「世に倦む日々」から抜粋転載。
私は「頑張らなくていい」派であり、おそらく「左翼リベラル」派に分類されるかと思う。もっとも、「世に倦む日々」氏自体が左翼リベラル派であり、これは自陣営への批判である。つまり、安保闘争世代の左翼リベラルからの、「脱構築」世代左翼リベラル批判だ。もっとも、私は筆者の言う「脱構築」なるものがよく分からないのだが、要するに教条的な政治思想(大きな物語)を否定し、もっと自然な人間性を大事にしよう、という思想かと思う。私は「脱構築」を論じた文章をまったく読んだことが無いので、これは単なる想像である。下記文章の「頑張らなくていい」思想が脱構築派のものとされているから、そう想像しただけだ。そして、それならば私は脱構築派である。
安保闘争世代の猪突猛進的な政治行動に対しては、その勇気だけは尊敬するが、あまりにも頭が悪すぎる行動だった、というのが私の評価だ。あのおかげで日本の民主主義はむしろ悪化したのではないか。つまり、政治的行動など無意味だ、むしろ害悪(自分や周囲の損になる行動)だ、という思想を日本国民に植え付けたのが学生運動、すなわち安保闘争だったのだ。
もちろん、私は日米安全保障条約こそが日本を属国状態に縛り付けている根幹だ、と思っている。それはいずれ清算し、新たな日米関係を築かねばならないだろう。しかし、私が言うのは、安保のことではなく、安保闘争、すなわち学生運動のことである。あれほど拙劣な政治運動はかつてなかったと思う。百姓一揆のほうがはるかにマシである。しかも、百姓一揆は、ある程度の良い政治的結果を残したが、学生運動が遺したのは政治への絶望と虚無感だけだ。それは今なお日本人の政治意識を汚染している。
ところで、私は、下記文章は論理のズレがあると思う。「君たちはどう生きるか」に代表される戦後民主主義の人間精神の「頑張る」思想とは、要するに、社会の現実を知る努力をし、より良い社会を作るために生きて行こうという思想である。それが現在の自分の状態を否定するという苦痛を伴うから、そこに「頑張る」という精神的営為が必要とされることになる。脱構築派(?)がもしも筆者が言うように「頑張るな」と言うならば、それは「無意味な頑張りはする必要が無い。それどころか有害だ」という意味ではないか。意味のある頑張りまで否定するような「頑張るな」派がいるとは思えない。
すなわち、この文章において、筆者自身、「脱構築派をどうしても否定したい」というセンチメントに支配されて、論理や理性を失ってしまったのではないか、と思われるのである。(笑)
しかし、
「「がんばらなくていい」の発想と諦観の裏側には、「がんばっても変われない」という経済社会の構造の真実がある。新自由主義の支配が社会の隅々まで及び、アリ地獄のように弱者が抜け出せない物理的な実態がある。」
という指摘は重要である。で、筆者は「がんばっても変われない」経済社会を、どうすれば変えられると言うのだろうか。
(以下引用)
この国の左翼リベラルの思考はセンチメントに支配されるようになった。論理や理性を中心に置かなくなった。正義と真実をひたむきに追求する、戦後民主主義的な市民の知性と態度を失った。退嬰して、感情で動く生きものになった。
丸山真男の「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」の中に、こういう一節がある。「けれども、『君たちは・・・』の叙述は、過去の自分の魂の傷口をあらためて生々しく開いて見せるだけでなく、そうした心の傷つき自体が人間の尊厳の楯の反面をなしている、という、いってみれば精神の弁証法を説くことによって、何とも頼りなく弱々しい自我にも限りない慰めと励ましを与えてくれます。パスカルの有名な言葉に始まる『人間の悩みと、過ちと、偉大さとについて』と題する『おじさんのノート』(第七章)はその凝縮です。自分の弱さが過ちを犯させたことを正面から見つめ、その苦しさに耐える思いの中から、新たな自信を汲み出していく生き方です。(略)どんなに弱く臆病な人間でも、それを自覚させるような経験を通じて、モラルの面でわずかなりとも『成長』が可能なのだ、ということを学んだ点で、中学一年生のコペル君と、大学の助手の私との間には、あきらかに共鳴現象が働いたのです」(岩波文庫 P.321-323)。吉野源三郎のこの古典が戦後日本の教育思想の原点であるという点、異論はないだろう。戦後民主主義の時代、丸山真男や吉野源三郎の人格教育の考え方は、弱い者が苦悩を克服して強い者に転化するという、弁証法的な、ベートーベン的な変化と成長の認識が根底にあった。弱い者が力をつけ、生きる強さを獲得し、市民社会を健全に担う主体性になり、社会をより善く改造していくのだという、そういう人間観のコンセンサスがあった。
こうした戦後民主主義の思想の下で、現在の50代以上の世代は教育され、精神のカーネルを構成している。が、最近は様子が変わり、人間論の言説が変化し、「がんばらなくていい」の思想が一般化した。頑張らなくていい、無理しなくていい、世界中に一つだけの花、の思想に旋回し、広範に受容され共感され、現代日本の支配的思想として定着している。私はこれを、脱構築主義の思想系として批判的に捕捉し規定する。左翼リベラルの業界のコードとプロトコルは、すでにマルクス主義でも戦後民主主義でもなく、内田樹などに典型的な脱構築主義のそれに取って代わった。脱構築主義はマルクスと丸山真男の否定であり、「君たちはどう生きるか」にある近代的なヒューマニズムを否定した言説体系として積み上がっている。それを悪しき近代主義として排斥する。とまれ、丸山真男や吉野源三郎の視角からすれば、この事件の被害者の少年の母親は、コペル君のように、自らの魂の傷口を開いて見つめ、精神の弁証法で成長しなくてはならないのである。そのことが期待され当為されているのだ。だが、「がんばらなくていい」の思想は、そんな無理をすることは鬱病になるだけだからやめろと言い、精神の弁証法による成長の論理を否定するのである。弱者は弱者のままでよく、行政が貧困対策のメニューを揃えているから、それに頼りながら無理せず分相応に生きろと、そう諭すのだ。弱者は弱者のままでよい。この思想からは、弱者が市民的主体として社会を改造する担い手に転生する契機は出ない。
「がんばらなくていい」の発想と諦観の裏側には、「がんばっても変われない」という経済社会の構造の真実がある。新自由主義の支配が社会の隅々まで及び、アリ地獄のように弱者が抜け出せない物理的な実態がある。戦後民主主義の人間論の背景と土台には、個人が努力すれば報われる大塚久雄的な中産階級の社会原理があった。人に対する優しさ、人に対する厳しさ、その意味がすっかり変わり、戦後民主主義の基礎にあった弁証法的な人間論が消え、「母親も被害者でかわいそうだから責めるのはよせ」が結論になり、その認識と感性が社会の合意になった。「がんばらなくていい」の合唱、弱者への同情論とセンチメントの人工的な横溢、その中で、残酷な殺人事件を媒介したあらゆる責任者の不作為が不問にされ、霞をかけたように周到に不可視化され免責されてゆく。警察とマスコミの手で。正義と真実を求める市民的な態度が無意味化され、ステイブルな骨格と筋肉を持っていた日本人の精神が脆く崩されるままにされている。脱構築主義の阿片的毒素に蝕まれて。
私は「頑張らなくていい」派であり、おそらく「左翼リベラル」派に分類されるかと思う。もっとも、「世に倦む日々」氏自体が左翼リベラル派であり、これは自陣営への批判である。つまり、安保闘争世代の左翼リベラルからの、「脱構築」世代左翼リベラル批判だ。もっとも、私は筆者の言う「脱構築」なるものがよく分からないのだが、要するに教条的な政治思想(大きな物語)を否定し、もっと自然な人間性を大事にしよう、という思想かと思う。私は「脱構築」を論じた文章をまったく読んだことが無いので、これは単なる想像である。下記文章の「頑張らなくていい」思想が脱構築派のものとされているから、そう想像しただけだ。そして、それならば私は脱構築派である。
安保闘争世代の猪突猛進的な政治行動に対しては、その勇気だけは尊敬するが、あまりにも頭が悪すぎる行動だった、というのが私の評価だ。あのおかげで日本の民主主義はむしろ悪化したのではないか。つまり、政治的行動など無意味だ、むしろ害悪(自分や周囲の損になる行動)だ、という思想を日本国民に植え付けたのが学生運動、すなわち安保闘争だったのだ。
もちろん、私は日米安全保障条約こそが日本を属国状態に縛り付けている根幹だ、と思っている。それはいずれ清算し、新たな日米関係を築かねばならないだろう。しかし、私が言うのは、安保のことではなく、安保闘争、すなわち学生運動のことである。あれほど拙劣な政治運動はかつてなかったと思う。百姓一揆のほうがはるかにマシである。しかも、百姓一揆は、ある程度の良い政治的結果を残したが、学生運動が遺したのは政治への絶望と虚無感だけだ。それは今なお日本人の政治意識を汚染している。
ところで、私は、下記文章は論理のズレがあると思う。「君たちはどう生きるか」に代表される戦後民主主義の人間精神の「頑張る」思想とは、要するに、社会の現実を知る努力をし、より良い社会を作るために生きて行こうという思想である。それが現在の自分の状態を否定するという苦痛を伴うから、そこに「頑張る」という精神的営為が必要とされることになる。脱構築派(?)がもしも筆者が言うように「頑張るな」と言うならば、それは「無意味な頑張りはする必要が無い。それどころか有害だ」という意味ではないか。意味のある頑張りまで否定するような「頑張るな」派がいるとは思えない。
すなわち、この文章において、筆者自身、「脱構築派をどうしても否定したい」というセンチメントに支配されて、論理や理性を失ってしまったのではないか、と思われるのである。(笑)
しかし、
「「がんばらなくていい」の発想と諦観の裏側には、「がんばっても変われない」という経済社会の構造の真実がある。新自由主義の支配が社会の隅々まで及び、アリ地獄のように弱者が抜け出せない物理的な実態がある。」
という指摘は重要である。で、筆者は「がんばっても変われない」経済社会を、どうすれば変えられると言うのだろうか。
(以下引用)
この国の左翼リベラルの思考はセンチメントに支配されるようになった。論理や理性を中心に置かなくなった。正義と真実をひたむきに追求する、戦後民主主義的な市民の知性と態度を失った。退嬰して、感情で動く生きものになった。
丸山真男の「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」の中に、こういう一節がある。「けれども、『君たちは・・・』の叙述は、過去の自分の魂の傷口をあらためて生々しく開いて見せるだけでなく、そうした心の傷つき自体が人間の尊厳の楯の反面をなしている、という、いってみれば精神の弁証法を説くことによって、何とも頼りなく弱々しい自我にも限りない慰めと励ましを与えてくれます。パスカルの有名な言葉に始まる『人間の悩みと、過ちと、偉大さとについて』と題する『おじさんのノート』(第七章)はその凝縮です。自分の弱さが過ちを犯させたことを正面から見つめ、その苦しさに耐える思いの中から、新たな自信を汲み出していく生き方です。(略)どんなに弱く臆病な人間でも、それを自覚させるような経験を通じて、モラルの面でわずかなりとも『成長』が可能なのだ、ということを学んだ点で、中学一年生のコペル君と、大学の助手の私との間には、あきらかに共鳴現象が働いたのです」(岩波文庫 P.321-323)。吉野源三郎のこの古典が戦後日本の教育思想の原点であるという点、異論はないだろう。戦後民主主義の時代、丸山真男や吉野源三郎の人格教育の考え方は、弱い者が苦悩を克服して強い者に転化するという、弁証法的な、ベートーベン的な変化と成長の認識が根底にあった。弱い者が力をつけ、生きる強さを獲得し、市民社会を健全に担う主体性になり、社会をより善く改造していくのだという、そういう人間観のコンセンサスがあった。
こうした戦後民主主義の思想の下で、現在の50代以上の世代は教育され、精神のカーネルを構成している。が、最近は様子が変わり、人間論の言説が変化し、「がんばらなくていい」の思想が一般化した。頑張らなくていい、無理しなくていい、世界中に一つだけの花、の思想に旋回し、広範に受容され共感され、現代日本の支配的思想として定着している。私はこれを、脱構築主義の思想系として批判的に捕捉し規定する。左翼リベラルの業界のコードとプロトコルは、すでにマルクス主義でも戦後民主主義でもなく、内田樹などに典型的な脱構築主義のそれに取って代わった。脱構築主義はマルクスと丸山真男の否定であり、「君たちはどう生きるか」にある近代的なヒューマニズムを否定した言説体系として積み上がっている。それを悪しき近代主義として排斥する。とまれ、丸山真男や吉野源三郎の視角からすれば、この事件の被害者の少年の母親は、コペル君のように、自らの魂の傷口を開いて見つめ、精神の弁証法で成長しなくてはならないのである。そのことが期待され当為されているのだ。だが、「がんばらなくていい」の思想は、そんな無理をすることは鬱病になるだけだからやめろと言い、精神の弁証法による成長の論理を否定するのである。弱者は弱者のままでよく、行政が貧困対策のメニューを揃えているから、それに頼りながら無理せず分相応に生きろと、そう諭すのだ。弱者は弱者のままでよい。この思想からは、弱者が市民的主体として社会を改造する担い手に転生する契機は出ない。
「がんばらなくていい」の発想と諦観の裏側には、「がんばっても変われない」という経済社会の構造の真実がある。新自由主義の支配が社会の隅々まで及び、アリ地獄のように弱者が抜け出せない物理的な実態がある。戦後民主主義の人間論の背景と土台には、個人が努力すれば報われる大塚久雄的な中産階級の社会原理があった。人に対する優しさ、人に対する厳しさ、その意味がすっかり変わり、戦後民主主義の基礎にあった弁証法的な人間論が消え、「母親も被害者でかわいそうだから責めるのはよせ」が結論になり、その認識と感性が社会の合意になった。「がんばらなくていい」の合唱、弱者への同情論とセンチメントの人工的な横溢、その中で、残酷な殺人事件を媒介したあらゆる責任者の不作為が不問にされ、霞をかけたように周到に不可視化され免責されてゆく。警察とマスコミの手で。正義と真実を求める市民的な態度が無意味化され、ステイブルな骨格と筋肉を持っていた日本人の精神が脆く崩されるままにされている。脱構築主義の阿片的毒素に蝕まれて。
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