なデータを一瞬で処理できることである。ただし、その処理を指示するのはやはり人間であり、その人間のIT操作能力の有能性に応じてITの利用可能性は天地ほどの開きが出てくる。
データ処理が業務の主要部分である仕事においては、ITは今後飛躍的な活用が見込める。たとえば、裁判や医療である。法律知識や医療知識をいくら覚えても、記憶量と記憶の正確さではコンピュータにはかなうはずがない。したがって、覚える部分はパソコンに任せ、現実問題とのコネクトだけを人間が行うことにこれからはなるだろう。いや、現実に、一部ではすでにそうなっているのではないか?
最近の裁判官は裁判にパソコンを持ち込み、裁判の間、ずっとパソコンを打ち、パソコンを見ているらしい。それは、法律条文や判例を現実の事件と照合しているのだろう。つまり、司法試験に合格した後では、自分の頭の中に法律知識を残す必要もあまりないわけだ。データの記憶に関しては、パソコンが頭脳の代わりをしてくれるのだから。
もっと極端に言えば、素人でも、必要情報範囲を知っていれば、後はパソコンにその情報を打ち込んで、答えを得ることができるようになるだろう。
医療を例に取れば、症例確認フォーマットに従って、幾つかの病症をパソコンに打ち込めば、それらの病症が発現する可能性のある病名が検索される。そこで、さらに精細なデータを打ち込んで、病名を確定する。その上で、病院とコネクトし、医者がそのデータと結論を確認してOKとなれば、治療が開始されるわけである。
つまり、患者が自分の状況を完全に把握した医療が行われることになる。
もちろん、そんな面倒なことはいやだ、というのなら、これまで通りに医者にすべてをお任せの医療を受ければいいだけのことである。
インターネットを通じて膨大な情報倉庫にアクセスできるのであるから、現代の人間は中学までの教育を終えれば、後は自己教育で何の勉強でもできる。これまでのように、知識の独占や権威付けによって専門家が飯を食うと言う時代ではなくなる。全員がアマチュアで全員が専門家という時代になる。ある意味では近代以前に逆戻りである。
法律なども、その主な仕事は検索である。つまり、現実の事件を法律と判例に照合する、というのが主な仕事内容だ。これこそ、まさしくロボット的仕事であり、「裁判などはコンピュータに任せておけ」と言いたいくらいである。そのほうが冤罪も捻じ曲げも国策裁判もなくなるだろうし、裁判処理期間は圧倒的に短くなるはずだ。私が被告の立場なら、人間の裁判官よりもコンピュータの裁判官に任せたい。
もう少し庶民生活に密着したIT利用を考えてみる。
ITの特長は「文書化」にある、というのが私の考えである。もちろん、文書には絵図やグラフなども含める。つまり、テレビやラジオのような一方通行のメディアや、電話のような音声だけの情報機器とは異なり、ITは文書や絵図が即座にでき、かつ双方向性の伝達対象になったというのが画期的なところである。
「文書化」が容易になったというだけでも、革命的な進歩である。文書が簡単に書ける、その恩恵は計り知れない。子供がワープロ打ちを学べば、パソコンで文書を書くことで、膨大な語彙を覚える道が開ける。書いた言葉が即座に漢字に変換されるのだから、それを見て漢字を覚えていくし、あやふやな知識は即座に辞書機能を使って確認できる。また国語辞典に載らない言葉でもインターネットで調べることができる。毒男はブスな男ではなく独身男だとか、鬼女は鬼のような女性ではなく、既婚女性だとかは、国語辞典では調べられない。
つまり、パソコンが一台あれば、その気になれば、自分自身の頭脳のデータバンクをどこまでも拡大できるのである。
そういう「教育手段としてのパソコン」が、ITの利点の第一点である。
次に、「娯楽手段としてのパソコン」が第二点。これは説明不要だろう。
では、「生産手段としてのパソコン」あるいは「経済発展手段としてのパソコン」はどうか。
パソコンが生産手段になるのは、芸術創造の分野に限定されるのではないか、と私は思っている。そして「経済発展手段としてのパソコン(IT)」に関しては、むしろその使用による合理化や効率化は雇用減少と経済縮小につながることが多い、というのが前半で私が述べたことだ。
もちろん、創造性というものは芸術分野だけには限定されない。商業芸術というものもある。また、学術研究でパソコンが活躍することは可能だし、その結果が実業に反映されることもあるだろう。
これまではITが企業合理化にのみ用いられ、それが雇用減少と経済縮小の一大原因になってきた。その合理化が限界に来たら、今度はITが企業活動でも創造的に使われる段階が来るのではないだろうか。
しかし、具体的には? となると、残念ながら、私はその答えは持ち合わせていない。現実生活で我々が必要としているもの、いわゆる「衣食住」は、ITとはほとんど無関係なのである。特に農業や水産業などの第一次産業では、ITはお役所などが装飾的に使用するだけだろう。ITとは人間で言えば頭脳や神経組織である。頭脳や神経だけが発達した人間というものは、あまり健全なものではない。ITはあくまで頭脳補助、神経補助の道具である、という姿勢が社会全体を健全に保つのではないかと思われる。
こう考えてくると、ITが社会を(精神面は別として)豊かにするということにはなりそうもない。なぜなら、ITは効率化を推進するものであり、効率化=人件費削減という等式が根本に動かしがたくあるからだ。しかし、見方を変えると、それは労働がどんどん不要になる、ということでもある。つまり、「働かなくてもいい」のだ。たとえば、これまで8時間労働だったものを、6時間労働にすればいいわけだ。これからの社会は6時間労働を原則とするようにすればいい。もちろん、それで同じ賃金を払うことは雇用者側が拒否するだろう。会社側は6時間労働に対しては、6時間分を払えばいい。労働者個々の所得は減少するが、雇用は守られる。何なら、4時間労働にしてもいいだろう。
まあ、今述べたのは現段階では机上の空論であるが、未来社会においては4時間労働が当たり前になっている、と私は想像している。つまり、機械化やIT化によって、生産に必要な労働はどんどん少なくなっていくからである。問題は、今の社会システムでは、機械化やIT化の進展が失業につながっていることなのだ。
しかし、合理化=必要労働減少ととらえれば、そこで「不要人員解雇」とせず、むしろ「労働時間短縮」と「人員増加」でまかなう方法もあるのだ。要するに、8時間労働の人間3人は6時間労働の人間4人に等しいし、4時間労働の人間6人に等しい。合理化と共に失業者を増やすのではなく、むしろ雇用を促進することも可能なのである。こうして雇用を促進した企業には税制上の恩恵を与えることで、国全体の失業率を下げていけるだろう。失業者数が減れば、政府が失業手当に出す金も減り、企業に与えた税制上の優遇分の金はすぐにカバーされる。
問題は、利益追求が至上命題である企業は、5人でやっていた仕事が4人でできるなら、当然、1人を首にする、という方向でしか動かないことである。これが先進国における失業率激増の根本理由だ。
このベクトルを変えるには、企業に対し、雇用促進のインセンティブを与えねばならない。それが国家のやるべきことなのである。それはプラスのインセンティブ(賞)でも、マイナスのインセンティブ(罰)でも、どちらでもいい。それができるのは、国家なのである。新自由主義経済の「レッセ・フェール(自由放任)」のままでは、ほとんどすべての労働者は過酷な労働と低賃金への道を進んでいくしかないのである。
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