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奴隷の平和、動物の幸福

文芸評論家山崎行太郎のブログ、「毒蛇山荘日記」から転載。
すべてはここにポイントがある。


「何故、現在の「奴隷の平和」「動物の幸福」に満足せずに、わざわざ独立とか自立とかを目指すのか」


対米従属派官僚や対米従属派経済人とはまさしく「奴隷の平和」「動物の幸福」を選択し、そこから利益を得ている人々である。そしてその「動物の幸福」の一部は国民大衆にも確かに配分されている。
ならば、それがなぜ悪いのか、というのが彼らの言い分だろう。自分たちこそ現実が分かっているリアリストであり、日本自立の空理空論など相手にしていられない、というわけだ。
とすれば米国における黒人奴隷解放は誤りであった、という話になる。
黒人奴隷は奴隷のままでいることが幸せなのだから、なぜ解放する必要があるのか、というわけだ。実際、アメリカ南部の奴隷所有者の意見はそうであったのだ。

さて、我々は奴隷の状態でいるのが幸福なのだろうか。
いくら所得が低下し、ワーキングプアが増大し、生活保護世帯が激増し、生活保護給付水準がどんどん低下しても「他国の一般庶民よりはまだまし」なのだから、これを「幸福」と思って我慢し、現状を受け入れるべきなのだろうか。
いくら政府に抗議しても原発は再稼働し、原発事故被害者は救済されず、どんどん困窮し、病死していっても、「まだそれより不幸な人はいる」から現状を我慢するべきなのだろうか。
どんなに抗議してもオスプレイは配備され、TPPはおそらく締結され、ACTAや人権擁護法案だか何かによって表現の自由も失われ、政治的発言もできなくなってもまだ「中国や北朝鮮に比べれば」自由だとか言って、我慢するべきなのだろうか。
あるいは現在戦火の中にあるシリアなどにくらべれば平和なのだから、この国に生まれた幸福に感謝するべきなのだろうか。

すべて、これらは「奴隷の平和」であり、「動物の幸福」なのである。
我々がこれに文句を言わない理由は、ただ一つ、「今ひどい目に遭っているのが自分ではない」からだ。
あるいは、≪文句を言えば、自分自身に不利益が生じる≫からである。そのようにこの社会は仕組まれているのである。

戦う者は、銃弾に倒れるかもしれない。そして、戦わなかった者はその死者の犠牲による新しい世界から利益を得るだろう。
賢い人間は、だから黙っている。そういう「賢い」卑怯者でこの世界は満ちている。
そういう「賢い卑怯者」を「奴隷」と言うのである。
「無知な者」を「動物」と言うのである。

鎖につながれているから奴隷なのではない。「奴隷」とは奴隷であることを自ら受け入れ、精神の高貴さを失った精神の在り方なのだ。






(以下引用) *明らかな誤字や誤記は一部修正してある。


今こそ奴隷の思想を排せよ

―― 奴隷の思想が自覚症状なしに蔓延している。

山崎 江藤淳が『奴隷の思想を排す』を発表したのは1958年のことだ。だがそれは叶わず、2012年現在、政治家やマスコミ、保守論壇は、奴隷の思想を拝している。この事実が彼らの沖縄をめぐる発想から証明されたことは、既に見た通りだ。

 奴隷の思想とは、幻想を無責任に信じ込む現実逃避に他ならない。戦後日本は多くの幻想、たとえばキレイな民主主義やクリーンな政治家、憲法九条、日米安保を妄信してきた。しかしこうした幻想に浸かって現実から目を背けるのは幼稚で無責任な振舞いだ。軍事力を負担しなくても国家は守れるという幻想の代償を、現に沖縄が払い続けているではないか。

少なくとも冷戦時代の日本人たちは、欺瞞と矛盾にまみれた厳しい現実をしっかりと直視していた。そしてその眼差しには、痛みと悲哀、そして悔しさが湛えられていた。大江健三郎はその想いを、著書『人間の羊』の中で「ヤンキー・ゴー・ホーム」という文学で著した。

この小説は、日本人大学生が、アルバイトの帰りに、米兵の乗り合わせたバスの中で、辱めを受けるが、何も声高に抗議も抵抗もせずに、屈辱感を抱え込んだまま立ち去って行く話だが、外国に占領され、外国兵の乱暴狼藉を黙って見ているしかない日本人の絶望と悲哀がよく描かれている。言い換えれば、大江健三郎の時代は、米国、ないしは米国人、米兵への怒りと憎しみが、存在したということだ。私は、若い頃から保守・右翼的思想の持ち主だったが、しかし左翼学生運動に命と人生を賭けて闘う学生たちの心情の奥底には、共産主義革命とか永世中立の理想とは別に、最も健全な民族自立のナショナリズムとしての「反米愛国」「民族独立」の精神があったと思う。逆に保守・右翼陣営で、「反米愛国」「民族独立」の精神を保持していたものは、江藤淳や三島由紀夫のような僅かな例外は別として、少ないのではないか。いずれにしろ、反米、親米に限らず、まともな思想家や文学者は、その心の奥底に反米愛国、鬼畜米英の精神を保持していた。いずれにしろ、左翼右翼というイデオロギーにとらわれない目で見ると自体(夢人注:「事態」か?)は明らかになるはずだ。大江健三郎の文学が戦後の日本で、一世を風靡し、最終的にはノーベル賞にまでたどり着いたのは、抑圧され、鬱屈した日本国民の怒りと屈辱感を描くことに成功したからだ。≫

しかし今や我々はその想いを忘れ、「ギブ・ミー・チョコレート」だけを覚えている。その後「ヤンキー・ゴー・ホーム」と叫んだのは、沖縄と鳩山元首相だけではないか。

しかし日本の保守派やマスコミは、鳩山由紀夫を「ルーピー」と呼んで嘲笑している。アメリカ政府からみれば、確かに「ルーピー」だろう。植民地国家の首相のくせに偉そうなことを言うんじゃないよ、というわけだろう。しかし日本人が、「ヤンキー・ゴー・ホーム」と言い放った鳩山由紀夫を「ルーピー」と呼ぶのは喜劇と言うより悲劇だろう。日本人よ、そこまでアメリカの奴隷国家、植民地になりたいのか、というわけだ。大江健三郎や鳩山由紀夫は、愚か者かも知れない。何故、現在の「奴隷の平和」「動物の幸福」に満足せずに、わざわざ独立とか自立とかを目指すのか、と。

ジョセフ・ナイ、アーミテイジ、ケビン・メアなどのジャパン・ハンドラーズと呼ばれる人たちの著書や論文を読むとよくわかる。彼等は、鳩山由紀夫や小沢一郎を、「ルーピー」だとか「安保音痴」だとかいって違反(夢人注:「批判」の誤記だろう)罵倒する。彼等にとって厄介な人物だからだろう。逆に、彼等の言いなりになる政治家を絶賛する。われわれは現実を直視しなければならない。鳩山や小沢の方が、現実と対決していると言わなければならない。

 彼らのように、我々は現実と向き合わなければならない。欺瞞と矛盾を一身に引き受けなければならない。それは凄まじい痛みを伴う。しかし、それこそが物事を「経験」するということだ。

この経験がなくては、現実を引きずりながら理想へ近づくことなど、決して出来はしない。

―― 山崎氏は、著書『それでも私は小沢一郎を断固支持する』において、現実を引きずりながら理想へ近づく政治家として小沢一郎氏に期待している。

山崎 リーマンショック以後のアメリカの弱体化をうけて、現在は「第二の冷戦終結」と呼ばれることもある。そしてまさにこの時期に、「第一の冷戦終結」のときと同じように、政治家小沢一郎が躍動している。マスコミをはじめとする知識人は相変わらず、これを単なる権力闘争として冷笑しているが、政権交代から民主党分裂、新党立ち上げに至る一連の動きは、リーマンショック以後の時代に対応しようとする、対米自立を志向した政治運動ではないか。今度こそ好機を逃してはならない。私はそのために、小沢一郎を断固支持する。

 第二の冷戦が終わり、主人であるアメリカが没落しつつある今、もはやアメリカの奴隷でいられる時代は終わった。今こそ我々は、対米従属と訣別しなければならない。奴隷の思想を排すためには、まず奴隷であると認めなければならない。それが痛みを伴いながら現実と向き合うということであり、日本の独立自尊へ向けた第一歩となる。

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