だいぶ前に書いた、日本の農業の問題点についての文章だが、近いうちにアップすると言いながら、緊急に紹介したい記事が毎日出てきたために後廻しになった。この「農業新規参入の困難さ」を解消しないと、日本の農業は滅びるだろう。つまり、現在の就農者を保護することが、農業全体を滅びさせる、ということだ。部分的には正しくても、全体を総合すると誤りになる、ということが社会学的問題ではときどきあるのである。ただし、私のこの文章は、だからTPPを受け入れろ、とかいう話ではない。日本が自ら農業政策の方向転換をしろ、ということだ。TPPは日本を滅ぼす悪魔の事案である。
「ドイツから学ぼう」というブログから転載。
記事中の
役場の農業委員会を尋ねると、田を収得するためには農業者の資格が必要であると、剣もほろろであった。、
よそ者で、しかも有機農業志願であるため、当時の農業委員会から目の敵とされた時代であった。
それでも敢えて農業者の資格を得る道を問い正すと、5反(1反は300坪)以上の農地を農地利用法に従って借りて、農業生産の実績を上げ、それを農業委員会が査定し、認定するという回答であった。
私は1反くらいの家族が自給できる有機米の栽培を考えていたことから、それは気の遠くなる話であり、一旦は断念した。
という部分は、日本の農政が既成農家保護だけを考え、農業への新規加入を拒むギルド維持活動しかしてこなかったことを如実に示している。簡単に言えば、「すでに農民である人間、すでに農地を持っている人間でない限り農地は与えません」という凄まじい論法である。意味わかります? 要するに、新しく農業に参入することは許しません、と国家が決めていたのである。
日本の農業は政策的に、意図的に衰退させられてきた、と言える。
既存農家保護(補助金)によって農業のコストがどんどん上がって国際競争力を失ってしまったのは、漁業にも共通する構造である。
つまり、意図的な第一次産業潰しだ。「保護することによって当事者を劣化させ、最終的には破滅させる」わけである。これを考えすぎだと言うのなら、このシステムによる第一次産業衰退ははるか昔から見えていたのに、この根本の構造をずっと続けてきたのはおかしいだろう。
そして、日本の第一次産業は保護されて国際競争力が無いからTPP参加を機会に退場して貰いましょう、となったわけである。政治によって衰退させられてきた結果がこれである。これは農家や漁家の自己責任か?
在来の農家や漁家が壊滅した後、外資によって支配された農漁業が、日本国民から収奪しにかかるのは目に見えている。彼らにとって我々は黄色い猿にしかすぎないのだから。
(以下引用)
2011-10-09
(42)検証シリーズ7、日本の農業に未来はあるか。第1回私の農的暮らしから見た日本の農業
私自身今から25年ほど前に妙高に移り住み、黒姫山の麓で有機農業に取り組んだ。
既に周辺の畑作農業は蕎麦の栽培以外は殆ど破綻していたことから、タダ同前で貸してもらうことができた。
しかし田は補助金と高い米価を維持する食管制度で、農家にとって打ちでの小槌であり、農協及び農業委員会が取り仕切っていたことから借りることが困難であった。
それ故田を収得することを選択せざるを得なかった。
農家の破産で、競売に出される田は決して少なくなかったからだ。
役場の農業委員会を尋ねると、田を収得するためには農業者の資格が必要であると、剣もほろろであった。、
よそ者で、しかも有機農業志願であるため、当時の農業委員会から目の敵とされた時代であった。
それでも敢えて農業者の資格を得る道を問い正すと、5反(1反は300坪)以上の農地を農地利用法に従って借りて、農業生産の実績を上げ、それを農業委員会が査定し、認定するという回答であった。
私は1反くらいの家族が自給できる有機米の栽培を考えていたことから、それは気の遠くなる話であり、一旦は断念した。
しかし私の田舎での農的暮らしには、お米を自給することが組み込まれていたことから、農業者の資格を取ることにした。
山間の農業放棄地一町ほどを借りて、見よう見まねでソバ7反とトウモロコシ3反を有機栽培した。
トウモロコシは収穫間際に、熊に一度に100本ほどを喰い荒らされたが、宅配との提携で1000本ほどを販売できた。
それにもかかわらず農業委員会の査定では、草が取りきれていないという理由で認定を拒否された。
そのため、長野県庁に抗議に出向かなくてはならなかった。
当時の県庁はまさに抗議をたらい回しする典型であり、若い農水省からの出向担当課長はあくまでも現場に要求することを求めた。
しかし額に汗した一年間の農業は私を鍛え、そのようなたらい回しに負けない力を与えてくれていた。
結局私の正当性が受け入れられ、田7反を収得することで私のコメ作りが始まった。
しかしコメの有機栽培は最初の数年こそ必死に栽培したが、除草が余りにも大変であり、苦労して栽培した有機栽培米も労力に見合う値段で売ることは難しかった。
したがって数年後からは、有機農業志願の若者に半分ほどの田を貸し、当初の自給自足を目標とした農的暮らしとなった。
そうした農的暮らしを私が2007年のベルリン暮らしを始めるまで続ける中で、日本の農業は担い手の高齢化が進み、農水省のかけ声とは逆に活気が失われて行った。
また、田んぼの自然環境を守る役割や貯水機能が声高に唱えられていたにもかかわらず、私の周辺の田んぼは水路のコンクリート化によって水生の生き物も激減していった。
また、90年代の中頃まではイナゴが何キロも佃煮に出来るほど取れたが、長期間効果のある除草剤の影響によって、現在ではごく僅かになってしまった。
また、私の田んぼでは最初除草のためにコイやフナの稚魚を飼っていたが、刈り入れの頃になると完全に山からの水が切られ、青鷺などの餌食になった。
それは農水省が強調する貯水機能の役割も、口先ばかりで半年しか果していないことを意味している。
また、政府の農業政策で大豆などの転作がなされるようになったが、転作の確認がなされると収穫されずに放置されることもしばしば目にした。
しかし高齢化した農業者がそのようにずるく立ち回らなくては暮らしが苦しい現状があり、補助金で農家を釣るというやり方では、農業が再生するどころか衰退する一方であった。
また、農業志願者のインターシップ(研修)もタダ働きさせられるだけでなく、慣れない仕事であることから腰などを痛めたということも耳にした。
しかもそうした農業志願者を受け入れる農家は、息子さえ継承することを見限る農家だった。
私は今年1011年(引用者注:2011年の誤記だろう)から、また田半反、畑半反ほどの農的暮らしを始めた。
そこから見る日本の農業は、『世界5位の農業大国』といった世評とは異なり、ますます衰退を加速している。
確かに農家個別補償政策によって、これまでコメが栽培されてきた彼方此方の田で蕎麦や大豆など転作が見られるようになった。
しかし現場でのそれらの転作は見かけだけで、補助金目当てなのは一目瞭然である。
すなわち1反あたり2万円から3万5000円という高額な補助金目当ての転作であり、私の周辺では全く収量を期待しない転作であったり、借地料なしで蕎麦栽培者にこっそり貸されている。
しかし転作の田は水はけが悪いことから、労力に見合った収量が得られないという声が聞こえてくる。
このように農家個別補償政策は殆ど機能していないだけでなく、むしろ逆に農業の活力を奪っている。
すなわち国民の莫大な血税を喰い尽すだけでなく、ますます日本の農業を窮地へと追い遣っている。
「ドイツから学ぼう」というブログから転載。
記事中の
役場の農業委員会を尋ねると、田を収得するためには農業者の資格が必要であると、剣もほろろであった。、
よそ者で、しかも有機農業志願であるため、当時の農業委員会から目の敵とされた時代であった。
それでも敢えて農業者の資格を得る道を問い正すと、5反(1反は300坪)以上の農地を農地利用法に従って借りて、農業生産の実績を上げ、それを農業委員会が査定し、認定するという回答であった。
私は1反くらいの家族が自給できる有機米の栽培を考えていたことから、それは気の遠くなる話であり、一旦は断念した。
という部分は、日本の農政が既成農家保護だけを考え、農業への新規加入を拒むギルド維持活動しかしてこなかったことを如実に示している。簡単に言えば、「すでに農民である人間、すでに農地を持っている人間でない限り農地は与えません」という凄まじい論法である。意味わかります? 要するに、新しく農業に参入することは許しません、と国家が決めていたのである。
日本の農業は政策的に、意図的に衰退させられてきた、と言える。
既存農家保護(補助金)によって農業のコストがどんどん上がって国際競争力を失ってしまったのは、漁業にも共通する構造である。
つまり、意図的な第一次産業潰しだ。「保護することによって当事者を劣化させ、最終的には破滅させる」わけである。これを考えすぎだと言うのなら、このシステムによる第一次産業衰退ははるか昔から見えていたのに、この根本の構造をずっと続けてきたのはおかしいだろう。
そして、日本の第一次産業は保護されて国際競争力が無いからTPP参加を機会に退場して貰いましょう、となったわけである。政治によって衰退させられてきた結果がこれである。これは農家や漁家の自己責任か?
在来の農家や漁家が壊滅した後、外資によって支配された農漁業が、日本国民から収奪しにかかるのは目に見えている。彼らにとって我々は黄色い猿にしかすぎないのだから。
(以下引用)
2011-10-09
(42)検証シリーズ7、日本の農業に未来はあるか。第1回私の農的暮らしから見た日本の農業
私自身今から25年ほど前に妙高に移り住み、黒姫山の麓で有機農業に取り組んだ。
既に周辺の畑作農業は蕎麦の栽培以外は殆ど破綻していたことから、タダ同前で貸してもらうことができた。
しかし田は補助金と高い米価を維持する食管制度で、農家にとって打ちでの小槌であり、農協及び農業委員会が取り仕切っていたことから借りることが困難であった。
それ故田を収得することを選択せざるを得なかった。
農家の破産で、競売に出される田は決して少なくなかったからだ。
役場の農業委員会を尋ねると、田を収得するためには農業者の資格が必要であると、剣もほろろであった。、
よそ者で、しかも有機農業志願であるため、当時の農業委員会から目の敵とされた時代であった。
それでも敢えて農業者の資格を得る道を問い正すと、5反(1反は300坪)以上の農地を農地利用法に従って借りて、農業生産の実績を上げ、それを農業委員会が査定し、認定するという回答であった。
私は1反くらいの家族が自給できる有機米の栽培を考えていたことから、それは気の遠くなる話であり、一旦は断念した。
しかし私の田舎での農的暮らしには、お米を自給することが組み込まれていたことから、農業者の資格を取ることにした。
山間の農業放棄地一町ほどを借りて、見よう見まねでソバ7反とトウモロコシ3反を有機栽培した。
トウモロコシは収穫間際に、熊に一度に100本ほどを喰い荒らされたが、宅配との提携で1000本ほどを販売できた。
それにもかかわらず農業委員会の査定では、草が取りきれていないという理由で認定を拒否された。
そのため、長野県庁に抗議に出向かなくてはならなかった。
当時の県庁はまさに抗議をたらい回しする典型であり、若い農水省からの出向担当課長はあくまでも現場に要求することを求めた。
しかし額に汗した一年間の農業は私を鍛え、そのようなたらい回しに負けない力を与えてくれていた。
結局私の正当性が受け入れられ、田7反を収得することで私のコメ作りが始まった。
しかしコメの有機栽培は最初の数年こそ必死に栽培したが、除草が余りにも大変であり、苦労して栽培した有機栽培米も労力に見合う値段で売ることは難しかった。
したがって数年後からは、有機農業志願の若者に半分ほどの田を貸し、当初の自給自足を目標とした農的暮らしとなった。
そうした農的暮らしを私が2007年のベルリン暮らしを始めるまで続ける中で、日本の農業は担い手の高齢化が進み、農水省のかけ声とは逆に活気が失われて行った。
また、田んぼの自然環境を守る役割や貯水機能が声高に唱えられていたにもかかわらず、私の周辺の田んぼは水路のコンクリート化によって水生の生き物も激減していった。
また、90年代の中頃まではイナゴが何キロも佃煮に出来るほど取れたが、長期間効果のある除草剤の影響によって、現在ではごく僅かになってしまった。
また、私の田んぼでは最初除草のためにコイやフナの稚魚を飼っていたが、刈り入れの頃になると完全に山からの水が切られ、青鷺などの餌食になった。
それは農水省が強調する貯水機能の役割も、口先ばかりで半年しか果していないことを意味している。
また、政府の農業政策で大豆などの転作がなされるようになったが、転作の確認がなされると収穫されずに放置されることもしばしば目にした。
しかし高齢化した農業者がそのようにずるく立ち回らなくては暮らしが苦しい現状があり、補助金で農家を釣るというやり方では、農業が再生するどころか衰退する一方であった。
また、農業志願者のインターシップ(研修)もタダ働きさせられるだけでなく、慣れない仕事であることから腰などを痛めたということも耳にした。
しかもそうした農業志願者を受け入れる農家は、息子さえ継承することを見限る農家だった。
私は今年1011年(引用者注:2011年の誤記だろう)から、また田半反、畑半反ほどの農的暮らしを始めた。
そこから見る日本の農業は、『世界5位の農業大国』といった世評とは異なり、ますます衰退を加速している。
確かに農家個別補償政策によって、これまでコメが栽培されてきた彼方此方の田で蕎麦や大豆など転作が見られるようになった。
しかし現場でのそれらの転作は見かけだけで、補助金目当てなのは一目瞭然である。
すなわち1反あたり2万円から3万5000円という高額な補助金目当ての転作であり、私の周辺では全く収量を期待しない転作であったり、借地料なしで蕎麦栽培者にこっそり貸されている。
しかし転作の田は水はけが悪いことから、労力に見合った収量が得られないという声が聞こえてくる。
このように農家個別補償政策は殆ど機能していないだけでなく、むしろ逆に農業の活力を奪っている。
すなわち国民の莫大な血税を喰い尽すだけでなく、ますます日本の農業を窮地へと追い遣っている。
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