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半強制の牢獄

「紙屋研究所」から転載。
私は社会主義者だが、議会を通して社会を変革すべきだというフェビアン協会的な漸進的社会主義者(「釈迦主義者」とミスタイプしたが、仏教徒ではないが微温的な「釈迦主義」かもしれない。どの仏教宗派も嫌いで「釈迦」だけが好きだ。)に近い。紙屋氏のようなマルクス主義者ではないし、伊藤野枝(「野枝」という名「野の枝」は、まさに彼女の生き方を象徴しているようだ。)のようなアナーキストでもないが、ここに書かれたことには全面的に賛同する。
今の日本、いや、昔からずっとそうなのだが、日本という国は「半強制の牢獄」であり、目を開いていながら、何も見ないという生き方をするしか、その中では生きられないのである。奇妙な「身近な権力」「本当は何の正当性もない権力」が我々の日常生活を縛り付ける。まさに「空気の支配」だ。

ここに書かれたPTAや町内会、伊藤野枝を抹殺しようとする「庶民たち」の姿のおぞましいこと。



(以下引用)

2016-05-02 再び「半強制の牢獄」へ 『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』

栗原康『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』Add Star




 新しく引っ越したところの町内会の堅牢さにほとほとまいっている。別に今何か役を押し付けられたわけでもないけども、ピラミッド状のがっちりした組織が、引き受けなくてもいいような行政仕事を請け負って、その負担の重さに悲鳴をあげている様子が、総会のパンフレットから痛いほど伝わってくる。いわば「勝手に」苦しんでいるのだ。


 そして、小学校のPTA


 総会に自民党議員だけが招かれ、あいさつをし、学校から自主独立の団体と規定されながら、学校の仕事にがっちり組み込まれた規約が厳然と存在する。


 任意制であることを確認しましょうよ、それにふさわしい組織のあり方に見直すように1年間かけて調査・検討を始めましょうよ――ぼくがそういう提案を総会でいきなり出してみたら、否決された。


 ぼくはPTAの一つの委員会の副委員長をくじ引きでやることになったのだが、その際に、やはりくじで選ばれたシングルマザーの方の苦境を聞いた。とてもできないと会長にも訴えたが聞きれてもらえなかったという。お母さんたちの会話から漏れる「1年だけのがまん」というため息。


 なんでそんなにしてまで、PTAをやらされないといけないのか。




 町内会とPTA


 ここにきて、再び「半強制の牢獄」に逆戻りである。


 「会長」とか「役員」というポストを得られない場合は、ヒラの会員としてモノを言わないといけない。そこからだ。


 知ってるよ。「まずは1年間役員などをやってみて、現場の空気をつかみ、仲間を増やして……」。そういう方法が順当なのは。独りであがけば、浮き上がってしまい、見苦しい始末になりかねないんだろう。


 だけど、今回そういうやり方をとりたくない


 あえて。


 ヒラのままでどこまでできるのか。民主主義が機能するのかどうかをしっかりやってみる。民主主義ってなんだ!? これだ! って言えるものが本当にここから生まれるかどうか。




 PTAのシャンシャン総会の空気をまったく読まずに、挙手をしてヘンテコな提案をする空気の冷たさを知っているか。


 こんなものが普通の人間に、できるものなのか。


 少なくとも徒党を組まずにはできるものではない。


 否決された瞬間の冷え冷えした空気を体験した時、ぼくは高校時代に、孤立無援で「校則押し付け反対」のビラをまこうとして生活指導教師に説教され、泣きながらそのビラを捨てた、あの時の情けなさというか、心細さを思い出した。




 小説『神聖喜劇』の中で、軍隊の中で不条理に立ち向かう主人公・東堂が、戦友1人と連れ立って「意見具申」(上級者への請願)をしに上級者の部屋へやってくる、その時の上官上級者たちの冷たい視線の描写が、わがことのようである。


「東堂二等兵、『意見具申』のため参りました。」


冬木二等兵、『意見上申』のため参りました。」


 われわれの背後で堀江隊長、久保軍曹、片桐伍長、三者の雑談が、にわかに跡絶えた。山中准尉は、虚を衝かれたような・腑に落ちかねたような表情で、しばし応答しなかった。中隊事務室内は、数秒間しんとしていた。まもなく山中准尉の面上にあらわな困惑の色が動いた、と私は見た。そして、その困惑の色は、『隊長殿の眼の前でそんな険難なことを公言してしまったのでは、事を穏便に運ぼうにも運びようがなくなるではないか。始末に負えないな。』というような意味に私には想像せられたけれども、あれもこれも、私の僻目であるのかもしれなかった。……われわれの背後における三者の雑談は、跡絶えたまま、再興しなかった。そこから、沈黙の冷ややかな指先が、私の首筋背筋を無気味にいじくりつづけた。(大西巨人神聖喜劇』第五巻、光文社文庫p.216-217)


 ぼくは、PTAの成人教育委員会の一人として、「人権同和教育」を推進させられるらしい。


 いったい、日本国憲法世界人権宣言に定められた「結社の自由(結社しない自由)」を侵し、個人の尊厳や幸福追求の権利を剥奪して進められる「人権同和教育」とは何か。


 泣く泣くこの委員会を押し付けられたお母さんたちには、今自分たちがとるべき武器としての人権=「PTAは任意であり、その活動も任意・志願であり、拒否できるものだ」ということなど、およそ思いもつかないであろう。


 人権とは、自分ではない「かわいそうな人たち」への施しや温情、もしくは差別いじめをしない「道徳」であって、決して自分たちを守る「武器」なんかではない――そのことを徹底して叩き込む、実にすぐれた「教育」の場ということだろうか。いま刻々、PTAの成人教育の現場で人権破壊教育そのものが行われているんだよ。ふざけるな馬鹿野郎。




村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝 そんな折に偶然手にしたのが、本書・栗原康『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』(岩波書店)である。


 いや、偶然ではない。


 もともと福岡市にあるため池のことを調べていて、伊藤野枝のことが出てきた。恥ずかしながら、伊藤野枝が現在の福岡市の出身であることをぼくはまったく知らなかった。伊藤野枝は、アナキスト無政府主義者)の大杉栄とともに関東大震災の後、憲兵隊に虐殺されたアナキスト・女性解放運動家である。あっ、伊藤野枝って、福岡出身だったのか。それで本を探して読んでみようと思って本書を手に取ったのである。


 ぼくはもともと福岡の人間ではないが、地元で「郷土の偉人」としていろんな人がもてはやされている中で、伊藤野枝はほとんど出てこない。例えば『農業全書』を著した宮崎安貞を記念する地元行事が町内会や小学校挙げて取り組まれるのに対し、伊藤野枝はむしろタブーに近い存在である。*1


 伊藤と同年代の人間が存命だった頃の、今から十数年前の話で、地元の郷土史家が伊藤のことでテレビ取材を案内した時に、ある老婆が怒鳴り込んできたという。


「おまえはなにを考えとるんじゃあ! テレビなんかにうつったら、世間さまに、ここがあの女の故郷だと知られてしまうじゃろうが!」。どういうことだろう。大内さん〔地元の郷土史家――引用者注〕がけげんそうな顔をしていると、おばあさんはこうさけんだという。「あの淫乱女! 淫乱女!」。ひゃあ。(栗原前掲書醃)


 奔放で自由な伊藤は、福岡の田舎の村で、陋習に悩まされる。おこがましいと言われることを承知で書くが、そういう姿にぼく自身が重なった。まさにこれじゃん。変わってないじゃん。そして、今でも伊藤は地元で黙殺され続けている。




 本書を書いた栗原は、伊藤の生き様を次のように一言で要約している。


これから本書では、野枝の人生の軌跡をおっていくが、あらかじめその特徴をひとことでまとめておくとこうである。わがまま。学ぶことに、食べることに、恋に、性に、生きることすべてに、わがままであった。そして、それがもろに結婚制度とぶつかることになる。(栗原前掲書ⅺ)


 たしかに、本書を読んだ時(あるいは伊藤の生き様を知った時)、まず「自由恋愛」についてどうしても目がいってしまうのだが、言い方をかえれば、自分なりに当たり前の、平凡で、快適な幸福の追求をしようとした、しかし、それは様々な障害にぶち当たらざるをえなかった、平凡さを徹底して貫こうとすれば、それはラジカルにならざるをえなかった――こういうことであろう。それが「わがまま」という意味だ。




 その「わがまま」を貫くことが大杉や伊藤の原理であった「直接行動」となる。国家や行政のような制度に頼らないということである。


 そして、そういう行動をとった結果、貧しくなったり、つまはじきにされたりするわけだが、「なんとかなる」というのが、伊藤について回った、よき結果であったと栗原は考える。


いいたかったのは、野枝の良さもそこにあったんじゃないかということだ。いざとなったら、なんとでもなる。……欲望全開だ。稼ぎがあるかどうかなんて関係ない。友人でも親せきでも、たよれるものはなんでもたよって、臆面もなく好きなことをやってしまう。(栗原p.167)


 そして、そこに無政府主義の相互扶助の考えが結びつく。


 相互扶助については、前にぼくも書いた。


クロポトキン『相互扶助論』、平居謙『「ワンピース」に生きる力を学ぼう!』 - 紙屋研究所 クロポトキン『相互扶助論』、平居謙『「ワンピース」に生きる力を学ぼう!』 - 紙屋研究所


 貧しく飢えている人がいたらどうするか。


 食べ物を分け与える。それが人間として、当たり前の感情と行動ではないのか。「貧困解決は国家のやることでしょ」といって、同じ地域に飢えている人がいるのに贅沢な食事をしてはばからない――これは近代人の病気じゃねーの、というのが無政府主義者クロポトキンの主張であった。




 無政府主義者である伊藤野枝は「無政府の事実」という一文の中で、このことを書いていて、栗原はこの一文を詳しく紹介している。


 私共は、無政府主義の理想が、到底実現する事の出来ない、ただの空想だと云う非難を、どの方面からも聞いて来た。 中央政府の手を俟たねば、どんな自治も、完全に果たされるものでないと云う迷信に、皆んながとりつかれている。


 殊に、世間の物識り達よりはずっと聡明な社会主義者中の或る人々でさえも無政府主義の『夢』を嘲笑っている。


 しかし私は、それが決して『夢』ではなく、私共の祖先から今日まで持ち伝えられて来ている村々の、小さな『自治』の中に、其の実現を見る事が出来ると信じていい事実を見出した。


 所謂『文化』の恩沢を充分に受ける事の出来ない地方に、私は、権力も、支配も、命令もない、ただ人々の必要とする相互扶助の精神と、真の自由合意とによる社会生活を見た。


 それは、中央政府の監督の下にある『行政』とはまるで別物で、まだ『行政機関』と云う六ケしい〔むずかしい――引用者注〕もののない昔、必要に迫られて起った相互扶助の組織が今日まで、所謂表向きの『行政』とは別々に存続して来たものに相違ない。


http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/6580/petri-do/noe01.html

 伊藤は、自分が生まれ育った福岡の寒村での自治の空気、ここにある「組合」は今日で言えばまさに自治会・町内会のようなものであろう。それがいかに行政とは違い、相互扶助と自由合意によって地域課題を解決していくかを詳しく描いている。




 人が集まりさえすれば、直ぐに相談にかかる。 此の相談の場合には、余程の六かしい事でなくては黙って手を組んでいる者はない。 みんな、自分の知っている事と、考えとを正直に云う。 人が他の意見に賛成するにも、その理由をはっきりさせると云う風だ。 少し六ケしい場所に出ては到底満足に口のきけないような人々でも、組合の相談には相当に意見を述べる。 其処には、他人のおもわくをはかって、自分の意見に対して臆病にならねばならぬような不安な空気が全くないのである。


http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/6580/petri-do/noe01.html

 相互扶助は自由合意によって支えられている。


 自由に参加し、自由に意見が述べられなければならない。


 もっとも伊藤は田舎の陋習に苦しんだのは紛れもない事実なのだから、ここに書かれたことは、現実の自治組織のそれではなく、多分に伊藤にとっての「理想の自治組織」像が入り込んでいるに違いない。




 しかし、そうであったとしても、ぼくはこのあたりのくだりを興奮しながら読んだ。


 なぜなら、今まさに福岡の辺境で起きているPTAや町内会をめぐる、自由合意を忘れ、その結果、本当の意味での相互扶助の精神を忘れ、逆に半強制の元で行政や学校の下請けになってしまっている事態は、まさに忘却された郷土の「偉人」たる伊藤野枝の精神を思い起こすことで批判されなければならないと感じたからである。地元のお前ら、宮崎安貞なんか顕彰している場合じゃねーよ。いまこそ思い起こせよ、伊藤野枝を。




 ぼくはマルクス主義者であるから、伊藤のように、制度への強い不信を感じてはいない。国家や行政といった制度にアプローチするチャンネルを作り出そうとしているのがぼくの日常だし、より良き結婚制度のために改革をするのがぼくのスタンスだ。




 それでも、やはり真の自由な合意のもとで、相互扶助の精神が蘇ってくることは、無政府主義から謙虚に学ぶべきことの一つである。身近に困っている人がいたら、それを助ける、なんとかする、という当たり前の精神の発露が必要であり、そのために硬直化してしまったPTAや町内会のあり方を破壊に近い形で変えなければならないだろう。「村に火をつけ、白痴になれ」というのは、そういうエネルギーのことである。




 なお、本書の書籍としての魅力についても少し触れておく。


 一つは、本書の文体である。


 まるでブログ文体のようである。軽妙で、すらすらと読める。伝記にありがちな難しさ、学者にありがちなペダンティックさがまるでない。素晴らしい。


 もう一つ。著者の栗原自身が伊藤の思想に近い。だからこそ、伊藤のエネルギッシュさがそのまま伝わってくる。「今に生かす伊藤野枝の思想」みたいな傍観者的な歴史解説ではないのだ。栗原自身が求める「あばれる力」のようなものを伊藤の思想と人生から感じさせようとしている。本書が死んだ解説・伝記ではない所以である。



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