貧乏人はネズミのように子供を作り、低教育・低賃金な労働力の供給源となればいい──。
世の中には、そう考える人がいるようだ。
しかし、この発想にもとづいた政策がうまく機能するとは思えない。賛同する親がいないからだ。世の親たちの大半は「教育の力」を信じており、より高度な学識を子供に与えようとする。
では、なぜ親たちは高度な教育を望むのだろう?
※1908年サウス・カロライナの児童労働者の写真、らしい。この時代に戻ったほうがいいと考える人もいるようだ。画像はpixabayより転載。
まず認識しておきたいのは、グローバル化の進む社会では労働運動が力を失うという点だ。
労働者たちがストライキをすれば、経営者たちはより安くで働く移民の受け入れを拡大せよと政府に迫るだけだ。もしくは生産拠点を海外に移す。国内の雇用が失われることになるが、そもそも企業の存在理由は利益を追求して資本家に分配することであり、失業を解決することではない。企業は失業解決の責任を負おうとしない。
資本は国境をやすやすと越える。より儲かりそうな地域で商売を行い、より安上がりな地域で生産活動を行う。一方、国家は言葉や文化の壁を越えられない人々のために存在している。「資本主義」と「国家」は、本質的には相容れない制度だ。
言語や文化の壁を超えるのは、本当は恐ろしく高コストだ。
しかし、それに気づくほど賢明な経営者ばかりではない。
経済発展した国とは、市場に対する国家の介入が少ない国であり、つまりグローバル化の進んだ国だ。そういう国の一般庶民は、低賃金な外国の労働者よりも優秀でなければ食いっぱぐれる。だから先進国の親たちは、子供により高度な教育を与えようとするのだ。当然、高度な教育にはカネがかかる。だから先進国では「貧乏人の子だくさん」にならない。